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2007年2月12日月曜日

文化の解釈学

 修士論文の審査をさせていただくと、自分の研究姿勢を見つめ直す機会にも出会える。特に、その研究の新規さや斬新さを見つめていきたいという思いも重なって、審査すべき論文を的確に読み解こうという衝動に駆られる。そうして、絶妙な質問を選び抜き、発表の後にことばを重ねる。その後のやりとりを冷静に評価すれば、学位を授与するに相応しいかは、自ずと明らかになる。

 修士論文の公聴会は「公が聴く」という字を充てることからも明らかなように、公が聴いて、その内容の如何が判断される。ちょうど、NPOに対して「公益」が問われるのと同じ構造かもしれない。実際、特定非営利活動法人は、申請後、2ヶ月間の縦覧期間を経て、認証を受ける法人形態である。つまり、2ヶ月間、公の声が聴かれる環境が提供されているのだ。

 2日連続で開催された公聴会の際、私のゼミを受講していた方から、審査と審査の合間に質問を受けた。内容は、現場の記述の仕方についてであった。というのも、来年、ご自身がその場に立つことを想定して、公聴会の内容を聴いていたのだが、どうも自分が思う研究とは違うように思えてならないのだ、という不安に駆られたためだいう。とりわけ、フィールドワークの方法論についても講義で触れてきたのもあって、こうした不安が先に立って研究が進まなくなってはいかん、と、コーヒーを飲みながら話を深めることにした。

 フィールドワークに関するいくつかの書物を見ると、よく「厚い記述」ということばが紹介されている。これをうまく伝えるために、今回用いた比喩は「ワイドショーのレポーター」と「刑事事件の起訴状」の比較である。ちょうど、映画「それでもボクはやってない」を見たばかりということもあって、それなりにうまく表現できたと思っている。つまり、研究の現場のリアリティを表現するには「淡々と、しかし精密に」すなわちその場の空気を緊迫感を持って伝えていくことが大切なのだ、緊迫感を持って伝えさせていただいたつもりだ。





文化の解釈学 <1>

第1章 厚い記述:文化の解釈学的理論をめざして




 文化が公的なものであるのは意味が公的だからである。まばたきが何であるかを、あるいは、身体的に、いかにまばたきをするかを知らずにはまばたき(またはまばたきのまね)はできないし、また羊を盗むこととは何かを、また実際に羊を盗むにはどうするかを知らないのでは、羊盗み(あるいはそのまね)をすることはできない。しかしこの真実から、まばたきの仕方を知ることはまばたきをすることであり、羊の盗み方を知ることは羊を盗むことだという結論を引きだすのは、厚い記述を薄い記述と受け取り、まばたきをまぶたを閉じることと同一視したり、羊盗みと牧場から羊を追い出すことと同一視することと同じような混乱をきたすことになる。(pp.20-21)



 われわれが記録する(あるいは記録しようと試みる)ものは、生の会話そのものではないので、事情はいっそう微妙である。しかも、きわめて周辺の、あるいは特殊な意味での参加を除けば、われわれは研究対象の社会の中で活動する人間ではない。このために、その会話に直接加わることはなく、ただその会話のごく一部を、われわれのインフォーマントを通じて理解することができるに過ぎない。これはみかけほど致命的ではない。というのは、事実クレタ人はすべて嘘つきであるとはかぎらないし、何かを理解するためにあらゆることを知る必要もないからである。だが、これは、発見した事実の概念的操作として、つまり単なる現実の理論的再構成として人類学的分析を見ることを、むしろ不十分なものに思わせる。意味の対称的結晶が存在する物理的複合性の中から浄化した意味の対称的結晶を明らかにし、その存在を、自己発生的な秩序原理とか、人間精神の普遍的属性とか、または広大な、先験的(アプリオリ)な世界観に帰するようなことは、もともと存在しない科学が科学をよそおうことであり、見出すことができない現実を想定することにほかならない。文化の分析は、意味を推定すること、その推定を評価すること、より優れた推定から説明的な結論を導き出すことであり(あるいは、そうあるべきであり)、普遍の意味の世界を見出すことでも、その形のない風景を描きだすことでもないのである。(pp.34-35)



 民族学的記述には三つの特色があると思われる。まずそれは解釈を行なうということである。次に解釈する対象は社会的対話の流れである。さらに解釈はそういう対話が消滅してしわないうちにその「言われたこと」を救出しようとすることであり、それが読めるようにすることである。(p.35)



 文化理論は厚い記述の与える直接の資料と切り離せないために、その内側の論理によってそれを形成する自由はむしろ限られている。それが到達しようとする一般性は、その微妙な特殊性の中から生まれてくるのであって、大がかりな抽象化に基づくものではない。(p.43)



 主要な理論的貢献は、特定の研究にあるだけではない−−これはたいていどんな学問においてもそうである−−。またそれをこういう研究から抽象し、「文化理論」といえるようなものにまとめることは大変難しい。理論構成はそれが行なう解釈に密着しているために、解釈を離れるとあまり意味がなくなるか、興味も失われてしまう。これは、理論が一般性がないからではなく(一般性がなければ理論的とはいえない)、理論の適用ということを離れては、それはただの常識か、さもなければ空虚なものに思われるからである。民族誌的解釈のある試みに関して作られた一連の理論的接近(アプローチ)を取りあげ、それを別の民族誌的解釈に活用してみることができる。こうしてそれをいっそう正確に、いっそう広い適用に発展させるのである。このように研究は概念的に発展するものである。しかし「文化解釈の一般理論」を書くことはできない。あるいは書けるかも知れないが、それはほとんど役に立たない。というのは、理論構成の基本的課題は、抽象的規則性を取りだすことだけではなく、厚い記述を可能にすることであり、いくつもの事例を通じて一般化することでなく、事例の中で一般化することなのである。(p.44)



 事例の中で一般化することは、普通、医学や深層心理学では臨床推理と呼ばれている。この臨床推理は、一連の(推定上)意味するものから出発して、それを理解できる枠の中においてみようとするのである。測定は理論的予測に即して行なわれるが、症状は(それが捉えられる場合でも)理論的特性にてらして調べる−−つまり診断される。文化の研究では意味するものは症状や症候群ではなく、象徴的行為や象徴的行為群といったものであり、その目的は治療ではなく社会的対話の分析である。しかし理論が、ものごとの隠れた意味を掘りだすために用いられる方法は同じである。(p.45)



ギアーツ(1973=1987)

Geertz, C. 1973 The Interpretation of Cultures : Selected Essays, Basic Books.

吉田 禎吾・柳川 啓一・中牧 弘允・板橋 作美(訳) 1987 文化の解釈学[1]  岩波現代選書3-56.
 











2007年2月11日日曜日

成功するプレゼンテーション

 大学院の教員ということもあって、修士論文の審査は必ずやってくる年中行事の一つである。5年の任期であるから、あと4回、この経験をするのであろう。逆に言うと、この土日は、私にとって初めて、修士論文の審査をする機会なのである。自分自身が修士論文を執筆したのはやや遠い昔のこととなっているが、当時の自分からすればまさか今ごろ逆の立場となっているなどとは思っていなかった。

 修士論文は、博士論文もまた同様に、「公聴会」という場でもって、その内容を発表しなければならない。「公」ということばからも明らかなように、誰もがその場に来ても構わない、という前提があるものの、実際は同級生や後輩が傍聴の中心だ。一方で公聴会それ自体は指導教員(主査)と、2名の審査者(副査)による口頭試問の場でもある。よって、副査として指定された場合には、事前に精読して、一定のコメントとともにいくつかの質問を投げかける必要がある。

 最近は機材の普及もあって、公聴会でもまた、Microsoft社のPowerPointというソフトを用いて、液晶プロジェクターにて画面に投影されたものが発表資料として用いられることが多い。しかし、ここに発表の「罠」があるように思えてならないので、ここで記しておきたい。それは、「公聴会」は、研究発表の場であって、資料説明の場ではない、ということだ。具体的に言うと、「PowerPointをご覧下さい」や「画面のとおりです」という説明では具体的な内容を発表したことにはならないし、「技術不足で表現できませんでした」と言って事実や結果の抽象化に対する関心と実践をおろそかにしているような発表に対しては、学術的知見を紡ぎ出すという研究者の姿勢を疑わざると得ない。

 もちろん、これは公聴会に限ったことではないが、パソコンという道具を使いこなすことができないのであれば、他の道具を使うか、あるいは道具の使いこなしのために精一杯の努力をなすべきだ。昔話になるが、私の修士論文はPowerPointが一般的ではなかった(蛇足だが、私は当時から熱血Macユーザーだったが、Aldus Persuasionというソフトのほうが学術界では優勢だった)上に、液晶プロジェクターも高価であったため、PowerPointで作成したスライドをOHPシートに印刷して、それを用いながら発表をした。そんな昔話を思い出したのは、多くの発表がPowerPointというソフトに引きずられて、肝心の研究発表という前提が崩れてしまっているように思えたのだ。以前、卒業論文の発表を行った後に読んだ書物「NGO運営の基礎知識」にも紹介されていたことであるが、人前で発表を行う上では、PowerPointなどの道具を活用するという伝え方も大事であるものの、やはり重要なのは内容であって、それ以上に伝えたいことが伝わるように「聞き手」に配慮するという人柄であると、強く主張しておきたい。





成功するプレゼンテーション

第一章 プレゼンテーションの基本

二 プレゼンテーションの原則





 「プレゼンテーションを上手にやるにはどうしたらいいでしょうか」と質問をすると、ほとんどの人が「何といっても内容です」と答えます。確かに内容がなければ話になりません。

 さらに「同じ目的で、同じ原稿や資料を用意し、あなたと私とプレゼンテーションを始めた場合、どちらがうまくできるでしょうか」と質問すると、ほとんどの人は「もちろん先生の方がはるかに上手にできます、プレゼンテーションの先生ですから」といいます。ということは、内容が問題ではないということです。同じ内容であっても、上手にできる人もいれば、下手にやってしまう人もいる。したがって、内容以外の要素が重要な決め手になると考えられます。

 では、何が必要なのでしょうか。一つは、「人前で話す技術」つまりデリバリー(伝達)の技術、伝え方の技術です。例えば、上手に視覚化し、メリハリをつけ、説得力ある話し方をする技術が必要となります。

 でも、どんなにいい内容、よい技術を身につけても、お客さんに嫌われてしまっては何にもなりません。クライアントもしくはプレゼンテーションを受ける側から、「なんだ、あいつは。あんなやつの話を二時間も聞くのか」と嫌われてしまっては受け入れてもらうことはできません。したがって、もう一つ、パーソナリティー(人柄)も重要な要素になります。

 つまり、プレゼンテーションにおいては、

  (1)人柄(Personality)

  (2)内容(Program)

  (3)伝え方(Presentation skill)

の三つの「P」が必要になるわけです。



箱田(1991) pp.22-23

(文中の「括弧付き数字」は、原点では「マル囲み装飾数字」だが、引用の際に変更した)







2007年2月10日土曜日

生活防災のすすめ

 インドネシアのジョクジャカルタに出張することになった。京都府によるジョクジャカルタ特別区との「テキスタイル技術協力事業」の推進について、現地を訪問し、調査報告をして欲しい、というものである。当初は2月の予定であったが、先方、王室の都合で延期となっていた。中止やも、という話も出たが、結果として日程変更がなされることとなった。

 10月から、月1回程度集まっているのだが、そこでは西陣織と王室バティックなどのコラボレーションの有り様について語り合っている。研究会という形態を取っており、帯ときものを中心に、ジュエリーやバッグ、アクセサリー等をプロデュースして発信する専門商社の社長さんが委員長で、私は副委員長をさせていただいている。その他、織屋さん、百貨店のバイヤーの方、ウェブ制作等のコンサルティング会社の方、インドネシアからの留学生、そして京都府の職員の方々という構成である。こうした動きに関わらせていただくことになったのも、同志社大学で仕事をさせていただくことになったためである。産官学地域連携に取り組む「リエゾンオフィス」の方からお声掛けをいただいて、プロジェクトに参加させていただくことになった。

 とりわけ、私に課された役割は、国際的な技術交流を行っていく上で、「防災」や「生活者の視点」についてどのように盛り込んでいくべきか、天の邪鬼な視点を持ち込むことだと認識している。というのも、インドネシアは津波の被害に逢っているためである。今回、京都府が積極的に取り組んでいる技術交流は、20年間にわたる友好協定を維持、発展させていく具体策であるのと同時に、より実践的で実効的な復興への支援という目的も重ねられている。ただ、研究会の回を重ねるごとに、「キャッチコピー」や「チラシのデザイン」をする役割も担うこともあり、嫌な思いはしていないまでも、やや便利遣いモードになっていると言えよう。

 今日は10月から数えて5回目の研究会で、3月に開催予定の「試作品展示会」の企画検討が行われた。目玉は、インドネシアの地域資源とも言える「香木」を手がかりにした、お香とバティック織等のコラボレーションだ。匂い袋などが彩りを添えることになるだろう。ちなみに私がこうした取り組みに持ち込んだ「ネタ」は、「防災」と「減災」ということばに見る理論的観点と、展示会にちなんで名付けたプロジェクト名称「てこらぼ」であるので、興味のある方には3月21日から22日、新風館3階のトランスジャンルでの企画に足を運んでご確認いただければ、と思う。





<生活防災>のすすめ:防災心理学研究ノート

1 <生活防災のすすめ>

3.<生活防災>とは何か(抜粋)




 防災が、生活全体の中に他の諸領域とともに混融しているのだとすれば、防災(あるいは、その中の特定の側面)だけを抽出し、その最適化を図ることは現実的ではない。生活まるごとにおける防災、言い換えれば、他の諸領域と引き離さない防災をこそ追求すべきである。本書では、以下、こうした防災のことを、<生活防災>と呼ぶことにしよう。

 実は、<生活防災>は、部分的にではあるが、何人かの先駆者たちによってすでに実践に移され一定の成果を生み出しつつある。そのきっかけとなったのが、空前の都市型災害となった阪神・淡路大震災(1995年)である。この未曾有の大震災によって、<最適化防災>(のみ)に依存することの危険性がはっきりと露呈したのである。すなわち、地震予知、建造物の耐震化、ライフラインの整備、情報伝達システムの強化−どれも非常に大切なことではあるが、いずれも単体としては明らかに力不足であった。そして、より重要な事実として、多くの人が、たとえ将来、それぞれの側面が単体として<最適化>されたとしてもけっして十分ではないだろうという直感を得た。むしろ、震災の重要な教訓として得られたのは「コミュニティの重要性」、「助け合いの必要性」、「普段の意識、準備の大切さ」といった、ある意味でとらえどころのない茫洋とした事項群であった。これらこそ、生活全体の中に浸透・混融した防災、すなわち、<生活防災>が目指すところにほかならない。



矢守(2005) pp.3-5





2007年2月9日金曜日

アーツ・マネジメント

 「大阪でアーツカウンシルをつくる会」にコアメンバーとして関わっている。大阪市の文化政策をよりよいものにしよう、という市民側の動きである。アーツカウンシルというのは自治体が設置するものであるから、われわれがいくら「つくりたい」と思っても、われわれだけでつくることはできない。だからこそ、アーツカウンシルが「できる」ために、「つくる会」ができた。

 アーツカウンシルは、アーツ・マネジメントを実践する上で欠かせない存在である。放送大学のテキスト「アーツ・マネジメント」によれば、アーツ・マネジメントとは、「ジャンルが複数にわたる」芸術そのものに対して、「家元制度的な日本型マネジメントと異なる」かたちの「合理的でより民主的と見なされている欧米型の管理」をしていくこととされている。ちなみに放送大学は多くの人々の高等教育への修学機会を広く提供することを目的としているのだから、テキストもまた、比較的平明に書かれているという特徴がある。英語名「University of Air」から紐解く字義的な意味(空気が所有する大学)も壮大であるが、その実践は着実なものであると言えよう。

 アーツカウンシルによって支援される対象となるアーティストならびにその作品や活動そのものから見てみれば、別に支援などいらない、と思われるかもしれない。しかし、地域の社会的、文化的な発展を考えれば、自治体はアーツを支援する必要がある。アーティストの自発的な意欲、アーティスト組織の内発的な努力に依存するだけでは、創作活動の拠点は常に流動的となってしまうためである。創作活動の拠点が流動的となる、ということは、常に「お客さん」を迎えつづけなければならない、ということになるのだが、お客さんを招き入れる上での戦略や戦術、またお客さんに対する基本的な考え方がなければ、お客さんもまた、居心地が悪く、早々にその場を去ってしまうことになろう。

 今回、「つくる会」で議論をしているのは、アーティスト支援組織が、自治体の政策とうまく共鳴し、地域の魅力を高めていくことが狙いである。だからこそ「大阪で」ということばが付与されている。大阪の文化として吉本、阪神、たこ焼、この3つが前に出てくることが多いものの、それだけが大阪の文化ではない。芸術や美術と言うと少し距離が出てきそうだがアートというと少し身近になりそうなこと、例えば詩や映像やダンスや演劇や映画、そうした媒体が生活にもたらす彩りや潤いを実感してもらいたい、少なくとも私はそうした願い携えて、この活動に関わっている。

 本日、21時過ぎから5人で行った「つくる会」の打合せは、突き出しに「揚げパスタ」が出てくる、ちょっと小粋なバーで行った。それぞれ共通の宿題をやってくることになっていたために、その「答え合わせ」から始めた。思いが共鳴しあうのか、驚異的なスピードで打合せは終了した。次の日程調整も、お店を出た後の立ち話で決まった。このフットワークの軽さが、うまく「大阪」に、つまり大阪府、大阪市にも伝播していくといいのだが…。





アーツ・マネジメント

2 アーツ・マネジメント史(抜粋)




 近代的アート制度は、アーティスト・アーティスト組織、彼らを援助する人々・組織・制度からなる。後者は、さらに直接的にサポートする人々とからなる。直接的に援助をするのは、個人的なパトロンやアーツカウンシル(文化評議会)や芸術NPOなどの組織であり、間接的にサポートするのは、批評家や芸術機関などの評価者、そして、美術・音楽・演劇などを鑑賞する鑑賞者などである。アートは、自由な自己表現に基づく産物であり、本質的に、近代的な資本主義経済−−勤勉な競争原理に基づく価値創出活動−−とも、なじみにくい性質を持つ。しかしその一方で、社会が成熟していくにつれて、人々が求めるものが、自己表現であり、自己実現であり、その究極の活動の一つが芸術活動でもある。近代社会の発展につれて、この一見矛盾する二つのプロセスが、一つの社会の中で同時に進行してきたのである。その結果、アーティストの数が大幅に増え、そのアートを観賞する人々の数も増大した。しかも、その一方で、アーティストやアーティスト集団を支える人々とその組織や制度が機能分化し、発展してきたのである。また、アーティストと鑑賞者を媒介する組織や制度も洗練・細分化してきた。



川崎・佐々木・河島(2002) p.22

《川崎 賢一 2002 アーツマネジメント史 川崎・佐々木・河島(2002)  pp.21-31》







2007年2月8日木曜日

京都発NPO最前線

 「朝食会とか、パワーランチとか、好きやもんな。」朝、9時半過ぎ、京都駅の地下街で擦れ違った元同僚のことばはそう言った。まだ、服飾店等のシャッターは空いていない地下街を、彼は銀行の振り込み確認に出かけているところだ、という。一方で私は、きょうとNPOセンターの事務局長であり常務理事(時々、ここに綴っている友人であり同志のひとり)と朝食会の店を探していた。

 朝食会やパワーランチなど、食事を取りながら会合をすることをまわりに提案するようになったのは、2002年の米国研修以降だ。2002年の10月、ほぼ1ヶ月間を、私は東京のNPOサポートセンターを通じ、アメリカ合衆国国務省の招聘で、International Visitor ProgramのMulti Regional Projectの日本代表として、NPOマネジメントに関して学ばせていただいた。8日から31日のハロウィンまで、ワシントンD.C.に始まってクリーブランド(オハイオ州)、ダラス(テキサス州)、シアトル(カリフォルニア州)、そしてニューヨーク(ニューヨーク州)と5都市を、17ヶ国から参加した19人とともに周遊した。そこで学んだ習慣が朝食会であり、パワーランチであった。

 言うまでもなく、すべての会議が朝食会とパワーランチで占められるわけではない。感覚的には、聴くことだけではなく話すことをも重視するときに、朝食会やパワーランチという形態が採られていたような気がした。だからこそ、誰かから聴くことだけを目的にしない会議の場合は、食事を取りながら行うことを提案するようにしている。もちろん、「ながら」族となることを嫌がる人もいることは承知をしているので、相手を見て提案することを忘れてはならない。

 きょうとNPOセンターの常務理事との朝食会は、ホテルグランヴィア京都がを常としている。しかし、今日は遅めのスタートとなったために、別の場所を探さざるを得なかったのだ。ともあれ、お互い忙しい身で、あえて朝食会をしているのは「思いついたらその後に動くことができる」上、「夜に同じ時間を掛けるよりも圧倒的に低コストである」という点も見逃せない。何より、素敵な料理とともに雰囲気を変えて議論をすることで、日常の繁忙さを客観的に見つめなおすことができること、友人であり同志が言う、この「優雅な時間」の心地よさに、月1回程度、浸っている。





京都発NPO最前線:自立と共生の街へ

ボランティアに愛はいらない(抜粋)




 ボランティアは社会的な活動なのです。愛とか善意とかいう精神主義的な言葉では特徴づけない方がいいのです。「愛は地球を救う」というキャンペーンのテレビ番組がありますが、あれも要するに「お金は地球を救う」ということに他ならないのです。「同情するなら金をくれ」という身も蓋もない真実がそこにあります。もちろん、愛情もお金も必要でしょうが、愛情こもったお金というのはややうさん臭いと思いませんか。自由に使えないのですから。

 ボランティア活動はつながりという言葉でとらえることのできる関係を表現しています。手紙や電話と一緒で、情報発信すればするほど受け取る情報量が多くなります。孤独にある人は発信量が少ないので、受け取る情報量も少なく、悪循環に陥るのです。

 つまり、自己開示です。悩みを相談し、プライバシーを打ち明け、救いを求めれば求めるほどアドバイスは多く入ります。自分の弱さを見せるということですね。弱くなった分だけ他人からエネルギーを注いでもらうことができるのです。もちろん、弱くなるには勇気がいります。弱くなることで結びつくという人間関係の作用があります。他人に依存する力とも言い換えることができます。依存することで自立するのです。弱くなることで強くなるのです。ボランティアされるにも力量が求められるということです。



きょうとNPOセンター・京都新聞社会福祉事業団(編)(2000) p.211

《中村 正 2000 ボランティアのすすめ:ボランティアとNPO きょうとNPOセンター・京都新聞社会福祉事業団(編) pp.183-221》







2007年2月7日水曜日

パブリック・アクセスを学ぶ人のために

 「京都三条ラジオカフェ(FM 79.7MHz)」というコミュニティFMの番組審議委員をさせていただいている。コミュニティFMというと、自治体がお金を出して放送している放送局、と思われがちなのだが、この放送局は違う。放送局の免許を有しているのは「特定非営利活動法人京都コミュニティ放送」という組織だ。そう、この放送局は全国で初めてのNPO立FM局なのである。

 全ての放送局は「電波法」の制約を受ける。したがって、NPOがやっていようが、自治体が出資した放送局であろうが、番組審議会なる第三者機関を設けなければならない。上京区に居を構える私は、きょうとNPOセンターの立場からこのFM局の設立に携わったことも重なって、開局間もなく、番組審議委員に就かせていただいた。概ね月1回程度、審議会を行い、そしてその内容を「番組審議会レポート」なる番組として放送することで、「公共の(空間を飛ぶ)電波」を流している側の責任を果たす、という原理原則に立っての取り組みである。

 ちょうど、テレビ局による事実の「捏造」や「歪曲」が問題となっているが、そこにスポンサーが無関係ではない。NPO立の放送局である「京都三条ラジオカフェ」は、広告主という意味でのスポンサーによって支えられるという考えを持たず、多くの人が「協力」しあって、市民のメディアを共有するという立場を取っている。コンセプトは「お小遣いで番組ができる」放送局である。京都市内中心部しか聴取範囲ではないものの、500円あれば、1分間、自分のメッセージが電波に乗って飛んでいくのだ。

 通常、FMラジオはマスメディアとされているものの、こうした市民メディアとしてのFM局は、伝える側と伝えられる側、さらにはそれらを支える側やそもそも環境をつくる側、それぞれの関係構築が絶妙である必要がある。私はこのことについて、「listener(リスナー:聴く側)」重視を謳った放送局側の論理から脱却し、「listenee(リスニー:聴かれる側)」の自覚と責任に基づいた良識ある放送の実現である、と述べたことがある。別の言い方をすれば「伝える」こと(行為)よりも「伝わる」こと(成果)、また「伝えている」こと(内容)こそが大切だ、ということだ。そんなことを思いながら、「歩いて暮らせるまち」と謳っている三条通を抜けていくと、アイドリングストップをしているオートバイに出会ったのだが、ここにも、何気ないメッセージの発信があるように思え、市民の立場で物事に取り組む意味を見つめ直した一日であった。





パブリック・アクセスを学ぶ人のために

日本NPO初の放送局運営(抜粋)




 一九九二年にはじまったコミュニティFMの制度では、資本金や施設をもたないNPOによる運営に前例がない。法人としてのNPOを認証する特定非営利活動促進法は、阪神淡路大震災を契機に誕生した法律である。(中略)

 京都コミュニティ放送では運営はNPO(京都コミュニティ放送)、営業は株式会社(京都三条ラジオカフェ)の二本立てにしているのでやっていけそうだと、きょうとNPOセンター理事でもある中村正理事長は放送免許交付に期待を寄せる。また財政基盤をつくるため「公共空間としての放送局を支えませんか」と会員やサポーターを募集し、最低五、〇〇〇万円程度をめざして資金募集をしている。心配される放送設備だが次世代企業のベンチャーオフィスが集積し、技術的なバックボーンのある京都リサーチパークの応援を得る。ラジオカフェから電話回線でそこに音声を送り、電波を出す(後略)。



津田・平塚(編)(2002) p.309

《松浦 さと子 2002 パブリック・アクセスにおけるNPOの役割 津田 正夫・平塚 千尋(編)pp.291-312》







<新版>





2007年2月6日火曜日

モバイル書斎の遊戯術

 知る人ぞ知るモノフェチである。何かを尋ねられれば型番で応えることも少なくない。ちなみにモノフェチとコレクターは違う、という主張を持っている。私はコレクターではなくモノフェチであって、「ただ集める」のではなく「納得のいくモノを使う」という立場を貫いているつもりだ。

 そんななかで今日届いた「Bluetooth」機器はいただけなかった。Bluetoothとは最近、特に普及し始めた無線通信技術であり、赤外線のように通信距離や遮蔽物の制約を受けにくい上に、通信速度が比較的早く、消費電力も低い部類に入ることから、モバイル機器で導入されつつある。私のMacも、携帯電話も、また通信用に所持しているPHSも、いずれもBluetoothに対応している。そうした中で新たに導入したのが「iPod」をBluetoothで聞くことができるようになる機材と、その機材のレシーバーとなる上に携帯電話のハンズフリーをも実現するという機材のセットであった。

 何がいただけなかったかと言うと、「音質が悪い」のである。というのも、私が今使っているヘッドホンは、昨年得度して僧侶になった折、友人であり同志から贈られた「BOSE」社の「Quiet Comfort 2」という逸品である。そのため、「ウソがウソと出てしまう」のだ。明らかにBluetoothを介さないほうが音がよいのだ。この失敗に至った要因は商品選びの際の「スペック偏重」以外の何者でもなく、そのために実物を触って試すことなく購入してしまったインターネットショッピングの落とし穴にはまってしまったのである。

 (理)工学部で学んでいた頃、ものづくりとは「美・用・強」を満たさねばならないと教わった。美しく、人に用いられ、そして強い、という3原則である。これに習って言えば、ただ単に機能満載では用いられない。何より「美しさ」をもっと追求すればよかったと、今一度型番に目をやりつつ、新たなモノ探しの旅に出るのであった。



モバイル書斎の遊戯術

鞄の中から『QV-10』と『リブレット』が消えた日(抜粋)




 ところがまた問題発生。撮った画像を外へ出しようがないことに気づいたのだ。画像転送のためには専用のソフトが必要だし、しかもウィンドウズ・マシンしか転送先に選べない(マックも忘れるなよな)。そこでIBMの『ThinkPad530CS』があることを思い出し、転送ソフトを買いましたです。ところが、げーっ、だ。『ThinkPad530CS』は256色マシンゆえ、『カラーザウルス』のデジタル写真を転送すると減色してしまうんだって。赤外線通信もうまくいかず、あれこれやっているうちにIBMマシンの「ウィンドウズ95」が死んでしまった。

「デジタル携帯電話」経由で自分宛にデジタル写真をインターネット・メールとして送信することも考えたが、気が遠くなるほど通信料がかかるので断念。『リブレット20』用に買ってあった2万8800bpsのカードモデムを使っての有線送信を試みたが、今度は『カラーザウルス』お嬢ちゃん、モデムカードを全然認識せず。脳味噌ドロドロだわ。

 それでも懲りず『カラーザウルス』で使えると風の便りで聞いたモデムカードを買ったのだが、これまたインターネット接続できず! 私はこうしてこの1か月、怪しいキャッチバーで「ミニスカートを脱ぐなら3万円」「ブラジャーとるなら6万円」「パンティーとるなら10万円よ」……と、じゃかすかじゃかすか財布の中身を吸い上げられるような状態を続けているのであります。



山根(1999)p.79 <初出:DIME/1996.12.19>







2007年2月5日月曜日

字のない葉書

 文字通り、再会とは再び会うことである。得意の「和英辞典的思考法」に基づけば「reunion」ということばもまた、文字通りの意味を表す。ことばとは不思議だ。もちろん、meet(see) again、という表現もあるように、同じことを伝えようと思っても他のことばもあるし、場合によっては同じことばで複数の意味を持つこともある。

 今日は複数の意味の再会が果たされた日であった。一つは、大学時代の友人との再会であった。新潟に暮らす友人が、お寺に尋ねてきてくれた。別用で関西に来てくれたためであったが、懐かしさに花を咲かせながら、将来に実らせたい果実に思いを馳せる機会となった。

 また、夕方に迫る午後に出かけたアート系のワークショップでは、思わず多くの「用事がある人たち」にお会いした。ワークショップの内容は、貸切の路面電車のなかで即興で演奏を行うという現代音楽の取り組みであった。多様な切り口で楽しむことができるそうした場に集まって来られる方々もまた多様である。思わぬところで「そうそう、今度のあれですが…」と、簡単なすりあわせが出来た。

 これは今日の出来事ではないが、先日届いたアメリカからのメールも、思わぬ再会の場となった。返信をするなかで思い出したのは、以前、小学校の教科書に載っていたエッセイであった。時間と空間を置いても、ふと思い出すことができるそうした心地よさ、それこそが生きている実感ではないか、などと、いい意味での感傷的な思いにふけった自分を実感した。年度末に近づきつつも、あと11ヵ月遺った今年、どれだけの、そしてどんな再会に巡り会えるか、楽しみである。



眠る盃

字のない葉書(抜粋)




 終戦の年の四月、小学校一年の末の妹が甲府に学童疎開をすることになった。すでに前の年の秋、同じ小学校に通っていた上の妹は疎開をしていたが、下の妹はあまりに幼なく不憫だというので、両親が手離さなかったのである。ところが三月十日の東京大空襲で、家こそ焼け残ったものの命からがらの目に逢い、このまま一家全滅するよりは、と心を決めたらしい。

 妹の出発が決まると、暗幕を垂らした暗い電灯の下で、母は当時貴重品になっていたキャラコで肌着を縫って名札をつけ、父はおびただしい葉書に几帳面な筆で自分宛の宛名を書いた。

「元気な日にはマルを書いて、毎日一枚づつポストに入れなさい」

 と言ってきかせた。妹は、まだ字が書けなかった。

 宛名だけ書かれた嵩高な葉書の束をリュックサックに入れ、雑炊用のドンブリを抱えて、妹は遠足にでもゆくようにはしゃいで出掛けて行った。

 一週間ほどで、初めての葉書が着いた。紙いっぱいはみ出すほどの、威勢のいい赤鉛筆の大マルである。付添っていった人のはなしでは、地元婦人会が赤飯やボタ餅を振舞って歓迎して下さったとかで、南瓜の茎まで食べていた東京に較べれば大マルに違いなかった。

 ところが、次の日からマルは急激に小さくなっていった。情ない黒鉛筆の小マルはついにバツに変った。その頃、少し離れた所に疎開していた上の妹が、下の妹に逢いに行った。

 下の妹は、校舎の壁に寄りかかって梅干の種子をしゃぶっていたが、妹の姿を見ると種子をペッと吐き出して泣いたそうな。

 間もなくバツの葉書もこなくなった。三月目に母が迎えに行った時、百日咳を患っていた妹は、虱だらけの頭で三畳の布団部屋に寝かされていたという。



向田(1979) p.43:<初出:家庭画報/1976.7>



<単行本>





<文庫版>





2007年2月4日日曜日

まんがゼミナール

 節分の今日、同志社大学にて「缶詰」となっていた。たまりにたまった、もろもろの作業を処理するためである。とりわけ、大阪ガスのエネルギー・文化研究所(CEL)(http://www.osakagas.co.jp/cel/)の委託研究、そして24日から25日の国際ボランティア学会第8回大会について、まとまった時間を取る必要があった。そもそも、インターネットがつながらないところで仕事をすれば、嫌でも「創造」に時間を費やすことになるのだが、調べものも入るために、大学の研究室に身を置くことにした。

 お昼は学食で取ることにした。節分にあわせて「恵方巻」を売っていた。バレンタインデーにはチョコレート、という風習と同じようなものだ、と、関西発祥の文化をバカにしていたこともあったが、やはりこうやって選択肢の一つとして毎年目に触れるようになると、自ずと手が伸びてしまう。今年の恵方は北北西と記されていたものの、切れていない太巻寿司として、普通に(つまり、息継ぎもせず無酸素運動で一気に食べ上げることはせずに)食させていただいた。

 昼食は現在大阪ガスCELの研究のチームに入ってもらっている京都大学の大学院生と共にした。午前に研究室にやってきて、夜まで一緒に「缶詰」をしている。一人ではだれてしまいそうなところを「相互監視下」に置こう、という具合である。したがって私は目下修士論文に追われている彼から、隣から「これって、どうなんでしょう?」と問われる。そこで、いくつかの資料を使いながら「こうちゃうか?」と、事実を整理する新しい発想を投げかける役目を負った。

 研究室には比較的多くの書物があるが、今日、最も役に立ったのは「藤子・F・不二雄」先生のまんが入門講座の書物であった。実に、論文執筆に、またフィールドワークのまとめに、合点がいく「知恵」が盛り込まれていたためだ。とりわけ、「話作りの名人になるためには!?」(pp.98-102)に示された、(1)誇張して考える方法<「オーバーオーバー」(ドラえもん13巻)>、(2)逆転してみる方法<ドラえもんでは「あべこべクリーム」(ドラえもん1巻・大長編5巻)>、(3)比喩(たとえ。ほかにたとえること)を使ってみる方法<「魔界大冒険」の美夜子さん(大長編5巻)>、(4)願望をアイディアに生かす方法<「ジャイアンシチュー(味のもとのもと)」(ドラえもん13巻)>、(5)批判精神をアイディアに生かす方法<「どくさいスイッチ」(ドラえもん15巻)>、などは、まさにガーゲンが「生成力ある理論」と綴っている内容に重なるものだ。そんな書物を薦めた後、「これって、文献リストに挙げるべきですか」と問われた質問に「洒落のわかる人ならね」と曖昧な返事をしてしまい、とんだゼミナールとなってしまった。





藤子不二雄(F)まんがゼミナール

第6章 シナリオを作ろう(物語発想法) (抜粋)




 「まんが」を「映画」にたとえれば、きみはまずシナリオライターであり、次に監督でもあるのです。シナリオにしたがって登場人物を決める。この役にはこの男、この役にはこの女……、というように、主役から端役にいたるまで、きみが配役(キャスティングといいます)するわけです。さて、この俳優(キャスト)たちが、どんな名演技を見せてくれるかは、すべてきみの腕ひとつにかかっているのです。

 それでは、いったい名演技とはなんでしょうか。一言でいえば、役の性格や感情を、いかにもそれらしく、態度で表現するということなのです。

 たとえば、幸せな人をかくことにしましょう。いくらセリフで「ボカァ幸せだなあ」といわせてみても、その喜びの度合は、なかなか伝わるものではありません。十円玉を拾ったくらいなら、かすかにほほえむ程度でも、百円、千円と、その額が上がっていけば、笑顔プラス上半身のアクション、さらにバンザイしてとび上がるほどの表現になってくるはずです。百万円ともなれば、うれしなみだやらヨダレやら、なんともだらしのないことになってしまうかもしれません。もっとも、人によっては、フンとマユ一つ動かさずに、おもむろに、ポケットにつっこむやつがいるかもしれません。こうして、性格描写の問題もからめて、シナリオをどう読みとり、どう演技させるか(演技プランといいます)の判断をするのは、シナリオライターでもあり監督でもある、きみの役目ということになります。

 正確な感情表現をするためには、ふだんからの観察が大事です。どんな気持ちの時、自分は(または他人は)どんなしぐさをするかを考えてみましょう。反対に、どんなしぐさは、どんな気分を表しているのかを考えるのも一案です。



藤子(1988) pp.94-95





2007年2月3日土曜日

事例で読む現代集合住宅のデザイン

 来客の多い一日だった。朝は釈徹宗先生とお連れ合い、そして「Hideyuki Fund」(http://www014.upp.so-net.ne.jp/hideyuki/)の岡本純子さんが来られた。その後、台湾から寺院と建築関係の視察団、27名が應典院を見学された。続いてお昼を過ぎて、大阪府立現代美術センターの「第4回アートカレイドスコープ」の公募作家が、プロデューサーである北川フラムさんと、センターの職員の方々と共に打合せに来られた。

 それぞれに、有意義なお話をさせていただき、自分自身の社会の向き合い方に対して考えさせられた。朝一番のお話では、特に高齢の末期ガンの患者さんに対するホスピス活動と、小児の場合とでは、スピリチュアルケアはどう違うのか、または同じなのか、「いのち」の尊さについて深く考える機会となった。台湾の視察団の皆さんとのあいだでは、文化の違いを超えて、「なるほど」と感じていただく説明をどこまでなすべきか、逆に台湾における仏教の「今」をきちんと学んでおかねば、という衝動に駆られた。そして午後の打合せでは、作家と、作家が生み出す作品と、その環境を支援するスタッフの役割について、作品制作を受け入れる側のスタッフワークも含めて、よりよい形を模索していかねば、という決意を固めた。

 そんななか、無生物のお客、具体的には「新しい電話機」がやってきた。やや、招かざる客とは言えないが、招きたくないという思いもある。それは「Windows mobile」というOSで動作するものであるからだ。いみじくも先般、Apple社から「iPhone」なる携帯電話が発表されたことも重なって、根っからのMacユーザーとしては「やや招きたくない客」と感じてしまう。

 パソコンのソフトにも、建築設計を意味する「アーキテクチャ(Architecture)」ということばが充てられる。私がWindows(あるいはMicrosoft)が嫌いなのは、このソフトの建築設計が実に美しくないのである。住み心地の悪い家には誰も住みたくはないはずだが、長年住んでいると住みごたえが出てくることもある。しかし、もともとの設計が悪いところに住み続けるのは「住み応え」ではなく「住み堪え」だ。実はそれでも、これまで使ってきたモトローラ社のM1000よりも数段に利便性は高そうなことはわかってきたので、これから生活のリズムとインテリアコーディネート等々で納得のいく住まいの実現に取り組んでいくことにしよう。



事例で読む現代集合住宅のデザイン

古くて新しいテーマ「生活から建築を考える」(抜粋)





 言うまでもなく、「生活から建築を考える」には古いも新しいもない。常に設計計画の基本にある理念の一つである。しかし、今日、この理念をもう一度訴えなければならない状況がみられる。その理由は、生活を軽んじているということではない。そうではなく、一見、生活を重視しているようでいて、「生活から建築を考える」という本質から離れた状況が目立つからである。



日本建築学会住宅小委員会(編)(2004) p.109







2007年2月2日金曜日

大阪学

 映画「それでもボクはやってない」を見に行ってきた。難波に出来た「TOHOシネマズ」で、である。たまたま1日ということもあって、物凄い人であった。昨年の映画興行収入は、1985年以来、21年ぶりに外国映画を上回ったというニュースもあるように、映画産業の盛り上がりは、「コンテンツビジネスブーム」との相乗効果で、活気づいていると言えよう。

 今回の映画は、「Shall we ダンス?」などで知られる周防正之監督の最新作だ。先般、「発掘!あるある大事典2」の放送休止(打ち切り発表直前)の折、「スタメン」なる番組が番組時間を繰り上げて放映された。その際にゲストで出演された監督の話も興味深かった。そもそも、実際にあった痴漢冤罪事件を映画にしよう、と取材を重ねたところ、思わぬところに興味が惹かれていったという。

 監督の興味は、痴漢冤罪の背景にある刑事事件の問題点であったという。検事の取り調べに至るまでの調書への「誘導」、また検事における起訴への思い、さらには裁判官と「国家」との関係、などなど、枚挙にいとまがない。さらに監督の関心は、裁判の「傍聴マニア」にも向けられていた。有罪率99.9%とも言われる裏側を垣間見た気がする。

 そんななか、周防監督による「リアリティ」の追求には驚かされた。キャスト、カメラワークはもとより、冤罪という「犯罪被害者への着目による被害者」への取材を重ねてきたなかで明らかになった構造的暴力を明らかにした構成力は極めて秀逸だ。言うまでもなく、痴漢は犯罪である。そのことをつとに考えさせられたのは、実は周防監督の映画よりもずっと以前、関西圏のなかでも大阪のみに掲出された「チカン、アカン」と記されたポスターであったりする。



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大阪学

文庫のためのやや長い目のあとがき(抜粋)



 九五年のことだが、阪神淡路大震災のテレビ・ニュースを見ていた。震源地の北淡町長が、「さア、こんな時は冗談を言うて大笑いせなあかん」と言うている。家が全壊したおばさんがマイクの前で、「家はないけど、元気はありまっせ」と話している。傾いたビルのオーナーが、「これは自信過剰やったわ」と地震と自信をからませて洒落をとばしている。仮設住宅の抽選に外れたおじさんがマイクを突きつけられて、「地震に当たって仮設に当たらん」と口走る。避難所に見舞いに来た村山首相に、おばさんが「来るだけやったらあかんでエ」と浴びせる。こんな光景は、ほかではあまり見られないだろう。この復興は当初考えていたよりも早いだろうと、私はテレビの前で思った。



大谷(1997) pp.216-217



<文庫版>





<ハードカバー(上記あとがきは掲載なし)>





2007年2月1日木曜日

芸術創造拠点と自治体文化政策

 大阪に「アーツカウンシル」をつくろう、という動きに関わっている。具体的には、先般1月11日に提出された「大阪市の創造都市戦略における芸術文化の果たす役割の再考を願う嘆願書」の発起人として参加した。最終的に22団体、68名、計90組が名乗りを上げた「嘆願書」は、「芸術文化評議会」という名称で、アーツカウンシルの設立を提案する。ここで「アーツカウンシル」とは、「行政からはある程度の距離を保ち芸術文化表現の独立性を保ちつつ、官民恊働で施策を検討・実施していく機関」(同、嘆願書より)とされている。

 「アーツカウンシル」の設立を呼びかけた嘆願書は、佐々木雅幸さん(大阪市立大学社会人大学院創造都市研究科教授)、平田オリザさん(大阪大学コミュケーションデザイン・センター特任教授)、原久子さん(大阪電気通信大学教授)の3名によって市長に手渡された。そもそも、なぜこうした嘆願書が提出されるに至ったかというと、現在大阪市は「経営企画室」が窓口となって「創造都市戦略」と題した市政改革方針の策定を進めているためである。最近「パブリックコメント」なる制度が各方面で投入されているため、この「創造都市戦略」も「大阪市電子申請」というウェブページから意見を伝えることができた。が、それでは伝えきれないと思いがある、ということで、私の知り合いたちが草案をつくり、結果として「嘆願書」としての提出に至るのであった。

 今年度より大阪の文化政策に関わってきているが、この間、いくつか感じること、思うこと、考えることがある。率直に、しかしやや抽象的に、「配慮の過不足」があると表現をしておこう。とりわけ「過」な部分は自治体内に、一方で「不足」は現場に、という方向がありそうだ。もちろん、大阪市の「現代芸術創造事業」を受託しているので、自治体文化政策に直接触れている身としては、最大限に現場の意向を汲み取っていただき、事業の執行や予算の獲得にあたっていただいていることも触れておかねばなるまい。

 魅力的な都市というのは、人々が集い、そこにそれぞれの思いが弾け、多くの人の息づかいが都市の躍動感となって昇華しているのではないか。少なくとも應典院のキャッチコピー、「人が、集まる」「いのち、弾ける」「呼吸する、お寺」というのは、地域資源としてお寺が果たす役割を自戒していることを伝えることばであると言えよう。そうしたお寺で働いているのもあって、本日、「嘆願書」提出の報告会と、嘆願書の提出名義である「大阪市の『創造都市戦略』における芸術文化の果たす役割の再考を願う市民の会」の解散式、そして「大阪にアーツカウンシルをつくる会」の設立に向けた意見交換に参加してきた。何より、こうした動きをつくっていこう、という人たちとの話が、もっとも創造的な場である、と、最終の京阪電車の特急列車に乗りながら思うのであった。





芸術創造拠点と自治体文化政策:京都芸術センターの試み

第1章 芸術創造と自治体の役割(抜粋)




 「文化」は、受け継がれる文化としての「生活文化」と、芸術・学術・技術の文化や非日常文化、未来を切り開く文化(社会を創る文化)であるところの「創出文化」に分かれていて、芸術は「創出文化」領域のなかのほんの一部を占めるものに過ぎない。筆者は「日常的な生活文化」の先端部分として「非日常的な芸術文化」があると考えている。どちらも大切なものだが、「生活文化」と「創出文化」(芸術)は、政策を論議するうえで、混同してはならない。

 筆者が本論で題材とする「文化政策」とは、狭義の芸術政策のことである。生活文化の隆盛、発展はもとより期待するところだが、自治体が公金を投入して政策を展開する以上、マーケットが形成された生活文化よりも、市場が形成されていない芸術への支援が大切であると考えているからだ。

 人々の会話や行政職員のなかでも、芸術と文化が混乱しているケースが多々みられる。今後は、「芸術文化」と呼ぶ場合は非日常文化である芸術を強調し、「文化芸術」もしくは「芸術・文化」と呼ぶ場合は「文化と芸術と」と並列して考え、日常文化+非日常文化の総称として理解していいのではないか。

 しかし、芸術文化と生活文化を分断することを主張している訳ではない。芸術文化と日常文化が互いに作用しあうべきである、と考えている。



松本(2006) pp.14-15







2007年1月30日火曜日

デザインのデザイン

 無印良品が好きだ。大好きだ。無印、と言いながら確固たるブランドとなっているところが、実におしゃれである。時に、カバンの中身の大半と、全身の服(下着を含む)が無印良品の製品となることもある。ユニクロは否定するが、無印良品は肯定する、この背景には、無印良品を貫く思想に共感するためだ。

 無印良品というブランドは、私にとって究極のコラボレーションのお手本である。なぜなら、自分たちが掲げた思想に合う商品や企画があれば、それを「無印良品化」して、自らのブランドの中に取り込んでいるからだ。例えば、文房具にしても、自社開発のもの以外に、既に他社から発売されているものの色を変え、型番やブランド名を印刷せずに販売することがある。その他の無印良品の商品と並べて違和感のないものが、次々に無印良品の世界に取り込まれていくのだ。

 私が関わっている内蒙古での沙漠緑化活動に無印良品の宣伝販促室の方(当時)来られたのも、改めて無印良品のブランド力に触れる機会となった。上司の指示であったと仰っていたが、「何か」が「そこ」にあると思って、文字通り「愚直」に、しかし「穏やか」かつ「奥ゆかしく」、多くの人のことばや、自らが触れる異文化に、関心を向けていたことが印象的だった。ちなみに、その出会いがご縁で、大学コンソーシアム京都での勤務の折、担当していた「コミュニティ・ビジネス&サービス講座」での企画商品(入浴剤使用可能シャワーヘッド、など)を、学生たちがプレゼンテーションさせていただいたこともあった。さらに言えば、内蒙古で宴席を重ねていくうちに、「いつかウチ(良品計画:無印良品を扱う会社の法人名)で働いてみませんか?」というリップサービスをいただいたこともあるのだが、もしも機会があるならぜひ、と本気で思ったのであった。

 以前ワークショップに参加して改めて敬服した深澤直人さんをはじめ、サム・ヘクトやジャスパー・モリソンなど、世界で活躍するデザイナーを起用し始めたのも、私がさらに無印良品に興味を持たせる背景となった。無論、インハウス(社内)のデザイナーの、自社ブランドへのこだわりや貢献も見逃すことができない。何より、そうした多くの発想について調和を取り、一つのブランドを維持しているところに、NGO・NPOにおける問題解決能力向上のための知恵があふれているように思う。無知な人をただ取り込んでいくのではなく、関心のある人を巻き込みつつも関心のない人が関心を持つように光を充てていくこと、そうした啓蒙型から啓発型の問題解決の提案と実践に、NGO・NPOの実践家も学ぶべきところは多いだろう、と、これまた昨日の読書会で議論の遡上に上げたところである。





デザインのデザイン

第4章 なにもないがすべてがある(抜粋)




 無印良品が目指す商品のレベル、あるいは商品に対する顧客の満足度のレベルはどの程度のものなのだろうか。少なくとも、突出した個性や特定の美意識を主張するブランドではない。「これがいい」「これじゃなきゃいけない」というような強い嗜好性を誘発するような存在であってはいけない。幾多のブランドがそういう方向性を目指すのであれば、無印良品は逆の方向を目指すべきである。すなわち、「これがいい」ではなく「これでいい」という程度の満足感をユーザーに与えること。「が」ではなく「で」なのだ。しかしながら「で」にもレベルがある。無印良品の場合はこの「で」のレベルをできるだけ高い水準に掲げることが目標である。

 「が」は個人の意志をはっきりさせる態度が潔い。お昼に何が食べたいかと問われて「うどんでいいです」と答えるよりも「うどんがいいです」と答えた方が気持ちがいいし、うどんに対しても失礼がない。同じことは洋服の趣味や音楽の嗜好、生活スタイルなどについても言える。嗜好を明確に示す態度は「個性」という価値観とともにいつしか必要以上に尊ばれるようになった。自由とは「が」に近接している価値観かもしれない。しかしそれを認める一方で、「が」は時として執着を含み、エゴイズムを生み、不協和音を発生させることを指摘したい。結局のところ人類は「が」で走ってきて行き詰まっているのではないか。消費社会も個別文化も「が」で走ってきて世界の壁に突きあたっている。そういう意味で、僕らは今日「で」の中に働いている「抑制」や「譲歩」、そして「一歩引いた理性」を評価すべきである。「で」は「が」よりも一歩高度な自由の携帯ではないだろうか。「で」の中にはあきらめや小さな不満足が含まれてるかもしれないが、「で」のレベルを上げるということは、この諦めや小さな不満足をすっきりと取りはらうことである。そういう「で」の次元を創造し、明晰で自身に満ちた「これでいい」を実現すること、それが無印良品のヴィジョンである。

 無印良品が手にしている価値観は、今後の世界全体にとっても非常に有益な価値観でもある。それは一言で言うと「世界合理価値=WORLD RATIONAL VALUE」とでもいうべきもので、極めて理性的な観点に立った資源の生かしかたや、ものの使い方に対する哲学である。



原(2003) pp.108-109







オランダ 寛容の国の改革と模索

 研究者の「お作法」が正しいかどうかは、実に些細な表現から読み解くことができる。「お作法」というと、ふざけた言い方と思われるかもしれない。ここで「お作法」ということばを用いたのは、研究を進めていく上での「流儀」を押さえているか否かを判別できる要素がある、と言えるためである。もちろん、研究者に対して骨董品を評定するかのように真贋の判別をつけることは妥当ではないが、一方で生きた研究者の物事、出来事に向き合う姿勢は積極的に問われてしかるべしであろう。

 どこに「お作法」が出るかと言えば、少なくとも私は引用文献と語尾から読み解くことができると感じている。引用文献は、古典を押さえつつ最新の情報を押さえているか、という点に姿勢が反映する。もっと細かく言えば「どこかで参考にする」のではなく「きちんと引用する」ことができているか、つまり「何となく読みました」ではなく「ここが先達から引き継ぐべき知見である」という意志が見られるかどうか、も問われてよい。加えて言うと「ジャーナル」とも呼ばれている学術雑誌、すなわち書籍だけでなく論文からも引用しているかどうかも、学会ならぬ「学界」の動向に関心を抱いているかを判断する根拠と言えよう。

 とりわけ、研究者の執筆する文章に求められるべき要素として「断定」することが必要であると考えている。文系か理系かを問わずに、研究の成果は「結論」によって次なる研究へと継承されていく。結論があるということは、研究の上で問うてきたこと(Research Question)があり、その問いを明らかにするために進めてきた調査のなかで何らかの結果があり、その結果を先行研究に照らし合わせることを通して吟味(考察)し、今回は明らかにならなかった点(課題)を述べ、次の方向(展望)が示されねばならない。したがって、自ずと「結論」は「〜と思われる」といった「私語り」ではなく、制度や状況など無生物な主語を用いるなどして「没人称化」した言説のなかで、「〜だ」や「〜である」と断定する形となる。

 大学進学率が50%へ近づき「大学全入時代」と呼ばれる今、大学院進学率が10%を越え「大学院大衆時代」を迎えている。研究型大学院と専門職大学院と、大学院の性格も「学位」の出し方で区別がなされているものの、社会に向き合い、世界を「研ぎ」「究める」人々には、ある程度の資質が問われてよい。ちなみに今、私は同志社大学大学院総合政策科学研究科で2006年春季より開講されている「臨床まちづくり学」なる講義の担当しているのだが、その受講生とともに、月1回の頻度で読書会を開催している。ここに綴った文章は、本日開催された読書会で取り上げた書物(すなわち、標題に掲げた「オランダ」)を読んだところ、「論理的」(つまり、logical)と表現すべき部分に「理論的」(つまり、theoretical)と表現されていた部分に違和感を覚えた理由を参加者に対して説明した中身をまとめたものであることを記しておく。





オランダ 寛容の国の改革と模索

第1章 究極の合理主義者のとらわれない改革(抜粋)




 麻薬はなぜ悪いのか。この答えはじつは単純ではない。「常識」としては、「体に悪い、だから法で禁止し、違法行為だから犯罪として取り締まる」。しかし、これには異論が出されている。大麻などはタバコよりも直接的な害も中毒性も低い、と。もちろん、まったく無害とする見解はないようだが、タバコのほうがより有害だという認識は優勢のようだ。現在タバコを違法にしている国はないと思われるが、タバコが合法なら、大麻は合法としてもよいというのが、「理論的」な帰結かもしれない。実際、大麻の個人使用を事実上取り締まりからはずした国は、オランダ、ベルギー、デンマーク、ドイツ、スペイン、フランス、イタリア、ポルトガル、イギリス、スイスなど、ヨーロッパでは多数派になっている。

 しかし、オランダがドラッグを健康上の害が比較的低いソフトドラッグと害の大きなハードドラッグ(コカイン、覚醒剤など)とに分け、前者の少量個人使用を事実上合法化したことは、たんなる「害」の問題ではなかった。決定的だったのは、「HIV/エイズ」である。



太田・見原(2006) pp.37-38







2007年1月28日日曜日

活動理論と教育実践の創造

 「いしかわ地域づくり円陣2006」では、うまく話せた部分と話せなかった部分との両極があった。うまく話せなかった部分の殆どは午後の分科会だった。一方で、うまく話せた部分は夕方の全体会だった。いくつかの肩書きを持ち、話をする顔もいくつかあるなかで、基本的には現場の人間だという思いがある。しかし、今回は「実践家モード」よりも「研究者モード」が際だってしまったような気がしてならない。

 伝えたいことを伝えるには、いくつかの方法がある。繰り返し述べているとおりに、比喩はその一つだ。社会心理学に対して痛烈な問題提起を行ったガーゲンの書物によれば、比喩(メタファー)の使用は人々に対して「視覚代理物(visual substitution)」となり、既成の常識的展開を除去するという。そんなこともあって、博士論文では「長縄跳び」をメタファーに用い、ネットワーク組織とまちづくりについて論じた。

 今回の話で採った方法は「和英辞典と英和辞典の連続使用」と「韻を踏んだキーワードセットの提示」であった。前者は全体会で用い、具体的には「交流」を「exchange」に置き換え、さらには「exchange」を「交換」に置き換えるという具合で話を展開した。もう少し文脈に触れるならば、「交流」というのはex(外)に向かって何かをchangeする(変える)ことである、と考えてみると、それは何らかの価値を外にいる誰かと交換することになるのではないか、という問題提起を行ったのだ。さらにその後で「その際の価値の交換は不等価交換であり、お互いに恩返しをし続けることに弛み無き交流が続いていく」と、モースの「贈与論」でも紹介された「ポトラッチ」という実践を引き合いに出しながら語ってみた。

 ちなみに今回用いた「ツール・ルール・ロール」というキーワードセットの提示は、ユーリア・エンゲストロームによる「活動理論」の援用である。この「活動理論」は明快な理論ではあるが、都合良く、手際よく引用できる日本語の解説本は少ない。そこで、私なりに「道具」を「ツール」に、「分業」を役割分担という観点から「ロール」に置き換え、キーワードとなるもう一つのことば「ルール」ということばの語感に合わせて、よい活動を行うために必要なもの、と説明をした。無論、ある行為の結果をよりよい成果として結実するためには、主体と対象を支えるコミュニティの存在は欠かせないが、そのために必要な考え方は何か、という考え方の道具として、この理論を用いて現場の知を説明し、ちょっと上手く説明できたのでは、とほくそ笑んで見るのであった。





活動理論と教育実践の創造:拡張的学習へ

第4章 文化歴史的活動理論の原理と方法論

2 協働の仕事や組織の概念的分析道具としての集団的活動システムのモデル(抜粋)





 集団的活動システムのモデルとその諸要素はエンゲストローム自身によって次のように説明されている。



 ここでの主体は、特定の観点によってどの行為主体を選ぶのかに応じて、個人あるいはサブグループを指し示す…。対象は、ここでは「なまの素材」あるいは「問題空間」を指し示す。活動はそれらに向けられるのであり、またそれらは成果へとモデル化され転換されるのである。そのことを助けるのが物質的あるいはシンボリックな、外的あるいは内的な、ツール(媒介の働きをする道具や記号)である。ここでのコミュニティは、多様な諸個人、あるいはサブグループから成る。それらは一般に同じ対象を分かち合っている。ここでの分業は、コミュニティのメンバーのあいだで課題を水平的に分かつことと、権力や地位を垂直的に分かつことの両方を指し示している。最後にルールは、明示的あるいは暗黙的な統制、規範、慣習を指し示している。それらは活動システムの内部で、行為や相互作用を制約している。活動システムの構成要素のあいだでは、不断の構築が進んでいる。人間は、道具を使うだけでなく、それを不断に後進し発達させもするのであり、それは意識的なこともあれば無意識的なこともある。彼らはルールに従うだけでなく、それをつくったり、つくり直したりもするのである。(Engestrom, 1993, p.67)



 このような「集団的活動システム」は、活動理論の分析単位であり、人びとのさまざまな組織や仕事の現場(workplace)を分析するための概念的モデルとして役立つものである。





山住(2004) pp.84-85









能登はいらんかいね

 ありがたいことに、年間を通して多くの方々にお招きいただき、お話をさせていただく機会を頂戴する。謝金を頂戴したはじめての「単独公演」ならぬ「単独講演」が増えたのは、1999年ごろではなかったかと思う。時は、特定非営利活動促進法が成立し、NPOがブームになり始めた頃だ。基本的に、講演の際に資料として用いるレジュメは何らかのかたちで毎回書き換えるようにしてきているが、当時「NPOよもやま話」と題して作成したA4両面刷1枚の資料はだいぶん重宝した。

 今回の石川での講演では、前日の打合せをとおして、以前に作成した資料を上書きした。今回は1日のイベントで2回、しかも別の肩書きで登壇する。後半は鼎談なので「絶妙なコメント力」が最大限に発揮できるように集中力が勝敗の分かれ目となるのだが、前半は3時間かけてのテーマ別の検討会である。私が担当させていただくのは「地域内交流の拠点としてお寺はどのように機能しうるのか」という観点からの事例報告と、来場者を交えたフリートークであった。

 資料の上書き保存のポイントもいくつかある。必ず行わなくてはならないのが古くなった統計や法律等のデータの改訂で、それに加えて現場のリアリティが伝わる写真やエピソードを挿入することにも関心を置いている。ただし、私が特に心がけているのは「絶妙な比喩を使う」ということだ。今回は、拠点を活かすにあたって「演劇」に関連づけた説明を行うこととしたため、拠点を劇場に、利用者集団(コミュニティ)を友の会に、コーディネーターやディレクターなどを舞台監督になぞらえ、作家による「シナリオ」こそが大切であって、誰がそれを担うのかが拠点や場を活性化するか否かを左右するのでは、というお話をさせていただいた。

 自分が講演をさせていただくことも多いが、逆に自分たちの取り組みにゲストを招くことも多い。その際には、終了後の懇親会をどうするか、などに気が回ってしまう。今回、全体会の鼎談に続いて行われた交流会では、私の「交流とはexchangeということばに置き換えられるのだから、価値の交換を外部と行うことが大切だ」という発言が随所に援用され、少し気恥ずかしい想いがした。ただ、そんな全体会で壇上にあった鼎談者用の水が諸外国のものではなく「越後の天然水」だったこと、さらには「1,000円相当の地域特産物」を持ち込むと交流会費用が1,000円(通常は2,000円)になること、さらには「猪汁」をはじめとして地元産品がふんだんに振る舞われていたことなど、実にホスピタリティとこだわりにあふれているな、と感服した次第である。



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能登はいらんかいね(三番)




冷やで五合 ぬくめて五合

しめて一升 酒ありゃ楽し

能登はいらんかいねー

ふるさと能登はョー

氷鳴らして  想いを馳せりゃ

御陣乗太鼓の 音がする



詞:岸元 克己・曲:猪俣 公章・歌:坂本 冬美(1990)













2007年1月27日土曜日

魂の森を行け

 旅客情緒は、何とも言えない風情がある。そんなことを綴ると「鉄道マニア」と思われそうだ。くれぐれも、誤解して欲しくないのは、あくまで「旅」が好きなのであって、「乗り物」だけに終着があるわけではない、ということだ。ただし、ここで「乗り物だけではない」と表現を切り取られてしまうと、まるで無理矢理に予定をつくって鉄道の旅を選択しているように思われるかもしれない。

 この週末の講演のため、スーパー雷鳥サンダーバードにて、湖西線を経由して北陸へと抜けていった。地球温暖化か、はたまた単なる暖冬のレベルなのか、要因は定かではないものの、気づく限りでは車窓から雪景色を見ることはできなかった。ともあれ、目的地の金沢では、明日、小松で開催される「いしかわ地域づくり円陣」にて、私が話題提供を行う第4分科会でコーディネーターを務める大学時代からの同志が待ち受け、夕食を食べながらの打合せを行う段取りだ。大阪を15時43分に出発した列車は、目的地の金沢に向かうにつけ、暮れゆく風景のなかを駆け抜けていった。

 今回の旅のお供は、先般紹介をいただいた書物「魂の森を行け」である。初版・帯付きを求める癖もあって、Amazonのマーケットプレイス、すなわち古本で手に入れた。帯には「1000年の森を創造するドン・キホーテ 植物学者・宮脇昭は、ポット苗を手に突進しつづける。」と記されていた。以前、NHKのテレビ番組で「知るを楽しむ」というシリーズにて特集されていたこともあって、興味を持ってはいた。そこに字が大きいのも重なって、簡単に読破ができそうな気がしていた。

 私が好きなテレビ番組「情熱大陸」よろしく、ライフヒストリーの取材を通してその人の「今」と「ちょっと先」を浮き彫りにしているのが本書であった。宮脇昭さんは、日本の「鎮守の森」がそうであるように、「潜在植生」に着目し、本来はどんな木や草が生えるのかに着目して森作りを行っていくというものである。とりわけ印象的だったのが、中国での植林に関するものであった。金沢での約5時間の講演を終えてとんぼ返りをする先が、内蒙古での沙漠緑化の仲間たちとの「春節パーティー」であることに思いを馳せつつ、生態系とは何かを考えながら列車に揺られるのであった。





魂の森を行け:3000万本の木を植えた男の物語

6章 「ふるさとの森」再生




 宮脇は、モウコナラのドングリを100万個拾って欲しい、と中国側に依頼した。中国側は、「とてもじゃないけれど、1万個すら拾えない」と最初は尻込みをした。しかし、実際にやり始めると、中国人たちは実に80万個のモウコナラのドングリを拾い集めてきた。そのドングリをもとにビニールハウス内で気温調整をしながらポット苗を作った。発芽率は90パーセントだった。

 1回目の植樹は1998年7月4日に行われた。このとき、宮脇は驚くべき現象を目の当たりにする。日本で植林ツアーとして1000人のボランティアを募ったのだが、なんとそこに1400人もの人々が応募してきたのである。ツアー料金12万5000円が自腹であることを考えるとこれは驚異だった。この日本人ボランティアたちに中国側の1200人が加わり、2600人が一斉に万里の長城の周りで植樹した。その数、実に4万5000本。わずか1時間でこれだけの苗木が植えられた。そして、そののちも植樹は続けられ、硬い岩盤がむき出すようなところに実に40万本近い幼木が植えられていった。

 中国側は津尾初、宮脇方式による植樹がうまくいくかどうか疑心暗鬼で見ていた。しかし、ほとんどすべてのポット苗は活着する。その成果を見た中国の役人は真顔でこう宮脇に言ったという。

 「100パーセント活着している。不思議だ。しかし、100パーセントと言えば、北京市人民政府の局長や部長が信用しないから、活着率98パーセントと報告したいが許してくれるか」

 こののち、同様に都市化が著しい上海市でも宮脇方式によるエコロジー緑化が進められる。





一志(2004) pp.139-140



<ハードカバー>





<文庫版>









2007年1月26日金曜日

前衛仏教論

 1月25日は法然上人の命日である。法然上人は浄土宗を開いた元祖であり、開祖や宗祖、などと言われる。阿弥陀仏による「救済」の力を信じて「南無阿弥陀仏」と唱えることを教義として掲げた。「専修念仏」や「口唱念仏」などと言われる、単純明快な教義だ。

 法然上人は、貴族社会を中心とした権力構造に対する民衆の精神的、政治経済的な解放を願い、「念仏」をとおした信心を浸透させていった。こうして仏教に民衆化の道が切り開かれていった。組織を通して出家と在家を明瞭に区別してた時代からの転換である。無論、浄土宗をはじめとした鎌倉仏教以前に、空海や最澄による南都寺院へのあくなき挑戦があったことも見逃してはならない。

 専修念仏をとおした在家仏教という浄土宗でも、全国に8つある本山では、出家・在家を問わず、修行の場が提供される。今回、法然上人の命日にあわせて一昼夜かけた念仏会「不断念仏」があるとの情報を住職が得た。そこで、應典院の僧侶スタッフ3名は、1月24日の業務が終わってから、京都の百万遍「知恩寺」に向かった。24日のお昼から、25日のお昼まで、定期的に行われる読経の他は、駅伝の襷リレーのように、参加者が木魚の音に重ねつつ、ただただ「南無阿弥陀仏」を唱えていく修行に、2時間ほど参加させていただいた。

 今、浄土宗では法然上人の「800年大遠忌」事業が進められている。法然上人が亡くなった1212年から数えて800回忌にあたる年に向けて、後進が「恩返しを」という報恩事業が宗をあげて取り組まれているのだ。実は私も少しだけ関わっており、「共生・地域文化大賞」という事業を通じて、改めて救済、共生(ともいき)の精神を広めていこう、という構想の会議に参加していた。にしても、約800年経っても供養の機会が生み出されるというのも凄いな、と改めて思うのと同時に、果たして自分に対する弔いは誰が、どこまでしてくれるのだろうか、と感傷的になってしまった「プチ修行」なのであった。





前衛仏教論:<いのち>の宗教への復活

第一章 仏教の本質とは何か

報恩って何だ(抜粋)




 一つの宗派を興すには、ときの為政者による組織的弾圧や、既存の宗教勢力からの抵抗などがあって、いつ殺されておかしくないほどの緊張感があったはずです。一つの草庵を構えることすら、ままならなかったでしょう。

 とすれば、その苦労を思い起こすために、全山の僧侶が厳しい修行期間に入るなどして、「歴史の始まり」を再体験するような試みがあってもいいと思うのですが、たいていは「開祖への報恩」という言葉が声高に繰り返されるだけで、単にお祭りで終わってしまうのです。

 あるいは、開祖と呼ばれるほどの偉いお坊さんというのは、民衆の救済ということを念頭に置いた人たちだったわけですから、その精神を汲んで、全山の僧侶や信者が共同でボランティア活動をするとか、募った寄付金で社会福祉事業を起こすとか、そういう発想があってもいいように思うのです。

 現代社会において、これ以上お堂やお墓や石碑を建てても、無用の長物となるのは、目に見えています。喜ぶのは、その工事を受注した業者ぐらいのものです。



町田(2004) p.22







2007年1月25日木曜日

10 years

 ライフヒストリーとは、よく言ったものである。今日は美術家、井上廣子さんとの打合せがあった。3月4日に應典院で行う、大阪府立現代美術センター主催の「大阪アートカレイドスコープ」の企画として、あるドキュメンタリー映画を上映するための意見交換が主な目的であった。その「ついで」のように、應典院寺町倶楽部のニューズレター「サリュ」のインタビューも同時に行わせていただいたのである。

 井上さんとは初見ではないが、改めてライフヒストリーをお伺いすると「へぇ」ボタンを連発せずにはいられなくなる。井上さんは、精神病院や強制収容所などを訪問し、その場の空気を撮影することをライフワークとしている。もともとはタペストリーなどを制作していたのだが、それが阪神・淡路大震災を契機に作風を一転させたという。私にとって都合のよい解釈のもと、その変化を説明するならば、新たなライフワークのはじまりは、全く新しい分野への挑戦というよりも、むしろ幼少期、さらには青年期に浸っていた雰囲気への回帰とも言えるとのことであった。

 人に歴史あり、ということを、インタビューを通じて実感した。井上さんは子どものころ、本をよく読み、よく野外に出ていたのもあって、空想が好きで好奇心が旺盛となったという。お話を伺っていて、自分の子どもの頃を思い出した。おばあちゃんにかわいがっていただいた私は、音楽をよく聴き、テレビドラマをよくみていたのだが、それゆえに作品の世界や人間関係に対して思いを馳せることを常にしていたような気がする。

 なかなか恵まれた学校生活を送っていた私は、高校3年生のときには文化祭の後夜祭で「ジョニー・B・グッド」を歌い、さらにさかのぼれば、中学3年生のとき「10年後の同窓会」という小さな演劇の脚本を書いた。その作品は、受験が終わったか終わらないかの頃に、私が演出をし、クラスの中で上演した。名前から着想されるかもしれないが、物語はロバート・ゼメキス監督作品「Back to the Future」をモチーフにして(脚本の表紙には同映画のロゴマークを模したタイトルを手描きして)、主題歌には「10 years」を用いるという、やや「ベタ」な構成であった。ふるさとを離れた生活をして久しいものの、10年後どころか、同窓会自体きちんと出来ていないことを思い出し、それそろ懐かしさにきちんと触れてみたいな、と思ったインタビューであった。





10 years(抜粋)




『大きくなったら どんな大人になるの』

周りの人にいつも聞かれたけれど

時の速さについてゆけずに

夢だけが両手からこぼれおちたよ



あれから10年も

この先10年も



行きづまり うずくまり かけずりまわり

この街に この朝に この掌に

大切なものは何か

今もみつけられないよ







詩:misato watanabe・曲:senri oe・歌:misato(1988)



2007年1月24日水曜日

地域からの挑戦

 大阪ガス株式会社エネルギー・文化研究所と京都大学・同志社大学との共同研究で進めている、上町台地界隈の情報データベース「 uemachi.cotocoto 」の形がほぼ出来上がった。イベント情報を切り口に、都心への愛着を高めていくための仕組みと仕掛けをつくることを目的にした、実践的な研究である。まちで開催されている多くのイベントに参加し、参加者を企画者が巻き込んでいくことが、より豊かな都心居住を実現するのではないか、という前提に立っている。何をもって豊かか、と問われれば、社会的、文化的、歴史的に、と、やや抽象的な物言いになってしまう。

 そもそも都心は住む場所ではない、とされてきた。人が住まないからこそ店が出て、店が出るからこそ人が集まる。そして、人が集まるとそこには神秘的、霊的な物語、いわゆる「都市伝説」も生まれる。占いなどもその一つであり、事実、今の時代にも夜の都心には占い師が店を構えている風景に出会うことがある。

 1970年代から80年代にかけて、住まい手が自らの地域に関わっていく実践が地域をより豊かにしていくという考え方から、行政主体の都市計画という概念は「まちづくり」ということばに置き換えられて語られるようになってきた。こうして「ひらがな」で書かれることによって、漢字表記の「都市計画」はより柔らかな印象で受け止められるよう、多くの主体がこのことばを使ってきている。通常「都市計画」はハード(都市基盤)が中心であったことも重なって、そこにソフト(ひと・イベント)も必要だ、という説得力は、文字通り「柔らかい(ソフト)」なことばを用いることによって導かれてきたと言えよう。このあたりは、私の博士論文でも展開した、「まちづくり」という語源の旅であり、とりわけ、田村明氏の著作によるところである。

 「まちづくり」に対して「くにづくり」こそ必要、という主張もある。まちづくりに取り組む人々に対して、「世界の平和、家庭の不和」などと揶揄されることもあるが、「一国一城の主」という時の「国」だ。言うまでもなく「国家」ではない。果たして、今、誰が「くに」を語り、「くにづくり」に取り組めているのか、少なくとも、上町台地界隈の多文化共生、持続可能な地域開発、新旧融合のまちづくり、そうしたことを考える道具として、今後「 uemachi.cotocoto 」をせいぜい活用していくことにしよう。





地域からの挑戦:鳥取県・智頭町の「くに」おこし

第1章 二一世紀の国と「くに」




 「国が破れる(国にガタがくる)」とは、どういう意味か。そのイメージをつかんでもらうために、国を五重の塔たとえてみよう。

 五重の塔の一番下は、国の土台となる自然。その上に、文化や習慣の層(第一層)が築かれる。その上には、政治、経済、社会の諸々の仕組みの層(第二層)がつくられる。さらに、道路や鉄道、河川、港湾や広場などの社会基盤施設(土木インフラストラクチャ)の層(第三層)が構築される。その社会基盤施設の上には、さまざまな土地利用が行われ、家屋やビルなどの建築物が建てられ、土地利用・建築空間の層(第四層)ができる。私たちの生活は、その上で営まれる。つまり、生活の諸々の活動は、最上階の層(第五層)を構成する。このような五重の塔を我々は多層的な「社会システム」と呼んでいる。



岡田・杉万・平塚・河原(2000) p.3




 二一世紀の日本では、最も小さな五重の塔、つまり、国を形づくる最小の基本単位は何にすべきであろうか。基本単位とは、国という生きた五重の塔(社会システム)を構成する細胞に当たるものである。本書では、その基本単位として、「共有する風景を実感できる空間」を提唱する。そして、これを「くに」と呼ぶ。

 「くに」は、多くの地域において、旧の字(あざ)(現在の小字(こあざ))程度の広さに相当するだろう。江戸時代以来、生活を営む最小の集落単位でもあった。「おらがくに」であり、「くにのお母さん」であり、だからこそ「くにへ帰る」。

 この国にガタがきているのは、この国の大きな屋台骨が緩んでいるからだ。しかし、それだけではない。この国を隅々で支えているはずの「小さな屋台骨」にもガタがきている。小さな屋台骨とは、わが国に無数とある小さな「くに」を支える大黒柱のこと。「くに」という小さな五重の塔も、金属疲労をきたしている。生き生きした「くに」が存在せずして、その延長上に成り立つ「国」がどうして堅牢でありえよう。

 では、どうするか。大きな国はなかなか変わらない。国が「大きく変わる」ことに、すべてをかけるのか。「大きく変わる」のを座して待つのか。

 発想を変えてはどうだろう。国が大きく変わるのをじっと期待するのではなく、小さくてもいいから「くに」を変えてみてはどうだろう。「大きく変わる」のから「小さく変える」への転換だ。



岡田・杉万・平塚・河原(2000) p.5







2007年1月23日火曜日

ド・ラ・カルト

 「ドラえもんで何かわかるんですか?」研究室に訪れた後輩はそう言った。久しぶりの再会だった。「他に言うことないんかい」と思う部分もあったが、ついぞ「のび太の結婚前夜(25巻)」や「さようなら、ドラえもん」(6巻)」や「帰ってきたドラえもん(7巻)」など、後に映画化された作品たちを挙げてその魅力を語りたくなってしまう。

 藤子不二雄作品を小学館の学習雑誌(例えば、小学四年生、など)や「コロコロコミック」でリアルタイムに読んでいた世代だ。結果として「てんとう虫コミックス」も多数持っている。その昔、実家の近所の本屋さんでもらったドラえもんの色紙はどこにいってしまったのだろう…。ともあれ、幼少の頃に根ざした藤子マンガの世界には大人になっても心地よく浸り続けており、奈良そごうで開催された「藤子・F・不二雄の世界展」やサントリーミュージアムでの「THEドラえもん展」にも足を運ばせる。

 「大事なことはドラえもんで教わった」という本も出ているとおりに、「ドラえもん」は作者である藤子・F・不二雄自身が「のび太」に投影されることによって構成されている「メッセージマンガ」と言える。「サザエさん」とやや似て、「ちびまる子ちゃん」や「クレヨンしんちゃん」とはやや非なるところがあろう。なぜなら、「ドラえもん」も、また「道具」も、(少なくとも執筆段階では)物体として存在しえないためである。しかし、テレビ版(精確には、テレビ朝日の大山のぶ代版)のオープニングテーマソングにあるように「あんなこといいな、できたらないいな」を「ふしぎなポッケ」でかなえてくれる「存在しえない存在」に、多くの人々が心地よさを感じているのではないだろうか。

 「ドラえもんやその道具は子どもを甘やかせることを肯定する悪例だ」といった批判も時になされるのだが、それは作品の世界観を(小学館ドラえもんルームが)「公式」にまとめた書物によると、その批判にはきっぱりと「否」と答えられる。ちなみに、今、島根で働く立命館大学の後輩が、今、同志社大学でも働く私の研究室に訪れたのは、大学院進学の相談であった。こうして、仕事や暮らしの変化につれ物事の捉え方やそれぞれの関係が変わるように、ドラえもんも連載を続けるなかで登場人物内の関係も変化し、作者の作品への思いも変わっていると分析されている。そうして紡ぎ出された作品に対して、読者が日々の生活のなかでも「どこでもドアがあったらいいのに」とつぶやきつつも「ないことはわきまえている」という両者が併存するとおりに、自ずと作品の世界に没入させつつ日常生活を正視させるという、強引に仏教語を使えば「空(くう)」としての「ドラえもん」の存在に学ぶことは多い。



ド・ラ・カルト

まえがき(抜粋)




 小学生の時にリアルタイムで雑誌の連載を読んだ幸せな世代がいます。また、自分の子供の本を取りあげて、ついつい夢中になってはまってしまった世代もいます。それぞれに好きな作品があり、それぞれにドラえもんに寄せる思いがあります。

 四次元ポケットから出てくるひみつ道具やドラえもんのメカなど、入社試験問題に出るほど今では一般常識となってしまった感のある様々な設定も、実は必ずしも不動のものではなく、情況あるいは時代に対応し変化しています。時代と共に生きている息の長い作品ならではの生命力を感じます。



小学館ドラえもんルーム(1997) p.4







2007年1月22日月曜日

子どもたちの命

 3日間かけて應典院にて行われた「チャリティー絨毯展」が終わった。正式名称は「アフガンこども教育・母親自立支援チャリティ絨毯展」である。主催は東京の「国際子ども教育基金」と全日本仏教青年会だ。クンデゥース産の最高級絨毯を中心に、イラン遊牧民カシュガイ族100人の子どもが織ったミニ絨毯が特別展示販売された。

 應典院では初となる催しであったが、大阪では大阪府仏教青年会の協力のもと、4回目の開催となるという。昨年は四天王寺で開催されたようだ。売上金はカブールのアフガン女性が運営しているNGO「CWEF(The Children & Women's Education Fund)」の活動の支援に充てられる、とある。今回はアフガニスタンの教師たちの活動範囲を広げるための足となる中古の自動車を購入するのが目標とされていた。

 應典院での開催の運びとなったゆえに、應典院ならではの特性が出ればいいな、と思っていたところに、私の知り合いから連絡が入った。その知り合いは、著書「がんばらない」などで知られる鎌田實さんが代表を務める「JIM-NET(日本イラク医療支援ネットワーク)」の佐藤真紀さんである。JIM-NETでは2006年よりバレンタインデー・ホワイトデーの時期に合わせたチョコレート募金、名付けて「限りなき義理の愛作戦」を行っており、ちょうど20日には京都に来ており、大阪にも寄れますよ、とのことでった。イラク開催の1週間ほど前であった。

 そこで、主催の皆様に連絡を取らせていただいたところ、21日に受付横でJIM-NETの佐藤さんらを中心にイラク支援チョコレートを販売するということに相成ったのである。販売されるチョコレートは一口500円の募金と扱われ、そのうちの400円が白血病の子どもの一日あたりの薬代として使われる。ちなみにチョコレートは六花亭のアーモンドヤッホーで、さらにイラクの子どもたちの絵に湯川れい子さんと酒井啓子さんと東ちづるさんがそれぞれ文章をつけるというコラボレーション商品だ。ホワイトデーバージョンも用意が進んでいるようで、身近なつながりが大きな支援へと連鎖していくことを、イベントの実施における人と人との縁結びをとおして実感した次第である。



JIM-NET http://www.jim-net.net




カラー版 子どもたちの命:チェルノブイリからイラクへ

IV 命を考える

小さな優しさの連鎖(抜粋)




鎌田 『雪とパイナップル』(集英社)という絵本を、ぼくは書きました。その本を出したのは、つぎのようなことがあったからです。ぼくたちチェルノブイリ連帯基金は信州大学医学部の応援をもらって、チェルノブイリで、一一人の難治性の白血病の子どもに骨髄移植をしました。そのうち一〇人の子どもは白血病を克服して治ったのですが、一人の子どもは死んでしまった。その亡くなったアンドレという子どものお母さんを訪ねていくと、アンドレのお母さんは、彼の写真をぼくに見せてくれながら、以下のような話をしてくれた。



 私たちは、いちばん大切なものを失った。だけど、忘れられない日本人の若い看護師さんがいる。息子は骨髄移植を受けたあと、敗血症という病気で熱にうなされて、ものがまったく食べられなくなった。そのときに、日本からきたその看護師さんがアンドレに「何が食べたい?」って聞いたのです。初めはアンドレは答えられなかった。日を変えて、また彼女がアンドレに「何なら食べる?」って聞いたところ、アンドレは「パイナップルが食べたい」って。

 国が貧しくて、北国ですから、パイナップルは輸入品。これまでに一度だけパイナップルのかけらを食べたことがある、そのことを思い出して彼はパイナップルと言った。それを聞いた日本の看護師さんは、ちょうど二月で雪の多いマイナス二〇度の町のなかの店を一軒一軒まわって、「パイナップルありませんか?」と探すのだけれど、ないのです。それが町中の噂になった。そしてパイナップルの缶詰を持っているあるベラルーシの人がその噂を聞きつけて、ああ、日本人はベラルーシの子どものためにそんなことまでしてくれるのかと感心して、このパイナップルをどうぞ使ってくださいと言って病院にもってきてくれた。うちの息子はパイナップルを食べることができて、その後、敗血症が治って退院できた。だけど、一〇ヵ月後、白血病が再発して亡くなった。

 私たちは、息子といういちばん大切なものを失ったが、うちの息子のために、雪のなかをパイナップルを探してくれた日本人のいたことを忘れない。




 ここには、すごく大切なことが二つある。一つは、大切な子どもを助けてあげることができなかったにもかかわらず、お母さんは感謝してくれているということ。成功したからとか、うまくいったからとか、何かしてもらったから感謝をするのではなくて、いちばん辛いときに、子どもの言葉を聞きとめてくれて、子どものために何かをしようとしてくれた人がいてくれたこと。お母さんは大切なものを失ったけれども、悲しみを少し、その若い看護師によって癒されている。人間の関係というのは、どうもそういうことが大事なんじゃないかと思う。

 もうひとつは優しさの連鎖ということで。九・一一のテロの後、世界は、にくしみとか恨みの連鎖が生じ、やられたらやり返すということで、結局、にくしみとか恨みは暴力につながっていきました。けれども、逆に、人間は小さな優しさとか小さな温かさを生み出すこともできて、その小さな温かさとか優しさが、さらに連鎖を生むのです。その連鎖が広がっていたときに、ぼくは平和を生みだしていくのではないかと思うのです。



鎌田・佐藤(2006) pp.57-59







2007年1月21日日曜日

市場主義の終焉

 忘年会に比べると、新年会はやや少ない気がする。年が変わるという区切りで新しいことを始めようと考える場合も多いが、それ以上にやり残したことをやり遂げようという決意を固める場合もある。私は両者で、とりわけ後者が強い。そうした慌ただしい年末に、慌ただしくもゆったりとするのが忘年会である。

 今日参加した新年会は忘年会の日程調整ができないために年越しとなった宴であった。「やり残した」打合せもあったので、なんとか年内に調整しようと試みてはいたのだが、新年会での再会となった。というのも、以前に仕事で取り組んでいた、インターネットでのウェブサイトを誰にでも使えるようにしようという「ウェブ・アクセシビリティ」についての事業のその後を展望する必要があったためだ。既に「ウェブ・アクセシビリティ」はJISの規格として整備され、視覚障害者だけでなく高齢者なども対象に、多くの人たちにとって「使える」ことはもとより「使いやすい」ウェブサイトを構築するための指針がまとめられている。

 今日の宴のメンバーは、京都府による情報関係の委員会の委員であったため、職種も業種も多様であった。だからこそ、近況報告をするだけで話は盛り上がる。もっぱら、私が「なぜお寺に」ということに関心は集中したように思えるのだが、それでも、それぞれのライフヒストリーにはそれぞれの変化がある。脱線もまた楽しい、そんな飲み会だった。

 印象に残った話の一つに、装身具を中心とした繊維関係の会社に勤める方の「品質表示」にまつわるお話がある。先週、アメリカ方式、ヨーロッパ方式、そして日本方式の3つのなかから国際規格を決めるという会議が東京で行われて、繊維製品品質表示が変わりそうだ、というものだった。聞けば何ともない話なのだが、今後、この調整がこじれると国際基準で複数の規格が決定されるやもしれず、場合によっては一つの服に3種類のラベルが着くかもしれない、とのことであった。要するに、「洗濯はこうせよ」という指示がなされる言語や図柄が増える、ということであり、何とも国際社会での調整力を日本が持って欲しいものだ、と懇願するところだ。





市場主義の終焉:日本経済をどうするのか

第2章 進化するリベラリズム

欧米と日本の「豊かさ」モデルの差異(抜粋)




 一九九五年二月に初来日したフランスの社会学者ジャン・ボードリヤールは、神戸の被災地をはじめ、全国各地をみて歩いたのちに「朝日新聞」のインタビューに答えて、「(私は)日本の現実をそれほど知っているわけではないのでこれは仮説だが」と断ったうえで、「日本という国が豊かなのは日本人が貧しいからだという逆説も成り立つようにも思える」という穿った見方を披露してみせた(一九九五年三月二日付夕刊)。

 「日本という国が豊かである」とは、日本の一人あたりGDPが世界一であることを意味する。しかるに、「日本人が貧しい」とは、次のことを意味するだろう。平均的な都市サラリーマンの一日は次のとおりである。早朝六時に飛び起きて、朝食にも手をつけずに家に飛び出して、満員電車で片道一時間半の長距離通勤をする。長時間労働をいとわず、深夜に帰宅した家はというと、家族四人で3DKというありさま。子供の受験と日頃の疲れのせいで、終末をゆっくり家族と楽しむ暇はない。こんな暮らしぶりを欧米のポスト・マテリアリストがみれば、「なんと貧しい暮らしを」をいうことになる。日本の都市サラリーマンが、一言の文句をも口にすることなく、こんな貧しい暮らし方に甘んじてきたからこそ、日本は世界一のGDP大国になることができたのである。



佐和(2000) pp.94-95





2007年1月19日金曜日

Tomorrow Never Knows

 Macユーザーである。おそらく、かなり使いこなしている方だと思う。ユーザー歴も長く、1994年、つまり大学1回生の時代から使っている。中学時代はPC-8801シリーズとPC-9801シリーズでゲームをしまくり、高校時代はCANOWORDαシリーズで文書を作りまくってきたが、大学に入っていきなりUNIX(SONY NEWSシリーズ)を使わねばならないときにさっぱり使い方が分からなかったとき、同じ目的を達成するのに「Macintosh LC475」という小さく美しいコンピュータが隣にあり、すっかり心を奪われてしまったのである。

 とりわけ、MacOSが9からXになったときには悲しかった。短期集中の道路工事のアルバイトでMacintosh PowerBook180cの中古を買ったのが大学2回生の時であるから、それ以来使い込んできた道具が製造中止になってしまったかのような衝撃だった。ただし、Keynoteを使いたい衝動とiTunesを使わざるを得ない必要に駆られ、徐々に移行を始め、2005年になって「やっと」完全移行を終えたのである。ちなみにそれまでに軽さと小ささを求めてWindows(Let'sNote M32)を併用したこともあったが、上述のPowerBook180cを1998年まで、その後PowerBook Duo改(280の液晶に2300cのロジックボード)を2000年まで、その後は開発名をPismoと呼ばれたPowerBook (G3)を使い続けてきた。

 それでも、予定の管理と公開を行っているiCalをはじめ、最早WindowsにもOS9にも戻ることはできない。時折、フィールドワークをはじめ、研究素材を手際よく扱うデータ処理ソフトがWindowsでしか手に入れられないなど、もどかしい思いをすることもあるが、その他の方法を自ら工夫すれば、Macでも事が足りる。むしろ、Macという思想にしっくり来ている身としては、事が足りるように使い方の工夫をしているとも言える。だからこそ、MacユーザーがMac原理主義となってしまいがちだという自覚がある。

 ただ、つとに悲しいのはiCalのカレンダーを使いこなしすぎ、ほぼ「依存症」になてしまっているということである。というのも、今日の朝、京都での会議のはずが、入力を一週勘違いしていたらしい。夕方には同志社大学でのゼミのために京阪電車で移動したのだが、電車の選択を間違えてしまったし、明日は空堀でイベント、と入力されていたが、既に日程は変更になっていたという。こんな状況を飛躍的に解消してくれるのが、先般発表されたiPhoneであることは間違いないのであるが、果たしてこれが2008年にアジアで発売されるという発表も、日本で使えるようになるのか、秘密主義の会社ゆえに「誰も知るよしもない(Tomorrow Never Knows)」なのである。



Tomorrow Never Knows(抜粋)



人は悲しいくらい忘れてゆく生きもの

愛される喜びも 寂しい過去も

今より前に進む為には

争いを避けて通れない

そんな風にして世界は今日も回り続けてる

果てしない闇の向こうに

oh oh 手を伸ばそう

誰かの為に 生きてみても

oh oh Tomorrow never knows

心のまま僕はゆくのさ

誰も知ることのない明日へ





歌:Mr.Children・詞:桜井和寿・曲:桜井和寿(1994)

(オリジナル版)



(収録アルバム:リミックス版)



(BEST盤:リミックス版)





がんばれ仏教!

 仕事柄、というよりも生き甲斐柄、移動が多い。特に、今年度下半期の木曜日は「滅茶滅茶」である。朝9時から甲南女子大学で「NGO論」の講義の後、その後14時10分から立命館大学びわこくさつキャンパスで「環境管理調査実習」の講義が入っていた。現在自宅は京都市上京区だから、四都物語だ。さらに、1ヶ月に1回、19時から「上町台地100人のチカラ!」と題したトークサロンがあるため、滋賀から大阪に移動し、そして終電まで呑んで京都に帰るという生活である。

 人と出会い、人と語り、そして人と学ぶことが生き甲斐だと思っている。だからこそ、「呼べば応える」生き方を生きているつもりだ。予定も公開しているし、電子メールも「Re:」という標題で届いた返信以外には「ほぼ」返信しているつもりである。また、報酬の如何は問わず、予定が空いている限り、仕事の依頼は断ることなく勤めさせていただいてきた。

 しかしながら、最近、身体がついてこない感覚に浸ることが増えてきた。自らの身体に対する「老い」と同時に、自らの社会的役割の変化も実感している。「選択と集中」が経営戦略のキーワードとして注目されるようになって久しいが、私の仕事や生き甲斐には「共感的理解」をとおして先方と合意した「選択と集中」が必要だと考えるようになった。言うまでもなくその背景には、僧侶(B)としてお寺で働きながら、程なく住居も変える決断をしたこともある。

 「いのちのことを扱うのが究極のアートだ」と、大蓮寺・應典院の秋田光彦住職は言う。本日、應典院に来山いただいた町田宗鳳さん(広島大学教授)とミナミの「坊主バー」でご一緒したのであるが、日本の仏教には芸術性が足りない、と仰っていた。そんななか、劇場寺院としての應典院、アートNPOとしての應典院寺町倶楽部と、幸いにして私が働くお寺においてはアート、芸術を扱う素地は多い。だからこそ、アートや芸術を扱うことがいかに宗教的か、そうした両者からの論理展開ができるよう、多くの場所を移動しつつも、「仏教の可能性」と「仏教の不可能性」の両面に向き合っていきたいと思っている。





がんばれ仏教!:お寺ルネサンスの時代

第3章 魅力ある寺・僧侶とは

1 秋田光彦−−寺よ僧侶よアーティストたれ!(抜粋)





 寺は、「学び・楽しみ・癒し」の場であり、人間の生活の質、生き方の質を支え、変革していく「社会的芸術」の場でもあるのではないか。そして、家が寺だからといった、職種と条件のマッチングだけでは僧侶の本当の「やりがい」は得られない。明確な職業観を養い、自分らしいモチベーションを高めなければどうにもならない時代なのだ。さらに、「寺壇」組織の単なる歯車としての�労働�ではなく、自身の創造性を発揮できる寺の創出が必要なのではないか。

 私たちが生きていく中で、そして生き死にの中での「困難な課題を巧みに解決し得る熟練した技術」を持つ者、それがまさに日本文化における僧侶の役割ではなかったか。そしてまさに、「小さくてもいい、地域の人々の生活や生き方の質を高めていける『持続可能な寺』」が今求められているのではないだろうか。

 アーティストとは、日常生活に埋没している私たちの目には見えなくなっている「光」や「影」を見ることのできる人たちである。その表現によって、私たちを目覚めさせ、生きることの新しい意味に気づかせてくれる。生きる力に気づかせてくる。そんな「社会的芸術家」としての寺が、僧侶が、今求められているのではないか。

 そして、日本仏教の開祖たちを思い返してみても、彼らは皆「社会芸術家」だった。空海、法然、親鸞、一遍、道元、日蓮……、誰もが皆アーティストである。それも、掛け軸用に書をしたためるといったレベルのアーティストではなく、社会というキャンパスいっぱいに雄渾な絵を、いのちを込めて描ききったアーティストではないか。

 寺よ、僧侶よ、アーティストたれ! それが應典院、秋田の仏教界へのメッセージなのだ。



上田(2004) pp.128-129





2007年1月18日木曜日

ボランティアの知

 どうしても忘れられない1日がある。誰にとっても、そんな1日がある。もちろん、そうして忘れられない1日は、複数あることだろう。私自身にも、無数の忘れられない1日がある。しかし、どうしても忘れられないし、忘れてはならないと素直に思える1日がある。

 1995年1月17日、それは私の人生を変えた1日である。後に阪神・淡路大震災と呼ばれるに至るM7.2の「兵庫県南部地震」が起きたのは、その日の朝5時46分であった。実に長い一日だった。しかし、その後の数日は、実に短い日々であった。何かしたい、何かできるはずと思い、しかし何ができるのかと迷い、結果としていてもたってもいられず西宮に入った。

 既に発災から日数は経っていたものの、1月中に現場に入った学生たちは、さしずめ同様の「何かしたい、何かできるはず」という人たちにとっては「先遣部隊」であった。後に1995年は「ボランティア元年」と呼ばれるのであるが、「先遣部隊」ということばが馴染むところを見ると、「ボランティア」ということばが「志願兵」という意味を伴うことに合点がいく。ともあれ、本日も電話で話をした生涯の親友とも言える同志とその仲間たちと出会って立命館大学ボランティア情報交流センターを立ち上げる過程に携わり、2月から3月にかけて、729人の登録ボランティアたちが現場に行くきっかけを提供し続けた。イノセント(innocent)ということばば持つ「無邪気であり無知」という両義性を携えて、静岡県磐田市から京都にやってきた大学1回生、19歳の私は、取り立ての運転免許証も活かして、とにかく現場に向き合った。

 その後、「あの日」のことを語り合える仲間に出会い続けることが、新たな実践を紡ぎ出す契機のように思えた。渥美公秀先生のいらっしゃる大阪大学への社会人入学も、また秋田光彦住職のいらっしゃる應典院というお寺を通じて僧侶になることも、全て、あの時に共通してそれぞれの震災ボランティアを行ってきているという「個別経験の追体験」ができる方々との出会いがあったためである。6434名のいのちが亡くなった儚さに思いを馳せるたびに涙がこみ上げてくるが、そのこみ上げてくる涙をこらえることで、今の自分の生き方や働き方を見つめる合わせ鏡が得られるような気がしてならない。だからこそ、おそらく来年もまた、私は「あの日」に思いを馳せるのだろう。





ボランティアの知:実践としてのボランティア研究

はじめに(抜粋)




 かなしみが果ててしまうことのかなしみを詠った詩人がいる。そんなことはあるまいと思っていた。だが、あの日から五年あまりを被災地で過ごし、今は、この詩人の言葉が心に沁み入るような気がしている。

 本書は、被災地で過ごした五年間を振り返りながら、実践としてのボランティア研究を紹介したものである。ミシガン大学のグループ・ダイナミックス研究所への留学を終え、神戸大学に赴任したのは、阪神・淡路大震災が起こる一年数ヶ月前だった。大阪で生まれ育ち、大阪大学人間科学部・大学院で学んだ私にとって、神戸は新しい場所だった。ようやく街に慣れたころ、あの日あの時間、すべてが変わった。避難所の行程で風呂を焚き、西宮ボランティアネットワーク(現在、(特)日本災害救援ボランティアネットワーク)に参加した。その後、各地の災害救援現場に赴いた。研究者として何ができるか、自問する日が続いた。グループ・ダイナミックスという強力な�武器�をもってはいたが、試行錯誤で使い方をマスターしなければならなかった。



渥美(2001) p.i







2007年1月17日水曜日

大阪まちブランド探訪

 若輩者ながら、多くの委員を務めさせていただいている。最早、どこに行っても最年少、という程ではなくなってきたが、まだまだ若輩者である。文字面を見つめて見れば、「若輩者」ということばは、「若者」ということばの間に「やから」という字が挿入されている。謙虚さを自戒せねば、という想いを携えながら、会議の席に貢献せねばならないことを自戒すべきなのであろう。

 今日は「関西広域連携協議会(KC)」の「文化振興策研究会」の第二回会議であった。新聞社、県職員、公共施設館長、事業プロデューサー、NPO代表等々による会議である。しかし、そんな風にして立場を抽象化するのではなく、むしろ固有名詞を挙げれば「なかなか」の集団による会議だ。その中に「僧侶兼教員」の私が「お寺」の立場から参加している。目的は、関西の2府7県で展開する官民共同による文化振興策を検討し、提案することである。

 現場に携わる人々であるから、抽象度の高い話と、具体的な話とが折り混ざる。例えば「ハコとヒトのリプロデュースだ」とある委員が発言すれば、「10000人のオーディエンスをつくるなら100人のマネージャーをつくればいい」と続ける。そして「NPOも含めて参加型の文化振興協議会をつくればいい」と発言があれば、「実際の施策がどうなっているか現状把握が必要」という意見が続く。一見、脈略がないようだが、「よい」関西を創ろうとする思いは共通だ。

 そもろも、文化振興策を考える、ことが問いであるから、その前提の部分も含めて多方面からの問いが出てくる。会議の席上で言えば「それぞれのイデオロギー」が全面に出る。しかし、それらも含めて、喧々囂々の議論が成立することが、この会議の魅力だろう。ともあれ、「この会議、シンポジウムみたい」という発言の後、イタリアン居酒屋で飲み放題の「第二部」が続けられたのだが、その席を手配いただいた方の出向元(大阪に本社のある酒造メーカー)のビールがある、ということを大切にされて場所が選定されていること、そうしたブランド力こそ、文化振興を考える上では大切にすべきなのだろう、とほろ酔いの中、思うのであった。





大阪まちブランド探訪:まちづくりを遊ぶ・愉しむ

はじめに(抜粋)




 「集客」や「観光」における都市力が、いまや国の施策としても推進されており、昨今では地域ブランドづくりの必要性がテーマに掲げられている。「ブランド」の語源は、羊などの家畜に雄楽品(BURNED)に由来しており、他人の羊と区別するためのものであったという。現代では、他の類似品と差別化するための、優位性を認める記号や、記号に象徴される世界観であると定義されている。地域ブランドとは、地域のもつイメージを、サービスや商品、特有の文化などの融合体である。他と差別化できる良いものであるという「約束」を伴い、訪れた方に満足を提供する。そして一流感を伴うと考えられている。

 新たに必要とされる持続可能な地域ブランドとはどのようなものか。それは、例えば地元の人が抱く思いや夢を体現した�場所�や�活動�、そのオリジナリティだと考える。まちの歴史や文化をいかに解釈して現在に活かすかという独自の営みの継続が、地域の資源となりブランド力の源泉として育つのではないか。その効果で、マスコミに紹介されたり外部からの訪問者が増えたことで、逆に活動に無縁であった住民の方が「はじめてわがまちの魅力に気づいた」と誇りを感じる例も少なくないようだ。



栗本(2006) pp.1-2







2007年1月16日火曜日

木を植えましょう

 自分の綴ったものにコメントが寄せられるのはうれしい。もちろん、文字に対して文字が寄せられることがうれしいだけでなく、あまたの行為に何らかの反応がなされることは、やりがいを再生産する原動力になりうる。逆に言えば反応がないとき、やりがいは失われる可能性がある。転じてそれは生活のなかで他者からの反応を得ることができない人々にとって、それぞれの生き甲斐とは何か、という問いにもまで展開できそうだ。

 ともあれ、今日、Blogの記事へのコメントとして「魂の森へ行け」という書物を紹介いただいた。こうして新たな書物に出会えることもうれしい。ことばの出会い、また書物の出会いは、自らの感覚や経験を照らし合わせる合わせ鏡を新たに得ること、そんな風に思うからだ。早速、Amazon.co.jpのマーケットプレイスで発見し、格安で手に入れられたのも、小市民のうれしさに浸ったところである。

 紹介していただいた書物の題名を見て想い起こしたのが、2006年12月8日に應典院での寺子屋トーク47「"いのち"のエナジー」でお招きした正木高志さんの「木を植えましょう」であった。その「あとがき」には「木を植えるのは、空を飛んでいたタンポポの綿毛がふっと着地するような、そんな何気ない行為」であり、「着地することでタンポポの新しい生命がはじまるように、木を植えるという何気ない行為によって、ぼくたちは混沌(カオス)から新しい秩序へ着地する」と述べている。というのも、この「木を植えましょう」という書物は、ご自身のお兄さん、またお連れ合いが病気になったとき、共に木を植えることで森がよみがえり、そのよみがえりをとおして環境が元気になることが自分も健康になる道、そうした実感を携えたという経験を綴ったものなのだ。こうして綴ると「宗教臭い」、それが転じて「胡散臭い」と呼ばれがちであるが、これでも僧侶の私としては、そんな一言で片付けられるのは本意ではない。

 今日は本との出会いをとおして以前の出会いを追体験したのであるが、実際に以前の仲間との再会もあった。以前、内蒙古の沙漠緑化に共に取り組んだ仲間が、今の仕事である農業の現場から干し柿を持って訪ねてきてくれたのである。昔話に花を咲かすと、われわれが行った沙漠緑化は「木を植える」のが中心ではなかったが、元の土地へとよみがえるようにとの願いを込めつつ、牧草の種を巻いてきたことを再確認した。正木さんにすれば、持続可能な世界は、真我性、アートマン性、仏性、如来性といった「霊性」によってこそ実現できるとされているが、あながちそうした感覚は自らの実体験を想起するなかで得られるのではないか、などと、出会いの追体験を通して考えた次第である。



木を植えましょう

第五章 ∞から○へ(スモール イズ ビューティフル)




 <縁起>とはぼくたちに見える現象世界の真理(リアリティ)である。

 前にティック・ナット・ハンの『ビーイング・ピース』から引用して語ったように、あらゆるもの・出来事が、それ単独で生起・存在することはなく、相互に依存しあい、縁によって生起し存在している、という真理のことである。仏教用語では<相依>(相互依存)と言い、ハン師はそれをInter-Being(相互存在)と英訳している。

 エコシステムは地球を覆っている薄い表皮のようであるが、それを広げて一枚の布と見るときに、<縁起>とは、ぼくたちがその結び目のひとつとして存在し、活動していることをさす。

 ところがふだんぼくたちは自意識に映っている誤った世界観のなかに生きているわけで、そこでは自他が自己中心的に分断されており、その妄想ゆえに破壊的な活動を犯しては、自ら苦しんでいる。苦しみから解放されるためには、人はエゴに染まった心を浄化し、飼い馴らさなければならない。そうしてはじめて自分が環境によって生かされているという真理を自覚し、自然への愛に目覚めることができる……というのが<縁起>の教えだ。



正木(2002) p.91





2007年1月15日月曜日

フィールドワーク:書を持って街へ出よう

 「恩師は偉大やね」と、僧侶の師が電話でおっしゃった。休みの日曜日の午後を、立命館大学びわこくさつキャンパスで過ごすと、自分の予定をお伝えした後のことばである。確かにそうかもしれない。ともかく今日、私は学部時代・博士前期課程時代の指導教員から声を掛けられ、立命館大学理工学部環境システム工学科「景観計画研究室」の公開発表会に参加してきた。

 出身の研究室の公開発表会という場に参加するのは2回目である。ちなみに私が学生だったころにはそうした機会はなかった。社会と大学が関わり合う(社学連携)、地域と大学が共に未来を創造する(地学協働)といった概念は、理念よりも実践が先立っていった時代だったからかもしれない。しかし、社学連携や地学協働という概念が大切にされている今、こうして成果を還元する場が丁寧に作られるべきなのだろう。

 実践的な研究を進めていく現場のことを「フィールド」と言い、フィールドで調査・研究を進めることを「フィールドワーク」と言う。そして、フィールドワークに取り組む人は「フィールドワーカー」と呼ばれる。今日はその「フィールドワーカー」の視点で、活き活きと現場を語ることの意義、またその方法について、できるだけ具体的にコメントをしてきたつもりである。ちなみにプレゼンテーションの効果的な方法にも話は及んだ。

 特に気になったのは、フィールドワーカーがフィールドに持ち込む内容や、フィールドワーカーがフィールドから持ち帰る内容に、あまりに貪欲でないということだ。研究と言うからには、何らかの発見がなされねば意味がない。しかもフィールドワークでは「確定した仮説」をただ「検証」するのではなく、調査・研究を進めるなかで「育つ仮説」を次第に「例証」していくのが流儀となる。だからこそ、現場に持ち込む抽象度の高いことばや、現場から持ち帰る歴史や文化にあふれたことばに貪欲になって欲しい。ちなみに今日の発表会に出て「里山」をもじった「里川」とそれに対して現場から寄せられた「カワト」ということばを獲得したのであるが、何よりこうしたことばに出会えるからこそ、休みであろうが恩師からの依頼であろうが、現場に出ることが楽しいのだ。



フィールドワーク:書を持って街に出よう

㈵ フィールドワークとは何か?(抜粋)




 フィールドワークというのは、とてつもなく非効率で無駄の多い仕事です。この点で、フィールドワークは野良仕事に似ています。

 畑に種をまいてから最後に収穫できるまでに長い時間がかかるように、調査地に入ってからそこに住む人々とコンタクトがとれ、ちゃんと口をきいてもらえるようになるまでは、気の遠くなるような時間がかかるかもしれません。まいた種の内のどれとどれがちゃんと育って豊かな実りをもたらしてくれるかは最後の最後まで分からないように、フィールドワークの場合も、現地の人々の内どの人が有用な情報をもたらしてくれる大切なインフォーマントになってくれるか、またそもそもその調査が見こみのあるものかどうか、調査が終わってみるまで分からないかもしれません。

 農業にも色々な方法がありますが、一回やってそれで終わりという「ワンショット・サーベイ」などとよばれる単発式のアンケートやインタビューによる調査は、たとえていえば、非常に性能のいい耕運機(時にはブルドーザー)で手っとり早く土を起こし、強力な化学肥料や農薬を大量にばらまいて収穫を得ようとする方法だといえます。これに対して、フィールドワークは、鋤や鍬を使って丹念にうねを起こし、手で種をまき、間引きをし、こまめに雑草を取り除きながらひたすら作物の成長をまつような、そんなタイプの野良仕事に似ています。当然のことながら、そこには相当の無駄がつきものです。



佐藤(1992) pp.32-33



<1992年版>





<2006年増補版>







2007年1月14日日曜日

死化粧:最期の看取り

 物事が上手く運ぶのは気持ち良い。風邪気味ということもあって、遅い朝の始まりではあったが、その後はマッサージ、眼鏡の引き取り、と、テンポ良く進んだ。残念ながら在庫切れにつき、最近自分自身の体調と同様に動作が芳しくない携帯電話の機種変更は叶わなかったが、それでもお店でカタログを入手することができた。そしてその後に向かったのが、京都テルサであった。

 今日は18時半から、京都テルサにて開催される京都府看護連盟第一支部の勉強会にて「エンゼルメイク」についての話題提供を行うこととなっていた。喉が本調子でないこともあって、人前で話すことにやや憂慮があった。キャンセルができないことはなかったが、むしろしてはいけない理由があった。それは、今回の講演が関西エンゼルメイク研究会の代表である鎌田智広さんとともに行うものであったためだ。

 1時間の持ち時間で、まず15分ほど鎌田さんが関西エンゼルメイク研究会の取り組み概要と、エンゼルメイクについての基本的な内容を説明された。その後、15分ほど、一部分だけではあったがエンゼルメイクを取り扱った演劇の公演をビデオにて観賞した。ちょうどエンゼルメイクの手順を説明した部分であり、演劇が最も盛り上がるところが選択されていた。ちなみに、この演劇は10月1日に應典院でも上演されているが、今回上映されたのは京都南病院での公演分であった。

 その後、私が「エンゼルメイクの意味・意義」と題して、グループ・ダイナミックスの観点から、エンゼルメイクに取り組むことが看護師と患者と家族の協働による新しい看取りと見送りの方法であるということについて20分ほど講演させていただいた。喉が悪いせいもあって、ゆっくり話さざるをえなかったのが、反対によかったかもしれない。ともかく、質問も多く出され、講演者は両名とも心地よく会場を後にした。その心地よさは2人だけの打ち上げ会場となったお店まで続き、おいしい料理をいただいて、それぞれの帰途についたのであった。





死化粧 最期の看取り(抜粋)




 死化粧(エンゼルメイク)とは、亡くなった方の最期の顔を大切なものと考えた上で、その人らしい容貌・装いに整えるケア全般のことです。現在、看取りの作業として捉え直し、その実践が始められています。具体的には、ご家族にとって看取りの一場面となるよう配慮しながら、時間とともに変化してゆくご遺体の特徴を踏まえて、顔の各部を清潔にしたり、失われた造作を整えたり、化粧をしたりなどすることです。亡くなった方の髪を洗い、ファンデーションや口紅を使って、ご家族の心の中にある元気なころの面影を取り戻します。

 病院で臨終を迎える人は一九五〇年代の初めには約一割でしたが、現在はおよそ九割となりました。この五十年あまりで、日本人が臨終を迎える場所は自宅から病院へと移ったわけです。それとともに、臨終直後の死化粧を含むご遺体の全身の整えは、ご家族・縁者の手を離れて看護職が受け持つようになり、医療界ではその行為を死後処置と呼んできました。

 以前看護師として病院に勤務していたとき、死後処置の中の死化粧(エンゼルメイク)はさまざまな背景により技術も捉え方も検討されておらず、粗末な化粧品を使い、短時間に看護師だけでささっと化粧を済ませて、せめてもの気持ちを表すといった程度の位置づけであることを心苦しく思いました。大事な顔、それもご家族・縁者にとって特別の意味を持つだろう最期の顔にかかわる行為なのにそれでいいのだろうか……と。そう感じたのは、子供のころ、自宅で亡くなった曾祖母を家族・縁者で囲んで「おばあさんは色白が自慢だったね」「化粧しない日も眉だけでは必ず丸くやさしい感じに描いていたね」「まだ少しあたたかいね」などと、あれこれ思い出話をしながら曾祖母の顔を拭き、化粧をして過ごした時間が、悲しいながらも和みのあるよい思い出として記憶に残っていたからかもしれません。



小林(2005) pp.7-8





2007年1月13日土曜日

コミュニティのグループ・ダイナミックス

 私の専門はグループ・ダイナミックスである。おそらく、多くの方にとって馴染みのないことばであろう。直訳して集団力学とも言い、集団(グループ)の全体的性質(ダイナミックス)に着目するという、社会の心理を取り扱う学問だ。カタカナで標記されていることから、最近盛んになってきた学問と思われそうだが、実は「日本グループ・ダイナミックス学会」は戦後まもなく創設され、既に年次研究大会は53回を数えるに至っている。

 グループ・ダイナミックスにもいくつか流儀がある。それらの流儀を大きく分けるならば「実験系」と「実践系」にまとめることができる。「実験系」は「こうしたらこうなった」「こうするとこうなる」といった「論理」を「実証」する研究とも言える。一方で「実践系」は「こうなるということはこうである」「こうであるからにはこうではないか」といった「社会」の「構成」に基づく研究とも言える。

 私はもっぱら「実践系」であり、グループ・ダイナミックスの祖「クルト・レヴィン」によることば「よい理論ほど実践的なものはない」という考えを愚直に実践している。社会人院生が多いこともあって、同志社大学総合政策科学研究科では、18時25分からの6限目と、20時35分からの7限目、それらの時間帯が主な講義時間となる。仕事の都合などで開始時間に遅れて来られる方もいるものの、終了時間は遙かに延長して皆で議論を重ねま重ねることもしばしばある。今日もその例外ではなく、23時近くまで議論は続き、更に2名の院生と私は、大学近くのお店で極めて遅い食事を取った。

 議論が長くなるのは、自分自身が関わり、日常的に浸っている雰囲気をいかに言語化するかに向き合っているためでもある。言語化と言っても、現場での発言を正確に文字化することを指しているのではなく、実践の意味を抽象化して整理することを指している。抽象的に語ることと曖昧に言葉をぼやかすことが時に混同されるが、両者は「論理的」と「理論的」くらい、似て非なるものがある。少なくとも「理論的に語る」というのは、過去の知見に学び、さらに現場から新たな知見を紡ぐという、「理論」を道具として活用して物事、出来事を整理することなのだ。





コミュニティのグループ・ダイナミックス

第1章 グループ・ダイナミックス

3 グループ・ダイナミックスの理論(抜粋) 





 グループ・ダイナミックスは、集合体の動態(集合流)をどのような理論でとらえるのか。もちろん、グループ・ダイナミックスの理論は、担当者と当事者による協同的実践のための理論でなければならない。

 ここで、集合体を、空気の流れ(気流)の中を飛んでいる飛行機にたとえてみよう。飛行機は集合体のたとえであるから、飛行機には集合体の環境も包含される。飛行機は、気流の中を飛んでいる。しかし、飛行機のなかのだれにも、飛行機を包み込んで動く気流の全体像を見ることはできない。それに、気流は無色透明。そもそも見ることはできない(実際は、気流に関する情報を管制塔から送られてくるが、それは考えないこととしよう)。

 しかし、飛行機のパイロットが、気流について何の手がかりもなしに飛行機を操縦しているのではない。多くの計器を見ながら、操縦している。また、乗客も、窓をつたい走る水滴を見ながら、気流について何かを知ることができる。

 集合体は、気流ならぬ、変化する規範の中にある−−これは、直接見ることはできない。しかし、他方では、集合体の人々には、変化する行為の場(人々や環境)が見える形で広がっている。集合体の動態(集合流)は、見える側面(観察できる側面)と見えない側面(観察できない側面のそれぞれから理論的に把握することが必要だ。

 見える側の理論はデシジョン・メーキング(decision-making)のための理論、見えない側面の理論はセンス・メーキング(sense-maikig)のための理論と言ってもよい。協同的実践は、意識的、無意識的なデジジョン・メーキング(意思決定)の連続だ。見えるものを徹底的に見抜いて、それらをどうするか、次の一歩を定めていく。そのためには、いかに見るべきかを教えてくれる理論が必要だ。

 一方、現在までを十分理解、納得すること−−センス・メーキング(腑に落ちること)−−も重要である。決して、後ろ向きの話ではない。過去から現在に関する「腑に落ちかた」は、将来に向かっていかに進むかを大きく左右する−−昨日まで何の気なしにとっていた行為が、実は障害者を傷つけていたと腑に落ちれば、明日からの行為は自ずと変化するだろう。「そうか、自分たちがやってきたこと、やっていることは、そういうことだったのか」と、目から鱗が落ちるようなセンス・メーキングをもたらす理論も必要だ。



杉万(2006) pp.44-45







2007年1月12日金曜日

キャリアの教科書

 新しい年がはじまって最初の出講日となった。今年度は後期の木曜日1限目には甲南女子大学(文学部多文化共生学科)で「NGO論B」という科目を担当している。それが終わると、立命館大学びわこくさつキャンパスに移動し、理工学部の環境システム工学科で「環境管理調査実習」という科目を担当している。前者は90分の座学であるが、後者は135分間の変則時間割で、地域調査なども含めた動学である。

 この時期になってくると、普段着で参加していた学生の一部がスーツ姿になっていることがある。就職活動が「終わっていない」という可能性もあるが、おおかた「徐々に始まった」学生たちである。スーツの着こなしなども、まだ板についていないのが、なんとも初々しい。目の前に広がる風景が変わると、やはり講義のなかで挟むことばや、また取り上げる事例も変わってくる。

 エンプロイアビリティ(emproyablity)ということばがある。雇用(emproy)と能力(ablility)の足し算で出来上がっていることばだ。ただし、このことばは、雇う側ではなく、雇われる側を範疇としたものである。要するに、自分自身が誰かから必要とされるかどうか、その価値の総体を表す、と言ってよい。

 今日の甲南女子大学の講義では「ベロタクシー」の取り組みを紹介した。代表の方が20代で始めた「おしゃれ」な自転車タクシーの取り組みには、弘意味で同世代の受講生たちに感銘を与えたようだ。立命館大学の講義では、自分自身も昔同じ学科(環境システム工学科)にいたという経験から、「地域計画とは何か」について、得意のたとえ話を用いて話をした。いずれにせよ、私自身が現場に関わっているからこそ伝えたい話が多いのだが、どうも現場に対して思いを馳せるところまで関心を向けられていないような気がしており、さしずめ「昔取ったきねづか」を披露するだけに止まってしまっているのではないかと、若干気になっているのであった。



キャリアの教科書

第3章 自己価値をつくりだす場所を得る(抜粋)




 現場での実体験がなければ、意見を求められても、コメントに迫力がこもらない。

 相手を「この人はわかっているな」と思わせることができるのは、現場で、自分自身が感覚器官のすべてを使って得た情報の裏付けがあるからである。

 自分に自信がもてるかどうかは、エンプロイアビリティの重要な要素になるというだけでなく、プロとしてあたりまえに仕事をするための絶対条件だ。

 自信の源になるのは資格でも学歴でもない。自分がした現場体験なのである。

 自分がやっていることのなかに、「自分がやりたいこと」につながる要素を見つけることができ、自分を磨いていくことができるなら、それは、かならずフィールドワークになる。



佐々木(2003)pp.81-82





2007年1月11日木曜日

ええねん

 2日連続で歯医者に通院で通ったのは、生まれて初めてかもしれない。高校時代までを過ごした静岡県磐田市では誕生日一日違いという同じ町内の親友が、家から1分のところにある歯科医の家であったのでよく遊びに行っていた。しかし、治療となると、連日行くと言うことはなかった。それでも、昨日の続きで本日も通院することになった。

 昨日、詰め物を詰めていただいた後、「点検」をしていただいたのであるが、カルテのようなものに情報を書き終えると「すんませんな、あと1日来てもらえるやろか?」と、変に腰を低く声が掛けられたのである。というのも、前歯の下に歯石がたまっているという。それをその場で削ったとしても、その磨きをかけるのにはあと1日必要とのことであった。ともかく、なかなか歯医者に行くのもおっくうなので、その場で歯石は削っていただいたのだが、「じゃあ次は?」という問いに、ほぼ半分冗談で「では明日」と言ったら「ほな、明日で」という答えが返ってきたのだ。

 そんなこんなで、今日、もう一度行って、手際よく歯を磨いていただいた。この歯医者さん、歯の中をデジカメの原理で簡単に撮影する機材をお持ちである。それを使って丁寧な説明を受けた。「ほら、磨いときましたし、ツルツルのピカピカ」と、小粋なことばを伺って、今回の治療は終了となった。

 本当にその他の歯に虫歯はなかったのか、少し気になっていたところ「次は連休明けくらいに来てくださいな」と声が掛かった。さしずめ定期点検をしましょう、ということであろう。後ほど、診察券の裏を見たら「5/10 木」と書かれていたのには笑ってしまった。そんな大阪らしい歯医者さん、自分も大阪人になってきたのか「そういえば、どうせ磨いてもらうんやったら、ご飯の後に行ったらよかったんちゃうか?」などという発想も湧いてしまったのであった。





ええねん




何もなくても ええねん

信じていれば ええねん

意味がなくても ええねん

何かを感じていれば ええねん

他に何もいらんねん

他に何もいらんねん

それでええねん



ウルフルズ(歌)・トータス松本(詞・曲) (2003)



<シングル>



<アルバム>





2007年1月10日水曜日

大阪ことば学

 歯医者に行ってきた。例の「小悪魔」に詰め物を奪われた事件から早いもので2日。連休が明けて、早速行ってきた。気は進まなかったが、タイミングを逃して悪化しては意味がないと、相当の決意を固めることにした。

 歯医者に行こうと決めた後で浮かんだ悩みは、行きつけの京都の歯医者にするか、それとも職場の近く、すなわち大阪の歯医者にするか、であった。結論から言うと大阪の歯医者を選択することにした。万が一長引いたとしても、時間に融通が利くためである。加えて、「主治歯科医」を変えてもいいかもしれない、と考えたのは、まもなくやってくる引っ越しのせいもあるのだが、それ以上に、同じ職場で働く方も治療に通っていたため「生の情報が手に入る」ことも大きかった。

 情報収集を経て、利便性が高いということを最大の武器に、予約の電話を入れたところ、それまでの憂慮からやや解放されたと同時に、少しの疑問が湧いた。それは、歯医者と言えば予約制という固定概念に縛られていた私に対して、「いつでも好きな時間に起こし下さい、予約制は取ってませんから」、との声が返ってきたためである。ちなみに電話番号の下4桁は「6480」だった。そう「虫歯ゼロ」であり、このあたりにこの歯医者の奥深さがありそうな気がした。

 電話の際に抱いた疑問は、待合室での極わずかな時間と、治療台に乗ってほどなく解消された。関東系の私であるが「何や、大阪の気のいいおっちゃんやないか」と思わず口に出そうになったのである。それは最初から最後まで貫かれており、まずもって外れた詰め物を差し出し、歯に合わせて少し思案するに「これ、そのまま仕えまっさ」と、簡単な治療の後にセメントで固める段取りを取り始めたのである。あまりに手際よく、その「おっちゃん」先生の段取りに身を置いておくと「何や、ようけ治してはりまんな」と全体を点検いただいた上で「下の歯の奥にある歯石、ほっとくと歯茎痛むし、とっといたほうがええねんけど、どうしましょ?」との声がかかり……うーん、この話は明日に続けることにしよう。





大阪ことば学 第7章 ぼちぼち行こか(抜粋)




 会話はことばのキャッチボールであるという比喩がある。相手のことばをしっかり受けとめて、それを今度はむこうへ投げ返す、それを交互にくり返すのが会話である、というような話が国語の教科書にあったが、これはいかにも東京風の会話であると、中学生のときに思った記憶がある。相手が演じようとしているキャラクター、もって行こうとしている会話の方向をすばやく察知して、先まわりしておいでおいでをしてやる、それが大阪の会話というものである。大阪人のこのような共同作業の積極性、あるいはお調子者ぶりを実験で証明してみせようとしたテレビ番組があった。 JR大阪駅の御堂筋口(旧東出口)前の横断歩道で、赤信号の前に、道路のこちら側にいる信号待ちの人が急にピッチャーの投球モーションの身振りを始めたら、道路のむこう側で同じく信号待ちしている人はどう反応するかという実験である。こちら側の背広の男が頭上に振りかぶったら、向こう側の背広の男がまるで催眠術にかかったかのように、自然に座り込んでキャッチャーの構えをとったのであった。やらせでないことはその後の映像から十分に確認できる。大阪人の共同作業のセンスというのは、これほどのものである。





尾上(1999) pp.108-109



<ハードカバー>





<文庫版>





2007年1月9日火曜日

質的研究入門

 成人の日でお休みの今日、日本NPO学会第9回大会の運営委員会が開催された。大阪商業大学で、である。なぜ大阪商業大学かというと、3月17日から18日に開催される大会の会場校のためだ。ICOCAもPiTaPaも使えない近鉄奈良線の「河内小阪」から徒歩5分少々の場所にある。

 私は運営委員として2つの企画を行うこととなっている。一つはワークショップで「ボランティア・NPOの実践と質的研究」というものだ。もう一つはエクスカーションで「なにわのまちの探検隊」というものである。ワークショップは何となく馴染みが深くなってきたことばかもしれないが、エクスカーションとは何のこっちゃ、という方に簡単に説明すると、要は「遠足」である。

 中でも、「ボランティア・NPOの実践と質的研究」は、現場に出て行くことで研究者は何となく社会の役に立てている、といった「変な誤解」を解いていくために、意義深い機会だと認識している。というのも、今回の日本NPO学会はテーマの一つに「理論と実践の架橋」がある。そのテーマに向き合う方策として、このワークショップの実施が挙げられ、さらに企画者は私、となった。せっかく頂戴したチャンスを最大限に活かすには、ここまで培ってきた人脈を、ということで、大阪大学時代に紡ぎ上げたネットワークを最大限に活用させていただくことにした。

 もちろん、「質的研究」を取り上げる上では、「質的研究ではないもの」への関心も忘れてはならない。よく「質」と対置の関係にあるのは「量」とされるが、いずれにせよ、研究の素材(素材)として、何をどのように扱うかを丁寧に考えなければならない、という点では共通する。そういえば、その昔、理科で習った「質量」という考え方は「重力」生み出す元という概念だったことに着想を得れば、「研究」の重さを生み出す要素として「質」も「量」も大事だ、というような「つかみ」か「オチ」が使えそうな気がする…。ともあれ、知る人が見れば「内輪で固めた」ワークショップとなるのだが、それでも「現場で取り組んでいることをいかにして研究に仕上げていけばいいのか」に悩んでいる方にとっては、最高のワークショップにしたいと考えている。





質的研究入門:<人間の科学>のための方法論




社会が急速に変化し、その結果、生活世界が多様化することによって、心や社会を扱う研究者の前には、これまでにないような新しい社会の文脈や視野が現れてきている。こうした状況においては、これまで研究者たちが当たり前のように用いてきた演繹的手法(既存の理論モデルから研究の設問と仮説を導き出して、それらを実証的データと比較し検証する)は、研究対象の多様性に充分対応できなくなってきている。このときに取り得る別の道は、帰納的な研究の戦略である。つまり社会の中の現象にアプローチするために、厳密に定義された既存の概念と理論から出発する代わりに、問題を大まかに示すだけの「感受概念」を出発点とするのである。だからといってこの感受概念が先行の理論的知識とはまったく関係がないとは言えない。このとき質的研究に何が独自なのかというと、量的・演繹的方法を用いる場合と逆に、実証的データから新たに理論が作られるという点である。そしてこの場合、知と行為はあくまで地域的(ローカル)なものとみなされるのである(Geertz 1983)。



Flick(1995) 小田・山本・春日・宮地(訳)pp.4-5





2007年1月8日月曜日

Hello, Again

 眼鏡を新調した。しかし、近視と乱視が入り混じる私の目に合うレンズは、店頭の在庫分にはない。1週間後に出来上がるそうだ。少し、というか、かなり楽しみである。

 モノにこだわりがあることは自他共に認めるところであるので、ウェブ等でのハンドルネームを「モノフェチ語りスト」とした。例示すれば雑誌「DIME」(小学館)が好きな人は、たいてい「モノフェチ」である。そしてモノについて語る「モノ語り」が得意だ。そんな人たちが内に隠る(こもる)のではなく、何かと何かを媒介し、とりわけ社会の問題解決を促進すれば、という思いから「カタリスト(catalyst:触媒)」ということばを埋め込んだ。

 新京極蛸薬師にある行きつけの眼鏡店に行きながら、ある歌を口づさんでいた。ちなみに、雪に始まった今日の京都は、やがて雨に変わっていた。クリスマスの時期なら山下達郎の「クリスマスイブ」が想い起こされるのだろうが、さすがに時期はずれだ。前置きが長くなったが、口ずさんだのはMy Little Loverの「Hello, Again」であった。

 歌は自分にとってもっとも印象深い思い出を引き起こす手がかりとなる。とりわけ、今回口ずさんだ「Hello, Again」は、ちょうど雨音のしっとりした感じと重なるようにスローなテンポとなり、それはまるでVHSでしか手に入らない上に最早絶版(私はYahoo!オークションで手に入れた)の、1997年11月20日に行われたリキッドルームでのライブ音源に似た感じだったかもしれない。ちなみに「Hello, Again」、このことばは1997年にiMac(ボンダイブルー)が登場した時のキャッチコピーでもあり、なんだかんだだでモノフェチが語るには余りあることばであることを付記しておこう。



Hello, Again〜昔からある場所〜(抜粋)




雨はこの街に降り注ぐ

少しのリグレットと罪を包み込んで

泣かないことを誓ったまま時は過ぎ

痛む心に気が付かずに

僕は一人になった





MY LITTLE LOVER(歌)・KATE(詞)・藤井謙二・小林武史(曲)(1995)















2007年1月7日日曜日

大都会の追跡/ボスひとり行く

 詰め物が取れた。ちょうど、所属が変わったことを存じていただいていない方が、前の職場になる「大学コンソーシアム京都」に送られた年賀状を取りに行ったときのことである。懐かしいお顔も拝見したので、何人かとおしゃべり…。事件はその後に起こった。

「小悪魔」なるグミキャンディーが敵となった。親切にも頂戴した「ピーチローズ味」のグミキャンディーが、私の歯の詰め物を奪い取っていった。何とも、無念である。

 詰め物が取れたということは、今後1ヶ月程度、歯医者に通わなければならないということを意味する。12月までの多忙さから、やや解放された感はあるが、それでも、定期的に通院する時間を取ることは簡単ではない。しかも、これまで掛かり付けていた歯医者は京都である。大阪にも職場がある今、歯医者を変えるかどうかの選択肢も突きつけられた。

 にしても、よりによって「小悪魔」というグミキャンディーで詰め物が外れるとは、できすぎた話だ。外れた詰め物とグミキャンディーの包装を持ち帰りつつ、いてもたってもいられない思いを、2つにぶつけることにした。一つは程なく去ることが(これまた今日)確認された自宅近くの「キッチンゴン」で夜の店頭のみのメニュー、ガーリックピネライスを食することであった。そしてもう一つが「太陽にほえろ!」といった、往年のドラマの鑑賞であり、スーパーながら族として、電子メールの返信をしながら、画面を横目にしているのであった。



20070106-1.jpg








第63話「大都会の追跡」




山さん「ジーパン」

ジーパン「は」

山さん「お前たちみたいな若い奴の5年と、中年になってしまった男の5年とは長さが違うんだよ。」

ジーパン「……」

山さん「青春を過ぎた男にとって、一度惚れた女は早々忘れられるものじゃないんだ。」









第96話「ボスひとり行く」




山さん「行くんですか?いっしょに、私がいきましょうか?」

ボス「山さん、刑事(デカ)にボディーガードはいらんよ。」



太陽にほえろ!4800シリーズ Vol.51「ボス捜査編」(1996)







2007年1月6日土曜日

地球の未来は明るい

 「まあ、なんとかなりますよ。」よく、問題に直面しているときに、問題の渦中にいる人が放つことばの一つだ。言うまでもなく、「なんとかなる」と楽観視するのではなく「なんとかする」という意思が必要だ。もっとも、意思がなくても、意思を持つ誰かが出す打開策を選択するということもありうる。

 「そんなの、無理ですよ。」例え、誰かがその問題に思いを寄せて、よりよい状態に思いを馳せて紡ぎ出した考えたとしても、その考えに思いを寄せて、よりよい未来を想像できなければ、その選択肢が採用されるはずはない。そもそも「無理」とは道理に反し、物事の筋が通らないこと、である。それを強引に「無理」と決めつけることが、既に「無理」なことを強いているのではないか。

 「でも、できないと思います。」もちろん、何をどう考えようが、自由である。しかし「でも」は前節の全否定とも言えるし、さらに言えば、「思う」のは勝手でいいが「考える」ことをやめてしまっては、いつまで経っても「私」の世界から「われわれ」の世界への広がりは見いだされないだろう。では、どうしたらいいのか…。

 今、いや正確に言うと今日、私は私の職場の未来をどうしていくのがいいのか、という問題を突きつけられた。もっと精確に言うと「われわれ」はどうしていくべきか、という「解答案」のない問題集を解き始めることになった。10周年を迎える應典院(http://www.outenin.com)における住職の年頭所感が、その引き金を引いた。ふと、「地球の未来は明るい」という書物を思いだし、「心の罠」にとらわれぬよう、心に留めていきたいと「思った」次第である。





7つの心の罠にご用心!




 問題の巨大さを目の当たりにすると、「心の罠」に陥る。明るい地球の未来のために元気に行動しようと思ったら、こいつを避けなければならない。では、「心の罠」を列挙し、その対処法も示すことにしよう。



1 誰かがどうしたらいいのか知っている(誰かが問題を解決してくれる)。

 残念だが、その「誰か」さんは、どうしてよいのか分からない。解決法など知らないし、解決したいとも思っていない。



2 自分1人ががんばっても、ほかのみんなは何もしないだろう。

 この考えが間違っていることは証明できないが、これだけは言える……これは自己実現型の予言である。そう思っていれば、必ずそうなる。しかし、この世界に対する責任は、私たち1人ひとりがとらなければならない。



3 状況全体が見通せないうちは、最初の一歩を踏み出せない。

 新しい道を知るには、何歩か踏み入ってみるにかぎる。失敗を恐れるなかれ。体験し、学ぶことだ。



4 どれも長期的な問題ばかりだ。とりあえず、目先の問題から取りかかろう。

 1年たっても、長期的問題はやはり長期的問題のままである。しかし、長期的問題にはできるだけ早く取り組むほうが、解決は簡単で安上がりでもある。



5 どうあがいたところで破局はやってくる。あれこれ考えるのはよそう。

 誰もが無為無策でいるときにのみ破局は訪れる。多様な人々からなる多元的な社会では、たとえ少数でも、破局に直面したときに変革に求めて立ち上がる人々が現れるものだ。その少数者になろう。



6 心配無用。テクノロジーと市場経済が、すべてうまくやってくれる。

 これは、「金づちが家を建ててくれる」といっているようなものだ。市場経済やテクノロジーは、私たちの社会の道具にすぎない。私たちの価値観や願い、資源やその制約が、テクノロジーをかたちづくるのである。テクノロジーをコントロールすることこそ、私たちの責任である。



7 私に何もかも全部できるわけがない。だから、何もしない。

 覚悟を決め、多少の時間とお金を捧げ、影響力を行使すること  これこそが君ができることだ。どんな小さなことでもいいから、継続できることに着手すること。そのうち手際よく多くのことをこなせるようになったら、取り組みのレベルを高めればいい。



ホレンダーとグループ環(1995) p.66









2007年1月4日木曜日

タオ:老子

 卒業論文を書いていた頃、指導をいただいた先生から「岩波新書は一晩で読め」といった助言をいただいた。あれからもう10年前になる。この助言は本に学ぶことは好きでも、本を読むことは得意ではなかったのもあって、強く印象に残った。その後、いくつか原稿を書く機会を得て、私が指導をすることも増えてきた今、何となく本に学ぶ方法、本を読む方法がわかってきたような気がしている。

 当たり前のことからもしれないが、本に学ぶ、あるいは本を読むのは「無知の知」に浸るというだと私は認識している。もちろん、こうした「教え」こそ先達に学ぶところである。折しも、「会話を楽しむ」の著者が記した老子の書物を、母が差し出してきた。「タオ:老子」と題されたその書物は、磐田市立図書館で借りられたもので、老子の「道徳経」について「思想とイメージの大渦のそこに潜り」その後に「大きな渦を岸から眺めおろし」て、現代的な訳を付けたものである。



「私の言うことを聞いて、多くの人は馬鹿くさいホラ話だと笑う」−こう「老子」は言っているが、それはその多くの人が頭だけで知ろうとしたからのことだ。「老子」を分かるには頭で取りいれることも必要だが、まず胸で、腹で、さらには全身で感応することで、はじめて「老子」の声が聞こえてくる。そして、彼のメッセージを体得できるのだ。

 こう言うだけでもう私の言葉は理屈の筋にはいっている。頭での解釈がはじまっている。それで理屈で分かってもらう前に、本文のどれか一章にでも接してもらうよう願っておくのだ。先に頭でだけ解しはじめると、本当の共感が湧くのを邪魔するかもしれない。




加島(2000) pp.227-228




 「タオ:老子」と名付けられた書物は、老子の「道徳経」第一章〔体堂〕の口語訳から始まるのであるが、あとがきには「ともかくどこからでも読め」と記されている。迷ったときにはゴールから辿るのが迷路を後略する常套手段だが、最早タオイズムを学ぶ上では、そうした方法は棄却されてしまっている。教えを説く上での教えに従い、読み進めてみたところ、なるほど、その所作を求めることに合点がいった気がする。文末に、最も「ストン」と落ちた章を引用して、今日の学びの痕跡を残すことにしよう。

 元旦から過ごした実家生活を終え、今日、私は自宅へと戻る。仕事と健康の兼ね合いから、今年は自宅の場所も変わりそうだ。この正月、6年前、くも膜下出血でなくなった祖母の7回忌が今年であったことを思い出した。何かの機会がないと戻ってこなくなってしまったことを鑑みると、次に実家に来るのは法事の場となるだろう。





(老子「道徳経」) 第11章 「空っぽ」こそ役に立つ




遊園地の

大きな観覧車を想像してくれたまえ。

沢山のスポークが

輪の中心の轂(こしき)から出散るが

この中心の轂は空っぽだ。だからそれは

数々のスポークを受けとめ、

大きな観覧車を動かす軸になっている。



粘土をこねくって

ひとつの器をつくるんだが、

器は、かならず

中がくられて空(うつろ)になっている。

この空(うつろ)の部分があってはじめて

器は役に立つ。

中がつまっていたら

何の役にも立ちやしない。



同じように、

どの家にも部屋があって

その部屋は、うつろな空間だ。

もし部屋が空でなくて

ぎっしりつまっていたら

まるっきり使いものにならん。

うつろで空いていること、

それが家の有用性なのだ。



これで分かるように

私たちは物が役立つと思うけれど

じつは物の内側の、

何もない虚(きょ)のスペースこそ、

本当に役に立っているのだ。



第一一章〔無用〕三十輻、共一轂。当其無有、車之用也。挺埴以為器。当其無有、埴器之用也。鑿戸?以為室。当其無有、室之用也。故有之以為利、無之以為用。

(*はunicode7256)




無之以為用。And by the non-exsistance of things we are served.



加島(2000)pp.28-30.



【引用者注:英語訳はThe Wisdom of Lao Tse by Lin Yu-tang(林語堂)、1943による】



<ハードカバー>





<文庫版>







会話を楽しむ

 母親が「会話を楽しむ」という岩波新書を差し出した。こうして差し出されることに、何らかの意味を見いだしてしまう癖がある。無思索を巡らせばきりがないが、一つ、明確に言えるのは「考えすぎて話をしていると、会話にならない」という諭しではなかったかとの推察を、差し出された意味として採用することにした。というのも、こうして綴っているBlogの文章も、一般には「堅い」と思われるかもしれないが、私自身、日常的に緻密な論理構成のもと、まるで「テープ起こしをしても文意が通るように」発話をするよう心がけているためである。

 実際、話をするのは好きだが、会話を楽しんでいるかと問われると、自信を持って「はい」と答えることはできない。果たして自分の発話が、内容やタイミング、そしてその伝え方、さらには人柄をもって、きちんと相手にも楽しんでいただけているだろうか。もっとも、そんな風に考えて考えてしゃべりすぎては、相手が会話を楽しむ可能性を収奪してしまう。無論、考えることと考えすぎることは、似ているようで大違いである。

 会話ということばを英語に置き換えるならconversationとなるそうだ。もちろん、精密にことばを選んでいけば、discussion(議論)やdialogue(対話)など、会話にまつわることばを挙げれば枚挙にいとまがない。しかし、この書物「会話を楽しむ」では、conversation(会話)に類することばとしてtalk(話)を引き合いに出し、こちらは会話に比べると「考え(thought)」がないと位置づけて、楽しむ会話とは何かを論じている。一気呵成に読み上げた岩波新書には、多くの言説が引用句辞典から挿入されているのだが、「考えのない話」こそ退屈な場を構成する要素になるとの考えが欧米では体制派を占めているという。

 正直に打ち明けると、この文章は実家から少し離れたショッピングセンターにある喫茶店で綴っている。少し苦手な親類が年頭のあいさつでやってきたのだが、そこで繰り広げられる会話の場から逃げ出してきたのだ。ただ、こうして文章を綴ることで、自分自身との会話はできていると思う。実際、私がキーボードを叩くことによって画面に出てくる文字を、私は楽しんで見つめ、次々とキーを叩き続けているのだから。



会話を楽しむ(抜粋)




 言い争うargueということば会話の一部分で起こるかもしれないが、会話全体が言い争いならそれは会話ではない。

 なぜなら言い争いは相手の感情や知性を押さえつけようとするからだ。そして自分の感情や論理をもって相手に勝とうとする。そこには興味深い話題やユーモアが動かない。無神経に喋りまくるのだから、会話よりもやさしい。それで「言い争い」は多くの人がやれる。

 私たちの日常にあてはめて考えても諸例が思いうかぶ。ある人たちは自分の体面や地位にこだわって、すぐ感情的な言葉づかいになる。ある人は自分の知力を見せびらかして、ひたすら相手を言い負かそうとする。日本では妻が時おりこう言ってこぼす−−

 「うちの主人とは、まるで話ができないわ。なにか言うとすぐ生意気言うなでしょ」

 これは中年過ぎの夫婦にみられることであり、もっと若い年齢層では、夫婦はもっと自由に口をきいているであろうが、いずれにしよろ「話」の以前に口喧嘩調となるのは「子供っぽい(チャイルディッシュ)」のだ。

 社会ではどんなに偉そうに振る舞う人でも、家庭で妻にむかって威張るばかりの人はチャイルディッシュであり、学者だろうと社長だろうと、口争いや口論ばかりして「会話」のできない人は、「会話」のスタンダードから見ればガキにすぎない。



加島(1991) pp.50-51









 

2007年1月3日水曜日

無常という事

 キリスト教と仏教とを比較して考えるようになったのは、ひょんなことから僧侶になった2006年からであろう。それまで大学関係で働いてきた私は、社会人院生として通っていた大学院で現場に出て研究を重ねるうち、ある僧侶とある寺院、そしてある宗派と出会い、深く関わるようになった。逆の順で表現するなら、浄土宗大蓮寺・應典院の秋田光彦住職と出会い、深く関わるようになった。その馴れ初め等、私が仏教に、浄土宗に、またお寺に関わっていくことになる経緯と経過については、檀家のいないお寺「應典院」を動かしていくNPO(法人格は得ておらず任意団体)「應典院寺町倶楽部」のニューズレター「サリュ」の48号にまとめている。

 キリスト教はよく形而上学的思考、さらに言えば「二元論」をもって世界を捉えているという。善か悪、罪と罰、そういった「AかB」「AとB」といった概念を提示するなかで、現象として目の前に顕れる物事・出来事の意味を解釈していく、という思考方法だ。もともと仏教に興味がなかったわけでもない私は、こうした「AかB」、あるいは「AとB」といった考えよりも、「Aでないものは何か」と考える方が腑に落ちる。例えば、「男と女」という二項を置いて、そのいずれかに当てはめていくといった考え方ではなく、「男」ではないものは何かを考えることによって、「男」とは何かを考えていく、という具合で、物事の意味を決めていく(これを、同定と言う)のである。

 もともと言葉遊びが好きだ。もちろん、駄洒落好きと言えば、それまでの話である。そろそろ若者による「オヤジギャグ」とは認識されず、「オヤジ」がしゃべるギャグとして、周りが困るであろう年齢にもなってきた。ともあれ、ふとした時にギャグが口をついて出てくるのは、Macの黎明期に「ことえり」という日本語変換を使用せざるを得なかったところから来ているように思う。ATOK8が出た時には、その変換の賢さに言葉を失ったような記憶があるが、それでも、時折使う「ことえり」のアホさ加減は「いらだち」よりも「楽しみ」を覚えていたように思う。

 キリスト教と仏教を比較するなかで、「同音異句」として意味の違いを楽しんでいることばとして「むじょう」がある。キリスト教で無情と言えば、「人情が感じられない」という意味、つまり「薄情」と言ったように否定的な意味を持つが、仏教で「無常」と言えば、この世の万物はすべて生滅流転して儚いというように、単に否定的な意味合いだけを指すものではない。私はこの「無常観」という考えが好きだ。この世に起こった物事・出来事は、ある固定された意味が保存され続ける(memory)のではなく、すべての関係が微妙に変化するなかで、「あの日あそこで起こったあのこと」に思いを馳せ続ける(remembering)ことで、よりよい明日が生まれていくと考えた方が、今を生きる喜びに浸ることができるのではないか、そんな風に感じてやまないのである。



無常という事(抜粋)




 歴史には死人だけしか現れて来ない。従って退っ引きならぬ人間の相しか現れぬし、動じない美しい形しか現れぬ。思い出となれば、みんな美しく見えるとよく言うが、その意味をみんなが間違えている。僕等が過去を飾りがちなのではない。過去の方で僕等によけいな思いをさせないだけなのである。思い出が、僕等を一種の動物である事から救うのだ。記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう。多くの歴史家が、一種の動物に止まるのは、頭を記憶で一杯にしているので、心を虚しくして思い出す事が出来ないからではあるまいか。



小林(1961=1942) pp.75-76







2007年1月2日火曜日

自然渋滞

 一年の計は元旦にあり、という。出来なかったことを悔い、改めていく上ではよい機会である。フジテレビ系「ひょうきん族」の影響か、「懺悔(さんげ)」と言うとキリスト教の専売特許のように思えるが、仏教にも「懺悔(さんげ)」ということばがある。「散華(さんげ)」と言うと、供養のために花を散らすこと、あるいは戦死を遂げること、といった意味があるが、昨年は情報発信が滞っていたことを悔い、改めねばならない、と堅い決意を抱いたところである。

 そこで、Blogを復活させてみようと思う。もちろん、思うだけではなく、こうして既に綴り始めている。以前は「です・ます」調で綴っていた文体も、「だ・である」調にすることにした。要するに、論文モードでの執筆である。このBlogはmixiにもつながっているから、あまり堅い文体が望まれていないかもしれない。しかし、とにかく私語りを続けていくことに決めた。

 復活にあたって、2005年の「一日一枚写真日記」の形態は改め、写真ならぬ書物を扱うことによって、日記のリレーを続けていくことにした。というのも、デジタルカメラの便利さにかまけて、つい、更新が遅れがちとなり、結果としてバトンが渡されなくなってしまったことを「学習」したためである。実際、デジタルカメラには、日付の情報が残る上、ある風景を切り取るゆえに特定の場面の思い出が遺る。よって、後になってもそれらの画像をもとにその日を想起することができると甘い考えを持っていた。無論、これは間違ってはいなかったが、2006年4月に着任した應典院(http://www.outenin.com)のスタッフBlogも、同じ考えで着手し、ともに「いつでもできる」という安心感で更新が滞るという失敗に見舞われた。

 そんななか再会のきっかけとして選んだのが、一日一冊を取り上げて文章を綴っていくというものである。この着想は、松岡正剛さんの「千夜千冊」から得ているが、丸ごと「違法コピー」、すなわち「パクリ」ではないと信じている。正月を実家で過ごし、思わず実家の本棚に目を掛けて留まった書物を人にも紹介してみよう、という衝動から来ている。言うまでもなく、自分自身にとっての自戒の念も込められており、2006年10月に着任した同志社大学で成果を出し続けるために、仕事の「自然渋滞」を解消していく上でのリズムづくりという意味もあるのだ。



自然渋滞




道路交通情報の用語に「自然渋滞」というのがあり

時にこれが「自然の渋滞」

あるいは「自然の混雑」となる

助詞「の」は「が」と読み替えることもできるので

私はこれを「自然が渋滞し混雑している」情報として機器

自然運行の過密と多忙を偲び

同時に、日本人独自の自然観、気質、言語活性化能力として聞く

車の渋滞は人為的調整能力を超えたこと

ジタバタしても始まらぬこと

諦めて慣れるより仕方のないこと



つまりは

人間の手に負えないから

これを「自然」に格上げしようよ

そういう了解が関係者の間で自然に生まれたのだ

<ゲーテとは俺のことかとギョエテ言ひ>

に倣って言えば

<自然渋滞は俺の身内かと自然言い>

ということになろうか



(吉野, 1989:pp. 46-47)







2006年2月19日日曜日

20060219国際ボランティア学会発表

山口 洋典・渥美 公秀(2006年2月19日) 沙漠緑化活動のアフォーダンス:中国内蒙古自治区白二爺砂丘の7年 国際ボランティア学会第7回大会 文教大学(埼玉県越谷市) (口演、発表予稿原稿)

沙漠緑化活動のアフォーダンス:中国内蒙古自治区自二爺砂丘の7年

山口洋典(財団法人大学コンソーシアム京都)
渥美公秀(大阪大学コミュニケーションデザイン・センター)

 沙漠緑化活動は外部参入者と共に取り組まれる協働的実践である。この間、われわれ(山口ら, 2003)はエコツアー参加者と現地スタッフとの協働的実践の動態に着目してきた。今回、沙漠緑化の完了を迎えつつある中、アフォーダンスという概念から活動の意義を探る。

1.ローカルな関心で臨むローカルな実践としての沙漠緑化
 エコツアーはグローバルな枠組みで捉えられがちであるが、その参加者はあるローカルな環境に身を置いているにすぎない。そして、参加者は何かを学びに生き、何かを学んだとして再び日常生活に戻ってくる。環境教育の見地では、これを「環境を通しての教育」と位置づけている。しかし、(地球)環境問題が深刻化している今、「環境のための教育」(Fien, 1991)の必要性が示されている。
 とりわけ、物事への関心の「感覚化」が進む現代の若者たちは、状況的関心によって、物事への実感(リアリティ)を求めて物事、出来事に触れていく(中村, 1997:山口ら, 2003)。よって、エコツアーの企画側の演出の如何が、参加者の物事への関わりの度合い(いわゆる「ノリ」)を左右する。言うまでもなく、事前、実施中、事後と、すべての過程で演出が必要とされる。
 一方、自らが立てた問いを解明するために体系的な関係性を重視する参加者もいる。こうした参加者は社会人に多く、一定の経験を積んでおり、物事への精確な理解を求めて物事、出来事に触れていく。われわれ(山口ら, 2003)は、こうした構造的な関心でエコツアーに参加する社会人よりも、「ある時間的、空間的状況において自らの身の置き所を感覚的に位置づけ、集団における共同性を重視する」学生ボランティアたちを中心に、沙漠緑化の協働的実践に携わってきた。
  本発表は、中国内蒙古自治区の沙漠緑化に、「生真面目さ」よりも「好奇心」旺盛に関わってきた学生ボランティアたちと、現場スタッフと、さらには外部参入者としての研究者らの協働的実践が、いかにして沙漠緑化の完了を導いてきたかを、アフォーダンス(例えば、後藤ら, 2004)の観点から探る。そして、「環境のための教育」があるローカルな実践の現場での問題解決に資するべき、という観点から、状況的な関心で物事、出来事に携わる学生が問題解決に貢献できるにはどうすべきかについて、実践的な提言を行う。

2.7年の経過
(1)沙漠緑化プロジェクトの概要
 われわれが研究の対象とする沙漠緑化プロジェクトは、内蒙古自治区ホリンゴル県の南部に位置する自二爺(バイアールイエ)沙丘内の2000aの流動砂丘地帯で行われているものである。バイアールイエ沙丘は、区都である呼和浩特(フフホト)から約80km西の、黄河中流域の黄土丘陵地帯に属している。海抜1100〜1400mに位置し、ホリンゴル県内で風水害による土壌流出や沙漠化の被害が最も深刻な地域である。元来、バイアールイエ沙丘周辺部は牧草地であったが、現在は土壌流出にさらされている面積は8000haに至っている。最も沙漠緑化が進行した際には、8000haのうち5700haが流動砂丘と半流動砂丘となっていた。これらの状況が導かれたのは近年の無秩序な農業開発と過放牧によるとされている。本プロジェクトはそれらの地域を緑地化し、持続可能な循環型農牧業を開発、定着させるために地元集落を支援することが目的である。なお、当該地域に日本人が関わっていく経緯等は山口ら(2003)に示した。

(2)終結しえないプロジェクトとしての沙漠緑化
 現地においては中国共産党のホリンゴル県委員会と県の人民政府が1982年より緑化活動を開始している。われわれが参与観察を行ってきた団体(エコスタイル・ネット)は、こうした現地の取り組みと協力しながら、流動砂丘の緑化に取り組んできた。事実、日本人スタッフと現地スタッフとともに、7年のあいだに防風林としてポプラを6万本、柳を5万本植樹し、牧草の種子3tを播種してきた。この結果、全体の1/3程度の面積(約700ha)で、流動砂丘がほぼ完全に固定化され、多くの草花や木が砂地を被覆するまでになっている。
 緑化活動に携わった人々の中には、一旦緑化された地域を放牧地に戻すのではなく、そのまま緑化「された」地として保存を望む場合もあるこれは沙漠として現前する土地を緑化することに関心が集中するためである。しかし、現地の人々は戻った土地の活用を望む。そこで、日本から現地に参入した「よそ者」のスタッフは、現地の生活者との対話をとおして、過放牧によって沙漠へと導かれた土地を、いかにして維持、発展させていくことができるかという視点を投げかけてきた。具体的には、現地住民と共に、「入会地」(コモンズ)の展開を試みてきているのである。

(3)保存から保全のダイナミックス
 7年間の実践を経て、近年現地に行くエコツアーの参加者は現地を見ると「これが沙漠?」と驚く。エコツアー参加者は、訪問時に現地にて実際に行われている緑化作業と同じ内容を体験する。緑化の初期(2〜3年)は防風林をつくるためにポプラを上、その後(2〜3年)は値の張りやすい柳を植え、現在(2年程度)はマメ科の植物の種を蒔いている。再び参加者たちは、沙打旺(サダワン)と楊柴(ヤンツァイ)、檸条(ニンテャオ)などの種を砂地の地面に(ただ)蒔くという作業に「それで沙漠が緑化されるのか」という疑問を抱く。しかし、これが1998年から続けてきた沙漠緑化活動のリレーの賜物である。緑化をするために意気込んで参加した方であれば、「これが沙漠?」と感じるくらい、現場では着実な成果が出ている。こうして緑化されてきた土地をそのままに保存するのではなく、どう活用していくかの保全の視点が要請される。

3.沙漠緑化活動とアフォーダンス
(1)沙漠緑化を推進せしめるもの
 こうして、沙漠緑化活動を推進せしめたものは何か。最も大きいのは、沙漠ではなかった土地が沙漠になったという視角で認識される事実であろう。ただし、そうした状況を打開するために、中国政府、さらには日本からの外部参入者が現地住民となって関わったことが大きいのではないか。このことは、鳥取県智頭町の地域活性化の事例(例えば、岡田ら, 2000)で示された「ハビタント」による知の流入がもたらす影響からも明らかである。
 沙漠緑化を推進せしめる最も大きなことは、外部参入者が現地住民になっていくことによって、「ほっとけない」当事者意識である。山口ら(2003)では、共著のひとりとして現地住民でありスタッフが参加しているが、自らが現場に入っていった経験を踏まえて、いかにして国際ボランティア(ここでは、異国の地からわざわざ訪れる学生)が満足し、現地の人々も心地よくその風景にふれることができるかが語られている。エコツアーの参加者も、また現地住民となって沙漠緑化に取り組む人々も、「ノリ」よく活動に関わっていく背景には、見知らぬ地で、匿名性の高かった自分自身が何らかの役割を果たしたという実感によるところであろう。このことを、「アフォーダンス」の視点から見てみることにしよう。

(2)アフォーダンス
 「アフォーダンス」とは、Gibson(1979)が提唱した概念で、行為者とモノのとの間の行為に関する絶対的な関係を指す。日本で多くの書物を著している佐々木正人は、は、後藤ら(2004)の著作で、ミーディアム(媒質)、サブスタンス(物質)、サーフェイス(表面)といった環境を行使する要素について平明な解説を行いながら、「異種混合体」が存在することで、環境に表出される「肌理
(texture)」の構造が発見されると述べている。マクドナルドという空間(ここでは媒質)は、ゆっくり食事をし、会話を楽しもうとする人にとっては適切な環境ではない。椅子(固い)、音楽(うるさい)、などといった肌理の構造が、目的達成をアフォードする(便宜を与える)ことはないためだ。「青フォーダンス」とは「肌理の構造」であると捉えてみると、プロジェクト型による問題解決の実践においては、ある状況に身を置く人を想定した「行為と相即するデザイン」(後藤ら, 2004)がなされるかどうかが、結果を左右すると言える。何かに取り組む上で、その人がその行為に「はまる」(後藤ら, 2004)か否か、それはある物事、出来事に関わる意味を自らが創出しうるかどうかにかかってくる。プロジェクトの事務局には、こうした「はまる」ための制度設計と雰囲気づくりが求められる。無論、エコツアー参加者や現地住民が満足するためには事務局だけがデザイン(ここでは、作業内容の組み立て等)に取り組むのではなく、その場にいる人たちの集団的即興ゲーム(渥美, 2001)がなされる必要がある。

4.沙漠緑化活動のアフォーダンス
(1)相互に行われる顕彰(recognition)
 7年間の活動で沙漠地の緑化が導かれたのは、「肌理」の細かい取り組みが誘発される環境が導かれたことによる。特に、現場において相互に顕彰しあう習慣が生まれたことは、プロジェクトに「はまる」多くの人々を生み出してきた。プロジェクトの開始当初は未解放区であった土地に、エコツアーと称して訪れる日本人は約200名にのぼる。そのうちリピーターが30名程度いることは、現場に貢献したいという自発性が喚起されたことによるだろう。こうした、「いてもたってもいられない」という、ボランティア語源に沿った行為は、2004年夏には、現地住民から日本人スタッフへの感謝の意を表した記念品と記念碑の贈与という形でも見出されている。言うまでもなく、こうした相互の検証が、現地住民、外部参入者であったスタッフとしての現地住民(あるいは現地住民としてのスタッフ)、そしてエコツアーの参加者(研究者等を含む)の協働的実践を促進し、新たな自発的行為を誘発する契機となる。

(2)次の一手の検討と実践(feed forward)
 地表の緑化を段階的に導き出してきたなかで、必要とされるのは「フィードバック」ではなく「フィードフォワード」である。放牧地に「ただ」戻すだけではなく、改めて放牧地になったところをどうしていくのか、次の一手が必要とされる。その際、エコツアー参加者が思わず現場に寄与する機会が、日本に帰国する直前の夜、北京の宿泊地にて夜通し繰り広げられる反省会にて導かれる。学生がこの経験を今後どう活かしていくかの決意表明とともに、現場に対する率直な感想や要望がスタッフに伝えられる。その後、スタッフも学生も、議論した内容に思いを馳せながら、それぞれの日常に還っていくのである。
 沙漠緑化の完了を間近に控えるなか、プロジェクトのフィードフォワードの一環として、インターローカルな実践が始まりつつあることにも触れておく。それは、中国社会科学院等を媒介にして、先述した鳥取県智頭町とバイアールイエとの相互訪問が始まりつつあるということだ。日本に留学していた中国社会科学院の研究者と、日本の研究者、さらには両方の事情に通じている実践家たちが中心となって、それぞれの経験知が贈与され、同時に略奪されていく。この、両方が了解を求めることなく意味創出を行っていく相互交流の機会が、結果として次の一手を指すこと「入会地としての活用」をアフォードしていると言えよう。

引用文献
渥美公秀 2001 ボランティアの知:実践としてのボランティア研究 大阪大学出版会
Fien, J. 1991 Education for the Environment. Deakin University.(石川聡子他訳 環境のための教育 東信堂、2001)
Gibson, J. J. 1979 The ecological approach to visual perception. (古崎敬他共訳 生物学的視覚論:ヒトの近く世界を探る サイエンス社、1985)
後藤武・佐々木正人・深澤直人 2004 デザインの生態学:新しいデザインの教科書 東京書籍
中村正 1997 学びのハビット(習慣) 立命館教育科学プロジェクト研究シリーズ、VIII 立命館大学教育科学研究所、79-91.
岡田憲夫・杉万俊夫・平塚伸治・河原年和 2000 地域からの挑戦:鳥取県・智頭町の「くに」おこし 岩波ブックレット
山口洋典・増田達志・関嘉寛・渥美公秀 2003 エコツアーにおける環境教育の効果 ボランティア学研究(4)、53-81.

山口 洋典・渥美 公秀 2007 沙漠緑化活動のアフォーダンス:中国内蒙古自治区自二爺砂丘の7年 国際ボランティア学会第7回大会発表予稿集、pp.40-41