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2025年7月24日木曜日

ライダー文化

先週で春(大学によっては「前期」)セメスターの担当授業が終わった。そのため、3ヶ月あまり定例の予定が入っていた毎日から解かれた生活を送ることができるようになった。もちろん、定例の予定があるからこそ生活のリズムが整う、という側面もある。一方で、定例の予定が外れたことで、その曜日や時間にしかできなかったことに漸く手が付けられるという側面がある。

この3ヶ月ほど、自動車教習所に通っていた。きっかけは2024年3月、日本ソーシャルワーク教育学校連盟による大学間連携による災害救援のネットワーキングのプロジェクト(DWAS)に参加したことである。具体的には、令和6年能登半島地震の支援のため、全国から金沢駅に集合し、マイクロバスに乗り込んで輪島に赴くにあたり、私が荷物車の担当となったことが契機となった。その際、私が保有する運転免許が「中型8t限定」の条件を外すことができれば、バスの運転手の負担を減らすことができる、と思い立ったのである。

そこで5月に条件として付されている「中型8t限定」の限定解除のため、教習所に通い始めたのである。通ったのは、約30年前に通った「母校」で、卒業生割引の適用もいただいた。普段からマニュアルトランスミッションの自動車に乗っていることも幸いし、教習は段取りよく進み、技能審査には早々に合格することができた。思いの他、早く合格できたことに加えて、改めて運転の基礎を学び直せたという実感から、追加で大型自動二輪の教習も受けることを決めたものの、検定日が木曜日と土曜日ということもあって、教習が修了しても連続して検定を受けることがままならなかった。

そして木曜日授業を終えたこともあり、やっと検定を受けることができた。中型8t限定解除の技能審査の際とは異なり、二輪の検定時には合格を目指す人たちと対話が重ねられ、ライダーどうしで独特の親しみやすい雰囲気があるのだと感じた。ちなみに本日の検定を受けた方の中には競馬の騎手を目指してきた方、さらには私の授業を立命館大学で受講したことがある方もいて、全く生活の環境が異なりながらも二輪で自らの世界を広げようとしているという共通点で話の広がりが出ることに新鮮な感覚を抱いた。私が中型自動二輪(現在の普通自動二輪)の免許を普通自動車(現在の中型8t限定)とあわせて取ってから30年、これからも安全運転に配慮しつつ、これまで見たことのない世界に触れてみたいという衝動に駆られている今日この頃である。





2025年7月23日水曜日

不滅の雰囲気

水曜日は英語で始まる。大阪で開講されている、ニューヨークタイムズの記事をもとに語り合う、という英会話の講座に通っているためである。受講のきっかけは、職場で英語の授業を担当しなければならなくなったから、であった。2013年の1月に受講を始めて12年あまり、よく続いていると自分でも思う。

今日のお題は「The love we leave behind」であった。お題は受講生の投票で決められ、今は翌週のお題とする記事が、レッスンの序盤に投票で選ばれる。今回のお題となった記事は、長くニューヨークタイムズのコラムニストを務めた作家、ロジャー・ローゼンブラットによる記事であった。この7ヶ月のあいだに3人の親友を亡くした御年85歳の作家にとって、彼らが残した「親切さ、誠実さ、仕事への喜び、他者の役に立とうとする姿勢」(Usefulness、Kindness、An eagerness and readiness to be of help)といった思い出が、詩人のワーズワーズの表現を借りれば「雰囲気」(atmosphere)として自分に宿っており、死してなお「不滅(immortality)」だ、と説くものであった。

そうして人生の価値について見つめた後、受講生の方のお誘いでランチをご一緒した。そのうちのお一人は、私が2017年にデンマークで1年間を過ごす際、先生と事務局と受講生の皆さんの理解を得て、2018年度に受講を再開できるよう、休み方についての調整に尽力いただいた方である。大学で教える仕事をしている者としては、そうして熱心に学び合うコミュティが学校以外にもあることに触れられていることもまた、貴重な機会となっている。そんな思いを抱きながら、ランチの後は自宅に直行せず、京阪守口市駅で途中下車して、Zoomミーティングと買い物をすることにした。

ランチ後のZoomミーティングは、浜松市による「はままつ文化創造チャレンジ事業費補助金」の採択団体への助言であった。1時間弱のミーティングの後、駅ナカにある無印良品にて、この夏の各地へのフィールドワーク用に、風通しのよい衣類を調達した。そして自宅に戻って、程なく夕食をいただいた後、20:40から1時間ほどのZoomミーティングに参加した。同志社大学大学院総合政策科学研究科の大学院生たちによる取り組みに対し、これまた僭越ながら助言させていただくものであり、研究の「具材」(テーマ、対象)よりも「調理法」(方法論)にこだわってはどうか、と投げかけたさせていただいたのだが、果たしてこれが響く言葉となったのか、再び相談をいただければ結果として響く言葉になっていた、と捉えることにした。




2025年7月22日火曜日

「おめでとう」のメタメッセージ

50歳となった。大台に乗った、と言われる。まだ50なのか、もう50なのかと言われれば、もう50、という感覚が近い。今の職場は65歳が定年であることを踏まえると、登山で言えば下山への構えに入ってもいい時期ではないか、という自覚がある。

今日は南座に「華岡青洲の妻」を観賞に出かけた。南座には高校1年生の夏、仲とノリの良い3人で「松葉」に年越し蕎麦を食べに来たのが最初の訪問である。地理が専門の先生が当時の担任だったこともあり、その博識に預かって冬休みの旅に出たのであった。あれから33年あまり、演劇の鑑賞で劇場の中に入ったのは今回が初めてと記憶している。

作品は有吉佐和子の原作で、大竹しのぶさんが主演の舞台である。江戸時代後期の和歌山において、世界初の麻酔による外科手術を行ったとされる華岡青洲について、その偉業を支えた妻の存在が中軸に置かれた物語に仕上げられていた。大竹しのぶさんの舞台は、大阪で暮らしていた頃に2度ほど鑑賞する機会を得ていたが、作中での時間の経過と史実の忠実な再現の2点で大竹さんが主演だったからこそ締まった作品という印象を抱いた。もっとも、2006年から2016年まで、天王寺区の浄土宗應典院にて勤務していた折には、「劇場寺院」と掲げていたことも相まって、毎週のように「シアトリカル應典院・本堂ホール」(当時)で開催される公演に触れる機会があったものの、今ではすっかり舞台芸術から離れているため、素人の素朴な感想の一つに過ぎない。

昼の公演の鑑賞を終えて自宅に戻ると、母からLINEの通話があった。既に朝に「おめでとう」メッセージと音声通話をしていたものの、そのやりとりでは物足りない何かがあったのだろう。父が亡くなり、慣れない独りでの暮らしが続いていることが、精神的な負担となっているのだろうと見立てている。親しい友人などからの「おめでとう」のメッセージに喜びつつも、母から寄せられた今年の「おめでとう」は、ただ喜ぶだけにとどまらず、むしろ相手を気遣わねばという焦燥感を駆り立てるものであった。そして父の葬儀・告別式に参集いただいた方々へのお礼の挨拶という役目を私が担うにあたり、「充実した人生」という表現を盛りこむことを母が特に求めたことを想い起こし、50代に突入したことを契機に、途切れていたブログを再開してみることにした。