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2013年1月31日木曜日

拙速か遅巧か

いくつかの研究プロジェクトに参加してきたが、社会科学、あるいは人間科学の研究者である私(たち)は実践を伴う研究であるため、自然科学の実験による研究と違って、やり直しや取り返しがつかない場合がある。それゆえに、冷静かつ慎重な言動が求められるときがあるのだが、時には冷静かつ大胆な行動が求められる。ちなみに、この「冷静かつ大胆」とは、長らく視聴者参加型クイズ「アタック25」の司会を務めた、児玉清さんの名文句でもある。ともあれ、当たってくだけてはならないが、人々や物事が置かれた状況や構造に、冷静かつ大胆にアタックしていくことが、協働的実践を通じた実践的研究では時として重要である。

実はこの4年ほど、京都市上京区にある堀川団地の再生に関する研究に携わっている。「再生」という言葉と対になるのは、映像や音声機材を引き合いに出すなら「記録」と「停止」で、福祉や医療の観点で言えば「死」や「病」などを示すことがでいるだろう。それらの単語や概念から、今の「団地再生」のプロジェクトを語るなら、昭和26年、日本初の「下駄履き住宅」(一階が店舗等で2階以上が住宅になっている集合住宅)が、老朽化と耐震問題から、建て替えか改修か、その範囲をどこまでとして、どのような方針で進めていくかを検討している取り組み、である。研究のリーダーは京都大学の高田光雄先生であり、その高田先生は京都府住宅供給公社におる「堀川団地まちづくり懇話会」の座長もされておられたので、文字通り、研究と実践の、成果と政策の、それぞれが深く関連する構図となっている。

こうした、研究と政策が密接に絡む取り組みにおいては、拙速であっても、遅巧であっても、良い結果と納得のいく成果を導くことは難しい。拙速な判断は、歴史の中で醸成されてきた価値を見出せぬまま失ってしまうこともあるし、遅巧な行動は好機を逸して新たな展開可能性に対して意志を示せぬままに放棄してしまうことになる。そうして、過去へのまなざしと、未来への見通しを丁寧に重ねる過程において、今、多くの関係者のあいだで「やっと」了解できた事柄が検討材料として公開され始めているものの、一部のメディアが「公開されたもの」を再編集し、自らの視点をもとに加工したりするものだから、せっかく積み重ねてきた信用や信頼が崩れてしまうこともある。

当然のことだが、何かを「変える」ことに対しては、「変えられる」と、ちょっとした抵抗感や、かなりの拒否感でもって受け取る方もいる。ただ、それ以上に問題なのは「変えなければ」という責任感と役職上の使命感との均衡が、現場に対してもたらされないときである。そういうときには、今を生きる人々の語りへと丁寧に耳を傾けながら、先人が遺した記録を丁寧に紐解くことが大切である。結果として、関係者が置かれる状況が困難になり、社会の構造が複雑になるほど「速巧」は難しく、何とかしようとスピード感に駆り立てられたとしても、「拙速」や「稚拙」なものにおさまることが多いことを、「歩んできた道」が行く手を考える私たちに教えてくれてはいるのではなかろうか。

2013年1月30日水曜日

aural for oral

I enjoy English these days. One of my favorite artist is "The Sing Like Talking" who is a Japanese AOR (Adult Oriented Rock) group. Just following this expression, talk English like Japanese is my long cherished desire. But I am immersed in easy to talk English at length, because of entering a casual English class from this year.

Today, I have learned the difference and inportance between aurally and orally. As our lecturer Mr. Tad, this point is a key to study Engligh. The reason why we need to pay attention for aural and oral is a word has some stories. So, learner must do not only talking also listening, and realize accureate usage and spelling of the word.

Furthermore, as same as Japanese, the each sets of the word spaking/talking and hearing/listening mean different. Distinguished them simply, speaking and hearing are acting just merely, on the other hand, talking and listening are acting together consciously. If I want to enjoy in some situation, I think that it is also important to act without thinking deeply sometimes. However, if I wish to learn the language as a language, it is also necessary to treat carefully for each word too.

After finishing my English lecture, I went to Kyoto to attend the meeting at Ritsumeikan. But, I had quite a careless mistake. Yes, I went to the another campus! I realized it is important to listen carefully and talk properly not only at learning a language.

2013年1月29日火曜日

名札とコスト

仕事柄、多くのオフィスやイベントにお伺いするのだが、最近気になっているのが、そこにいる人たちの名札である。恐らく2000年を前後して、首掛け式のカードケースが用いられるようになっていったように思う。恐らく、いわゆるIT革命も重なって、磁気カードが導入されていったことも無関係ではなかろう。しかし、一部では名刺カードあるいは名刺サイズの紙が用いられていることもある。

カードケースが名札として用いられる前、とりわけオフィスではネームプレートと呼んだ方がピンとくるものが使われていた。組織の規模の大小を問わず、プラスチック製のプレートに名前が刻まれているものが多かったのではなかろうか。それが今や、銀行や列車の乗務員など、ごく一部でしか目にしなくなってきた。その背景には、コストの面からの合理化があると感じてやまない。

本日、朝から3つの場面で、それぞれの名札のかたちに出会うことになった。まずは朝に伺った個人経営の病院での、プラスチック版に名前が彫られたものであった。その次が、應典院で開催された神戸女学院大学の副専攻「アート・マネジメントコース」の受講生による「キャラクターと大阪」と題したイベントのスタッフ名札で、やや厚手の画用紙に名刺よりもやや大きい位のサイズで、一つずつ、個々に縁のエピソードを交えつつ絵心のあるスタッフによってつくられたものであった。そして、神戸女学院の学生らの企画の同時刻から隣の部屋で開催された應典院舞台芸術祭「space×drama2013」の第一回制作者会議での、昔ながらのクリップ直付けタイプの名刺大プラスチック製カードケースに、個々人が手書きで名前を書くというものであった。

こうして、それぞれの名札のかたちを見ると、その集団がどこまで他者を意識しているのか、そしてその集団が外部から新たな他者を迎えることを意識しているのか、それともその集団が内部のメンバーの結束力を高めることを意識しているのか、それらによって形態が選択されてよかろう、ということである。名札は他者から当人が識別されるための道具であるが、組織内の集団凝集性の調整を目的に、「それでも」いいのか、「それが」いいのか、積極的かつ精緻に検討されてよいはずだ。逆に言えば、そうして識別票にコストをかけることこそが、組織の管理運営における資源として、個々の構成員を大事にすることになるのではないだろうか。転じて、「人材」という表現が象徴するとおりに、人を生産の「材料」として位置づけていることが、名札にコストをかけないという現象にあらわれていると言えなくもなかろう。

2013年1月28日月曜日

脳味噌と脊髄による思考の反復

アートNPOフォーラムin東北が終わった。3日間の充実したプログラムだった。1日目の濃密な議論は思わずTwitterで「中継」してしまったし、2日目のディスカッションはiPadというツールを駆使して「まとめすぎないように整理」させていただくいう具合に、座って脳味噌を使った2日間を経て、塩竃から南三陸へのバスツアーという3日目を迎えた。そんな3日目は、脊髄が機能しまくった、そんな濃密な一日だったように思う。

塩竃から南三陸への道中で最初にお伺いしたのが、アートNPOリンクによる「アートNPOエイド」でも支援されたビルド・フルーガスというアートスペースであった。名前の「birdo flugas」とは「人工語」であるエスペラント語で「鳥が飛んでいる」という意味で、描かれた鳥はピンクピジョンという絶滅危惧種とのことである。この場の担い手である高田彩さんによれば、「アーティストは世の中の絶滅危惧種のようなものだから、今こそ羽ばたくように」と願いがあり、そんな「物語」にすっかり魅了された。そんな高田さんは、カナダで学んだ後、2006年にこの場を開き、2007年から地域で多彩な出張ワークショップを展開し、やっと「地域と関わる信頼関係ができた」と思えた頃に、2011年3月11日を迎えたという。

「もし、震災がなかったら、今、どんな活動をしていると思いますか?」という質問を、参加者の一人が投げかけた。無論、「もし」という仮定で考えることはできても、今なお、目の前に広がる風景から、何より自身が何度も想起を重ねる中で追体験してきたであろう絶対的事実が、そうした問いへの答えを見出しにくくさえるかもしれないし、逆に幾度となく問いかけられることで確信を得た応え方を探しあてたかもしれない。ともあれ、この問いかけに高田さんは「(地域とアーティストが関わる上では)動ける若者が動かなけば、(と思っているけど、あの震災では)今やれる、と地域とキャッチボールを(続けていった)」と返された。実際、高田さんらは、多様な団体等との連携を通じて、「この経験を無駄にしたくない」と、「誰でもいいから新鮮な場を」生み出してきたという。

私の師の一人で、『地震イツモノート』(木楽舎)の監修者でも知られる、大阪大学の渥美公秀先生は、『災害ボランティア入門』(弘文堂)などにおいて、災害は日常の関係を濃密かつ迅速に顕在化する、と示す。今回のアートNPOフォーラムin東北では、このことをひしひしと考え、とりわけENVISIによる「南三陸 福幸きりこ祭 白い紙で彩るみんなの記憶」の取り組みからは、2010年に実施していたときのことを地域の方々(南三陸観光協会の菅原きえさん、南三陸さんさん商店街に移られた「ヤマウチ」さんと「わたや」さん)にお話を伺う機会をいただいたので、痛切に感じた。また、バスツアーには、前日に素晴らしい喉を披露された、「静音ちか」こと穀田千賀子さん(NPO法人時薬堂のメンバーで、歌のみならず手話通訳など、マルチに活動)が同行されたのだが、行きのバスでは南三陸町での震災後最初の卒業式と入学式のお話、そして帰りのバスではこの地方で語り継がれてきた民話を紹介いただいた。経験知は人間の肉体の中に内在されるものではなく、集団での営みを通じ世代を超えて物語として継承されるということを、多くの場面で沈思黙考する旅であった。

2013年1月27日日曜日

満足度と幸福度

「トウホクデシアワセヲカンガエル」というテーマによるアートNPOフォーラムin東北の2日目に、終日、参加した。主催団体の一つであるMMIX Labの村上タカシさんによれば「トウホグ」と記すのが適切らしい。ともあれ、今回の参加にあたっては、本日の午前中に開催された「創造的な活動への支援のカタチ、展望とその課題」という活動報告とディスカッションのモデレーターというお役をいただいていた。なんとか努め、仕事を終えた。

モデレーターというのはモデレートする役割のことだが、モデレートするとは何事なのか、感覚的にしかわからなかったので、例によって辞書を引いて調べてみた。手軽な辞書として、Appleのコンピュータに標準で入っている「プログレッシブ英和中辞典」(小学館)で「moderate」という動詞を見てみると、対義語が「extreme」の「はめをはずさない」という意味や、対置後が「radical」の「穏健派」という意味に出会った。似た言葉で「コーディネーター」があるが、コーディネートが調和という語が宛てられるのに対して、モデレートは調停という言葉が宛てられよう。

以前、同志社で大学院科目のみを担当していた頃、「ソーシャル・イノベーション研究におけるフィールドワークの視座―グループ・ダイナミックスの観点から―」という論文で、「概念に接近する4つの方法」を提示した。詳細は本文を参照願うことにして、簡潔に紹介するなら、対義語から考える、辞書を引く、語源を紐解く、前置詞を挿入する、の4つである。今回の活動紹介とディスカッションでは、アーツエイド東北地域創造基金みやぎ「さなぶりファンド」GBFund(企業メセナ協議会)、ココロハコブプロジェクト(トヨタ自動車)の4つの事例から、アートと震災復興支援について語られたのだが、さしずめ、この4つの「方法」のうちでは、「前置詞を挿入する」のが適切だったように思う。ともあれ、時間の都合もあり、そもそも支援とは、ということよりも、性格の異なる4つの事例について、共通の要素(いわゆる6W3Hをもとにした10項目)で整理し、さらに支援の「ルール」と「ニーズ」と「パートナー」の3点から、場を「モデレート」することにした。

自分の担当のセッションを終え、昼食の後に東北各地で展開された事例を伺い、「哲学カフェ」にのっとって全体のディスカッションが進められる中、最初と、最後の方の2回、発言をさせていただいた。最初は「昨日」と「午前」の議論の内容ついての整理を述べたのだが、閉会直前に手をあげて述べさせていただいたのは「美化」と「異化」の違いである。そこでは葬送儀礼に関するNPO活動を引き合いに出し、表面的な取り繕いでは、何かをする側の自己満足にとどまり、他者と共に幸福を実感し、それを追体験できる場面を生み出すことは困難である、ということを伝えた。それは、ことさら「震災後」すなわちfrom 3.11という視点で扱われる議論を、改めて過去を見つめて未来を見据えるthrough 3.11として、平時と非常時の双方を見ては、という提案でもあったのだが、そのように言葉にこだわってみる中で、モデレーターには、「原子炉で、核分裂によって発生する高速中性子を減速して、連鎖反応を引き起こしやすい熱中性子にする物質」となる「減速材」という意味があると知って、3.11へのこだわりが、ある種のとらわれにもなっているのかもしれない、などとも思うのであった。

2013年1月26日土曜日

仙台でのアートNPOの<広場>

雪の仙台にやってきた。ただ、これくらいの雪で、雪の仙台と言って欲しくない、という方もいらっしゃるかもしれない。それでも、ゴアテックスによるローカットのブーツが役に立った、という実感を携えながら、仙台空港から目的地までの道のりを歩いていった。目的地は、仙台駅から歩いて10分程度の「ほっぷの森 Aiホール」で、福祉に関する文化からの接近をはかっているNPO「アート・インクルージョン」の活動拠点である。

本日1月26日から28日まで、恒例の「アートNPOフォーラム」が、はじめて東北で開催される。アートNPOリンクが事務局を担うこの「場(forum)」には、2007年12月からの参加なのだが、毎年度、外すことが欠かせなくなってきた。無論、今年度は、昨年度に大阪で、しかも1日は應典院で開催されたということも相まって、何となく「バトンリレー」を担う気分でも参加させていただている。とはいえ、そんな関心はよそに、現地事務局との強固な連帯あるいは連携を図っているアートNPOリンクの樋口貞幸事務局長がいてこその場であるのだから、バトンリレーの走者であるという自覚には、自己満足と役割の合理化ならびに正当化であるといった批判を受けねばならないだろう。

ともあれ、本日から始まったアートNPOフォーラムin東北には、「トウホクデシアワセヲカンガエル」という統一テーマが掲げられていた。東日本大震災から687日から689日にかけて実施されることを思うと、「変化球」ではなく「直球」のネーミングである。内容についてはオフィシャルプログラムを参照いただきたいのだが、簡潔に述べれば、初日には奈良の「たんぽぽの家」の播磨靖夫さんによる基調講演と、東北という地域内外によるパネリストのディスカッション、そして非公式の懇親会がなされた。とりわけ基調講演とパネル・ディスカッションについては、久々にTwitterによる「中継」と言うよりも、自分用のメモを会場から投稿し続けたので、ハッシュタグ「#anf2013」を追跡するか、twilogを通じて本日の投稿が参照されれば、議論の展開を垣間見ることができるだろう。

例によって、という言い方も適当ではないかもしれないが、終了後の懇親会もまた、充実したものだった。直前の討論の内容を深めつつ、深尾昌峰さんを中心として甲斐賢治さんの呼びかけへの支援(というよりも贈与)させていただいた京都号」のその後について、斜め前に座られた『なみのおと』の監督のお一人、酒井耕さんから伺うことができ、素直にうれしかった。加えて、会場全体にくまなく目を配り、最も端のテーブルにも足を運んでいただいた樋口貞幸さんと共に、以前の横浜でのアートNPO緊急フォーラムで導入したUstreamの中継が、プライベートによってパブリックが疎外される端的な事例となったことを改めて振り返る機会ともなり、得心がいった。何より、アサヒビールの加藤種男さんもお近くにいたことも重なり、改めて市川房枝さんの「運動とは事務なり」の言に合点する夜であった。

2013年1月25日金曜日

会って議する

應典院のコモンズフェスタが開け、今日は草津で会議と打ち合わせの一日だった。まずは朝から立命館災害復興支援室の事務局会議で、続いて次年度のサービスラーニングセンター科目群の展開に関する打ち合わせだった。その後、カフェテリアで「孤食」の後、「個人研究室」で自分の時間を過ごして、昼過ぎから社会連携課とびわこ・くさつキャンパスを拠点とした地域連携に関する打ち合わせをさせていただいた。そして夕方から、草津市役所にて草津未来研究所の今年度4回目の運営会議だった。

会議と会合は違う。conferenceとmeeting、あるいはmeetingとgatheringという具合に、英語でも対置できる語がある。さらに言葉で遊んでみるなら、時に会議のための会議とも言われる、「舌」を合わせるがごとくの「下」打ち合わせが数多く重ねられることもある。さらには今朝の会議のように、情報通信システムの進化によって、同一会場での同席によらず、一同に「会する」状態が担保される会議や会合も増えてきた。

言うまでもなく、何かを決めるための手段は会して議するだけではない。例えば組織であれば、書面によって起案して決議する稟議という方法がある。ただ、グループ・ダイナミックスを専門とする者にとって、会議のみならず、集団意思決定の場は概して興味深い。その興味は、何かが決められた結果よりも、むしろその経過の方に関心が向く。

そもそも同意と合議は違う。「これでいいですよね」といった同意を求めるなら、ことさら会う必要もなく、しかし「これがいいのだ」という強い意志が見え隠れするときほど、思い込みに縛られていないかと、口を交わして議する必要があろう。言葉を尽くし、時には積極的に黙して語らないといった集団のあいだに生まれる力学によって、場を包み込む雰囲気がよいほうに向き、懸案事項に「片が付く」のである。実は今日、この「他者が居てこそ片が付く」ということを、いっこうに片付かない個人研究室で過ごした時間で実感した。

2013年1月24日木曜日

ホームへと投じる球

應典院での年に一度の総合芸術文化祭「コモンズフェスタ」が終わった。 應典院は「催事」すなわち「イベント」寺とも言われるが、eventを英和辞典で引けば「出来事」という表現もある。そして、1月10日から15日間にわたって展開された「お祭り(festival)」では、各種の出来事が絡み合うこととなった。もちろん、出来事が絡み合うのは、コモンズフェスタに限ったことではなく、鉄とガラスとコンクリートによる現代建築が「まちと呼吸する」お寺として、その役割が果たされたとき、そうした場が無数に立ち現れている。

コモンズフェスタには毎年、固有のテーマが掲げられているが、今回のテーマは「とんちで越境!」であった。このところ、少なくとも2006年度以降は、事務局によってテーマが定められ、そしてそもそもの企画運営も進められてきたのだが、2012年度には1998年の開始当初への「原点回帰」ということで、実行委員会形式での展開を図ることとした。8月6日に第1回の企画会議を行い、続いて8月28日、9月25日と議論を重ね、10月11日に「境界線を超えろ!~自と他を繋ぐ時代(とき)~」という原案が定まった。それを主催団体「應典院寺町倶楽部」の事務局長の職にある私が預からせていただき、テーマ原案をもとに開催趣旨文を書き下すなかで、上述のとおり「とんちで越境!」を主題に、そして副題として掲げた「自他を結び、過去と未来をつなぐ問題集」を、皆さんにお認めいただくこととなった。

プレ企画も含めれば、21のプログラムが展開された今回、その最後を飾ったのは「クロージングトーク」だった。そこでは何人かの口から統一テーマについても触れられた。実は、このテーマには当初英語名も併せて提案させていたものの、英語力のなさと、自らが身を置いている立命館でも「beyond borders, creating a future」が2020年までの学園ビジョンとして示されていることが重なって、使用は控えさせていただいた。しかし、8月から共に「機知に富んだ人々」とともに、2週間あまりの出来事づくりにあたってきたメンバーこそ「とんち」がきいていたし、互いの領域や領分の境界を越えて交わりあったと確信している。

クロージングトークにおいて、今回の企画委員の一人である、関西県外避難者の会・福島フォーラムの代表である遠藤雅彦さんが「伝えたいことが重いときには、ストレートな表現では逆に伝わらない」 と仰ったのが強い印象に残った。確かに、野球の比喩を用いるなら、直球勝負が面白いときもあれば、狙いすぎて暴投となってしまうこともある。少なくとも、捕手がいて、打者がいて、投手は投手としての役割を果たすことができる。1時間あまりのトークセッションと、1時間程度の小打ち上げによるクロージングとなったのだが、トークの最後、福島県いわき市から2011年3月16日に学生時代を過ごした関西にやってきた遠藤さんは、今回の企画への参加を経て、来年に向け「変化の渦中にいる今、どう変化していったのかを伝えていきたい」と語った。遠藤さんの投げた球は、果たしてホームベースに届くのか、共に見届けていければ、と願う。

2013年1月23日水曜日

simp eases system

A system has some complexity. For expample, a governmental system is stuctured by the obligation to be educated, to work, to pay taxes. So, usually, black box is metaphorical the complexity of a system. Especially, economic system is quite intricate in the global market.

Today, I learned the word "austerity" through my English class in Asahi Culture Center, Nakanshima from an article by Paul KRUGMAN ("The Big Fail" Jan. 6th, 2013, NYT). My class is featured "current topics" , as the course name, so today we discussed about the way to stimulate for the better business condition. In the discussion, our lecturer Tad McNulty is explain meanings of that word from etymology. In the dictionary, the word "austerity" is described as "reduce a budget deficit", but he pointed out to pick up the adjective version "austere" and share the nuance of a word such like as harsh, plain, thrifty, cold, and so on.

To understand a meaning and to realize a concept is really different. The former is thinking in one's brain, however, the later have traced back to some scece. Therefore, when we meet some uncirtain situation, structure, action style, ordary system, it is not better to look up a word directly in a dictionary. Just as the word "realize" contains the word "real", to make a strict sense of the word, we have to imagine the world through comparing to the own expereince.

Also, today is the day of awareness the difference between simplification and easification. Because a semi-opened seminar was held in Outenin-temple in the evening, and a group presenter have modified an academic theory easily. At least, if the person wants to be a scholar, they knows that easy arrengement of the theory to explain simply to the others causes fatal to their academic life. An academic knows a theory is a kind of a system, so no academician easified components of a theory, if they simplified the theory for explanation.

2013年1月22日火曜日

あきらかにきわめる

あきらめる、と聞くと、とかく否定的な印象を抱かれるだろう。しかし、漢字にしてみると、その観点は異化されるだろう。例えば、「明らめる」であれば、何か(不明な点を)明らかにする、という意味であるから、どちらかと言えば肯定的な営みであるはずだ。また、「諦める」とすれば、「諦観」という言葉があるように、事態を静観し、転じて達観するといった具合に、価値に対して中立的ではなく、むしろ積極的な調整や創出を伴った判断をも含む一連の思考と、その結実であると思われる。

本日は逆に「あきらめない」あるいは「あきらめきれない」ことに向き合うことになった。それは應典院でのコモンズフェスタで映画監督の鎌仲ひとみさんをお招きしたためだ。鎌仲さんとの出会いは浅くなく、遡れば1999年の夏、立命館大学理工学研究科環境システム工学科の博士前期課程に在学中、コーネル大学で知られる米国ニューヨーク州のイサカで1992年から取り組まれているIthaca Hoursについて調べているとき、その創設者であるPaul Gloverさんにコンタクトを取ったところ、「日本から面白いTVディレクターが来た」とメールアドレスと共に紹介をされたのだった。その鎌仲さんがイサカのパートを担当した番組こそ『エンデの遺言』であり、鎌仲さんが立命館の夏期集中科目を担当していると伺い、その夏は連日「モグリ」の学生となり(しかし途中でNPOについて話題提供することにもなったという、稀有な機会を得たのだが、思えばこれが双方向型の講義を展開していく上での原体験になっている気がする…)連夜、楽しい飲食の場を過ごした。

「あきらめたら そこで試合終了」とは、井上雄彦さんの漫画作品「スラムダンク」で有名な一節である。1999年に比べれば極めて多忙で、各方面から期待や注目を集めている鎌仲さんを大阪にお招きできたにもかかわらず、告知にあたっての参加者獲得への執着が弱く、「成果は数では測れない」という慰めのことばは横において「目に見えて恥ずかしい結果」に直面しなければならなかった。それでも直前まで、TwitterやFacebookでの呼びかけを重ねたものの、根本的にウェブサイトでの表現に工夫が至っておらず、時すでに遅し、だった。

世界はgoogleで見つかるものではない。だからこそ、足を運んで、他者が見つめた現実を追体験して欲しい。鎌仲さんは豊富な取材を通して得た会話や数値から、エネルギーと人類と地球の未来を語られたのだが、会場からの最後の質問「地方から中央は変えられると思うか」に対して、「オセロのように、四隅をとれば、世界は変わる」と応えられたのが印象的だった。ただ、その応対のあいだに、会場から年配の男性が「正しい道は負ける」と吐露した折、應典院の本堂ホールに何とも言えない無力感と、それでも「あきらめきれていない」大きな社会構造を変わる担い手として、自らの自覚と責任が問われているのだと、その場にいた人々は確認したことだろう。

2013年1月21日月曜日

される教育・する学習

全ての人や組織は学習する存在であり、教員もその例外ではない。実際、立命館の専任教員をさせていただいている私も、本日は多くの学びを得た。ちなみに、最近、大学教員の中で「○○大学教員」など、教授や准教授や助教といった職階に基づく職位を記さず、雇用区分で自らを語る方を目にすることが多いが、これは逆に「教育職員である」という自らの立場を他者と積極的に区別しようとしているようで、小さな違和感を覚えたりもする。むしろ、所属機関名に留めるか、あるいは職位まで正確に記した方がよいのでは、などと思うこともある。

そもそも教育は「される」ものに対し、学習は「する」ものだ。皮肉なことだが、同じ空間を共有していたとしても、そこで過ぎゆく時間によってもたらされる意味、転じてそこに居たことの価値は、その場の構成員に共通するものではない。それは全員が同じ成績にならないことの理由でもある。よって、教育の結果でもたらされる学習の効果には、大きなシナリオに対して個々に(あるいは個々の集団に)マルチエンディングとならざるをえない、という制約を受ける。

今日、本務校の立命館や非常勤で教えさせていただいている同志社などで、それぞれ半期の科目の最終講義を迎えた。朝からの打ち合わせ、そして会議を経て迎えた立命館の講義は、国際インスティテュートによるJapan and World Perspectives Programの一つである「Service Learning」であったゆえ、前任校の同志社大学院総合政策科学研究科ソーシャル・イノベーション研究コースで指導の縁をいただいていた大石尚子さんと宗田勝也さんとのチームティーチングで進めさせていただいた科目だ。日本語が母語の学生もいるが、英語による15回の講義では、しかし京都から復興支援のささやかな実践(即ち、service)を通じた学び(learning)がもたらされるよう、京都三条ラジオカフェでの番組制作、大原工房での体験学習、さらには宮城県亘理町で仮設住宅等で暮らす人々と共に学びあう機会が生まれた。講義の終わりには、亘理町から届いたコメントへの返礼として、受講生からのショートメッセージを映像で収録したのだが、私からのラストメッセージ(ちなみに、ケヴィン・アロッカ「バイラルビデオが生まれるメカニズム」からの引用である)の後、チャイムが鳴ってから、改めて「忘れない」というメッセージを遺したいと申し出た受講生がいたのが強い印象に残った。

立命館では学部の講義しか担当していないのだが、同志社では大学院の講義しか担当していない。そのため、6限の「臨床まちづくり学研究」では、杉万俊夫先生の『コミュニティのグループ・ダイナミックス』(京都大学学術出版会、2006年)をテキストに、理論的観点からの実践の意味創出と意思決定について取り上げるという、要求水準の高い講義を展開しており、今日はその第6章として家族と血縁関係について、NPO法人環の会の実践をもとに、経験に先だって絶対的な関係が担保されている性質「先験性」から、集団の力学に迫った。続いてはクラーク記念館25番教室でのリレー講義「コミュニティ・デザイン論研究」に向かい、新川達郎先生による「コミュニティの構想力と回復力」についてのレクチャーを受講生のモードで伺いつつ、後半の受講生と教員らによるディスカッションに参加した。川中大輔くん、弘本由香里さんという流れでコメントをすることになったので、「ここは起承転結の転の位置だ」と、「言葉遊び」ならぬ「言葉ずらし」で概念の拡張に迫ったものの、さすがに「結」の位置の高田光雄先生がアルジェリアの事件をも引き合いに出しながら「negative circuitになると、別の価値観を認めていきにくくなる」と締めくくられ、また一つ、何かを学習した気がしているのだった。

2013年1月20日日曜日

ハートをシフト

ハードとソフトの2項は、よく対置され、区別される。身近なところではコンタクトレンズもハードとソフトと分類されているし、こうして文章をしたためているコンピュータでもハードウェアとソフトウェアという具合に区分される。ただ、前者と後者では、分類と区分という言葉で使い分けたとおり、個別に存在しうるか、はたまた個別に区別されても両者が分かれず存在しうることによって何らかの機能が作動するという違いがある。なんだか小難しい綴り方をしてしまったが、今日はこのハードとソフトの不可分な領域について感じた場面が多かったので、そのことについて記しておきたい。

まず、朝には大阪でのアーツカウンシルについて、ある記者さんから取材を受けた。実は以前から應典院寺町倶楽部のアートプロジェクト等を追っていただいていた方なのだが、守秘義務に抵触しない限りにおいて、7月5日、23日、8月10日、9月6日、9月27日と、何度もお話をさせていただき、その内容については関連する行政の部署にも確認をいただいてきた。そんな中、今日は朝で脳味噌のまわりがよかったためか、「臓器と機械(グループ・ダイナミックスから見た小集団におけるリーダーシップ論と、テイラーによる科学的管理法)」、「動脈と静脈(流す側と戻す側)」、「密室感がもたらす唐突感」、「組織文化を学習することと、学習する組織が生み出す文化」、「行政との壁と行政間の壁」、さらには当事者間が一定の距離を保つ「アームズ・レングス」のルールをもじって、最適解をもたらすために妥当な行為を行うために積極的に介入する「フット・レングス」などと、言葉遊びを繰り返してみた。初対面の記者さんであれば、こうした言葉を提示してもピンとこないのだろうが、上述のように何度も場を共にしているからこそ、行政における統治機構(ハード:例えば、稟議と決済/諮問と答申、など)と、そこにおける構成員の位置づけ(ソフト:例えば、特別職公務員と外部委員、など)についての説明するときに、功を奏す場面があった。

その後は應典院のコモンズフェスタのプログラムに連続して参加させていただいた。お昼前には劇団「満月動物園」による舞台公演『ツキシカナイ』の鑑賞を、そして昼下がりには先週末に公演いただいた劇団「彗星マジック」の勝山修平さんの企画によるダンスと音楽と映像のワークショップ「Positive Tone〜自分たちだけの、合唱をつくろう」の記録係を担った。「満月動物園」は主宰である戒田竜治さんが「脚本・演出」ではなく「演出・脚本」とご自身で掲げているとおりに、舞台芸術としての演劇を通じて生と死の境目が描かれた死神シリーズの第4弾で秀作と捉えているが、そこでは今作の肝である「エレベーターの故障」に対してハードウェアの故障のはずがソフトウェア部分に原因を探り、最終的にソフトウェアなき別のハードウェアのパーツによって事態が収拾される、という場面があった。その後にお役をいだいていたワークショップでは、2台のコンピュータと、各々のデジカメ及びスマートフォン等のハードが駆使され、12人が3時間にわたって創意工夫を凝らしたことで、1つの曲に歌詞とPVというソフトが作成された。

現在、静岡文化芸術大学の教授となられた松本茂章先生博士論文を読ませていただいたとき、梅棹忠夫先生の「チャージ・ディスチャージ論」を芸術文化の実践全般に援用することは適切ではない、と考えるに至った。「チャージ・ディスチャージ論」は教育委員会による文化行政の推進に対する批判のために用いられる(教育はチャージ、文化はディスチャージであるので、自治体の文化施策は教育委員会管轄ではなく首長部局に部局に移管する、いわゆる行政の文化化が適切である、といった)論であるが、この充電・放電を電流の向きだけでなく電圧の変化、さらには電流が流れる磁場には電流が流れる方向に直交する方向に「磁界」が発生し、さらに両平面に垂直する方向へと力(熱量)が発生する、という具合に、物理学の法則からのアナロジー(類推)によって、新たな理論(物語)を提示できそうな気がしたためだ。ちなみに同論文では、帝塚山大学の教授である中川幾郎先生の『新市民時代の文化行政』(1995年、公人の友社横浜市政策局政策課による『政策季報』125号の書評が参考になろう)などから、松下圭一先生や森啓先生らの主張を中川先生がまとらめた「MKモデル」から、パフォーマンス(表現)・コミュニケーション(交流)・ストック(学習・蓄積・鑑賞)という文化活動における3つの軸に対して、「ハードウェア」「ソフトウェア」「ヒューマンウェア」の3つの資源が効果的に組み合わされる必要があると(も)示している。そもそも、ソフトがなければハードが活かされない、そしてソフトはヒューマンがいなければ生み出されない、それが大前提であるのだから、いっそ「ハード」と「ソフト」ではなく、「ハート(思い)」と「シフト(ずらす)」くらいに置き換えて語ってみてはどうだろう、などと、やはり言葉遊びをしてしまうのであった。

2013年1月19日土曜日

名詞より動詞で

應典院のコモンズフェスタも折り返し地点を過ぎた。1月10日から始まって24日で終わるため、中日が17日ということになる。阪神・淡路大震災を経て現在の形に再建されたのが應典院であることを思うと、いわゆるセレンディピティ(serendipity:意味ある偶然の一致、の意味)を思うところである。そして今日もまた、東日本大震災の孤児を支えるファミリーホーム「のいえ・プロジェクト」についてのトークなど、<いのち>を思う企画が展開された。

同時並行で各種のプログラムが動くため、決して多くはない應典院のスタッフがそれぞれの場に配置されていくのだが、今日は「グリーフタイム(コモンズフェスタ版)」の担当を担わせていただいた。この「グリーフタイム」は2009年の9月(以前の原稿で2010年と記してしまったものの、それは2010年1月に実施した2009年度のコモンズフェスタの参加プログラムとして位置づけたこともあって、日付が錯綜してしまったため…)に始まったプログラムである。当初は死別体験を経た20代の若者2人が企画者となり、続いて臨床心理士2名が、そして2012年度からはそのうちの1人が場の担い手になり、当初から変わらず奇数月の第4土曜日の午後に開かれている。このように記すと、互いのかなしみを分かち合う場ではないか、と想像が及びそうだが、実は逆で、参加者が個々に行うワークが提供され、1時間ほど自分に向き合うこととなる。

「グリーフ(greif)」とは喪失による悲嘆を意味する英語だ。グリーフタイムは、人やものをなくした方にもたららされる感情的な変化(無力感、怒りなど)、身体的な変化(涙が止まらない、眠い、眠りすぎる、など)、そして人間関係など社会的な変化(人に会いたい、人に会いたくない、過活動になる、など)に対して、何かで気を紛らわさず、悲しんでいる自分に率直に向き合えるよう、かなしみに向き合う「ため」(為と溜)の時間をそっと生み出す機会となっている。今日はコモンズフェスタの特別編ということで、立ち上げメンバーであり、現在は福島県内にてふくしま心のケアセンターの仕事を担っている宮原俊也さんにお越しいただき、グリーフに関するミニレクチャーとリラクゼーションのワークを、また現在の担い手である佐脇亜衣さんによって、新たなワーク(「あなたと私」に向き合うグリーフコラージュ)などが実施された。宮原さんのレクチャーでは、「グリーフの終わりは死まで、すなわち、終わりはない、ということ」や「グリーフは喪失志向と回復志向の二重過程論として捉えられており、悲しみの後で始まる新しい生活も、後にそうして始まった新しい生活を拒否したくなる」こと、さらには「グリーフはとげの出たボールの比喩で語られることがあり、時間の経過とともに、そのとげが丸くなっていくものの、その変化を自覚することで悲しみや思慕が駆り立てられる」といった理論的な観点の整理もなされた。

普段の「グリーフタイム」では、他者と対話する時間を生み出せること、また悲しみにくれている人の中には体験を分かち合うことに抵抗があることから、個々のワークを重んじて全体でのシェアリングをしないものの、今回はあえて、自分の経験を語り合うことに意識が向いたプログラムとなっていた。8人の参加者はそれぞれに「元に戻る」ことはない「あの日」や「あの人」のことを思いながら語ることで、決して「忘れるため」ではなく「物語における存在の置き方が変わる」きっかけが得られていたように思う。阪神・淡路大震災の後、「PTSD(Post-Traumatic Stress Disorder:心的外傷後ストレス障害)」に注目が集まったが、宮原さんによると「post-traumatic growth(心的外傷後の成長)」という視点もあるという。そういう意味では、「悲しみ」と名詞で捉えられる「grief」だが、むしろ(悲しみを)「悲しむ」と、動詞で捉えることの方が妥当なだろう、と、「感じる」よりも「考える」ことが先行してしまった午後であった。

2013年1月18日金曜日

と(and)/か(or)

作業か睡眠か、この選択肢に悩まされることが多い。専ら、移動の多い生活をしていることもあって、移動中もまた、移動先や移動元での案件の整理の時間に充てられることが多い。ただ、作業にしても睡眠にしても、座れなければ選択肢として成立しがたい。だからこそ、仕事が立て込んでいるときには、どの車両に乗るかに、ちょっとした緊張感をもって、ホームから狙いを定めている。

ただ、電車の座席は個人で専有できるものではない。そのため、混雑した車内でパソコンのキーボードをペチペチと叩くのは控えるようにしている。逆に、ヘッドホンから音漏れの激しい状態で音楽を楽しんでいる人が近くにいる場合には、言いようのない苛立ちに駆り立てられることもある。自分の集中力が足りないのだろうが、そんなときには決まって車窓からの風景を楽しむようにしている。

ちなみに、TwitterやFacebookに写真を投稿するのは、車窓からの眺めだけでなく、まちを歩くときにも、できるだけ風景を楽しもうとしているためでもある。よって、投稿が(風景を楽しむ)手段か、(投稿によって得られる反応が)目的か、と問われると、専ら前者だ、と思っている。それでも、リツイートや「いいね!」などで反応が得られると、ちょっとだけうれしい。ただ、このブログも含めて、別に反応がなければ続けない、というつもりはない。

何かと欲張りなのか、「か」よりも「と」の方が好きだ。今風に言えば「ガソリンと電気」といった具合に、「ハイブリッド」である方が、いわゆる相乗効果を楽しめ、さらに物事の奥深さが広がる気がしている。とまあ、そんなことを本日(残念ながらモンテ・カセム先生の最終講義を聴講できなかったのだが)、京都市ユースサービス協会にて、立命館大学サービスラーニングセンターによる教養教育科目の今年度分の振り返りと来年度分の意見交換に伺った折、「サービスラーニングとインターン」について深める中、考えていた。個人による業務への従事により個々人の成果を重視するインターンに対して、個々の役割が明確となってチームになりチームでの活動を通じてもたらされる成果が重視されるサービスラーニング、それはちょうど、個人の手配旅行とエコツアーのような違いがあり、そうなると「と」ではなく「も」であったり、あるいはあえて「か」で繋いで、選択肢の中から選び抜くことも必要そうだ、などと、家路につく座れなかった電車の中で考えたのであった。

2013年1月17日木曜日

18年

「あの日」から18年を迎えた。今年もまた、5時46分には、神戸・三宮の東遊園地に赴くことにした。昨年は年度途中に開講した、立命館大学のサービスラーニングセンター科目「震災×学びプロジェクト」の受講生らに追悼の場に立ち会うことを呼びかけ、結果として7名で参加したものの、今年は殊更に声をかけなかった。それでも、昨年度のプロジェクトを受けた「減災×学びプロジェクト」の受講生2名や、東日本大震災の支援に取り組んでいる学生たち(例えば、InvestorユースACTプログラムなど)やおなじみの先生(例えば、関西学院大学の関嘉寛先生、兵庫県立大学の乾美紀先生、また同僚でもある川中大輔先生など)にも多数お目にかかった。

三宮の東遊園地、と、文字で記すと、ちょっとしたテーマパークのように思われるかもしれないが、映画『その街のこども』で象徴的に取り上げられているとおり、そこは神戸市役所の南隣の公園である。しかし、毎年この日は、横18m・横30mにわたって1.17が浮かび上がるように蝋燭が仕込まれた竹筒が置かれ、公園の南側の神戸関電ビルにもまた、窓明かりで1.17の文字が浮かぶ。そして、5時45分30秒くらいからスピーカーにより時報が流れ始め、地震発生時刻の5時46分になると1分間の黙祷が捧げられのだ。まだまだ日の出まで時間があるために空はまだ暗いものの、マスコミ各社の照明も落とされ、静寂な中に、少しのすすり泣きと、シャッター音が響き渡る。

竹筒に仕込まれた蝋燭に灯されるのは、東遊園地の一角に設けられた慰霊碑の「希望の灯り」なのだが、今年は少し特別だったとのこと。なぜなら、昨年、南相馬、陸前高田、大槌に分けられた火が帰ってきたためだ。また、5時46分から9時間後の14時46分に灯される「3.11」と象られたものも用意されるということもあって、まさに渥美公秀先生が仰る「被災地のリレー」がここでも見られたことになる。思いは、尊い。

その後に向かった應典院では、正午に秋田住職の読経と梵鐘により、追善法要がなされた。関西に暮らしてきた者にとって18年目のあの日を迎えた夜には、アートとNPOによる総合芸術文化祭「コモンズフェスタ」の一環で、関西県外避難者の会 福島フォーラムの遠藤雅彦代表のトークサロンを行い、聞き手を務めさせていただいた。とかく、東日本大震災は阪神・淡路大震災と比較されるものの、確かに大規模災害という点では比較することに合点がいくものの、広域性と複合性は、その比ではない。中でも原子力災害を引き起こしたという点で、被災地以外に暮らす人々にも大きな影響をもたらしたということ、本日の遠藤さんの語りの中にあった「原発は理不尽ではなく不健全に、人のつながりを断った」という表現に収斂されていたと感じてやまない。

2013年1月16日水曜日

some anniversaries

Today was 2nd session of an English class. So I went to Asahi Culture Center, Nakanoshima in this morning. I saw really clear scenery especially beteween "historical" Asashi Shinbun Building and "brand-new" Nakanoshima Fesitival Tower from Watanabebashi-bridge. The sky was blue, and consequently I was not in bule.

Today's text material was "Deflation a Determined Foe in Japan" from the International Herald Tribune. As described in that title, our conversations were featured Japanese economy by re-challaged prime ministor : the president of the Liberal Democratic Party. However, I am not well acquainted with financial topic, I could join our talk easily becauce one of a key phrase in the artcle was "prisoner’s dilemma". Perhaps, I gave an explanation that as a technical term in psychology, some of colleagues invited me to lunch. (But already I have an appointment in the Outenin-temple at 1 PM, I promised them to go next week...)

After a brief meeting to work out for the harf of the Commons Festa 2013 in Outenin, I went to the Ritsumeikan Suzaku Campus. Now, we are making arrengements for 2 year memorial of 2011 Tohoku Earthquake and Tsunami in March 11th. Last year, the day was sunday and a huge event was set in Kyoto (The 1st Kyoto Marathon), the Office for the Support of Post-Disaster Recovery by the Ritsumeikan did not plan an original event. But, in this year, we will organize some specific events among Kinugasa, Biwako-Kusatsu and Suzaku Campus by cooperated with attached schools.

In the evening, I returned to Outenin-temple, and attend the Poem School by Kanayo Ueda, the fonunder and representative of Cocoroom, Osaka. She is a great poit and continuing the school in Outein-temple for 14 years by monthly! Today a manager of the school came back from a serious illness for 6 months, so members were really welcomed and appreciated his reading and writing. My participation in the school is quite a few, but, today I realzed this school is supported by the students community.

2013年1月15日火曜日

結果から成果を紡ぎ出す

今日は、というか、今日も、バタバタの一日だった。應典院のコモンズフェスタ会期中ながら、15日間のうち、1度も現場に足を運べない2日のうちの1日が今日である。理由は立命館大学の衣笠キャンパスでの講義日、というのが理由の一つなのだが、午前中にも足を運べなかったのは、大阪府市における文化政策について、実に久しぶりの打合せが大阪府庁でなされたためだ。例のアーツカウンシルなどについての整理なのだが、詳細は「守秘義務」の遵守を書面で約束しているため、今、ここで語ることはできない。

 2012年度後期セメスターの立命館大学は、火曜日の講義が本日で終了となる。そのため、複数の科目で最終講を迎えることになり、それゆえに何らかの演出をせねば、と、工夫を重ねた。例えば、「現代社会のフィールドワーク」では、衣笠キャンパスの西門から出れば歩いて5分程の距離となる龍安寺に赴き、改めて感性を磨くことが大切であることを実感してもらうことにした。そして、18時から3時間連続で実施されるボランティアコーディネーター養成プログラムでは、前半の1コマでは、この半年の講義のキーフレーズを紐解く「早わかり」講義を行いつつ、後半の1コマでは、(コモンズフェスタにて「まわしよみ新聞」の催しが應典院でなされている時間に)それぞれに執筆されたレポートを「まわし読み」してコメントを記すというワークを行った。

 ちなみに、本日の「ボランティアコーディネーター養成プログラム」は、今期セメスター、そして今年度、さらには1999年度から続く「伝統」の最終講であった。3万5千円の受講料を徴収しつつも、社会人に開かれ、1年間にわたって、10単位パックの講義群を提供するという、他に類を見ない講座も、教養教育改革の流れを受け、2013年1月16日のびわこ・くさつキャンパスでの開講分で完全終了となる。コンプライアンスという言葉が日の目を浴びる前に始まった、よりよい学びと、よりよい社会のための仕組みと仕掛けだったが、次年度からはパッケージ化された部分は前期科目の「地域参加学習入門」と「シチズンシップ・スタディーズII」、後期科目の「現代社会のフィールドワーク」と「ソーシャル・コラボレーション演習」、そして夏期集中の「全学インターンシップ」という具合に、個別の科目に解体される。終了を惜しむ声があるのはとてもうれしいのだが、にわかに「ジョブカード」制度の復活という声も聞こえてくるなかで、学ぶことの意欲をいかに喚起できるか、新たな問いに向き合うことになった気がしている。

 ボランティアコーディネーター養成プログラムはVCTPと呼ばれてきたのだが、そんな記号化された講座名よろしく、現場での学びを整理する上での「公式」として、今日は「成果/結果≧1」という式を提示した。つまり、現場から得た経験知を「成果」とすれば、その「成果」の中に「結果」はいくつあるのか、という問いかけであり、逆に言えば「一つの結果から一つ以上の成果を導くことができているか」という投げかけでもある。数式化することにはピンとくる受講生はあまりいなかったようにも見受けられたが、後半のレポートの回し読みでは、ある程度、「結果(output)」と「成果(outcome)」の違いを丁寧に紐解こうとしている姿を見た気がする。何より、その過程のなかでは、自らが身を置いた現場の物語を丁寧に扱うことになるのだが、実はVCTP終了後に、アミタの熊野英介さん(実は会長職)のお声掛けで、京都に入洛中の陸前高田市の久保田崇副市長(僕にとっては1年後輩で、同じ時期に京都でCOP3を迎えた「くぼっち」)を招いた宴席を共にしたりもしていて、改めて学生時代(と、そのときに結んだ縁)で掛け替えのない関係を紡ぐことができていることを、多くの受講生に追体験して欲しいのであった。

2013年1月14日月曜日

翻って訳すか訳して通じ合うか

かねてより、「通訳」と「翻訳」は違う、と思ってきた。何が違うかと言えば、訳し方の違いである。その違いは、通訳者と翻訳者という具合に、人の存在を前に出すと際立ってくるだろう。それらの人がどのような場面に関わっているかと言えば、通訳者は人と人とのあいだで、翻訳者は何らかの作品とその享受者のあいだで、それぞれ媒介者となっている。

本日、應典院のコモンズフェスタでは3つの催しと2つの展示がなされていた。展示については、1階のウオールギャラリーでの福島などを撮影した冨田きよむさんの写真展が16日まで、2階の気づきの広場での前谷康太郎さんの映像インスタレーションが24日までだから、そうした会期の1日であるが、その他の3つは今日、その場でしか味わうことができない場である。当然のこと、としてよいのかわからないが、雨になると人の足は鈍くなる。ましてや三連休の最終日であったことも、人の行動に何らかの影響を与えそうだが、今日は3日間の公演最終日であった彗星マジックさんの舞台公演「アルバート、はなして」も含めて、どれも満場での開催となった。

特に、夜の「解剖!台湾雑誌『ビッグイシュー』」は、予約者の方が半分、当日参加が半分と、大盛況となった。内容については企画者で、当日の進行を担っていただいたOffshore山本佳奈子さんが「予習」と掲げた文章を記されているので、そちらを参照いただくことにしたい。簡単に内容をまとめると、1991年に英国で発祥した路上販売を原則とする雑誌「ビッグイシュー」は各国で展開されているが、2010年4月から展開されている台湾版は、販売エリアである地下鉄沿線では「ジェネレーションY(両親が第二次世界大戦後生まれの、概ね1975年から1989年生まれの人々)」が購入層になるとの見方から、当初から「stay hungry. stay foolish」を編集方針に掲げ、アートディレクションなどに創意工夫を凝らしていることが特徴である。今回、山本さんが進行役となり、大阪で「ローカル・カルチャー・マガジン『IN/SECTS』」の松村貴樹編集長をゲストに、台湾版の特徴を紐解きながら、後半の約1時間を、RinRin(林品佑)さんの通訳もと、skypeによりFines Lee編集長(とスタッフの皆さん)と大阪のお寺に集った皆さんとのやりとりがなされた。

今日の催しで、改めて「通訳」とは「言葉を選びながら通じ合う」ようにすることであり、「自分たちの世界に翻って言葉を変える」とでも言えそうな「翻訳」とは異なるものであることを実感した。かつてフィリップ・トルシエ氏がサッカー日本代表の監督を務めたとき、通訳を担当したフロラン・ダバディ氏が、相当の意訳をしている、と各所で指摘されたが、文脈があって成り立つ会話では、直訳をするだけでは相手の思いは伝わらず、互いの思いは通じ合わないだろう。ちなみに今日は昼にパドマ幼稚園の講堂をお借りして、坂出達典さんと梅田哲也さんによるサウンドパフォーマンス「美しいノイズの世界〜陽だまりに羽虫の音のかすかなり~」も開催されたが、それこそ言葉や音の世界に、曇りや澱みをなくしてしまっては、逆に違和感ばかりが際立つのではないだろうか。「ふわっとした民意」などと評される政治の世界にはいささか辟易としているのだが、それでも、ノイズなき、直訳に近い作品になってしまった、フルデジタル作画により、セル画制作の時代に感じていた「ぶれ」や「にじみ」によるあたたかさが皆無になってしまった『サザエさん』に無念を抱く、成人の日であった。

2013年1月13日日曜日

命を活かす<生>

今日はふと、「言葉遊び」と「洒落」の違いはどこにあるのか、と考えた。昨日、應典院寺町倶楽部による「コモンズフェスタ」の参加公演である、彗星マジックさんによる「アルバート、はなして」の作・演出の勝山修平さんと、本日の昼公演の直前に、ちょっとだけ立ち話をしたためだ。というのも、その折、勝山さんの開口一番で「言葉遊びがめっちゃ好きな人だったんですね」と、初日の講演に対すコメントと、それを端緒としたメッセージのやりとりを指して、改めて言葉を交わしたためだ。感覚的には、とっさの一言が「言葉遊び」かと思ったのだが、辞書を引いてみると「洒落」こそがその場の戯れであるという。

10日から24日まで連日催しが展開されている應典院の「コモンズフェスタ」だが、本日は昨日からの「彗星マジック」さんの舞台公演の他に、「震災をとおし、まちの医・飾・集を考える」というトークセッションが行われた。企画者は大阪のNPO「いい家塾」事務局の釜中悠至さんで、日頃、「衣食住」の「住」に関わって来られるなかで、今一度、東日本大震災の後、暮らしにまつわる仕事と、多様な仕事人によって支えられる<いのち>について深めよう、ということが狙いとされた。8月に立ち上がった今回のコモンズフェスタの「企画委員会」の席は、釜中さんは当初、「医・職・住」とコンセプトを定めていたが、「住」だけが「言葉遊び」による「概念ずらし」ができていないのでは、ということになり、「住」は「集」に、そして「食」は「職」ではなく「飾」となった。なぜ、飾る、になったのか、それは、今回のゲスト、要 冷蔵(かなめ・れいぞう/劇団往来座長)さんと、もう一人のゲストの長谷川寧子さん(訪問看護師)が旧知ということもあり、2011年12月から約3ヵ月にわたって全国訪問看護事業協会による「訪問看護支援ナース絆事業」で岩手県陸前高田市の「あゆみ訪問看護ステーション」で勤務した経験をもとに、要さんがトークの随所に「手記」や「仏典童話」を朗読する、という趣向を凝らすことになり、ゆえに「日頃の暮らしについて洗練した表現を織り交ぜる」また「参加者どうしの語りへの彩りを添える」ことになったためである。

そもそも英語ではともに「Life」となるが、生活と生命とは、取り扱う事柄が大きく異なる。事実、生活を支えるのが介護、それに対して生命を支えるのが看護、という具合に、それぞれを支える者の職種も区別されている。また、看護の方が介護よりも年齢や症状などで広い範囲を対象としていること、さらには介護には公的介護保険制度が導入されているなど、社会システムの位置づけられ方も、それぞれである。とはいえ、本日の語りの中にあったのだが、支援者も被支援者とそのご家族なども、個人で「抱え込まない」こと、そして日常的に「お世話になる」ことによって、生活も、生命も、すなわち互い「<いのち>がいかされる」。(それが最近は「受援力」など、個人のスキル化と名付けがなされているところに「ポキッと折れる」など感覚が伴うのでは、といった具合に一言あるのだが、ここでは立ち入らない)

何より、日常の暮らしの場面でも、また今日のような非日常のイベントの場合でも、実は「いい場」のためには、「場当たり的」ではなく「場当たり」がわかっていることが重要である。「場当たり」とは演劇用語の一つで(も)あるが、映像と違って「撮り直し」がきかず、ただ時間がただ過ぎていく舞台芸術では、役者の立ち居振る舞いのための「きっかけ」をつかむための稽古が欠かせないのd。「場当たり」があってこその演出と演技が、リアルな営みのリアリティを高めるのだ。今回の場は、「衣・食・住」を「医・飾・集」という具合に言葉でずらし、ホストとゲストの皆さんが應典院に足を運んでくださることで、何度も「場当たり」が重ねられ、東日本大震災以降の「リアル」な医療の現場の語りと、被災地での物語を紡いだ手記が「リアル」に朗読されることで、死と生の「リアリティ」が高まった、そんな場であったように思う。

2013年1月12日土曜日

共有地と悲劇

現在、應典院で開催中の「コモンズフェスタ」の「commons」とは、共有されたもの、を意味する。コモンズとは、生態学者のギャレット・ハーディンによる1968年の論文「The Tragedy of the Commons」(「共有地の悲劇」という定訳がある)によって、特に経済学的に注目され、昨今では、社会(学)的、さらには環境(学)的に、目に見える資源の管理方法だけでなく、例えば知恵や文化などの目には見えないものも含めて大切にしなければならないとされている。ちょうど、本日の「コモンズフェスタ」のプログラムであれば、研究室Bで開催された「葬食〜盆とは皿を分け合うこと」は、まさに「食作法」などを通じて、その場に集う人、またその場に集う人たちにまつわる他者(当然、そこでは目には見えない他者、すなわち、死者も含まれる)とのコモンズが取り扱われるものとなった。こちらの詳しいレポートは、應典院スタッフの斎藤佳津子によるコラムを期待することにしよう。

今晩は應典院の本堂ホールでの「彗星マジック」による舞台公演『アルバート、はなして』(作・演出:勝山修平さん)を鑑賞させていただいた。劇団の案内に目を向けると、「2002年結成」「空想のリアルが念頭にある無国籍ファンタジーを基盤に物語を紡ぐ」とある。残念ながら、幕が開くまで、公演の概要にちりばめられた「数」に対して想像力が及ばず、このアルバートがAlbert Einsteinであるということがわかっていなかった。ただ、チラシの表面には「希望と公開に苛まれ続けたユダヤ人理論物理学者と神と、それを取り巻く人と世界のむこうの話」と記され、裏面には例の写真(今回の戯曲では、フリーの写真家による病床への取材ということにされていたが、例のアーサー・サスによる、あのカット)をモチーフにしたものがあるから、わかる人にはわかるであろう。

ということで、ネタバレにならない程度に作品の世界に触れながら、観劇の印象を綴らせていただくことにする。このお芝居で圧巻だったのは、大黒が落とされた向こうから御本尊(阿弥陀仏立像)が見つめる前で繰り広げられる、倫理に関する周到なやりとりであった。と書き始めると、どうしても物語の核心に触れてしまいそうなので、鑑賞後に「台本を買わせていただいた」ということで、作品世界に強く引き込まれたということを示させていただくこととしたい。ちなみに舞台芸術では、「大道具」や「小道具」などが練り込められることが多いが、このお芝居ではそれらは「ほとんど」用いられず(事実、チラシのスタッフ紹介にも、そうした役を担っている人は見受けられない)、見える世界では「衣装」の力によるところが大きく、むしろ音響と照明と戯曲と演技によって、過去と現在(と過去)との時間軸(とパラレルワールドとの交錯)が構成され、それこそ「空想のリアル」が鑑賞者に現前する。

終演後の舞台挨拶でも「コモンズフェスタ参加公演である」ことが主演(の一人)の小永井コーキさんから伝えられたが、東日本大震災(特に、東京電力福島第一原子力発電所からの放射線被害)を積極的に取り扱った今回、この『アルバート、はなして』演劇公演を通じて、現代社会に落ちた陰を、第一次世界大戦から第二次世界大戦へとドライブされていった世相から、丁寧に紐解かれたものであると確信している。作中では「3」という数字へのこだわり、またとらわれが重要となるのだが、終演間際に「第一次」と「第二次」の世界大戦の次には、「第三次」がやってくるのでは、ということがふと、脳裏をかすめた。そんなことが起きれば「大惨事」だ、などと、劇中のアドルフの芝居を天の邪鬼に見つつ、この作品が残り明日13日の14時と18時、14日の14時の3回しか鑑賞いただけないことは、「コモンズフェスタ」の主催者側の一人として、小さな悲劇かもしれない、と思うところである。

2013年1月11日金曜日

諸行無常の表現

視覚世界を言語で表現するのは難しい。逆に、言語の世界を視覚化することも、簡単なことではない。ただ、應典院での「コモンズフェスタ」では、1998年以来、アートとNPOによる総合芸術文化祭と標榜しているとおり、毎回、作家による視覚と言語の両面から、世界の表情に触れる機会を設け続けている。ただ、今年は言語と表現が特に密接に絡んでいるように思えてならない。

 2012年度の應典院寺町倶楽部「コモンズフェスタ」の統一テーマ「とんちで越境!」のもと、その期間全般(2013年1月10日木曜日~1月24日木曜日)にわたって展示されているのが、前谷康太郎さんの「samsaara(輪廻転生)」である。もともと言語学を大学で修めた前谷さんは、新しい映像言語を模索する中で辿り着いた「映像言語」が、何もない瞬間でも、それが表現としても成り立つものを光の配列で成り立たせる、という手法だった。そして2011年、「オルタナティヴ・コマーシャル・ギャラリー」と掲げている大阪市此花区の「梅香堂」での「(non) existence」以来、各地で発表が重ねてこられた。今回、はじめてとなるお寺での展示あたり、サンスクリット語でsamは「相対」、saaraは「流れ」を意味する「samsaara」という作品名のもと、全ては流れるという「諸行無常」が、18台のビデオモニターの明滅によって表現されている。

会期2日目の本日、今回の企画の担当を担った應典院スタッフの小林瑠音の進行のもと、前谷康太郎さんと、梅香堂のオーナーである後々田寿徳さん、そして應典院の秋田光彦代表のトークが行われた。前谷さんからは、「青空」をモチーフに明滅のリズムによって日照時間を表現された作品であること、またその意図は墓地を見渡せるロビーで一ヶ所に集められたモニターの共時性の中から、生まれては死ぬという無常観を感じてもらいたいため、などが語られた。続いて後々田さんからは、長らく前谷さんの作品に触れてきた背景から、作風の特徴として、「どこでも実験をする」こと、そして「それが個性的で、美術的でない」こと、すなわち「理系的で、理詰めであること」、さらには「今回は明らかに三次元的に奥行きと高さを見せて配列させた」ものの、「バランスの悪いところが彼の持ち味」であり、加えて「昼間と夜とで全く感じ方が違うので、環境に左右されることによる印象の違い」を見て欲しい、と、厳しくも温かいコメントが返された。前谷さんの口から後々田さんを「師匠」と呼ぶ場面があったことからも明らかなように、確固たる信頼関係に結ばれた二人の対話がある程度重ねられた後、秋田住職から、「色や灯りに溢れた現代において、修行を体験したものしか出会えない風景がある」こと、「應典院が捉え続けているのは宗教とアートが近似的な存在であり、そこには生と死をつなぐ媒介物として表現がある」こと、「明治以降の日本では、世界が急速に言語化され、わかりにくいことがわかりやすくと翻訳、翻案されて、情報として加工されてきた」こと、などと評された。

 1時間ほどのトークであったが、個人的には「社会化」に関する3者の視点が興味深かった。そのテーマが議論の俎上に載ったきっかけは、前谷さんの「普段は暗室のような場所での展示を行ってきたが、一番明るくて、場所性に対応できること作品を考えたら、この形となった」という語りで、そこに進行役の小林から「地域性」は関係ないのか、という問いを投げかけたことによる。そこに後々田さんが、「19世紀から20世紀のホワイトキューブでの展示に比較してみれば、宗教空間は洋の東西を問わず、展示する機能としての歴史を持ってきた」と前置きした上で、「ただし、そうした美術館やギャラリー以外での展示は、野外での展示も含めて、特別なことではなく、むしろ一般になってきた」こと、転じて「お魚屋さんの社会化」などが問われないように「それぞれに取ってあたりまえの風景になっていけば、社会化の意味などは問われない」と返されたのだ。「ソーシャルアート入門」と題した本が出版されるなど、とかくアートの社会的な意味が問われているところであるが、それが陳腐な有用性や、表面的な秩序を成り立たせしめるための道具として消費されるものとならないよう、空間に身を置き、時間の変化を思う、静かな営みが大切にされなければ、という思いに駆られた場であった。

2013年1月10日木曜日

静かな怒り・鎮まぬ怒り

2012年度の應典院寺町倶楽部のコモンズフェスタ「とんちで越境!」が、本日より、報道カメラマン冨田さんの写真展「黄ぐまくん、被災地にいく〜東日本大震災は終っていない」とトークで開幕した。15時から3時間半にわたるトークとパーティーが開催されたのだが、冒頭、2011年3月13日に東松島で撮影された写真を紹介する折、「あの日に引き戻されそうになる」から「一番見たくないのは自分」と前置きをされたのが印象的だった。これまで、フリーの報道カメラマンとして、世界の紛争地に赴いてきた冨田さんも、今回は「押せなかった」という。現在54歳の冨田さんは、東京大空襲、広島・長崎の原爆被害を見てはいないが、現地などで当時を知る方から「どこか似ている」という声が出たこと、そして撮影を重ねる中で「知らないあいだにご遺体を踏んで歩いていたのではないか」という点などが、これまでのどの機会とも異なる、という。

 冨田さんの語りは穏やかだが、その中に、静かな怒りが込められていた。例えば、岩手・宮城・福島と、各所を回るなかで、放射線被害が指摘されるが、重金属被害、またアスベストなどにより、今後、想像を超える後遺障害が出るのでは、と指摘された。ただ、聞き手の関心を駆り立てるために、ウィットに富んだ語りも織り交ぜられば。文脈を無視して切り取ってしまうと唐突感があるかもしれないが、武論尊さん・原哲夫さんによるマンガ『北斗の拳』のシーンを例示して、発災当初の現地の状況を説明したときには、緊迫感が高まった会場の雰囲気も、一瞬、和らいだように思う。

 今回の写真展は、「関西県外避難者の会 福島フォーラム」の皆さんの協力で開催した。そもそも、今回のコモンズフェスタは、1998年の開会当初の原点回帰で、実行委員会形式での企画運営によっている。この「関西県外避難者の会 福島フォーラム」とは、文字通り、故郷を離れ、関西にて生活を送っている方々であり、いつ帰ることができるかわからないという不安の只中で、チェルノブイリにも取材を重ねてきていた冨田さんと出会ったことから、「ぜひ現在、生活の拠点である関西にて、冨田さんの写真とトークの場を儲けたい」という思いを抱き、今回の企画に結ばれた。開会にあたって読み上げられた「当事者」の願いは、静かなお寺の本堂に響いた。

ちなみに開場から開会までのあいだには、加藤登紀子さんによる「今どこにいますか」の映像を流させていただいた。YouTubeにアップロードされた日は2011年の3月24日であるから、「あの日」から2週間弱で「かなしみはあなたの胸で 大きな愛に変わるでしょう」(2分12秒〜)と歌った加藤さんの祈りを随所に垣間見るところであるが、実はこの映像の中で、歌と重ねられた現地の写真こそ、冨田さんが撮影されたものなのだ。とりわけ、「出来るだけのことをして それでも足りなくて 悔しさに泣けてくる」(2分24秒)という部分は、既に671日が経過した今でも、あるいは今こそ、涙を駆り立てると共に、最後の「出来ることをひとつづつ またひとつ 積み上げて 泣きたければ泣けばいい」(3分24秒〜)の言葉に、小さく救われる気がする。同じく本日から始まった、2階ロビーでの前谷康太郎展示「samsaara(輪廻転生)」は1月24日まで、コモンズフェスタの会期全般にわたって実施されるものの、冨田さんの写真展は16日までとなっているので、ぜひ多くの方々に、50点ほどの写真から、彼の地に思いを馳せていただければ、と願っている。

2013年1月9日水曜日

Fun to...

Today, I have re-started to study English. Of cource, I had been to study English as a curriculum in school years. But, now I want to focus into a living English for using in a business or daily communication.This is the reason why I should say "re-stated".

So, I was entered to a class of "English through Current Topics" by Asahi Culture Center, Osaka. I joined from this semester, however, this class have continued in several years. So, the longest student belongs to 20 years! And today was a memorial day moving from Asahi Shinbun building (5th flooor) to a brand-new "Nakanoshima Festival Tower (18th floor) " at the opposite sides of the Naniwa-suji avenue.

The lecturer, named Tad McNulty, is advisory staff of Graduate School of Core Ethics and Frontier Sciences in Ritsumeikan University. So, we are colleagues! Anyhow, In this class, we don't use a text book but use an article from Herald Tribune. One semester is packaged in 10 session, and student must discuss about a selected article (which is voted 2 weeks before in each session) after the presentation by a voluntary presenter.

 I remember a catch copy "Fun to drive" used by Toyota Motor Corporation in mid 80's. In this class, I feel that all of the students were quite energetic, and really fun to speak English! From 2011 autumn, Toyota introduce a slogan "FUN TO DRIVE, AGAIN" in a campaign of "Re BORN Toyota". Therefore I encourage my self to put the slogan "Fun to speak English" and "Fun to study, again".

2013年1月8日火曜日

命名への思い

何事にも命名することは大事である。以前、京都の西陣で育てていた猫には「マリン」と名付けていた。ちなみに19歳のときに先輩を通じて1万円で譲っていただいたAE86トレノ(白黒のパンダカラーの前期型APEXで、サンルーフとパワーウィンドウ、さらにADVANの13インチアルミホイール付という、今では垂涎ものである)には「カエル号」、それが事故で廃車になった折にカラオケのバイト先の先輩から無償でいただいた軽バン(えんじ色のホンダのアクティーストリート)は「あずき号」、それも事故で廃車した後にこれまた(体育会の)クラブの先輩のつてで保険の契約が条件で車両は無料で譲っていただいたS13シルビアの黒(後期のQ's)には「くじら号」という具合に、モノにも呼び名が付けられる。その他、NPO活動では、事業名はもとより、組織名なども提案させていただき、採用いただいたものもある。

今日の朝は、立命館の朱雀キャンパスにて、災害復興支援室の主催により、今年の3月11日に行う企画についての打ち合わせだった。東日本大震災から1年を迎えた日が日曜日で、かつ「京都マラソン」の開催日ということも重なって、ことさら学園として統一の催しを実施することにはならなかった。ただ、今年(から)は何か「忘れないための場」を創出しようと、年末の定例会議後に一度、昨夜に一度、そして昨日の後席での話も振り返りながら本日と、打ち合わせを重ねてきている。ここでも、そうした場にどんな名前をつけるのか、少し意見を述べさせていただいた。

昼からは立命館大学の衣笠キャンパスで講義だった。火曜日の講義は来週で終了となるので、今週が「エンディング」に向かう、最後の山場となる。そのため4限の「現代社会のフィールドワーク」では、前回、58人が10チームに分かれてポスター発表を行った内容の振り返りを行い、6限の「ボランティアマネジメント論」ではecotoneの太田航平代表をゲストに他セクターとの協働についての話題提供とディスカッションを、そして7限の「ボランティア活動支援演習」では年末最後の講義で提出されたレポートの草稿に赤ペンチェックとして返却したものを「同じ課題で悩むグループ」ごとに読み合わせをすることにした。6限と7限は、前期から続くパッケージ型履修(10単位)による「ボランティアコーディネーター養成プログラム(VCTP)」の科目なのだが、レポートの読み合わせでは、レポートのタイトルが未定の受講生も多く、命名への苦労を推察するところである。

今、身を置いている立命館は、宗教的な拠り所はないものの、「憲章」にも記されているとおり、学園の名称には孟子による「尽心章句」の一節から名付けらたことにより「命」という文字が含まれている。そこで、立命館災害復興支援室による、東日本大震災から2年を迎える場には、「いのちのつどい」と名付けられないか、と提案させていただいた。「平和と民主主義」を教学理念に掲げている立命館は、かつて日本軍が真珠湾攻撃を行った12月8日に「不戦のつどい」をしていることも、名付けの系統として不自然ではなかろう、と考えたところもある。果たして、来週の定例会議でどう位置付けられるかは不明だが、ちなみに同志社の専任教員だったころには、その名前「同志による結社」という観点にたまらなく美しさを覚えており、そんなエピソードもまた、名前について並々ならぬ関心を抱いてきた証左となろう。

2013年1月7日月曜日

ハレの日の決意

TPOという概念は、VAN(正確にはヴァンヂャケット)の設立者、石津謙介が定着させたという。時(Time)と場(Place)と場合(Occasion)にあわせて、着る服を選ぶべし、という提案だが、これは何も服に限ったことではない。それは「時と場による」、また「時と場合による」という具合に、日常会話においては、3つのことばが2つずつに区切って使われていることが多いことからも明らかであろう。ただ、「時と場」としたときの「場」は、静的な空間を意味し、「時と場合」としたときの「場合」は、いわば動的な空間として特定の状況で生じたある場面を意味するだろうから、この3つの語が並置されて提示されているところに、戦後の日本において新たな衣食住のスタイルを牽引した氏のセンスを伺い知ることができよう。 

本日は仕事始めということもあって、三つ揃えのスーツで出かけることにした。朝は應典院でスタッフ一同による年初のお勤めがあり、その後は立命館で今年最初の機関会議が設定されていた。そうして大阪から京都に移動する途上で、お世話になった方をお見舞するとと共に、今年もまたお世話になる方と昼食をいただくことにもした。そんなこともあって、少々、かしこまった服をまとうことにしよう、と思ったのだ。 

ただ、普段は比較的ラフな格好をさせていただいていることもあって、行く先々で「どうしたんですか?」と訪ねられた。立命館も、同志社も、本日から講義だったのだが、特に立命館では、サービスラーニングセンターに出入りしている、なじみのある学生からは、彼女が電話に応対している最中に部屋に入ったことも重なって、二度見ならぬ三度見をされたりもした。立命館と同志社で講義のはしごをして、夜には立命館災害復興支援室の集まりに出かけたのだが、そこでは「七五三のよう」と、気心が知れたゆえのあたたかいお迎えもいただいた。なかなか、TPOへの配慮は簡単ではない。 

翻ってみれば、ノマドワークなどが象徴するように、どこでも仕事の場とすることができるような環境がある今の時代、最早「晴れ着」や「余所行き」という感覚が次第に薄められているのかもしれない。ただ、そうして慌ただしく過ごす毎日においても、人は多くの場面にでくわしているはずである。さしずめ、今日の出で立ちは、自分にとっての今日が「ハレ」の日であると思っての行動だったのだが、転じてそれは、これから始まる「ケ」の日々においても、きちんと服装や態度に努めていこうという決意を固める機会になったのかもしれない。まず、そのためには、本日、久しぶりに袖を通したところ、首回りを締め付けたシャツ、高級ハムのように身体をくるんだベスト、自ずから背筋が伸びるジャケットとなってしまったことを大いに反省せねばなるまい。

2013年1月6日日曜日

祭りのための習い

大阪でアーツカウンシルをつくる、という動きに、2007年から関わってきた。関わるきっかけは、2006年12月、地下鉄御堂筋線・堺筋線「動物園前駅」の地上にあった「フェスティバルゲート」閉鎖に伴うアートNPOと芸術文化のあり方を考える集まりに参加したことだった。その後、その集まりの呼びかけ人が中心となって、2007年4月に大阪市長選を前に「大阪でアーツカウンシルをつくる会」が設立されることになり、関係者の利害関係を考慮して、事務局長の職で携わることになった。そうした経緯は、2012年5月から4回連続で連載させていただいた、トヨタ自動車と企業メセナ協議会によるアートマネジメント等に関するサイト「ネットTAM」でもまとめたところであるが、2012年4月からは、大阪府市統合本部による都市魅力戦略会議のメンバーとして、アーツカウンシルの制度設計を担ってきた。

本日の午後、大阪歴史博物館で開催された「第8回大阪アジアン映画祭特別連続ゼミナール」にお邪魔した。ちょうど1年ほど前の2012年1月9日、件の「大阪でアーツカウンシルをつくる会」と「アートNPOリンク」との協働で、「大阪の転機に、アーツカウンシルを」を開催したのだが、その際にもお招きをした景山理さん(宝塚のシネ・ピピアと大阪・九条のシネ・ヌーヴォの支配人)が手厚く迎えていただいたこともあって、周りのスタッフの方から「アーツカウンシルの方ですよね」と声を掛けられつつ、何点か資料を手渡しいただいた。で、なぜお邪魔したのかというと、大阪市文化振興会議の委員として、助成事業の実地評価のために伺ったのである。なんだか、「お邪魔する」という表現が、実に言い得て妙な気がしている。

日本におけるアジア映画の「第一人者」という映画評論家の暉峻創三さん(大阪アジアン映画祭プログラミング・ディレクター)による5回連続のセミナーの4回目は、香港映画が主題であった。開会5分前には着いたものの、60人の定員の会場は、3人掛けで用意された机で両端が空いている席はなく、片側が空いている机が2つほどで、3人が座っているテーブルも5つあった。年始早々の講座ということもあって、最初の15分は受講生の皆さんに年末年始の過ごし方を尋ねることでアジアと映画の話の枕とし、そこから30分ほどは昨年の香港映画の興行ランキングの紹介と解説、そして第一位(4269万香港ドル)に輝き、現在も公開中という『寒戦』(日本未公開)のAsia Pacific Film Festival用のサンプルDVDが約10分、上映された。そこからは外国映画も含めた香港での映画興行のランキングと、日本映画のランキングとの比較のもと、役者や題材や物語の「ローカル化」が進んでいるのでは、との分析が示された。

中央のプロジェクションのスクリーンを挟んで置かれた2台のホワイトボードを活用し、決して早口でまくしたてず、ゆったりとした低いトーンで語る暉峻さんのお話を、受講生(会場の46人中、男性とお見受けする方は11人で、後は女性と思われる)の皆さんは総じて手書きのメモやスマートフォンでの写真メモを熱心にとっていた。終了後、暉峻さんに伺ったところによると、「このセミナーの受講生も含め、大阪アジアン映画祭の参加者は関心が高く、皆さんからいただく声で、映画祭がつくられていっている」とのこと。確かに、受講生向けの配布資料としてまとめられていた第1回と第2回目のアンケートのまとめや、終了後に受け付けされていた受講生特典の「日本未公開の過去の映画祭上映作品の貸出の受け付け」の列からも、それぞれの思いを窺い知るところである。何より、そもそも講座が日曜の15時に設定されていたのは、16時半に終了してから、皆さんが心待ちにしている「恒例」の懇親会があるためだったことを、最後に知ることとなった。

2013年1月5日土曜日

人間関係を織りなす

先般、「年賀状なんて面倒くさいもの、なくなればいいのに」という声を聞いた。しかし、面倒くさいと思うならばこそ、したほうがいいと、天の邪鬼な性格ゆえに投げ返してしまう。投げ返された方はたまったものではない。なぜなら、そもそも、そんな応答を望んでいるのではなく、ただ、思いを吐露しただけなのだから。

そもそも、「○○だから」と「○○だけど」が異なることは、よく対比的に語られているだろう。似たような論理で、「○○も」と「○○しか」の関係も、よく対比されるように思われる。いずれの組み合わせも、ポジティブ思考か、マイナス思考か、というように位置づけられるかもしれない。しかし、事はそんな単純ではなく、自分に向けての合理的な判断をしているか、他者に向けて倫理的な判断をしているか、そうした価値の置き所に違いがあるのではなかろうか。

少なくとも、年賀状については、自分が面倒くさいから(しない)、ではなく、自分は面倒くさいけど(する)、というものだと捉えたい。理由は、年賀状には必ず相手があるからだ。そのため、年賀状を出すか出さないかは、自分だけで決められる問題ではなく、宛名に掲げられる相手が自分をどのように思っているのか、一定の想像力を必要とする複雑な問題なのである。よって、ただ出せばいいわけでもなく、その反対に、ただ出さずに済ませられるわけでもない。

特にインターネットの普及に伴って、いよいよ年賀状の存在意義が問われている、などとも言われるのだろうが、そんな時代だからこそ、ネットワークのメンテナンスのためにも、年賀状は重要である。事実、自分に届く年賀状の中にも、また自分で送っている年賀状の中にも、「年賀状だけのつきあいになっているけど」という枕詞が暗黙の了解になっている人がいる。それでも、長年にわたって親交が続いているのは、一年に一度のことであるが、近況とあわせて最新の住所を伝え合っているからなのだ。このように、年賀状をことさら大事なものと捉えていながら、なかなかその手入れが追いつかず、新しい年になって数字が過ぎた今、後ろめたさを自筆の宛名書きで覆い隠して送っていることは、ここだけの話、である。

2013年1月4日金曜日

乱用ではなく愛用を

正月と言えば○○初め、だが、今日から2つのものを使い始めることにした。ただ、買ったのは今日ではない。が、三が日も明けたので、今日を起点とすることにしたのだ。とはいえ、それぞれを本格的に使うのは、週が明けてからと思われる。

一つは靴である。長らく、ビジネスシューズはTrippen、スニーカーはオニツカタイガー、といった具合に贔屓のメーカーを決めてきたが、最近は目的に対応した機能を鑑み、選択の幅を広げるようにしている。今回は、1月末から2月にかけて連続する出張にあわせて、ゴアテックスを採用した完全防水のショートブーツを購入することにした。ちなみにメーカーはアサヒで、トップドライシリーズのTDY38-35という品である。

もう一つは鞄である。自他共に認めるモノフェチということもあり、こちらもまた贔屓のメーカーを決めており、長らくビジービーバーのものを選んできた。今も同社のものを愛用しているが、それとあわせて、ここでも防水に配慮してORTLIEB、丈夫さと経年使用の観点から一澤(信三郎)帆布、さらにはものづくりに際しての物語に余りあるマザーハウス、そしてこの1年ほどはデザインと品質からEasternShapeの「Forca」を常用してきた。が、今回、約1週間をかけての海外調査に出かけるということもあって、容量と機動性と安全度から、これまでにはないものを選ぶことにした。吟味の結果、新しい相棒はスーパーコンシューマーの「ひらくPCバッグ」となった。

大学に入り、学部生の頃には建設・土木系に身を置いていたということもあり、建築系の講義もいくつか受講したのだが、あまり真面目に授業には出なかったものの、ものづくりにおいては「用・強・美」が重要である、というフレーズが、今でも胸に響いている。この3点は、古くはローマ時代にウィトルウィウスという建築家によって著された、現存する最古の建築理論の書物に残されたいるという。「utilitas:用、firmitas:強、venustas:美」といった具合に並べられてもピンと来ないが、使いやすくて、丈夫で、綺麗なもの価値があることは、時代を越えても不変であろう。そして、それらを兼ね備えたものは、ただ所有するだけでなく使用してこそ、より価値が高まると捉えることにして、単に荒く使う乱用ではなく、きちんと使い続ける愛用に努めていくことにしたい。

2013年1月3日木曜日

老いと足

親と話をすると、自ずと幼少期の頃の暮らしの記憶が引き出される。今回の帰省では、ふと、漫画『キン肉マン』を思い出し、中でも「金のマスク編」で織り込まれたギリシャ神話の一つ、『オイディプス王』からの一節「朝は4本、昼は2本、晩は3本の足に…」という謎かけが脳裏に浮かんだ。ちなみに、こどもが父親に対抗意識を抱きながら母親への欲望を高めていくことをフロイトが「エディプス・コンプレックス」と呼んだのも、このOedipus王の物語になぞられたゆえんとされている。なお、この物語はソポクレスによる著作が、藤沢令夫版(岩波文庫)と松平千秋版(ちくま文庫)と、性格の違う邦訳で読むことができるようなので、また比較して通読してみたい。

今回、『キン肉マン』で紹介された一節が思い浮かんだ直接の要因は、初詣に共に出かけた父が、おもむろに杖を準備して歩き始めたためである。上掲のエピソードでは、盗まれた金のマスクが本物であるかどうかを確かめるため、銀のマスクが「朝には四本の足で歩き昼には二本足となり最後に夕方になると三本足になる生きものは!?」と問いかけている。調べたところによると、この話は、週刊少年ジャンプの1983年8号に掲載された「黄金のマスク編 (27)超人の使命!!の巻」で、1984年3月15日付で発行のジャンプ・コミックス「キン肉マン第15巻〜ジェロニモ絶体絶命!の巻」に収められているという。リアルタイムで呼んだ記憶があるから、小学校低学年のうちに触れた「老い」に対する気づきが、現実の世界で自分の父親の姿に見られたことに衝撃を覚えた。

老いるのは人間だけではない。例えば、社会システムもまた「劣化」という表現が用いられる。事実、昨年末に天板の崩落事故が起きた「笹子トンネル」をはじめとして、建設・土木関係のインフラの劣化は、今後の市民生活における安心・安全に大きな影を落としただろう。そもそも、現代社会は「成熟社会」や「低成長社会」あるいは「定常型社会」などと言われている。人口減少を前提とすれば、最早、現状維持がなされるだけであっても、相対的には成長していると捉えることもできそうだ。

今回、自分の実家(静岡県磐田市)と妻の実家(静岡県沼津市)へと向かったのだが、駅からの周辺の風景を、それぞれの親の車を「足」として、車窓から眺めてみると、目をつぶってから開いたところで、そのまちがどこかを言いあてることが難しいのではないか、という印象を覚えた。懐かしい建物などがないわけではないが、むしろ、いわゆるロードサイド店や、コンビニエンスストアや駐車場を含めた各種チェーン店・フランチャイズ店へと変わってしまった光景に思い出深い心象風景を重ねることの方が多かった。精確な表現を辿ることができないのだが、かつてデーブ・スペクター氏が、日本の風景は「東京・東京に似た都市・田舎・京都や奈良のような古都」の4つに分けられる、といった発言をしていたこともまた想い起こした、束の間の帰省であった。

2013年1月2日水曜日

まちに生きる作法

心象風景とという観点がある。自分が思い描く場面と、実際の風景が異なる場合がある、という視点だ。もちろん、それがモノだけではなく、人を含む環境の総体に対して向けられる。通常は「心の中に思い浮かぶ風景」などと説明されるが、社会構成主義に基づくグループ・ダイナミックスの理論に基づけば、実際の風景にオーバーレイされるようなもの、と考える方が、ピンと来る気がする。

本日、朝から実家に帰省した。昼から弟の婚約者の方も含めて会食する予定が立てられていたためだ。新大阪から新幹線に乗り、浜松駅で在来線に乗り換え、磐田駅に降り立つと、見慣れた風景が変わっていた。既に、馴染みのある駅舎から建て替えられて久しいのだが、個別の建物の問題にとどまらず、まち全体の雰囲気そのものが、高校卒業までを送ったまちとは違う雰囲気をまとっているように思えてならなかった。

食事のあと、父親の年賀状を「本局」と呼ばれている磐田郵便局に出しに行ったついでに、その足で妻とともに散歩することにした。まずは1875 (明治8)年に開校の、日本国内で現存する最古の木造洋風校舎である「旧見付学校」の外観を、続いて学齢ごとに思い出のある今之浦公園に足を運んだ。歩きながら仰ぎ見る風景は、容易に想い起こすことのできる風景とは大きく異なるところもあったが、逆に言えば、その時々の思い出が、かけがえのない友人たちと共に呼び覚まされた。区画整理が進み、移動の利便性が高まったまちを歩いてみると、個々の場所で丁寧に時間が費やされているのか、といったことを考えてしまう。

公園から自宅へと戻る途中、小学校中学年くらいと思われる三人の男子から「こんにちは!」と元気に声をかけられた。社会学者、アーヴィング・ゴフマンは、都市の作法を儀礼的無関心(Civil inattention)呼んでいるが、誰に言われるわけでもなく、自ずから声をかける規範のある子どもたちが、自らのふるさとで育っていることがわかった。多感な時期を送ったわがまちは、目に見える風景は変わっているものの、変わらない何かが継承されている、そんなことを誇りに思いながら、今後も自らのふるさとの風景を思い描いていくことにしよう。ちなみに、今回の帰省では、この足で妻の実家、沼津に向かうのだが、果たしてふるさとをどう語るのか、楽しみが一つ増えた気がする。

2013年1月1日火曜日

僧として7年、ブログを続けて3日…

気づかぬうちに、「新しい朝が来た 希望の朝だ」というフレーズを想い起こすときがある。多くの人々がご存じの「ラジオ体操の歌」である。その昔、正月になると「初日の出」のように演出されたCMなどを見ると、「よく、こんな風景が押さえられたな」と思ったりもした。しかし、よく考えてみれば、変わらず、朝はやってくるのだから、別に1月1日の日の出を狙って撮影し、それを「初日の出の映像」として放送する必要もない。

ただ、変わらず朝はやってくるという感覚は、健康で平和でなければ抱けないかもしれない、とも考えるようになってきた。「老いを感じる」などと言ってはお叱りをうけそうなのだが、少なくとも年々「若くはない」という感覚は確かなものとなっている。何より、2011年3月11日以来、変わらない毎日を送ることができることがいかに尊いか、そんなことに思いを巡らせる場面に多数立ち会ってきている。だからこそ、今というときを大切にせねば、と、内省と自戒を重ねることも少なくない。

2012年の末、ふと思い立って、ブログを再開することにした。そして元旦の今日、「初笑い」と掲げられたテレビ番組にあまり笑いを重ねることができず、ウェブサイトをリニューアルすることにした。というのも、例年、大晦日から元旦にかけては、籍を置いている浄土宗大蓮寺・應典院での除夜の鐘を手伝わせていただき、お昼には学生時代から8年ほどお世話になった西陣のお宅に年始参りに伺っていたのだが、今年は先方が喪中であることと、旦那さんが加療中ということもあって、例年とは違った元旦を自宅にて送ることになったためでもある。一年の計は元旦にある、そんなことを大晦日に思った昨日に対し、元日の今日は「今日という、変わらない一日」をどう過ごすかを思いながら、時間を過ごしてみた。

浄土宗の僧侶になって7年、まだまだ、その教えを生き抜いたとはとうてい思えない。それでも、「ウェブ上の日記(ログ)」を続けていくという、自らが立てた誓いは、年をまたいで続いている。2013年、変わらずこのブログが更新できれば、と思う。どうか、皆さんも変わらず、自らを律して、この時代を生き抜いていかれることを願うところである。