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2018年3月31日土曜日

花よりカレー

一昨日から舌のリハビリが続いている。もちろん、舌がおかしくなったわけではない。日本の食事を味わう日々、という意味である。一昨日は行きつけの中華料理店に、そして昨日は開店以来ひいきにしているお蕎麦屋さんにお邪魔した。

午前中には人生の先輩が車を出してくださり、荷物運搬のお手伝いをいただいた。今は自分の車が実家にあるため、昨日、短時間ながらレンタカーを借りて、物の移動をしたことを受けての作業だった。ちなみに世の中は引っ越し難民が問題とされており、引っ越し目的でレンタカーを借りる人も多いとのことだった。引っ越し業者さんは見積もりさえ断られる状況には理解と共感をするものの、安易に難民という言葉が使われることには忸怩たる思いがある。

家の片付けが一段落したところで、昼過ぎに近所に散歩に出かけた。徒歩圏内に北野天満宮や平野神社があるため、なかなかの賑わいである。もっぱら、桜の時期は平野神社が賑わう。案の定、今日の本殿には参拝の行列ができていた。

本殿の横に立ち並ぶ桜の下では、茶店が建ち並び、昼間から多くの方々が宴席を楽しんでいた。日本語ばかりの表示ながら、外国からお越しの方々も、片手にカメラ、片手に食べ物、その食べ物の背景には桜と、さしずめ「インスタ映え」する撮影を楽しんでおられた。私たちはそうした姿を横目に、わら天神交差点のあたりまで、懐かしの味の一つであるインドカレーを食べに行った。花より団子ならぬ、花よりカレーである。


2018年3月30日金曜日

経験のバトンリレー

インターネットの時代は、思わぬ出会いが導かれることがある。もちろん、それ以前からも、人が出会う上では、多くの場や機会が創出されてきた。しかし、例えば電話と比べてみても、インターネットは物理的な制約を超えて、人と関わり合う手段として圧倒的に活用されている。そして、インターネット上での出会い方も、技術の進展と利用環境の普及との相乗効果によって、さらに多様化している。

今日は、インターネットを通じたコミュニケーション手段の中でも、実に古典的な方法で出会った方と会食をさせていただいた。その手段とは電子掲示板であった。いわゆるオフ会、ということになる。その掲示板は、デンマーク日本人会の掲示板だった。

去る1月、私はオールボー日本人会の掲示板をたまたま覗いていた。3月末の帰国にあたり、不要になるものを必要としている人がいないかどうか見てみよう、そんな軽い気持ちだった。オールボー日本人会そのものは会員組織で、私は非会員なものの、掲示板の閲覧と書き込みは誰でも行うことができた。その中で、4月からオールボー大学にて1年間の研究滞在をする方がおられることと、そしてその方の住まいがなかなか定まらないことを懸念している書き込みを見つけた。

私もまた、1年間の滞在にあたって、出国前も、滞在開始直後も、いくつか困ったことがあったために、その経験が参考になれば、と、掲示板の投稿に返信をさせていただいた。書き込み当初は掲載されていたものの、やはり非会員の返信とあってか、程なく消されてしまったのであった。その後、質問をされた先生が、断片的な記憶からいくつかの単語を想い起こし、私のブログに行き着き、そしてメールでのやりとりが始まった、という具合である。明後日に出国というタイミングながら、きっと、今後も何らかの形でやりとりを重ねるであろうご縁を深めることができた。

2018年3月29日木曜日

縦横分割

日本に戻って2日目である。晩の帰国となったため、実質は今日が1日目のようなものである。むしろ昨日は異邦人のような感覚に浸っていた。マスクをして歩く人の多さ、ちょっとしたことでクラクションを鳴らす人々、何より公共空間でのアナウンスの多さ、など、目と耳にすることに違和感を禁じ得ない。

今日は役所に転入届を出しに行った。デンマークから離れる時には、インターネットで予約し、5分以内で一人で家族全員の手続きが出来たものの、日本では少し勝手が違うようである。「帰国日の確認のためにパスポートが必要」とのことで、慌てて妻に持ってきてもらうことにした。ただ、自動化ゲートを使ったためにスタンプが押印されていないため、「帰国日を証明する根拠資料がない」という切り返しを予測し、搭乗券も持参してもらうことにした。

転入届が受理された後は、マイナンバー通知カードの住所欄の書き換え手続きに行った。すると、「通知カードのままにするか、マイナンバーカードにするか、どうされますか?」と訊ねられた。「この場で写真も撮りますよ」と、作成を勧めてこられた。「つくるとどうなるのですか?」と逆に訊ねてみると、「年内にはコンビニで住民票をとることができるようになるのですが、これからですね」と、晴れないやりとりが続く。

マイナンバー制度が導入されたのなら、いっそ、その管理のもとで、私の情報を一元化して管理して欲しい。個々の事業者・事業所などが個別に管理するよりも、理に適っているはずである。もし、その理が理不尽とされるなら、それだけ国家への信が揺らいでいるのであろう。はてさて、新たな制度が活かされないというメタレベルの制度疲労があるとするなら、いつ、どのようにして変わっていくのだろうか。


2018年3月28日水曜日

SkyTeamというアライアンスに

昨日、18時20分にオールボーを発ち、アムステルダムで乗り換えて、ソウルのインチョンにやってきた。オールボー空港からはいくつかのまちへ定期便が出ている。中でも、1日数便が飛んでいるのは、コペンハーゲン、アムステルダム、そしてオスロが挙げられる。そのため、日本に向かうには、コペンハーゲンかアムステルダムを選ぶのが順当である。

今回は片道でのチケットということもあって、どの航空会社でも往復の運賃に比べて高価となってしまう。そこで、学生時代から貯めてきたマイルを効果的に使って帰ることにした。夫婦そろって今はなきノースウェスト航空での無期限有効のマイルが残っていたため、デルタ航空に移管されたマイルでチケットを購入したのである。そのため、スターアライアンス系のSASによるコペンハーゲン便ではなく、デルタ航空も加盟するスカイチーム系のKLMによるアムステルダム経由となった。

ところが、マイルを使用して安価で抑えた分、その他の部分でしわ寄せがなされてしまった。まず、事前にアサインしたはずの座席がリセットされ、さらにはスルーチェックインができず、いったん韓国で入国手続きが必要になってしまった。そのために、オールボー空港で購入したアクアビット(お酒)が、インチョン空港で没収されてしまった。トランジットの際に、預け荷物に移すのを失念してしまったため、いくら制限区域内の免税店で購入していたとしても、いったん制限区域外を出てからの搭乗手続きでは、100ml以下の液体物の持ち込み規制に引っかかってしまったのである。

「これくらい、いいじゃないか!」という思いは、厳格に仕事をする職員にとっては単に不当な主張にしかならない。アクアビットを回収されて消沈する私たちの横で、キムチを没収された日本人のツアー客の方が、添乗員の方に「1,300円弁償しろ!」と、物凄い剣幕で迫り、無言で財布からお金を渡している様子を目にした。その振る舞いを他山の石として、笑顔を絶やさずに過ごしていきたいと思うのであった。一方で、作り笑顔は必ずしも心地よい印象をもたらさないだろう、ということも思う移動を重ね、21時半過ぎ、無事に関西空港に到着した。


2018年3月27日火曜日

Mange Tak!

いよいよデンマークを離れる日がやってきた。シリアルのみの朝ご飯の後でシャワーを浴び、帰国の準備を整えた。もっぱら、部屋の掃除は妻が率先して担ってくれた。私の役目はその他の部分となるものの、邪魔をしないことが最大の貢献である。


昨日のうちにほとんどのパッキングが終えていたので、再びシリアルのみのお昼をいただくと、後は備え付けのもの以外を処分する、ということしか残る作業はない。先週の金曜日には空になっていた、8つくらいあるアパートの可燃ゴミ用のコンテナのうち、最も奥にあるもの1つは、私たちの衣類などばかりが収められている。大小あわせて10個ほどになったと思われる。もちろん、まだまだ着ることができるものは寄付に回したので、新たな主のもとで活かされることを願っている。


そして15時前に、オールボー大学のオフィスに鍵を返しに行った。預かっていた2本の鍵を封筒に入れ、オフィスの前のポストに返却することで終わり、である。手渡しで受領簿にサインする、といった流儀は、ここデンマークにはない。比較的きれいに使い、DIYで補修もし、最後の掃除も丁寧に行ったことで、入居時のデポジット(家賃の1ヶ月分)がどれだけ戻ってくるか、帰国後の楽しみである。


空港へは、なんと行きつけのハンバーガー屋さん「Burger GO」のオーナー、Namさんが送ってくださった。ささやかなお礼をし、棒を使わない自撮りで記念撮影をし、デンマークか日本での再会を誓った。そしていつしか慣れ親しんだオールボー空港から飛び立った。離陸から数分、飛行機はデンマークを覆う厚い雲の上の上に抜け、光に満ちた世界を巡行していくにつれて、徐々にさみしさがこみ上げていった。


2018年3月26日月曜日

住民登録を外して銀行の口座を解約に

今日はオールボーの役所に住民登録を外しに行った。10月26日にロスキレを訪れた際のブログにも記したとおり、2007年に地方自治改革がなされたデンマークでは、日本の言い方で言えば都道府県にあたる13のアムトが道州制の導入で5つのレギオーンに、市町村にあたる270のコムーネが98に再編された。そのため、役所はオールボー市役所というよりはオールボー郡総合事務所という感じである。市内中心部にオールボーのコムーネのマークを何ヵ所か見ることができることも、この北地区のレギオーンでも重要な行政機能が集中していることがわかる。

3月20日に予約していたこともあって、手続きそのものは実に円滑に済んだ。まず、番号発券機で「予約済」のボタンを押し、予約時にSMSで認証コードが届いた携帯電話の番号を入れると、予約した際の時間が記載された紙が発行される。そして電光掲示板に予約が出たとき、指定された番号のカウンターに行く、というものである。一方で予約をしていない人にとっては、朝一番に番号を取ったとしても、1時間ほど待つ必要があるようだった。


住民登録を外す手続きは、所定の紙に記入するだけだった。記入するのは現在の住所、次の住所、今後再びデンマークに長期滞在する予定の有無、そして日付と署名、それらをA4版用紙の表面1枚に記入すれば終了、である。妻も続きで予約時間を取っていたものの、家族での滞在で同時にデンマークを離れるのであれば、1枚の用紙で同時に手続きができるようだった。確かに、住民登録時も同じだったような気がする。

役所の後は銀行に向かった。ATMでは100クローネ単位でしか出金できないので、31クローネ余りが残っているデビットカードを持って、解約したい旨を申し出た。すっかり、その残額が手渡されると思っていたものの、合計で50クローナの手数料がかかるらしく、引き出すどころか、差額を現金で払うことになった。開設時の苦労はどことやらで、ものの2分ほどで全ての手続きが終了し、その簡便さに驚いた。


2018年3月25日日曜日

システムに頼りすぎないことの大切さ

デンマークで過ごす最後の日曜日である。すっかり春の陽気で、空は青く、風も穏やかな一日だった。帰国へのカウントダウンが進む中、順調に家のものは片付きつつある。そして、食べきれない食材も見極めがつくようになった。

今日は午後からまちに出かけた。あわせて、食べきれない食材と、まだまだ使うことができる生活家電を秋田の国際教養大学からオールボー大学に留学している学生に譲りに行った。喜んで受け取ってもらえるのが嬉しい。今後、またそれがどなたかの手に渡っていくかもしれないことを思うと、それはそれで楽しい。


便利さを追求すればきりはない。しかし、「足を知る」ことの大切さを、この1年間の暮らしで痛切に感じてきた。そんなことを、今日、話の話題にする機会があった。この1年、何度か通い、オールボーの中で、唯一「行きつけの店」と言うことができるハンバーガー店「Burger GO」のオーナーで店長のNamさんとの会話である。

ベトナムにルーツのあるNamさんは、同じくアジア出身の私たちに本当に気をかけてくださった。幼少の頃からデンマークで暮らすNamさんゆえに、デンマーク人に対しても、冷静で厳しい目を向けている。中でも、「7:3くらいの割合で社会的弱者を支えることができる社会システムが構築されているとして、それが5:5のバランスになったとき、制度は崩壊する」など、特に若者の失業率・無行率の高さについて悲観的な視点をお持ちだった。留学生たちにもおすすめしているこのお店での語りを通して、他者を尊重しつつも互いに支え合うよりよい社会の仕組みづくりの担い手として成長を遂げていく経験を重ねてもらえれば、と願っている。


2018年3月24日土曜日

来た道を辿って

家の荷物の整理を続けている。この間、何度か一時帰国したこともあって、少しずつ不要なものを減らしてきた。「ただ移動をさせているだけ」という妻の指摘は、実に的を射たものである。それでも、絶対的な量は減っている。

1年間、デンマークで暮らす中で、最も減ったものはDVDのメディアである。ハードディスクが今ほど大容量でない時代、バックアップをDVDに焼いてきた。そこで1年間の滞在にあたり、未整理だった大量のDVDたちを持ってきた。クラウドサービスも充実してきたことも相まって、だいぶ整理ができたように思う。

また、日本からの出国時に比べて、大幅に減ったのが、服と食材である。季節感を見誤って持って来たものは既に日本に持ち帰った。また、硬水による洗濯で痛んだものは見切りをつけて処分し、まだまだ使用に耐えられるものの一部は寄付に充てることにした。一方、服とは勝手が異なり、食については食べることによって自ずと減っていた。

そのため、今日は出国時に日本から送った際のダンボールを処分した。もしも、帰国時にデンマークから発送するなら、と取っておいたのであった。改めてその発送ラベルを見てみると、私たちが出国した日にアムステルダムまでは同じ便(KL0868)で、その後はコペンハーゲンまで空路(KL1139)、そこからは陸路で来たらしい。なんとも、懐かしくも、やや遠い記憶になっているのは、それだけ1年間の滞在の思い出が深いからだろう。


2018年3月23日金曜日

慣れと不慣れと

来週の帰国に向けて、家のことばかりしているわけではない。一昨日は10月末に投稿した学術論文の修正校を仕上げた。ということは、その数日間、集中して修正にあたっていた、ということになる。先週末の旅が、よいリフレッシュの機会となったことは言うまでもない。

論文に向き合い、旅に出ているあいだ、3月16日にTwitterのMac用のアプリのサポートが終了した。代替ソフトがいくつかあるものの、どうもしっくりこない。長らくTwitter社のオフィシャル版を使ってきたものの、当初はEchofonを使っていたため、戻すことが一つの選択肢ながら、今、メインで使っているOSでは動作しない。そもそも、Mac OS Xバージョン10.6.8を未だにメインで使い続けているということ自体、ややこしいユーザーである象徴である。

ちなみに今日の起床前、日本では立命館大学サービスラーニングセンターによる次年度の授業ガイダンスが開催された。デンマーク時間では朝の4時の開催となったため、インターネットのテレビ会議等での参加ではなく、予め撮影した動画でメッセージを届けることにした。その収録は、21日に行われたオールボー大学文化心理学研究センターによるキッチンセミナーの後に行った。

約15分の動画は、iMovie 6.0.3で編集した。やりたいことの多くは最新版でもできないはずがないものの、1フレームごとの編集、音声レベルの調整など、旧世代のインターフェースに慣れきってしまっているため、どうも移行できずにいる。一方で、旅やフィールドワークの出先では、iPhoneやiPadのiOSアプリ版のiMovieで簡単に「それっぽい」ものをつくることができるので重宝している。macOSとiOSの統合の噂もあり、そうなったところで、一気に新たな環境に適応するようにしよう、と、気持ちだけは備えている。


2018年3月22日木曜日

来たときよりも整えて

暑さ寒さも彼岸まで、とはよく言ったものである。お彼岸は太陰暦(太陰太陽暦)でも太陽暦(グレゴリオ暦)でも同じ日が定められる。秋分も春分も、太陽の位置で定められているためである。太陽の動きが寒さや暑さを左右する、と考えるのは短絡的すぎるのかもしれないものの、北欧のデンマークで暮らしてみても、暑さと寒さの変わり目は、秋分と春分の日に近いというのが、肌感覚で実感している。

一方で、デンマークでは太陽の動きから定められる春分の日から、イースター(Påske)の日が決まる。いわゆる復活祭のことである。春分の日の後の最初の満月の次の日曜日とされているため、ルーテル教会(ルター派)を国教とするデンマークでは2018年は4月1日の日曜日がイースターである。そして、イースターから3日前の木曜日は最後の晩餐を記念する洗足の日でお休み、金曜日はキリストの受難を偲ぶ聖の日でお休み、そしてイースターの翌日は復活を祝ってお休み、となる。

2017年のイースターは4月16日だった。ちょうど、イースター休暇の始まる1日前、4月12日にオールボーを発ち、日本に一時帰国した。4月13日に、立命館大学大阪いばらきキャンパスにて、平成28年熊本地震から1年を前に、映画「うつくしいひと」の上映とトークの企画を立てたためである。当初の予定では1日前に発つはずが、バスの車内にパスポートを置き忘れる(そして、翌日に見つかる)という事件のために、出発が1日ずれたのであった。

あれから間もなく1年、今日は手をつけてこなかった大工仕事を行った。以前の入居者の方が雑に使ったのか、バスルームの棚に使われているバーチクルボードが水によってへたっていて、直立しない状態になっていたのである。そこで、4月の一時帰国の際にいくつか金具を調達し、補強することを思い立ったのであった。時を経て今日、来たときよりも整え、納得して帰国の日を迎えることができそうである。




2018年3月21日水曜日

教育法の背後にある原理を深める

今日はオールボー大学滞在中で、最後にメイン会場から参加するキッチンセミナーだった。1997年に米国マサチューセッツ州にあるクラーク大学のキッチンでヤーン・ヴァルシナー先生が始めたことに由来するセミナーは、今はオールボー大学がメイン会場である。ただ、テレビ会議システム(Avaya社のScopiaが用いられている)によって、世界のどこからでも参加できる。今日も、アルバニアとブラジルから参加があった。

今日のテーマは、はからずもPBLだった。特に、PBLを成り立たせるための文化的な背景は何なのか、ということが論点だった。大学改革の中で導入・展開されているPBLの意義をどこに見出すことができるのか、という問題的でもあった。とりわけ、工学教育のように解が明快であるもの、また最新の技術を開発・応用するために企業等と連携が必須なもの、それらにはPBLが向いているものの、人文・社会系の教育には不向きなのではないか、という懐疑的な印象をもとにした議論だった。

キッチンセミナーでは話題提供者がディスカッションペーパーを用意する必要がある。デンマーク時間で毎週水曜日の15時から開催されるため、その前の週の土曜日の正午(都合、4日前)までに送付することがルールとなっている。今日のディスカッションペーパーでは、高等教育政策に左右されて導入・展開されてきたPBLゆえに、歴史的に世界を揺るがす要因となってきたものを比喩として導入してその意義を検討すべく、宗教のアナロジー(神の存在は?教典は?)と経済のアナロジー(新自由主義のように自由競争が前提?)などによって、PBLの特徴を洗い出したい、とされていた。話題提供者のHansさんにはオールボー大学のPBLとの比較研究を行ったことは知ってもらっていたために、「実際、どう?」と率直な問いかけもいただいた。

PBLは教員の「Teaching」の方法というよりは、学生の「Learning」のための概念である。したがって、きちんと教えたい人や、きちんと教わりたい人、そもそもPBLだけでなくグループワークが苦手な人には、苦痛でしかない。したがって、PBLは「良いもの」という前提で、その枠組みだけを教育法として導入すれば、制度化ばかりが先行することによって、イリイチが指摘する「逆生産性」が際立つことになる。オールボー滞在中に「対人援助学マガジン」で始めさせていただいた連載「PBLの風と土」の第3回「専門性を高める学びと専門家への学び方」でも示したとおり、少なくともオールボー大学の心理学科では、PBLを全面的に導入するにあたって、セメスターごとに習得すべき「知識(Knowledge)」と「能力(Skill)」と「行動特性(Competency)」が明確に示されており、このスキルとコンピテンシーとを明確に区別した上で到達目標を示すことができなければ、効果的なPBLを推進することは困難であると再確認するセミナーだった。


2018年3月20日火曜日

6分刻み

デンマークから日本に戻って、恐らく違和感ばかりがこみ上げてくると思われることが、電子化の浸透具合である。もちろん、浸透していなさへの苛立ちがこみ上げてくるだろうと予測している。デンマークの暮らしでは、人が機械によって代替できる部分は、徹底して機械化や電子化が進められていると断言できる。逆に、日本に戻れば「え?」や「なんで!」と感じることが多々出てくるだろう。

今日も、住民登録を抜くための手続きを調べたところ、役所での窓口対応時間を予約することができることがわかった。これも、CPR番号(日本で言えばマイナンバー)による管理が行き届いていることによる。日本では「管理されている!」といった抵抗感が先に立ち、「管理してくれている」という認識に至らないのは、例えば住民基本台帳ネットワークの導入、また年金の運用など、幾十もの「?」が重ねられたことによるのだろう。そもそも、限られた資源(特に、人、お金)のもとで動くことを制約とするなら、統治機構のスリム化は必然のはずなのに、単年度会計と紙資料の重視(Excel方眼紙に象徴される)が、機械化や電子化へと舵を切れない要因の一つになっているだろう。


ちなみに来週、オールボーの役所に住民登録を抜いてもらうために窓口の予約をしようとしたところ、6分間隔で予約できることを知った。5分で手続きして、インターバルを1分と計算しているのだろうか、と推測した。仮にそうであれば、1人の手続きに5分かけないことを前提に、社会システムが設計されていることになる。幸いにしてデンマークでは突発的な不調で病院にかかることはなかったものの、予約がない場合には空き時間まで延々と待たされ、医師の予約をしたときに1分でも遅れると次の人に回されると聞いており、信用と信頼をもとにした関係が前提とされるのだと感じ入ったことをよく覚えている。

帰国にあたって、どれだけのお土産が必要になるのか、ということも、ささやかな悩みである。昨日、生協で買い物をした際に、甥っ子たちへのお土産にと、LEGOを買ってみた。刑事ドラマ好きな弟(甥っ子からしたら、父)のことだから、と、年齢に応じて2種類のものを買ってみた。これがなかなかよく出来たセットで、いくつもの物語ができそうだ、と、デンマーク人の気質や風土に改めて感心した。


2018年3月19日月曜日

積極的に寄付を選択できる生活

日本への帰国の準備を進めている。片付けなければならない仕事があるものの、部屋や荷物の片付けも必要である。かさばるものを減らそうと、紙資料は出来る限りスキャンによるPDF化を進めた。そもそも、こちらで得た文献の多くは、最初からオールボー大学図書館が講読する電子ジャーナルであるため、そもそもその作業が必要とされず、ダンボール何箱の梱包をせずに済みそうである。

デンマークにやってくるときには、衣類や食材を何箱か送った。食材は食べることで経る。衣類については、何度かの一時帰国の際に、季節感を見誤ったものを持ち帰ることにした。特に半袖の夏服はほとんど不要だった。

今日は生協に買い物にいくついでに、持ち帰らないと決めた服の一部と、デポジットが乗せられたボトル類を持っていくことにした。服はセーブザチルドレンの回収箱に入れ、後々にリサイクルショップで販売されることにより、資金調達につながる、というシステムである。一方で、デンマークで販売される飲料ボトルには「Pant」というシールが貼り付けられており、 1リットル以下のガラス瓶と缶には1クローネ、1リットル以下のペットボトルには1.5クローネ、1リットルから20リットルの瓶・ペットボトル・缶には3クローネのデポジットが乗せられている。これらをスーパー等に設置された回収器に入れる際には、自分の買い物用の金券とするか、寄付にするかを選ぶことができる。

生協での回収器での選択ボタンをよく見てみると、この機械では「Hus Forbi」に寄付されることになっていた。さしずめ、デンマーク版のビッグイシューで、Google翻訳を使って公式サイトの紹介を読んでみると、国連の国際貧困年かつコペンハーゲンがヨーロッパの文化首都とされた1996年の8月に創刊され、毎月1回発行されている(登録販売員は2,750人)という。雑誌を編集・発行・販売する目的は「ホームレスと社会的に排除された人々が路上で対話する機会の促進」と「それらの人々が物乞いや犯罪に手を出すことへの代替策として稼ぐ機会の創出」にあり、1冊20クローネの代金のうち、販売員が8クローネ、10クローネが生産、管理、流通の経費(販売員の制服を含む)、2クローネが税金、という構成になっている。国立福祉研究センター(SFI:the National Research Center for Welfare)の調査によれば、移民でも生活保護の受給資格があり(しかし、受給後には住居費の支払いや納税義務があるものの)高福祉のデンマークにあっても、デンマークでは(特に若年者の)ホームレスが増加傾向にあり、2007年には約5,000人(そのうち500人が路上生活者)だったのが、2017年には約6,600人(そのうち660人が路上生活者)となっており、ああ、早く知っていれば、自分の買い物のためだけでなく、寄付に充てていってもよかったと、帰国間際になってデンマークの寄付文化に浸っているのであった。

2018年3月18日日曜日

1864年、デンマーク戦争に思いを馳せる。

デンマーク最古のまち、リーベを朝に出て、セナボー(Sønderborg)に向かった。ユラン半島を日本の本州(特に東日本)に見立てると、オールボーが青森、エスビャウやリーベは新潟、そしてセナボーは福島と位置づけられるような気がしている。セナボーの歴史は複雑で、デンマークに属するシュレースヴィヒ公国とその南側に位置してドイツ人が多く住むホルシュタイン公国に関わる、デンマークとプロイセン王国との「シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争」(デンマーク戦争とも呼ばれる)の理解が必要である。そこにはフランス革命、ナポレオン戦争といった、歴史の教科書に出てくる出来事が複雑に絡み合ってくる。


セナボーのまちに訪れたことで、昨日からリーベのまちでデンマーク後とドイツ語がほぼ同等に表記されてきた背景には、デンマーク戦争を駆り立てていった帝国主義と関連づけられる「汎ゲルマン主義(Pan-Germanism)」と「汎スカンディナヴィア主義(Scandinavism)」の影響があることを理解した。目の前に南デンマーク大学のキャンパスの1つがあるセナボー駅から向かったのは、「ドゥッブル堡塁の戦い(Battle_of_Dybbøl)」の地であった。あいにく、歴史博物館は冬期(2月と3月)は休業中で、土日には事前予約をすれば「Oplev vinteren 1864」(Google翻訳によればExperience the winter of 1864、つまり1864年の戦争当時の状況を追体験しよう、というツアー)に参加できた。とはいえ、今回は準備が至らず、ドイツ風の風車も含めて、外観のみを味わうことにした。


店内に醸造所があるビアレストランで昼食を取り、セナボー城(Sønderborg Slot)へ向かった。日差しがよかったためか、多くの人が散歩に来ていた。さしずめ、京都御所のある京都御苑を散策するような感じであろう。城内は博物館として公開されており、フロアごとに展示テーマが定められていた。1階は城にまつわる歴史、2階は南ユトランドの歴史、3階は歴史的な背景と芸術文化について、とされていた。


 土日の、シーズンオフのデンマークの観光では、時間の使い方に困ることが多い。そもそも、歴史博物館だけでなく、昼食をとる場所さえも選ぶのに一苦労だった。それは夕食にも及び、17時で閉店となる大規模ショッピングセンターで夕食用のパンを買い、図書館に向かうことにした。もし、歴史博物館のツアーに予約し、1864年を追体験したらどんなことを味わうことができたのか、そもそも1864年にはどんな状況だったのか、想像の及ばないことを想像しながら、帰路についた。




2018年3月17日土曜日

デンマーク最古のまちへ

リーベにやってきた。南デンマークの西に位置するまちである。オールボーからは1度オーフスでエスビャウ(Esbjerg)行きに乗り換え、エスビャウの手前のブラミン(Bramming)でさらにローカル線に乗り換えると、その終点がリーベであった。朝8時3分発の列車に乗り、リーベに着いたのは13時2分と、約5時間の列車の旅だった。


リーベの駅に降りると、あまりの寒さに参ってしまい、目の前にあったヴァイキング博物館(Museet Ribes Vikinger)に、吸い込まれるように入った。ドイツに近いこともあって、展示はデンマーク語とドイツ語、そして一部が英語でなされていた。西暦705年から865年にかけてのまちの建設の様子、埋蔵文化財などの発掘品、800年ごろのリーベの交易文化(マーケット)の様子や1500年(ごろ)の9月の大聖堂建設時の様子の原寸模型、1850年の大火によって被害を受けたガラスなど、歴史博物館としての展示に加え、こども向けのルーン文字(Runealfabet)の体験学習コーナー、ホルステブロー(Holstebro)博物館による「航空考古学(Aerial Archeology)」の観点からの「穀物の歴史」の企画展もあった。


ヴァイキング博物館で1時間半ほど過ごした後、40分ほど街歩きをした。デンマーク最古のまちということもあって、目を引く建物も多い。リーベの大聖堂(Ribe Domkirke)は、リーベから北・中央ユラン地方にあるヴィボー(Viborg)の大聖堂と、シェラン島(Zealand)にある世界遺産として知られるロスキレ大聖堂(Roskilde)と並び、デンマークの三大聖堂と位置づけられているという。リーベの大聖堂は王直属の司教であるベネディクト派コルビー修道院のアンスガーによって西暦860年ごろに建設が進められ948年には主教(ビショップ)が置かれて大聖堂となり、石造りのものは1110年から1134年に建設、現在のものは1150年から建築されたものから改築が重ねられたものだという。


大聖堂では16時からオルガンとトランペットとチューバのトリオによるコンサートが催されると案内されていた。ただ、そちらは鑑賞せず、宿にチェックインして、少し早めの夕食に備えた。1581年の建物をホテルにされた宿の新館(とはいえ、1840年)で、最近リノベーションされた方に泊まらせていただいた。観光地として人を迎えているためか、会う人会う人が気さくに声をかけてくれるまちで、気質の違いを実感した。



2018年3月16日金曜日

小さな幸せを加え重ねて

先日、世界で最も幸せな国はフィンランドと発表された。昨日、PBLについてインタビューをさせてもらったオールボー大学の学生も「デンマークは3位になりましたね」と言っていた。彼はドイツ人の父と日本人の母を持つ。彼は「生まれ育った国が違えば、住んでいる国に対する幸せの感覚は違ってくるでしょうね」と続けた。

昨日に続いて、風が強く、外を歩くと顔に痛さを感じる気候だった。しかし、空は青く澄み渡った。真っ青というわけではないものの、いくつか浮かぶ白い雲が、まだ葉っぱのつかない木々との間で、冬の風景としての情緒を醸し出していたように思えた。思わず、寒さをしのぐためにダウンジャケットのポケットに入れていた手を出し、スマートフォンで撮影したくなった。



午前中、大学で用事を済ませた後、お昼の食材にと、スーパーへと向かった。間も無く帰国ということもあり、普段は通らない小径を抜けていくことにした。そのため、見慣れぬ風景にも出会うことになった。強い風にたなびくデンマークの国旗の赤が、青い空と白い雲、さらには黄色のバスと黒い車、さらには先週に降り積もった雪の残りなどとの対比で、目に飛び込んできた。

北欧は暗く長い冬を経て、過ごしやすくも短い夏を迎えていくことになる。だからこそ、落ち着いた家具や色とりどりのロウソクで居住空間を整え、読書や手芸などで自分の生活時間を送る習慣が根付いているのだろう。そんな国での生活も、あと10日で終わりを迎える。祖国という言葉は大げさかもしれないが、例えばデンマークを第二の祖国として思うことができるよう、帰国した後の暮らしで感じる違和感があれば、その感覚を大切にしたい。



2018年3月15日木曜日

暗号のような3文字の略語たち

朝からオールボー空港に向かった。何回目になるのか、振り返って精確に数え直すことはやめてみた。ブラジルのアマゾン川の流域(マイシ川:Maici River)に住むピダハン族の言語(ピダハン語)では、数詞は絶対的な数量を表すものではなく、言わばレベル1、レベル2、レベル2よりも多いといった、相対的な数量を表すものだという。この「lack of exact quantity language」の視点は、MITのマイケル・C・フランク先生らの論文「Number as a cognitive technology: Evidence from Pirahã language and cognition」に詳しい。


オールボー空港には、自分の搭乗と同じくらい、日本からのお客さんのお迎えやお見送りにやってきた。今日は先週の東京組のお仲間が、コペンハーゲンからお越しになった。まずはホテルにお連れして荷物を軽くした後、オールボーのまちなかを案内し、オールボー大学(AAU)のウォーターフロントのキャンパスに向かった。ここがCREATEという愛称でFacebookページが開設されていることを、昨日お越しになられた立命館アジア太平洋大学(APU)の皆さんとのやりとりで気づいた。


AAUのCREATEに行く前、オールボーの大通りで1月8日に開店した「Okaeri」に立ち寄り、おにぎりと煎茶をテイクアウトした。そして、CREATEにてPBLのワークショップに参加されているAPUの方々と合流し、AAUのメインキャンパスに向かった。5月10日の1日セミナーに参加した際、学際的なPBLについて話題提供をされたHanne Tange先生の授業を4人見学させていただき、途中からは17人が4グループに分かれて「英語が母語でない人たちどうしで仕事をするときに、排除的でない言語コミュニケーションをするにはどうしたらいいか」2〜3の原則を考えてHanne先生にメールで提出する、という議論に参加させていただいた。(私のグループでは、(1)Danish can only be used if a complete sentence can't be formulated. (2)Small groups and language survey before hand, so people with less communication skills can be mixted with people with higher.の2つが定まった。)


授業を見学・参加させていただいた後は、AAUの図書館(Aalborg Universitetsbibliotek:AUB)をご案内し、再びまちなかへと向かった。1月8日の「Okaeri」開店の日に出会った、オールボー大学の学生(ロボット工学専攻)から、PBLの学修経験について、1時間ほどインタビューをさせていただいた。その後はオールボーの中央図書館(Aalborg Bibliotekerne)や、古い街並みを見学して、秋田の国際教養大学(AIU)から10ヶ月間、オールボー大学に交換留学に来ている学生たちと会食した。APUとAIUとTCU(Tokyo City Univeristy:東京都市大学)の方々が、AAU(オールボー)大学のPBL(Problem Based Learning)について話す、という、アルファベット3文字で表す出来事が多い一日となった。



2018年3月14日水曜日

カウントダウン

水曜夕方に好例のオールボー大学でのセミナーも、現地で参加できるのは、今日を含めて、あと2回である。ヤーン・ヴァルシナー先生がかつて在籍していたクラーク大学のキッチンで始まったキッチンセミナーが、オールボー大学で開催されるようになったのは、この5年間、デンマーク国立研究財団(the Danish National Research Foundation)による「ニールス・ボーア研究奨励金」(the Niels Bohr Professorship)による助成により、ヤーン先生を主軸として文化心理学研究センターが設置・運営されたためである。2月末のシンポジウムにより、その活動は区切りを迎えた。そのためか、今月に入ってからのキッチンセミナーの参加者は、以前に比べて格段に減った。



されている)で扱われた。今日はカナダ出身の方が、ルクセンブルクから話題提供だった。テーマは「オープンな社会における想像力を通した社会的表象の氷解」であった。セルジュ・モスコヴィッシ、アンリ・ベルクソンの理論をもとにした論考のため、実に抽象度が高いものだった。事例として、カナダ・ケベック州にあるラヴァル大学のルイ・モーノー(Louis Morneau)氏による修士論文(フランス語の原著がPDFで公開されている)で扱われた、アーティスト「フレッド・ペルラン」(Fred Pellerin、1976年生まれ)の作品が取り上げられた。


キッチンセミナーの後は、オールボーの街中へと向かった。立命館アジア太平洋大学から、オールボーに2人がお見えのためである。明日から、ユネスコのオールボーセンター(UCPBL)が開催するワークショップに参加するために、弾丸ライナーのような旅程でお越しになった。このワークショップは半年に1度開催されており、8月にも参加の可能性を調整されたものの、叶わずに今回の参加となった。


今日は「バス停の前のホテル」のロビーで待ち合わせと約束をした。オールボーの滞在にあたっては、ホテル情報も含めて、あらかじめ情報提供を重ねてきたために、「ああ、あそこだろう」と思って、約束の時間の前に着き、落ち着きながらもゴージャスな佇まいを味わっていた。「長旅でいらっしゃったでしょうから、どうぞ、お二人のペースで」とお伝えしていたものの、30分が経っても来られる気配がなく、一方でFacebookがオンラインになるなど、どうもすれ違っている気がしてならなかった。思えば、バス停はいくつかあるわけで、私の勘違いであることがわかり、慌ててもうひとつの馴染みのホテルに駆けていき、デンマーク料理をご一緒しながら明日の予定をすりあわせした。


2018年3月13日火曜日

1年間滞在したからこそ

今日はオールボー大学にて、受け入れ担当教員の2名とリサーチミーティングとなった。2月にカリフォルニアのサンタクララ大学で共同発表して以来の、3者、顔を合わせてのミーティングである。場所はMogensの研究室にて行われた。Casperの研究室は四角のテーブルだが、Mogensの研究室は丸テーブルというのも、ささやかな好みでもあった。

ミーティングに際して、この1年間、オールボー大学で過ごした出来事をリストアップしてレジュメとして持参した。MogensとCasperおよびPBLに関わる出来事は42に及んだ。リサーチミーティングは合計19回で、そのうち3人で行ったのは11回だった。また、3人による共同発表の内容を、私が不在のあいだに検討いただいたことが1回ある。

議論は2時間に及んだ。まずは先日の学術会議の感想交流を行った。そして、その内容を踏まえた論文をどこに投稿するかについて意見交換をした。そして、今後の研究の展開可能性についてアイデアを示し合った。

結果として、5月7日、次はネットでのミーティングをしよう、ということになった。8時間の時差の中で、画面を通して対話を重ねることになるものの、「既にこれだけ一緒に会ってきたから、ネットでもいいだろう」と、Mogensが口にした。そのために、4月27日には互いに資料を提示することにした。大学から戻ると、これから半年、オールボーに滞在される方から問いかけのメールがあり、その内容に簡単に応えることができるのもまた、1年間過ごしてきたゆえんだろうと、感慨深さに浸った。


2018年3月12日月曜日

霧の中の風景

應典院に在職したことで、多くの映画に触れることができた。何せ、劇場寺院と銘打って再建された寺院である。本堂や研修室を劇団らに提供してきたものの、寺院を再建する前には秋田光彦住職が映画の脚本とプロデューサーを務めてきたこともあって、映画もまた、活動の一つの軸に据えられた。例えば月1回の「映画おしゃべり会」は、映画という文化を存分に味わっている方々のコミュニティであり、半端な関心と知識のもとで参加してしまったことの恥ずかしさを強烈に覚えている。

應典院で映画の上映活動を積極的に行うようになったのは、2005年のことである。秋田住職がかつて共に「ダイナマイトプロ」を興した、石井聰亙(現在は石井岳龍に改名)監督による最新作『鏡心・3Dサウンド完全版』の上映が契機となった。それ以来、「コミュニティ・シネマ・シリーズ」と銘打って、いくつかの作品を本堂で上映してきた。2006年3月10日、私が應典院に着任する直前に行われた第3回の『ザ・コーポレーション』の上映では、着任の発表を兼ねたトークが盛り込まれた。

そして、2006年6月、第5回目となる企画が「シネマ ロックディズ アンド ナイツ」だった。石井聰亙監督の初期作品のDVD発売を記念して行ったもので、実行委員会を結成して臨んだものだった。23日は 「ishii SOGO〈爆裂〉ナイト!」、24日は「完全制覇!石井聰亙、監督30年の全貌」、25日は「映画、そして至高の物語」と、日々、趣向を変えてのお祭りとなった。デジタルリマスターされた際のフォーマットにこだわり、プロジェクターの調達の際にはパネルの画角にも注意を向け、いくつかのデッキを駆使して上映したことを、今でもよく覚えている。

あれから12年、その実行委員を務めた方の訃報が届いた。その活躍に期待を寄せて、應典院での演劇公演や、應典院での映画ロケなどを行った俳優さんからの連絡だった。霧に包まれたデンマークの朝に届いた悲しいお知らせに、ふと、秋田住職から教えていただいた、住職が最も美しいと評した映画『霧の中の風景』(テオ・アンゲロプロス監督、1988年)を想い起こした。遠い場所からとなるが、謹んで哀悼の意を表したい。


2018年3月11日日曜日

検索で寄付をする

「あの日」という表現を使う日がいくつかある。大抵は、大きな出来事に対して用いられる。誕生日など、個人的な出来事には用いない表現である。とりわけ、災害など、社会的の動きに対して使われる。

今日、あの日から7年を迎えた。東日本大震災から7年である。以前は毎月11日(土日・祝日の場合は前日あるいは前々日)に、警察庁緊急災害警備本部によって、「平成 23 年(2011 年)東北地方太平洋沖地震の被害状況と警察措置」が発表されてきた。最近は数ヶ月に1回の更新になっているように思われる。

2018年3月9日の警察庁の情報によれば、今なお2,539人が行方不明とされている。警察庁の発表資料は毎回同じURLで更新されるため、発表資料はアクセスするたびに保存する癖がついた。例えば、2015年3月11日に発表されたファイルを開くと、行方不明者数は2,584人とされていた。この3年のあいだに、その差の分だけ、身元を待ちわびた家族が遺族となったことを意味していると捉えられる。

行方不明者の数が徐々に減っていくことへの関心に加えて、最近は復興庁の「震災関連死の死者数等について」のページも比較的頻繁に見ている。震災から7年、最新の情報は2017年12月26日に公表された「2017年9月30日現在」の集計で、東日本大震災における震災関連死の死者数は合計で3,647人、そのうち福島県が2,202人と、相当な率を占めている。言うまでもなく、災害の悲しみは数で語りきることができるものではない。この数年、立命館災害復興支援室の「いのちのつどい」の場で過ごしてきた3月11日、デンマークから、Yahoo! Japanの検索を通した寄付をして、多くの悲しみと、悲しみの中から生まれた多くの物語に思いを馳せてみた。


2018年3月10日土曜日

晴れた日にルネサンス様式の石邸の地下でジャズを

オールボーに来られた方が必ずと言っていいほど、写真に収めるのが、イェンス・バング邸である。かつての豪商(Jens Bangs)が建てた石造りの建築は、確かに大通りからも目を引く。あいにく、産業の移り変わりにより、製剤薬局としての営業は2014年で終了し、その内部を見るには、ガイドツアーに参加する他はない。私と妻は運良く、10月21日のツアーに参加させていただいて、その歴史に触れることができた。

イェンス・バング邸の一端に触れる確実な方法は、地下で営業するレストラン「Duus Vinkælder」に訪れることである。伝統的なデンマーク料理と、いくつかの生ビール、またワインやスナップス(Schnaps:特にじゃがいもの蒸留酒)を味わうことができる。7月に母と伯母が訪れた際には、ランチをいただいた。また、8月に別府から来られた皆さんは、午後のカフェタイムにお連れした。

今日は東京組の方と、Duus Vinkælderにてランチをいただいた。ちなみに毎週土曜日はランチビュッフェ(frokostbuffet)の日とされている。これまで何回かチャンスがありながら、寄せていただくことが叶わなかった。しかも今回は月に1回の「朝食ジャズ」(Frokost Jazz)と重なっており、Barfoeds Jump Bandという方々の演奏と案内された。

ホームページには「電話で席の予約を」(Der kan bookes bord på tlf)と記されていることは、Google翻訳で知っていたものの、電話では心許ないと、昨日のまち歩きの中で、直接、予約をしに行った。すると「予約で満員だから、ステージから遠いところになるかもしれない」と言われてしまった。「せっかくなので、近くで聞きたい」と言うと、演奏は13時からだけど、12時に来るように、と伝えられた。その時は合点がいかなかったものの、どうやら12時に到着した順にテーブルが案内されるようで、結果としてステージかぶりつきのテーブルで、しっかりジャズと料理とお酒を楽しむことができた。


2018年3月9日金曜日

地域と食と健康をテーマに

3月にはオールボーで日本から4組の方をお迎えする。今日はさしずめ東京組である。先日、京都組を見送ったばかりでのお迎えとなる。ちなみに東京組と括りつつも、お一人でやって来られた。


今回は、ご専門が社会福祉と教育社会などということもあって、これまでとは違う場所をアレンジした。まずはオールボー大学のメインキャンパスにご案内し、食堂で食事をいただいた後、学びの環境に触れていただいた。続いて、大学図書館にもご案内した。ここまでは、ほぼ通常の流れである。


オールボー大学の後、かつてアクアビット(じゃがいもの焼酎)の蒸留所であった場所を活用している「Boxtown」にお連れした。ここはローカルでオーガニックな食べものが提供されている。イートインできるのはクレープのお店と煮込みとスープのお店しかないものの、野菜や肉類も販売されている。スープと煮込みをつつきながら、閉店の17時まで、1時間半ほど滞在した。


その後はまち歩きをして、ホテルまでお連れした。オールボー大学のウォーターフロントのキャンパス、中央図書館、そして百貨店などを訪れた。図書館では、連日の雪で屋根から水が漏れているようで、あちこちに黄色の水受けが置かれていた。凍った海を横目に「けっしてこれが通常のオールボーではないです」とお伝えしてみたものの、しょせん、私も1年限りのオールボー人である。それでも、こうして日本から訪れていただく方に、デンマークという国に、こうしたまちがあるということを知っていただく橋渡し役を担えて有り難い。



2018年3月8日木曜日

積もったり溶けたり

もっとも激しい寒波は去ったように思われるものの、デンマーク・オールボーでは雪景色が続いている。今朝も、窓の外には5cmほどの積雪が確認できた。雪国育ちではないがゆえに、雪景色には多少、テンションが上がってしまう。ただ、新潟県中越地震からの復興過程に少々関わってきたため、雪は楽しいことばかりではないということも知ってはいる。

今日は家から出ることなく、自宅にて過ごした。日本とは来年度の授業準備に関してメールのやりとりも行った。時差が8時間あることを考えると、即レスをしないようがよいのではないか、と考えてしまうこともある。もちろん、メールは好きなタイミングで見ればいいのだが、退勤前に届けば、それを処理したくなる人もいることを思うと、複雑である。

また、今日は昨日のキッチンセミナーを受けてのメールのやりとりもあった。一つは、フィンランドから来られた方とのやりとりだった。ヘルシンキ大学のAnna-Maijna先生で、セミナーの終了後に「なんで日本から来ているの?」との問いに「PBLとサービスラーニングの比較研究で」と応えたところ、関心を抱いてくださったので、先般、カリフォルニアで発表した内容をお送りさせていただくことになった。フィンランドとの縁も深まるかもしれない、なんて淡い期待もないわけではない。


また、半年間オールボー大学に滞在される大阪教育大学の小松先生とのメールも何通か重ねた。昨日のキッチンセミナーには、到着して程なく来られたようで、滞在にあたってのもろもろの手続きをこれから始められるようだった。私が同じような手続きをして1年が経とうとしていることに、月日の流れを実感した。そして夕方には朝には積もっていた雪が溶け、芝生が顔を出していることにも、一日の時間の流れを感じるのであった。


2018年3月7日水曜日

ハイパーコネクト時代の倫理観

水曜日ということで、オールボー大学文化心理学研究センターのキッチンセミナーに参加した。参加者はそれほど多くなく、7名だった。中には初めて見るお顔もあった。そして半年間滞在とお伺いしていた大阪教育大学の小松先生もお越しだった。

今日のテーマは「常時接続時代の意識〜人間と機械のあいだの認識のもつれ」だった。ポイントは「non-conscious cognition」つまり非意識的認識で、いくらでも議論が深まりそうな論点だった。議論の中軸は、無償で公開されているEUによるレポート「The Onlife Manifesto: Being Human in a Hyperconnected Era」(さしずめ「オンライフ宣言:常時接続時代の人間の振るまい方」)である。このHyperconnectedという観点については、特にNicole Dewandre(ニコル・ドゥワンドル)さんの発言を取り上げており、空(sky)までを対象としていた18世紀までの啓蒙の時代、惑星(planet)までを対象としていた20世紀までの技術の時代を経て、今は自己を対象とハイパーコネクトの時代に入ったという指摘を踏まえたもので、我々の(言わば、存在と機能の)限界に向き合う時代だと示している。

いつもキッチンセミナーの切り込み隊長であるLuca先生は、この議論を隠喩的(metaphorical)にするか、存在論的(ontological)に行うかによって、深め方が違う、と指摘した。特に何が「自己」(self)と他者との境界を生み出す機能をもたらしているのか、また人間の幸せとは何かを考える上で、GoogleやFacebookは技術的な恩恵をもたらすと同時に広告企業として莫大な富を生んでいること、ビットコインのように投機目的の仮想通貨が広がってきたこと、そうした社会システムそのものへの見方が問われるだろう、という指摘である。発表者のKathrin先生も「今回の論考は挑発(provoke)のためだから」と応え、N.Katherine Hayles(キャサリン・ヘイルズ)さんの新著『Unthought』も紹介しつつ、今後、とりわけ技術に対する倫理の問題を扱っていきたいと示し、意見交換が重ねられていった。

私もまた、ささやかながらコメントした。ハイパーコネクト時代にはデジタルシチズンにいくつかの民族(ethnic group)が存在するのではないかということ、その背景にはリテラシーの格差があるということ、そのために技術的にはハイパーコネクトが可能であっても積極的に切り離す人や消極的に触れることなく従前の暮らしを続ける人もいること、これらをまず指摘した。また、開発者と利用者とのあいだで、決して精読されることのない免責事項に同意した上で技術を使用していることにより、技術の世界と生活の世界との分離はいかようにでもコントロールできてしまうことにも触れた。かつて、アイザック・アシモフが指摘したロボット三原則によって、人間の権利に関する議論が深められたように、今後、人工知能を巡る倫理について、より議論が深められていくことになるのだろう。



2018年3月6日火曜日

厳寒の中で快適な夏を思う

雪の中の生活では、ご近所の助け合いが欠かせないことを、朝起きたときに自宅の玄関前が除雪されていることで実感した。4日からオールボーにお越しの京都の仲間たちとは午後に合流した。午前中にはそれぞれにオールボーのまちを楽しんでいただいたところ「人生で一番○○なこと」が続いたようで、お会いするなり、午前中に体験した内容を語ってくださった。人口20万人ほどのまちながら、多くのことを体験いただけたようで嬉しい。


午後には以前、京都市市民活動総合センターの連載「寄付ラボ」でも紹介させていただいたような、生活文化に根ざした知恵に触れていただくことにした。例えば、衣類の寄付、寄付されたものを自前のリサイクルショップで販売することによる活動資金の調達という、一連の流れである。その他にも、デンマーク国内で売られている飲料にはデポジットが課されており、それらを回収する拠点がスーパーに整備されていることをお示しした。そのため、妻の計らいにより、自宅に取り置いていたペットボトルなどを実際に回収器に投入してもらい、次の買い物に使うことができるクーポンを発行してもらったりもした。


京都の皆さんとは事実上、今日でお別れである。明日からはコペンハーゲンへと足を伸ばす。本来であればロラン島での再生エネルギーの取り組みを見学するという計画もあったものの、いくつかの事情で今回は叶わなかった。天候がよい夏の時期に再訪しようと決意したもようである。


最後の食事は、結果としてラーメン店となった。日本で慣れた味に近いらしく、この3日のあいだにメンバーの一人からは聞くことができなかった「おいしい」という声を初めて聞くことができた。最後はハーバーフロントのまわりを散策し、凍った海に目を向けた。ぜひ、また、夏の再訪時には、私(たち)もご一緒できればと願っている。