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2013年9月12日木曜日

ただ、何かをするということ。

幼少の頃、好きだったテレビ番組の一つに「8時だョ!全員集合」があるのだが、なんだか今日は、あの番組のように、コーナーとコーナーのあいだが目まぐるしく変化する、そんな一日を應典院で過ごした。まずは應典院の月例の会議が行われた。そして程なく、来客対応、それが終わって應典院寺町倶楽部のニュースレターの編集会議、さらには新聞者の取材対応、という具合である。ちなみに日が落ちてからは、應典院の近くに歯医者に行く、という具合で、「全員集合」の前半コントの終わりに流れる曲(盆回り)が脳内をこだまする、そんな一日であった。

ただ、今日だけでなく、当面の印象に残るだろうと感じるのが、午前の終わりにお越しになったお客さんのことである。彼は2010年1月の「コモンズフェスタ」に訪れ、そのときに開催されていた「ことばくよう」という、阪神・淡路大震災から15年を迎えて行った企画に参加していた。建築と写真が好きで、当時にして一定の水準のカメラを持参して、あちこちを撮影していたこともあり、よく覚えていた。その後も月1回発行している應典院のメールニュースを購読を重ねてくださったというが、あれから3年あまりのときを経て、私に「お説教をしてほしい」というメールが届いたのであった。

秋田光彦住職も、著書『葬式をしない寺』にて、イベント開催時以外の應典院が持つ「場所の力」に触れている(例えば、第三章の冒頭で紹介されている「ここにいていいでしょうか」で記された挿話が、その端緒である)。今日、彼の往訪への衝動は、まさに應典院の「場所の力」が受け入れたのだと思う。震災から15年の折に行った應典院による「ことば」を扱った取り組みで、彼は「他人の思いを引き取らねばならないという緊張感で、手が震えた」という。建築としての應典院に惹かれて訪れた空間で、人の死と生に向き合う時間を過ごした彼は、その後、成果主義の職場にて、自己否定の感覚に責めさいなまれ続けたのだが、改めて、かつて思いを寄せた空間と、その空間で過ごした時間に思いを馳せ、しんどい思いを携えつつ、足が向くことになったのだろう。

専門機関への相談ではなく、お寺に説教を求めてやってきた彼と、まずは住職と共にお話をして、その後1時間ほど、対面で語り合った後、應典院近くのカレー屋さんに向かった。ふと「電話相談」の話になり、「言葉になるときには、もう解決しているんですよね」とつぶやいた。傾聴がactive listeningという英語で表現され、そうした姿勢が相談には重要と、私もいくつかの場面にそう語ってきたが、「ただ聴く」そして「ただ傍にいる」という「ただ」の行為(とりわけ浄土宗では、「ただ一向に念仏すべし」という、法然上人のご遺訓)は、存外難しい。夕方の取材で、アーツカウンシルについて「鏡の前に立たされた表現者たち」という比喩表現を用いたのだが、「する」ことが求められる世の中にあって、消極的に「させられた」という感覚に浸り続けるのではなく、積極的に「しない」という選択肢を取ることの大切さを、岐阜から足を運んでくれた彼と「場所の力」に、改めて気づかせていただいた気がしている。

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