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2013年9月19日木曜日

バイヤーとクラークとソムリエ


1泊2日で、立命館大学サービスラーニングセンターの学生スタッフ「学生コーディネーター」の合宿に参加している。合宿は年に2回、開催され、2つのキャンパスのあいだで、交互に会場が設定されている。2015年の予定とされている「大阪いばらきキャンパス」が開学したらどうなるのか、それはそれで、難しい問題だ。ともあれ、今回はびわこ・くさつキャンパスの「エポック立命21」での開催である。

基本的に、学生による活動は学生による自治がきいていることが望ましいと考えているで、企画の詳細には立ち入らないようにしてきているが、詰めの甘さがどうしても気になってしまう。特に「これでいいんじゃね?」という流れになったときは、なかなか黙っていられない。原研哉さんの『デザインのデザイン』からの受け売りだが、「それでいい」というときの「で」が、投げやりの「それで落ちつける」なのか、納得した上での「それで落ちついた」のか、問いかけずにはいられないのだ。すなわち、合点がいった「それで」に収まるまでには、いくつもの「これが」「あれが」が浮上して、文字通り「が」が張られ、やがて強烈な自己主張が共同主観へと収斂されているはずである。

立命館大学サービスラーニングセンターが設置された背景には、1999年度に産業社会学部によって開講された「ボランティアコーディネーター養成プログラム(Volunteer Coordinator Trainig Program:VCTP)」がある。誰かと誰か、大学と社会、人と活動、そうした2種類以上の要素をつなぐ存在として、代のため人のために動く立場への実践的な学習を経て、学習した知を実践する機会として、学内のボランティアセンターでの学生スタッフとなる、そうした流れがあった。VCTPは、社会人と共に学ぶ、10単位のパッケージ科目という、他に類のない正課科目群であったが、残念ながら、2012年度をもって終了した。そのため、時にボランティアコーディネーターながら、ボランティア経験が浅い、というスタッフが、徐々に増えてきている。

「野球をしない野球解説者」という例え話で、現場を知ることの大事さを語っていた時期があるのだが、今回の合宿では顕在的・潜在的の如何を問わず、課題から問題を抽出し、解決のための行動計画を策定する、という内容が盛り込まれていたため、新しいアナロジーとして「バイヤーとクラークとソムリエ」で説明していくことにする。要は、どのようなボランティア情報を獲得するのか(商品の売り手であるバイヤーの姿勢)上では、どのようにボランティア情報を提供するのか(商品の買い手へのクラークの姿勢)だけでなく、「自分はどのようなものを獲得し、提供される側は何を求めているのか」を見極める(実際に味わっていて特徴の表現がか可能なソムリエの姿勢)が大事だ、ということである。端的に言えば、実際に活動せず(ワインで言えば、呑まずに)、周囲の情報(産地、原料、仕込み方、売れ筋、値段などのスペック)だけで判断していては、求める相手に選択や判断をあおることはできないだろう、ということである。逆に言えば、ボランティアの活動をせずにコーディネートに努める姿勢に対して、お酒が得意かどうかにかかわらず、年代の違いや、ワイナリーの違いなどを、実際に口に含んで確かめているソムリエの有り様から学びがあると思われるのだが、果たして、この話、伝わるかどうか、まずは学生たちに「テイスティング」を促してみることにしよう。

2013年9月18日水曜日

causation or correlation

Today was an English day for me. Because our English class was restarted in Nakanoshima. During this August, our lecturer Mr.Tad went back to USA, so our classes were not scheduled. But, today we were reunion with everyone.

Today's topic was about "economic geography". We discussed a cultural gap between metropolitan area and provincial area by using an article "Geography as destiny for many workers" (web edition "In Climbing Income Ladder, Location Matters") published in July 22th, 2013. By this kind of gap, the American dream has been realized. In other words, provincials should face the gap against urban life, and they have challenged to enrich their own life, daringly.

Through the discussion, Mr.Tad paid an attention about the difference between causation and correlation to us. In short, he asked us that interest in economic disparities and resident area is absolute or relative. In short, he asked us whether the relationship between economic disparity and resident area is absolute or relative. Actually, income mobility is reflected the historical and cultural context in each region, and such characteristics don't change easily. But, sometimes restriction provides us the new way to change our situation.

After the English session, I went to the Outenin-temple to attend the feedback meeting with interns. I found many in their talk. respect and gratitude to the other intern in their story. Their story was full of gratitude and respect to the other interns. Of course, these mutually interact is not envisaged from the start of the intern. So, co-relation is quite an important matter to train each other.

2013年9月17日火曜日

「やれよ/やるよ」と「する/しない」


朝から立命館の朱雀キャンパスで過ごした。朝一番はBKCの地域連携に対する教養教育の関わり方と、教学機関としてのサービスラーニングセンターにおける社会連携機能のあり方についての意見交換を、教学部の次長と行った。午後からはある学内研究資金についてのプレゼンテーションに、参加メンバーの一人として出席した。その後は夕方まで、台風18号による被害への立命館災害復興支援室の向き合い方について、情報収集と方針決定が断続的に行われることになった。

ちなみに、この間楽しみにしてきた『あまちゃん』がいよいよ佳境に入ったこともあって、起きると毎朝7時半からの「早あま」を楽しみ、さらに余裕のあるときには8時からの「朝あま」にて芝居の中で聞き取れなかった台詞を確認するために字幕付で見る、というともすれば奇妙な行動を続けている。見ていない人にはまったくわからないだろうが、今日のクライマックスは松田龍平さん扮する「ミズタク」こと水口琢磨が、橋本愛さんが演じる「ユイ」をけしかけ、震災以降の沈鬱な状況を打開するという部分である。余談だが、時に芝居なのか素なのかわからなくなるという点で、能年玲奈さんの「アキ」と共に、実に素晴らしい演技と演出がなされているのが『あまちゃん』の深みだ。今日は突如、北三陸(架空の市という設定であるが、ほぼ、久慈と置き換えて考えると合点がいく場面が多い)を突如訪問した地元系アイドルGMT5に対して、かつてはアイドル志望であったユイが散々の悪評(ベロニカだけは直接ではなく環境に対しての批判であった)を叩いた後を見計らい、ミズタクが「じゃあ、ユイちゃんだったら?」と問いかけ、アイドル活動の再開に向け「やりなよ」と差し向けたのを契機に、アキのおばあちゃん役の夏さん(若干、老いのしぐさが大げさなように思うが、宮本信子さんが好演している)が「やればいいのに」と言葉を重ね、最後にユイの兄役のヒロシ(イケメンキャラを劇中でいじられるという、何とも絶妙な設定を小池徹平さんが見事に演じている)が「やれよ」とたたみこむ、ホップステップジャンプ式の言葉のリズムと、そのリズムを生み出すタイミングとしてアキも含めたアイコンタクトのリレーが、見ていて心地よかった。

長らく抑えてきた思いが一気に解き放たれ、それまで密かに認めてきたアキとユイによるユニット「潮騒のメモリーズ」の活動再開へのシナリオ(ユイが手書きでノートに綴っていた)の存在も明らかにされ、私も「琥珀の勉さん」(塩見三省さんが実に深みのある芝居を重ねている)のように「やったー!」と叫びたい気持ちであった。しかし、虚構の世界で復興への展望が開かれていく中、現実の社会では多くの課題に直面している。朝一番の打合せは、意思決定への「筋」と「制度疲労」への次の一手を模索しなければならなかったし、午後のプレゼンテーションでは「実践的研究における実践的な意義は認められるが、果たしてそうした実践を研究として位置づけていくとき、何が壁となっているのか(転じて、我々の研究プロジェクトがどのようなブレイクスルーをもたらすのか)」が問われ、夕方からの台風18号災害への構えの整理では新たに知った事実に対する「緊急度」と今の状態で抱えている業務とのあいだで「重要度」を考慮し、誰と共に誰に対して、誰がどこまでどのように行動を起こすのか、まさにシナリオの検討が重ねられた。加えて、そのシナリオの検討のあいだ、ある学生からのビジネスプランコンペへの相談を受けたのだが、これが「起業への」相談ではなく、「アイデアの実現への」相談で、後は「やるか/やらないか」の問題であると結んでしまった。朝の『あまちゃん』に重ねるならば、「できるか/できないか」を自問する方には「やるか/やらないか」という問いへの姿勢を明確にしていただだかないと、企画書の精度が上がるだけで、そこに綴られた世界が現実のものとはならないのだ。

目の前に見ているものを他人事にしていては、物事を動かし出来事を起こすことはできない。価値を創出する際には、自他のあいだで価値の調整に時間と労力を割かなければならないのだ。ささやかだが、これから2年半かけて、そうした取り組みを4人の教員と3人の研究協力者と共に、東北で行っていく決意を固めている。無論、それと並行して、近くの被害にどう向き合うか、何を「する/しない」の判断は、9月18日の昼、なされる見込みである。

2013年9月16日月曜日

ASAPで

台風18号は、日本列島の各地に大きな爪跡を残した。とりわけ、今、住まいを置いている関西、そして京都にも甚大な被害をもたらした。その全容は時が経つにつれて明らかとなっていくことであろう。にしても、早朝に家へと吹き付けた強風と、激しさを増していく豪雨の音は、並の力ではないことを強烈に実感させられるものであった。

京都市内では晴れ間さえ見えてきた午後、久しぶりに安斎育郎先生と面会する機会を得た。安斎先生とは、私が学部生の頃、世界大学生平和サミットや、その後の社会活動で大変お世話になった。時を経て今、災害復興支援室に関わる教員として、立命館大学国際平和ミュージアムの名誉館長で、国際関係学部の名誉教授、そして放射線防護学を専門とする研究者にお目にかかるというのは、何とも感慨ひとしおである。そう、今日は、この間、安斎先生らが取り組んで来られた福島への支援活動の広がりをいかにもたらすか、という案件で、立命館大学国際平和ミュージアムの担当でもあり、立命館災害復興支援室にも設立当初から関わる社会連携部の次長と共に、「安斎科学・平和事務所」にお邪魔したのである。

安斎先生と言えば、澱みのないおしゃべりはもとより、そこに時としてマジックを織り交ぜることでの意表を突いた展開、さらには克明なデータに基づく説得力ある論理構成を敬愛してやまない。今日もまた、事務所にお伺いするなり、まずは東京電力福島第一原子力発電所の廃炉への政府予測の見通しの甘さ、続いて廃炉への労働力を確保の困難さと「原発労働」における六重・七重に及ぶ「搾取構造」の根深さ、そしてメルトスルーした状態での汚染水漏れの深刻さ、さらには今このときも地元に帰ることが保証されぬまま仮設での暮らしを余儀なくされている15万人の方々の切実さ、それらの解説をいただいた。それに続き、安斎先生から、放射能汚染の中で暮らしている200万人の福島県民をいかに支えるかについて考え、取り組んできたことについて説明をいただいた。中でも、ポニー工業が開発した「ホットスポットファインダ−」を用いて、2013年5月から、福島市内の保育園などに対して、園児・保育者・保護者に対する放射線量率分布の測定に取り組んで来られた結果と提言(例えば、室内でのみ保育を重ね続けていると、結果として「転ぶ」という経験を持たず、ちょっとした転倒など些細な怪我で頻繁に骨折してしまう、といったことなど)は、原子力に関する「スペシャリスト」ならぬ「ジェネラリスト」(安斎育郎『原発と環境』復刻版のまえがき、iiページより)でいらっしゃることを、ありありと感じる実践であった。

安斎先生によれば、放射線による被害は、医学的影響(これは身体的影響と遺伝的影響に分かれ、さらにそれぞれに対して確定的影響と確率的影響とに細分化されるという)、いのちを落としたり寿命を縮めたりする心理的影響、そして風評被害といった社会的影響の3つがもたらされるという。安斎先生は中でも測定結果をもとに、どうすれば地域に溶け込んで暮らしていくことができるかの解説や講演や個別指導を行いつつ、再除染が必要とされる場所を明らかにする活動を行って来られた。今回は、その取り組みを継続、発展させていくためには、どのような手立てがあるのかを探ると共に、汚染してしまった以上、どのようにして低レベル放射線のある状態に向き合っていくのか(例えば、研究機関の整備、技術者の養成、博物館の設置、海洋生物や気圏動物の監視)、また風力や太陽光などによる発電の拠点化など、多岐にわたる意見交換を行わせていただいた。ちなみに安斎科学・平和事務所の英語名称「Anzai Science & Peace Office」は略称が「ASAP」であり、ここにもas soon as possibleとの掛詞という洒落を垣間見るのだが、はからずも今、できる限り早く、しかしあせらずに、この問題に取り組んでいく着実なチームづくりが求められて

2013年9月15日日曜日

5年間のときを経て開く箱

父の古希を祝うために宿泊した「浜名湖かんざんじ荘」で迎えた朝は、私たちの結婚から5年を迎えた記念の日でもあった。前日の天気予報では台風の接近が懸念されたのだが、結果として傘は不要で、周辺の散策をすることになった。朝食をいただいて、チェックアウトの後、まず向かったのは宿のすぐ向かいにある「浜名湖オルゴールミュージアム」であった。オルゴールという名前が掲げられているものの、実際は「バンジョー・オーケストラ」などを含む、70台ほどの「自動演奏楽器」の博物館で、スタッフの方による25分ほどの澱みのないプレゼンテーションは、なかなか興味深いものであった。

その後、大草山を後にして向かったのは、まさに舘山寺の名前の由来となった「舘山(たてやま)」であり、「舘山」と名付けられた島一帯を境内地とする「曹洞宗秋葉山舘山寺」を参詣した。父も母も、そして子も、「舘山寺(界隈)」には何度も赴いているものの、「舘山寺(というお寺)」まで足を運ぶのは初めてであった。意外なことに、舘山寺は弘法大師が直接開いたお寺とされ、建立時に自ら刻んだという石像も遺されていた。また、明治に入って一旦、廃寺となったものの、檀家に寄らず、旅の方を迎え入れる供養と祈願のお寺として、現在まで営みを重ねてきているとのことである。

そうして舘山寺へのお参りの後、浜松まで来たので、ということで、鰻をいただいてから帰ることにした。舘山寺の方面まで来たので、気賀の「清水屋」さんに行こうか、と母が提案したものの、弟夫妻の都合で、浜松市内方面が好ましいということになり、下江の「鰻昇亭」へと向かうことにした。いつもは天竜の「納涼亭」を好むため、鰻昇亭は8年ぶりくらいに訪ねることになったのだと思う。かねてからの鰻の高騰、また観光客の迎え入れなども重なってか、以前の店構えに感じたような「張り」が今ひとつなかったように思うが、ひつまぶし風のセットと、「えびサラダ」を楽しませていただいた。

その後は浜松駅まで父の運転で送ってもらい、徐々に台風の訪れを感じる空のもと、新幹線で西へと向かった。乗り継ぎがよく、浜松駅で降ろしてもらってから、1時間半あまりで京都の家に着いてしまった。実家に無事の到着と、小雨が降り始めたことを電話で伝えた後、結婚5年を迎えた日に行うべし、と約束をした、結婚式の来場者の方々が5年後の私たちに宛てたメッセージ集が収められたボックスを開くことにした。当時在職していた同志社大学大学院総合政策科学研究科のソーシャル・イノベーション研究コースの院生の皆さんが企画したものなのだが、なんとも、5年の月日の「重さ」を見つめ直す、貴重なきっかけをいただくことができた。

2013年9月14日土曜日

区切りの祝い

父の古希の祝いのため、妻とともに実家に帰省した。ただ、母の計らいで、祝いの席が舘山寺温泉に設けられたため、磐田ではなく、浜松への旅、である。こどもの頃から舘山寺方面には遊びに行ったことがあるものの、お酒を飲むようになって家族で出かけるのは初めてである。1泊2日の短い滞在だが、一生に一度の祝いの席を、6月に結婚した弟夫妻も含め、3夫婦で祝う機会となった。

駅まで迎えに来てくれた父に、勘の鋭い妻はすぐに気づいた。決して長くはない道のりであり、自分たちの足でなんとかなる距離であっても、せっかくの配慮をありがたく受けとめての迎えである。ただ、今回の出迎えの場面では、改めて父も古希を迎える年になったのだな、と感慨深い思いを抱いた。その一方で、いつまで経っても、子は子である。

宿は大草山山頂の「浜名湖かんざんじ荘」だ。昭和の響きがこだまする「国民宿舎」として開業されたものの、バブル華やかな頃に建て替えられ、平成の時代に入ってサブプライムローン問題からリーマンショックへと導かれる頃に、遠州鉄道グループが指定管理者となって運営を引き継いでいる宿である。にしても、立地は抜群で、到着するなり、全国唯一の湖上ロープウェイに乗り、さらに「フラワーパーク港」へと向かって、サンセットクルーズを楽しんだ。弟夫妻はお嫁さんの仕事の都合があったもようで、クルーズの後、夕食から参加した。

部屋食でも、小部屋でもなく、レストランでの夕食であったため、なかなか区切りの年を祝うモード、という感じを醸し出しにくかったのが残念だが、3夫婦、転じて3ヶ所で暮らす3家庭が、一つの家族としてつながりを確認する、貴重な時間であったように思う。それでも、お酒の強い・弱い、社会派な話題を好む・好まないなど、それぞれの個性が出た夕食であった。ちなみに家族で宿泊を伴う夕食をいただくのは、父の還暦のお祝いが最後だったように思うので、かれこれ10年近く前になる。そのときにはそれなりに深酒をし、皆でカラオケを楽しんだりしたのだが、時を経て、今回は風呂上がりにマッサージチェアに並んで、それぞれに100円を入れ、無言のまま日々の疲れを癒すという、なんとも、年を重ねたからこそ違和感のない、そんな風景を共にすることになった。

2013年9月13日金曜日

課題は解決しようにもできないもの?

「課題解決」ということばをよく目にするようになった。もっぱら「ソーシャル系」と括ることができる、そうした動きに対して、よく用いられている気がする。ただ、この表現は今に始まったものではなく、少なくとも、阪神・淡路大震災の後、「コミュニティ・ビジネス」(この表現も「・(なかぐろ)」を入れるか入れないかで流派が分かるという、なかなかの謂われがある用語であるが、ここでは立ち入らない)が注目される頃、よく目にした。それまで、いわゆる理系に属し、特に環境システム工学という学問に身を置いてた者としては「問題解決」ということばに馴染みがあり、解決のためには問題を発見し、対処し、そのまま放置せずに解決を図る、と言われてきたため、当時、指導をいただいていた大阪大学の渥美公秀先生の運転で茨木の駅へと向かう車中で何気なく問いかけたところ、「課題解決という表現はおかしい」と仰った。

「課題は解決する対象ではない」というのが、渥美公秀先生による「一旦、英語に変換してみる」という論理的思考を経た指摘であった。つまり、課題(subject)は解決する(solve)ものではない、ということである。それこそ、解決する対象(object)に対して、解決策(solutuon)を導き出す必要がある、という論理なのだ。この「英語への変換」に合点がいったため、この思考パターンによる概念への接近の妙について、同志社大学大学院総合政策科学研究科による紀要に投稿した。(「ソーシャル・イノベーション研究におけるフィールドワークの視座:グループ・ダイナミックスの観点から」『同志社政策科学研究』9(1), 1-21,2007年)

それから5年あまり、本日の打合せで「課題解決」が連発した。立命館大学サービスラーニングセンターで起用している学生スタッフ、「学生コーディネーター」との打合せの際、後期の体制についての議論において、である。考えに考えての使用ではなく、何気なく用いていることがわかったので、改めて表現にこだわることが、物事の核心に迫ることに繋がる、と、注意を促した。つまり、課題として浮上した観点を掘り下げていくことで、具体的な問題を抽出し、それらへの対応策を考えて適切に対処を始め、そして継続的な営みを重ねて、課題が立ち現れた状況と、問題を生じさせた構造を変えていく、そうした実践への関心を高めることを狙いとした。

振り返ると、私が学生だった頃は、たやすく「検索エンジン」で検索して、何かが見つかったわけではない。「検索エンジンにはディレクトリ型とロボット型とあって…」という具合に、そもそもシステム自体の理解をした上で、その道具をどう使うかを考えていた。極端に言えば、手のひらの中で広い世界と繋がってしまうという狭い世界を生きているのが今なのかもしれない。はてさて、そうした時代に、いかにして課題の根を辿っていくという問題解決思考を身につけてもらえるか、それこそ課題である。

2013年9月12日木曜日

ただ、何かをするということ。

幼少の頃、好きだったテレビ番組の一つに「8時だョ!全員集合」があるのだが、なんだか今日は、あの番組のように、コーナーとコーナーのあいだが目まぐるしく変化する、そんな一日を應典院で過ごした。まずは應典院の月例の会議が行われた。そして程なく、来客対応、それが終わって應典院寺町倶楽部のニュースレターの編集会議、さらには新聞者の取材対応、という具合である。ちなみに日が落ちてからは、應典院の近くに歯医者に行く、という具合で、「全員集合」の前半コントの終わりに流れる曲(盆回り)が脳内をこだまする、そんな一日であった。

ただ、今日だけでなく、当面の印象に残るだろうと感じるのが、午前の終わりにお越しになったお客さんのことである。彼は2010年1月の「コモンズフェスタ」に訪れ、そのときに開催されていた「ことばくよう」という、阪神・淡路大震災から15年を迎えて行った企画に参加していた。建築と写真が好きで、当時にして一定の水準のカメラを持参して、あちこちを撮影していたこともあり、よく覚えていた。その後も月1回発行している應典院のメールニュースを購読を重ねてくださったというが、あれから3年あまりのときを経て、私に「お説教をしてほしい」というメールが届いたのであった。

秋田光彦住職も、著書『葬式をしない寺』にて、イベント開催時以外の應典院が持つ「場所の力」に触れている(例えば、第三章の冒頭で紹介されている「ここにいていいでしょうか」で記された挿話が、その端緒である)。今日、彼の往訪への衝動は、まさに應典院の「場所の力」が受け入れたのだと思う。震災から15年の折に行った應典院による「ことば」を扱った取り組みで、彼は「他人の思いを引き取らねばならないという緊張感で、手が震えた」という。建築としての應典院に惹かれて訪れた空間で、人の死と生に向き合う時間を過ごした彼は、その後、成果主義の職場にて、自己否定の感覚に責めさいなまれ続けたのだが、改めて、かつて思いを寄せた空間と、その空間で過ごした時間に思いを馳せ、しんどい思いを携えつつ、足が向くことになったのだろう。

専門機関への相談ではなく、お寺に説教を求めてやってきた彼と、まずは住職と共にお話をして、その後1時間ほど、対面で語り合った後、應典院近くのカレー屋さんに向かった。ふと「電話相談」の話になり、「言葉になるときには、もう解決しているんですよね」とつぶやいた。傾聴がactive listeningという英語で表現され、そうした姿勢が相談には重要と、私もいくつかの場面にそう語ってきたが、「ただ聴く」そして「ただ傍にいる」という「ただ」の行為(とりわけ浄土宗では、「ただ一向に念仏すべし」という、法然上人のご遺訓)は、存外難しい。夕方の取材で、アーツカウンシルについて「鏡の前に立たされた表現者たち」という比喩表現を用いたのだが、「する」ことが求められる世の中にあって、消極的に「させられた」という感覚に浸り続けるのではなく、積極的に「しない」という選択肢を取ることの大切さを、岐阜から足を運んでくれた彼と「場所の力」に、改めて気づかせていただいた気がしている。

2013年9月6日金曜日

移動の効率と旅の情緒と


京都市のソーシャルビジネス支援事業による、島根県大田市、大森にある「中村ブレイス」へのスタディーツアーで、ゲストハウス「ゆずりは」に宿を得た。これは中村ブレイスの中村俊郎社長が手がけた40番目の地域再生拠点であるという。中村ブレイスでは、医療用コルセットや義肢・義足・義手等の義肢装具を手がける中、「ビビファイ」という商品名で知られる人工乳房もつくっている。このゲストハウスは、特にオーダーメイドでの人工乳房を求める方に、工房へ滞在した折、ゆったりとした時間を過ごしていただくため、2012年11月に新築された。

ただ、昼からの会議に出席しなければならなかっため、朝食を慌ただしくいただいた後、そそくさと京都へと戻った。ちなみに朝食は、昨日の懇親会の会場ともなった「咄々庵」で頂戴した。 ここは、徳川幕府の成立により、天領地となった後に代官所へ仕えていた地役人の武家屋敷であり、界隈で唯一現存することもあってか、国指定の史跡とされている。なお、「ゆずりは」も、「咄々庵」も、中村ブレイスから石見銀山株式会社に運営が委託されている。

石見銀山から京都に向かう旅程は、なかなか悩ましい。いや、これは京都に限ったことではないかもしれない。実際、昨日は、京都産業大学の大室悦賀先生が随行し、講師の役割を果たすはずが、前日からの大雨も重なって、東京からの移動が叶わず、不参加となった。私もまた、JR大田市駅からの鉄道ルート、あるいは出雲空港(出雲縁結び空港という愛称が付せられている)からの航空ルートなど、いくつか検討した結果、1日2本ある広島行きの高速バスで向かうことにした。

7時54分に大森バス停を出た高速バスは、途中、8時頃に世界遺産センターを、8時半頃に島根県立島根中央高校(ここは全国から生徒を募集し、入学後1年を経てコースを決定するという総合選択制をとるという、興味深い取り組みを行っているようである)に最寄りの川本合同庁舎前を通過し、道の駅瑞穂に置かれた田所バス停で休憩の後、予定より少し遅れて10時30分を過ぎたところで、広島駅新幹線口に到着した。約2時間半のバスに対して、「のぞみ」での1時間38分の乗車で京都に辿り着く。13時からは立命館災害復興支援室の事務局会議だったのだが、朝の段階で島根にいたという感覚は、どこか遠くに追いやられてしまう。移動の効率ばかりを追い求めてしまいがちだが、旅の情緒を楽しむことができる余裕を持ちたいものである。

2013年9月5日木曜日

中村俊郎さんが支える「中村ブレイス」


かねてより興味を寄せていた「中村ブレイス」さんにお伺いすることができた。京都市による「ソーシャルビジネス支援事業」の一環で位置づけられたスタディーツアーに参加したためである。このツアーは、先般、立命館大学の講義「地域参加学習入門」に、京都市役所から商業振興課の仲筋裕則係長をお招きした折に学生たちに紹介くださったものなのだが、他ならぬ私が最も関心を示した。なぜなら遡ること1998年、私がTwitterなどのアカウント名に用いている「NPOスクール」と名付けられたプロジェクトにて、その総合コーディネーターを務めた中村正先生が、ボランティア活動は人を幸せにできるのか、といった問いを投げかけた折の議論の題材として、中村ブレイスによる人工乳房づくりの話をされたためである。ちょうど、ビートたけしさんのエッセイ「ボランティア亡国論」とあいまって、今でこそ浸透した「ビジネスを通じた支援」のあり方に迫る端緒として、強烈な印象を憶えたのであった。

よって、朝から貸切バスにて島根県は大田市、大森を目指した。この事業は事務局がASTEM(京都高度技術研究所)を務めているということもあり、大学コンソーシアム京都の在職中にお世話になった方と再会する機会にもなった。ただ、京都から島根は遠く、朝7時半に京都駅八条口を出たバスは、何度かの休憩を経て、14時頃に中村ブレイスに到着となった。道中では、中村ブレイスが紹介された「カンブリア宮殿」(2008年8月11日放送)と、中村ブレイスの創立30周年記念として制作された映画『アイ・ラブ・ピース』が流され、いい予習の時間となった。

中村ブレイス、転じて中村俊郎社長の軌跡は、2011年に上梓された『コンビニのない町の義肢メーカーに届く感謝の手紙:誰かのために働くということ』(日本文芸社、2011年)に詳しい。今日は、そのご著書をはじめ、多くのお土産をいただきつつ、明治36年に建てられた旧松江銀行の本店を移築・改装した「なかむら館」にて、社長からじっくりお話を伺った。ご自身の地元(石見銀山を擁する大森のまち)への思いは文字や写真から伺い知ることができるであろうが、実際、現場にお伺いしてこそわかるのは「人との出会い」を通じて「いただいた希望のことば」をもとに、「皆さんから期待をされること」を大切にされていることである。製品づくりでは「一人の人が喜ぶベストを尽くす」厳しい指導者として若手を育て、そしてまちづくりでは「育ててくれたまちが夢もないまちにならないように」と一銭も公費をもらわらずにリノベーション等を進めてこられた。

「ブレイス(brace)」とは「支える」という意味だ。40年前の創業時、叔父の要望に応えて造ったコルセットに満足してもらえたからこそ広がりが生まれたことが原体験となっている中村社長にとって、採算ベースに乗せるためにデータから迫るのではなく、自分にしかできないことをして喜ばれることしてきた生き方・働き方は、結果として「欲がないと思われるかもしれないが、欲はある」という表現に収斂されるのだろう(要するに、経済的な欲ではなく、社会的・文化的な欲がある、という意味だと理解している)。中村ブレイスの社是は「Think」である。社員の方々(特に、寺岡さん、大森さん)との触れあいと、中村社長にご招待いただくかたちとなった夜の懇親会などを通じて、人の喜びを導き出すために考え抜くことが、支え、支えられる関係、そして押しつけではない支え合う関係をもたらすのだと、ささやかな興奮と共に眠りにつくこととなった。

2013年9月4日水曜日

自律と連帯は表裏一体である(という)

今日は朝から「言えない会議」をある場所で行っていた。あるまちの、ある施設の指定管理者を選定する、という会議である。こちらは透明性よりも公正性を重視し、選定の後に議会で可決されるまで、委員の名前等も含めて非公開とされているのである。少なくとも、あるまちのある施設の指定管理者に就いていることをここに記しつつ、小泉内閣の時代に生まれたこの制度が、競争的環境のもと経済的な合理性を徹底的に追求していくことが「いい行政」なのではない、という主義を抱きながら選定にあたっていく決意を固め(なおしてみ)ることとしたい。

9月に入って雨が続いているが、今日の関西は、格別の豪雨に見舞われたように思う。今日は應典院にて9月25日から行われる写真展の下見が入っていたのだが、遠方から来られる皆様には足元の悪い、あいにくの環境となった。ちなみに展示する写真を撮られた方は、御年92歳である。今回は1984から1993年までに撮影された西トルキスタン、インド、ネパール、マチャプチャレ、アラスカ北極圏、アンナプルナ、サハラ砂漠、ラダック、エベレスト、ビスターリ、インカ、チチカカ湖、ギアナ高地、東アフリカの風景、30点あまりが展示されるとのことだ。

雨となって残念だったのは、夕方から、cocoroomの上田假奈代さんによる、釜ヶ崎界隈のまち歩きが行われるためであった。よって、傘をお供に歩くこととなった。これは大阪ガスのエネルギー・文化研究所の弘本由香里さんが主管しておられる、上町台地コミュニティ・デザイン論研究会の活動の一環で、同志社大学の新川達郎先生、京都大学の高田光雄先生、京都精華大学の筒井洋一先生らと共に、多様な視点からまちを見つめた。かつては200軒ほどあったドヤが80軒ほどになり、高度経済成長を支えた方々の「終の棲家」化となる中で、「サポーティブハウス」として性格づけがなされてきたこと、その一方で地域での暮らし方が施策に翻弄されること、加えて事業者も「多様なパートナーと共に支える」場合と「自社の系列の事業者で囲い込む」場合とのあいだで支援の透明性が左右されること、など、風景の中に身を置きながら、それぞれの日常生活の背景を解いていただくことで、一人ひとりの人生を支えることとの難しさに改めて直面する機会となった。

その後は、地下鉄動物園前駅から、大阪ガスビルに向かい、長らく神戸で地域力、市民力、場所力を重視したまちづくりを進めてきた小林郁雄さんを招いて、お話を伺った。今回お話をいただいた内容は、近刊の『地域を元気にする 実践!コミュニティデザイン』にその大要が収められるとのことだが、水谷頴介さんを師と仰ぐ方々の「自律と連帯」の強さを、「まち住区」というキーワードをもとに展開された各種の実践から、深く感じ取るところであった。ちなみに、小林さんによれば、「自律というのは、ネットワークして始めて自律に意味がある」のであり、「自律していないものをネットワークしても、有象無象が集まっているだけ」であるため、「それぞれがちゃんとしているから連帯する必要があるし、連帯して意味があるのはそれぞれが自律しているから」「自律と連帯は同じ概念を表と裏から語っているだけ」とのことである。終了後の懇親会でも、最近の乱立する「ワークショップ」に対して「町医者に予防接種ばかりさせて小銭稼ぎをさせているのでは?」と、なかなか辛辣な指摘をされるなど、阪神・淡路大震災のずっと前から地域に根差してきた方ゆえの、まちづくりの「同音異義」を紐解く貴重な場をご一緒させていただいた。

2013年9月3日火曜日

比喩でずらす「レベル」と「クオリティ」

2日連続で、朝から立命館大学衣笠キャンパスにある個人研究室へと向かった。昨日は一日はもとより一ヶ月かけても終わらないであろう書類の整理をひたすらに、今日は10月からの研究プロジェクトを進めていく上での顔合わせのためである。ちなみに昨日は、午後から学生たちとの打合せで、終わり次第にビアガーデンへと向かう予定だったが、あいにくの雨のため、大学近くの非チェーン店、クレジットカード不可なお店でいただいた。舌が肥えたのか、あるいは料理の経験が重ねられたためか、学生時代に通った頃に受けた印象とは異なり、ちょっとだけ残念な思いを抱いてしまった。

夕方からは、学生の頃、立ち上げに参画した、きょうとNPOセンターのプロジェクト会議に向かった。1998年の設立だから、かれこれ15年の関わりになる。今、動いているプロジェクトは、一言で言えば機構改革のプロジェクトだ。組織の「設立趣旨(mandate)」と果たすべき「使命(mission)」とを対比させていく中で、市民活動支援と地域づくりの「二歩先」を見通すのが目的である。そういう意味では、第一世代の我々が常務理事として関わり続けていることそのものを見つめ直さなければならないのかもしれない。

比喩を素材として博士論文を仕上げたこともあって、私の語りには、頻繁に比喩が織り込まれる。比喩を盛り込むことは、単なる例え話、あるいは余談ではなく、概念をずらすことによって、新たな発見をもたらしたいという願いを込めることを意味している。今日であれば、事業のレベル(到達すべき水準)とクオリティ(判定される品質)との相関関係について、自動車を比喩として用いた。具体的には、ハイレベルな仕事というのは「ハイクラス」と置き換えることができ(馴染みのあるトヨタ車で言えば、カローラではなくクラウン)、ハイクオリティな仕事とは「ハイグレード」と置き換えることができ(同じく馴染みのあるトヨタ車で言えば、デラックスではなくロイヤルサルーン)」などである。

比喩を通じて概念が拡張されることについては、ケネス・ガーゲンによる『もう一つの社会心理学』に詳しいが、用いた比喩にまつわる世界(杉万俊夫先生の表現にならうなら「集合体」)に馴染みがなければ、「ずらし」は成立しない。そう、「ずらす」という言葉を引き合いに出すなら、私が比喩を用いてしていることは、長年にわたって床の上に比較的重いタンスや本棚などの家具が置かれたとき(これは、畳や無垢のフローリングの床を想像していただきたいが、カーペット等でも同じような現象は起こるだろうが)、その家具をちょっとずらすと、色が違っていたり、型が遺っていたりする、その場に立ち会うことに似ている。要するに、漫然とそのまま置かれてきたものに手をかけることによって、一定の時間の経過のなかで遺された痕跡を見つめて、その次にどうしたらいいかを考えていく、そんな場と機会を生みたいのである。ちなみに、今日の「レベル」と「クオリティ」の話は、さらにマークIIやカムリといったミドルクラスの車種、さらにはプリウスのようなハイブリッドカーなども登場して、「エポックメイキングなソリューションとパッケージ」という視点から、社会システムを論じていく、という壮大な物語があるのだが、はてさて、これが「ずらし」(shift)として成立するか、あるいは単なる「まどわせ(puzzle)」に留まっているのか、次の会議までのあいだの反応を見ていくこととしよう。

2013年9月2日月曜日

フィクションによるリアリティの喚起


NHKによる朝の「連続テレビ小説」『あまちゃん』の世界の話で、2011年3月11日を迎えた。2008年の夏からの物語が、23週目の133話目で迎えた「その日」である。普段は「週あま」あるいは「録あま」な私も、先週土曜日の終わり方が気になり、「早あま」をした。ちなみに「早あま」とはBSプレミアムで7時半から始まる放送を見ること、「週あま」は同じくBSプレミアムで土曜日の朝9時半から一気見すること、「録あま」とは文字通り録画して観ることで、その他にも総合テレビでの8時からの本放送を観る「本あま」や12時35分からの「昼あま」、さらにはBSプレミアムでの23時からの「夜あま」という呼び名もある。

『あまちゃん』については、かねてより宮藤官九郎さんの脚本、大友友英さんらによる音楽、そして井上剛さらんらによる演出、それぞれに高評が寄せられているが、今日の放送は、震災を扱う作品の中でも、伝説に残るものの1つになると確信した。それは、「地震」の後の世界に生き、実際に「震災」の只中を生きている私たちに、とてつもないリアリティを呼び起こすものとなっていたためである。実際の映像(例えば、NHKの鉾井喬カメラマンが捉えた名取川河口付近から遡上する津波のニュース映像など)は用いられず、津波の映像が流れていると思われるテレビを食い入るように見ている人々、そして(架空の)北三陸観光協会に設置されていたジオラマでの表現(被害状況の再現)などにより、「あの日」が伝えられた。テレビだが静止画を多用し、音楽といよりも音を大事にした構成がなされることで、冒頭に流れる軽快な番組テーマから覚える印象が際立つため、それが小さな救いをもたらしているような気もした。

ちなみに大友さんと井上さんという組み合わせは、後に映画化された『その街のこども』にも見られる。こちらの作品は2010年1月17日の23時から、当日の朝に催された「東遊園地」での追悼のつどいの様子も盛り込まれ、阪神・淡路大震災から15年を迎える前日とその日の様子を、関西に暮らした経験のある2人の役者(森山未來さん、佐藤江梨子さん)を中心に描いたドラマである。『その街のこども』では、冒頭の「時報」の音(ちなみに、5時46分ちょうどを迎える「ポーン」の音が鳴らない、というものだが、実際の地震は5時46分52秒に起きている)が、当時への思いを駆り立てる演出として、私の涙を誘った。今回は、ジオラマに重なる、青いガラスかアクリルが、津波被害への記憶をわしづかみにした。

転じて、リアルな素材よりも、フィクション(つまり、ドラマ)の世界にリアリティを感じるというという構図は、「フィールドノーツ」よりも「エスノグラフィー」が重要とされる、フィールドワーク(この文脈においてアクションリサーチと置き換える方がよいだろう)にも通じるはずだ。例えば、テープ起こしによる「トランスクリプト」はリアルな語りを文字化したものだが、それを適切に編集(つまり、加筆・修正)することによってリアリティが高まるという具合である。その昔、名古屋の「レスキューストックヤード」によってまとめられた『いのちを守る智恵:減災に挑む30 の風景』の意義について、ハナムラチカヒロさんとお話した際に、「知恵を伝承する上では、フィクションとノンフィクションが巧妙に混ざり合う」と伺ったことをよく憶えている。はてさて、ノンフィクションとフィクションに対する、リアルとリアリティの違い、これを考える題材を、15分で2011年3月11日の14時46分前後から20時8分まで進められた今日の『あまちゃん』は提供した。

2013年9月1日日曜日

災害研究を巡る視点:生き残ったものの罪と恥/めざす・すごす・のこす


2013年9月1日は、関東大震災から90年にあたる。そんな日に、立命館大学衣笠キャンパスで開催された、日本質的心理学会第10回大会の会員企画シンポジウム「ポスト3.11震災社会の現在・未来:今から私たちがなすべきことは?」を聴講した。企画者は茨城大学人文学部の伊藤哲司先生、京都大学防災研究所の矢守克也先生、熊本大学教育学部の八ッ塚一郎先生であった。伊藤先生は存じ上げないものの、矢守先生と八ッ塚先生は、日本グループ・ダイナミックス学会で長らくご一緒させていただている上、私の師である渥美先生と共に、杉万俊夫先生のもとで、阪神・淡路大震災から積極的にアクションリサーチをされているので、大きな期待と共に参加させていただいた。ちなみにシンポジウムは3名の話題提供のもと、伊藤先生、八ッ塚先生、矢守先生の順にコメントが寄せられ、3つのグループに分かれて意見交換の後、全体で意見交換をする、という流れで進められた。

茨城大学の伊藤先生は、「東日本大震災は現在進行形の問題」と、議論に含みを置いた。それを受けたところもあるかもしれないが、八ッ塚先生は吉村昭さんが『関東大震災』『三陸大津波』など、一人の作家が一定の時間をかけて監修することによって、はじめて〜であり、「〜すべき」といった断定的な表現はふさわしくなく、だからといって沈黙するのも適切ではなかろう、と、緻密な議論へと牽制した。これに呼応するかの如く、矢守先生は「東日本大震災の○○学」と「○○学の東日本大震災」との標記の違いに、前者には出来事に対する外在的な姿勢を、後者には出来事に対する内在的な責任を見て取れると、学問分野の違いに注意を向けた。こうして、ここに生きる人々の、東日本大震災という現在進行形の問題への問いを掘り下げていく議論への準備がなされたのである。

私は、話題提供者の一人である、京都光華女子大学の鮫島輝美さんと、八ッ塚先生とのグループに入り、「アクションの主体をリサーチの対象化とすること」について掘り下げていくことにした。ちょうど、鮫島さんが、パトリシア・アンダーウッドさんによる「サイバイバー・ギルト(罪)」と「サバイバーズ・シェイム(恥)」の対比を紹介したためでもある。また、私もまた、2011年3月25日の、大阪大学卒業式・学位授与式での鷲田清一先生の式辞は、何度も引用しているが、その中にある「生き延びた」ではなく「生き残った」という感覚に見られる、「被災しなかったこと、あるいはそれがごく少なかったことへの申し訳のなさのようなもの」、すなわち偶有性を伴う罪悪感について、引っかかりがあったためだ。このことはまた、改めて論じてみることにするが、10人ほどのグループでの議論を通じて、何か(それこそ、鷲田先生の仰る「隔たり」)を感じたとき、まずは行為を「する/しない」で峻別され、その結果において「できた/できなかった」の判定がなされるとき、罪と恥のいずれかが去来するのではないか、と考えた。

阪神・淡路大震災から5年を経て出版された『ボランティアの知』に感銘を受け、渥美公秀先生のもとで学んだ私は、震災を研究する際には「リサーチとなるかどうかにかかわらずアクションを進める」ことが重要という感覚が浸み渡っている。この点を踏まえつつ、今日のシンポジウムでは、「アクションがリサーチになった」と言える指標として、八ッ塚先生が触れた、「セザンヌの色彩感」(modelではなくmodulate、つまり「写す」のではなく「転調」するということ)が参考になると、妙に腑に落ちた。ちなみにこのコメントに続いて、矢守先生は「フランス革命」を引き合いに出し、「アクションが出来事の一部になる可能性」(バスティーユ牢獄に向かった一人ひとりにとっては革命の担い手になったという自覚はなく、ちょうど、吉村昭さんのような仕事により、後にトータルに特色づけられるということ)を指摘した。渥美先生のもとで学び、今は災害研究の分野で一番弟子と言えるであろう宮本匠くんは、「めざす」復興と「すごす」復興とのあいだで、研究者の向き合うモードが違うと指摘するが、私はそこに加えて、何を「のこす」のかという観点を加え、研究では文字を遺さないといけない中でも、現場では約束を遺すことの大切さを、今後も掘り下げていくこととしたい。