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2013年9月13日金曜日

課題は解決しようにもできないもの?

「課題解決」ということばをよく目にするようになった。もっぱら「ソーシャル系」と括ることができる、そうした動きに対して、よく用いられている気がする。ただ、この表現は今に始まったものではなく、少なくとも、阪神・淡路大震災の後、「コミュニティ・ビジネス」(この表現も「・(なかぐろ)」を入れるか入れないかで流派が分かるという、なかなかの謂われがある用語であるが、ここでは立ち入らない)が注目される頃、よく目にした。それまで、いわゆる理系に属し、特に環境システム工学という学問に身を置いてた者としては「問題解決」ということばに馴染みがあり、解決のためには問題を発見し、対処し、そのまま放置せずに解決を図る、と言われてきたため、当時、指導をいただいていた大阪大学の渥美公秀先生の運転で茨木の駅へと向かう車中で何気なく問いかけたところ、「課題解決という表現はおかしい」と仰った。

「課題は解決する対象ではない」というのが、渥美公秀先生による「一旦、英語に変換してみる」という論理的思考を経た指摘であった。つまり、課題(subject)は解決する(solve)ものではない、ということである。それこそ、解決する対象(object)に対して、解決策(solutuon)を導き出す必要がある、という論理なのだ。この「英語への変換」に合点がいったため、この思考パターンによる概念への接近の妙について、同志社大学大学院総合政策科学研究科による紀要に投稿した。(「ソーシャル・イノベーション研究におけるフィールドワークの視座:グループ・ダイナミックスの観点から」『同志社政策科学研究』9(1), 1-21,2007年)

それから5年あまり、本日の打合せで「課題解決」が連発した。立命館大学サービスラーニングセンターで起用している学生スタッフ、「学生コーディネーター」との打合せの際、後期の体制についての議論において、である。考えに考えての使用ではなく、何気なく用いていることがわかったので、改めて表現にこだわることが、物事の核心に迫ることに繋がる、と、注意を促した。つまり、課題として浮上した観点を掘り下げていくことで、具体的な問題を抽出し、それらへの対応策を考えて適切に対処を始め、そして継続的な営みを重ねて、課題が立ち現れた状況と、問題を生じさせた構造を変えていく、そうした実践への関心を高めることを狙いとした。

振り返ると、私が学生だった頃は、たやすく「検索エンジン」で検索して、何かが見つかったわけではない。「検索エンジンにはディレクトリ型とロボット型とあって…」という具合に、そもそもシステム自体の理解をした上で、その道具をどう使うかを考えていた。極端に言えば、手のひらの中で広い世界と繋がってしまうという狭い世界を生きているのが今なのかもしれない。はてさて、そうした時代に、いかにして課題の根を辿っていくという問題解決思考を身につけてもらえるか、それこそ課題である。

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