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2011年4月6日水曜日

季節を愛でる

 このところ立命館の仕事でバタバタしていますが、引き続き應典院の仕事もさせていただいております。端的に言えば、昨年度までとは異なって、私が関わることができる日程を事務局に伝え、個々の対応を行っていく、という方向になった、というものです。いわゆる「オフィスアワー制度」と言ってもよいのかもしれません。ともあれ、いつもいるわけではなく、かといって、全くいない、というわけではありません。
 ただ、新年度を迎えて、應典院では(でも?)私以外の身辺に大きな変化がありました。それは應典院の劇場部分(シアトリカル應典院)の管理と、應典院寺町倶楽部の事業運営に携わってきたスタッフが、怪我のために現場を離れなければならなくなったことです。最初の電話の印象では、それほど大事には至らないと思っていたのですが、時間が進むごとに事態が明らかとなっていきました。結果として前者は以前からスポットで管理業務を担ってきた方に、必要な日程で都合の合う限り、助けていただくことといたしましたが、後者は他のスタッフでリカバーしていくこととなります。
 今日はその反動もあって、急遽、應典院舞台芸術祭「space×drama」制作者会議の司会進行を担うことになりました。この演劇祭は、夏に公募し、秋に締め切って、選考の後に冬から顔合わせと大まかな運営方針の協議をはじめ、年度が変わって4月以降に具体的な内容をすりあわせし、概ね7月の初旬から9月にかけて行われるという段取りです。また、参加劇団から1つを「優秀劇団」として選出し、次年度の演劇祭にて会場を無償提供して公演を行うという、劇団と劇場側との「協働プロデュース」の場が設けられているという特徴があります。そこで今回は、昨年度の優秀劇団の代表の方に議長役を担っていただき、昨年度の枠組みを踏まえつつ、この段階で決めておくべき事柄について、議論を先導いただきました。
 会議の前には、この時期恒例となった應典院の桜のライトアップの電気を入れる作業も行いました。気づけば桜を愛でる時間もなく、このところ慌ただしい生活を送っています。もう少し余裕を持たねば、と、暮れゆく空に浮かび上がる満開の花を見て思うのでした。そして、やはり、桜は被災地にも咲くのだろうな、と、彼の地を思うのでした。


夜は闇を楽しんだ方がよいのでは、と、ライトアップ系の催しには基本的に否定派なのですが、それでも喜んでいただけるなら、と、應典院での桜のライトアップには積極的に批判はいたしておりません…

2011年4月5日火曜日

立命での初・三都物語

 4月5日、朝から慌ただしい一日でした。まず朝一番で、衣笠キャンパスにて、今回の東日本大震災に対して、立命館大学サービスラーニングセンターとしての取り組み方針について、共通教育課長と担当スタッフの皆さんと意見交換を行いました。続いて、2012年度に予定されている教養教育改革に関する科目群構成についての協議が行われました。そして終了時間を気にしていただきつつ、急ぎ足で滋賀県の草津市へと向かいました。
 午後はまるまる草津で過ごしました。まずは草津未来研究所の2012年度第1回目の運営会議でした。実は今年度、私は立命館大学サービスラーニングセンター副センター長に就き、草津未来研究所の総括研究員の職をいただくこととなりました。ついては、昨年度に立ち上がった、大学連携による自治体シンクタンクの研究推進に、一定の貢献が求められており、今回は、初年度の到達点と課題を確認し、二年目の有り様について、橋川市長、児島所長、戸所顧問、肥塚副所長、林田副所長、長積運営委員らと議論を重ねました。
 草津未来研究所の運営会議の後は、草津市のまちづくり協働課の協働コーディネーターを務めておられる仲野優子さんと、草津未来研究所のオフィス(草津市役所7階)で情報交換を行いました。すると、開始程なく、立命館の社会連携部の皆さんが来室という、何とも奇遇なことに…。そこで、ある程度の情報交換を行った後に、私も社会連携部の皆さんと共に朱雀キャンパスに向かうこととなりました。そして、朱雀キャンパスの会議室にて、今後の教学面を中心とした社会連携プログラムについて、もろもろ知恵を絞りました。
 着任して初めての立命館「三都」を巡った一日ですが、それなりにタフだと思っている私も疲労困憊でした。さて、体力が持つかどうか…。ちょうど前日、原稿を書きながら(キーボードを打ちながら)寝てしまったこともたたっていたのです、が。ともあれ、そんな三都物語デビューなのでした。


朝、衣笠の打合せは「立命館大学震災支援活動ネットワーク(311+Rnet)」の隣で行っていました。

2011年4月4日月曜日

脱・学校へのモードチェンジ

 私にとって大学の入学式とは、脱学校へのモードチェンジの機会でした。それまで、小学校から高等学校まで、家族と健康と仲間と師に恵まれたこともあって、無遅刻・無欠席・無早退で通してきたのですが、入学式早々に、遅刻、早退することになったのでした。しかし、生まれて初めて地元を離れ、地理に不案内ななか、開学したばかりの立命館大学びわこ・くさつキャンパスに赴いた日のことは、よく覚えています。真新しい「BKCジム」(体育館)で、当時の大南正瑛総長・学長が、落ち着いたトーンで語りかけていた内容は、最早想い起こすことができませんが…。
 あれから17年。7761名の新入学生と1318名の新入大学院生を得た立命館大学・大学院は、入学オリエンテーションを先行させ、4月4日に京セラドーム大阪にて、一括の入学式を行いました。冒頭は震災犠牲者への哀悼の復興への祈りを捧げる黙祷から始まりました。川口清史総長の式辞では「負わされた心の傷からの回復やまちの復興だけでなく、地球の未来に対する根源的な問いに対して貢献できる道を探る必要がある」とし、「根底から再建する特別な使命への期待が寄せられることを自覚して欲しい」と、未来を拓く立命人たちに期待がかけられました。
 ただ、今回、入学式に参列して、変な比喩ですが、挙式・披露宴、葬儀・告別式の関係を考えてしまいました。それは、入学式典と新入生歓迎式典と二部構成になっていたこと、そしてその第二部の構成と進行、そして内容が、どうも「式典」ということばに負けているように思えてしまったためです。無論、そうした二部構成が悪いと言いたいのでもなく、むしろ昨今の挙式・披露宴や葬儀・告別式では、前半の儀礼的側面に対して後半の情緒的側面(この二元論が妥当かは今回立ち入りません…)が特に珍重され、多くの人々の喜びあるいは悲しみを誘う場として、忘れ得ない機会となっていることは、人生の一コマ一コマにおいて、大きな意味があると捉えています。しかし、今回の入学記念式典において、しかも新入学生・新入大学院生が一同に回する場で展開されて相応しいものであったのかを(少なくとも私は、テレビというメディアによってもたらされている「何か」があった、という感覚を禁じ得ません…)、大学・大学院に入学することの意義からの評価を切に望むところです。
 ともあれ、入学式典における儀礼的側面は、先の東北地方太平洋沖地震による被害を悼み、被災地から距離が離れているとはいえ、高等教育機関として東日本大震災からの復興に何らかの役割をに担っていく決意が随所に織り込まれたものだったと感じ入っています。とりわけ、立命館大学父母教育後援会の千宗室会長のことばに、茶道を究める文化人としての品格を見ました。要約すれば、「人間社会では年齢や国籍を問わず、あらゆる困難を乗り越えてきた。ここにいる全ての人が、どうなったら状況が改善、安心できるかを考える責務がある。その際、相手を思い続けることが大事」、と。「我が母校」の校歌・応援歌を高らかに歌えたことに小さな満足感を覚えつつも、若干、陰鬱とした気分で会場を後にしたのですが、出口に構えていた学生らが大声を挙げながら募金活動に取り組んでいる姿を見て、今日この日を迎えた全ての人々が、数年後も変わらず母校を思い続けて欲しい、そう願ってやみません。


会場外での誘導にあたっていた職員の中に、在学中、大変お世話になった松井かおり学生課長が…(今や、課長でいらっしゃいます…)

2011年4月3日日曜日

震災世代の(元)若者として

 4月3日、今日は朝から家で仕事というか作業をして、夜には会議の出席のために梅田に向かいました。会議の名前は「被災地・被災者をNPOの専門性で支えよう! 第1回SSN(スペサポ)関西 つなプロ会議」です。なんとも、長い名前です。サンブリッジという株式会社が展開するベンチャー企業支援の拠点、グローバルベンチャーハビタット大阪というところで開かれました。
 この会議の目的は、「避難所でのこれ以上の死者や状況悪化者を出さない」ミッションを掲げて活動する「被災者をNPOとつないで支える合同プロジェクト(略称:つなプロ)」の一環として、「被災地において最も支援が必要であると思われる障がい者、外国人、難病患者などの少数者に対する支援」をいかに進めていくか、ということでした。そもそも「つなプロ」の幹事は川北秀人さん、田村太郎さん、紅邑晶子さんの3人で、それぞれ東京・大阪・仙台の3拠点をつなぐやくわりを担っています。よって、この大阪での会議では、赤澤清孝さんの司会のもと、内閣官房に設置された「震災ボランティア連携室」の室員として民間から企画官に起用された、田村太郎さんが出席し、議論の引き出し役となりました。
 会議の途中、田村さんは「震災世代」ということばを用いて、(そしてそれが私、山口が使い始めたのではないか、という含みを置きながら)阪神・淡路大震災を経験した世代だからこそ想像力が働く人々が役割を果たすことができることが多い、と訴えました。具体的には「困っている人は自分から困っているとは言わない」からこそ、阪神・淡路大震災と状況は違えど、「全ての人が初めて経験することに対して、これまでの経験を重ねればいい」のであって、「状況を読むということが何より大切」と語りました。そして、今後、泥かきや片付けなどの「ガテン系」、子ども支援や足湯などの「プログラム系」、そして通訳やヘルパーなどの「専門スキル系」と、ボランティアのニーズは三分化するだろうとの予測を示しました。それは田村さんの表現を用いるなら、「救援のフェーズから復興のフェーズへ」と変化するという見立てによるものであり、「言わば炊き出しから屋台へ」と、支援の有り様も変わらざるをえない段階に来ていることを意味します。
 最も印象的だったのは、田村さんによる「ケアとか支援とは役割を与えることではないか」という問いかけでした。要するに、現地ではまだ避難所を生活の拠点としている方が多い状況の中、「避難所の方々のために」という援助ではなく、「避難所の方々とともに」として復旧から復興への歩みを進めていくことが重要だ、ということです。そのために、関西から、特に震災世代が「地元のNPOの皆さんが地元のニーズを拾う活動、そのバックヤードを支えていくように」と、各々の専門性や関心をもとに意見交換を行いました。次回の会議は13日の夜に決まり、生憎私は参加ができないのですが、それまでに(8日の夜から9日にかけて)仙台に行く機会を得ています。大学教員だけでなく文化芸術関係のNPOの立場のある人間として、現地の方々の何を支えることができるか、丁寧に考えていきます。


写真一番左が田村太郎さん(その右は大阪ボランティア協会の永井美佳さん)で、「SSN関西への期待」として「1歩先、半歩先のニーズを読む(現地でニーズを確認してからは遅い、困っている人は自分から困っているとは言わない)」、「「震災世代」としての発信を!(関西で震災以降活動してきた「元若者」としての発信をしたい)」とスライドで説明。

2011年4月2日土曜日

古巣

 4月2日、学校法人立命館の新任教職員の辞令交付式に出席いたしました。途中、Facebookを通じて「新任という響きが意外」というコメントも寄せられ、二重、三重に不思議な思いを抱きながらの出席となりました。3月までは同志社の教員をさせていただいてきましたが、知った風景の中で、組織文化もある程度理解できていることもあって、「知る」よりは「学び直す」そんな心地で着座しておりました。ちなみに辞令交付式とはいえ、大学教員64名、附属校教員25名、事務職員9名の参加(うち26名がアジア太平洋大学関係)という、一定数の参加者ということもあり、理事長から辞令を渡されるのは選ばれし方(大学教員・附属校教員・事務職員から1名づつ)のみでした。
 朝から夕方まで、みっちりと内容が詰まっていました。まず、9時10分からは教学部(90分)、研究部(30分)、学生オフィス(30分)のガイダンスが、その後11時50分から40分の昼食時間が入り、任意で12時30分から国際平和ミュージアムの見学、そして13時から辞令交付式(学園歌演奏、役職者紹介、理事長挨拶、総長挨拶、辞令交付)、14時からオリエンテーション(立命館学園の現状と課題、禁煙について、給与・福利厚生ガイダンス、ハラスメント防止について、校友会ガイダンス、生活協同組合ガイダンス)という順でした。ちなみに立命館大学国際平和ミュージアムは、世界に150程ある平和博物館のうち、唯一、大学が運営するものであり、ウェブサイトにあるとおり1992年に「『平和と民主主義』の教学理念を具体化する教育・研究機関として」開設、その後9.11アメリカ・ニューヨークの同時多発テロなどを経て、2005年にリニューアルされました。正直、リニューアル以降は始めて入ったのですが、同志社で働いてきて「精神的支柱」としての設立者・新島襄先生の存在を極めて尊いものだと感じてきたのですが、いわゆる宗教的な拠り所がない中でも、このような道徳的な拠り所をきちんと有しているということに、誇りを持ってよいのだ、と感じたところです。
 この間、母校ということもあって「古巣に戻るのですね」という声をいただいてきましたが、本日の辞令交付式に出席して、何となく、その実感がかきたてられました。総務担当の常務理事にには「おおー」と声を掛けていただき、総長は退出の際に微笑みを浮かべながら近づいてきて小さく茶化していただき、登壇して説明をされる方々はお酒の席をご一緒した方々が多かったり、などです。ちょっと前、昔お世話になった職員のに「皆さん、偉くなりましたね」などと軽口をたたいたところ、「お前もな」という感じで返されてしまいました。時に、教職協働ということばがキャッチフレーズのように使われる大学界ですが、学生時代からお世話になった方々と、こうして共に仕事をさせていただくことができる環境にいることは、やはり自らが育った「巣」に戻って来たのだろうな、と思っています。
 実は辞令交付式ではいただかなかった辞令として、2011年度、立命館大学サービスラーニングセンター副センター長(BKC)という肩書きを背負うこととなりました。着任早々のことですが、対外的に組織間連携や学術協定を活かしていく上では、何らかの肩書きが必要だろうという議論の結果でして、若輩者ながらの大役に、身の引き締まる思いです。当面、サービスラーニングセンターによる地域参加型学習の講義担当に加えて、センターを通じた多彩な地域社会との連携促進にあたっていくこととなります。多くの目を背中に受けていくことに、適度な緊張感を抱きつつ、職務に当たっていきたいと思います。


教職員証(同志社は「社」なので「社員証」でした…)の写真は浄土宗の輪袈裟をさせていただいている写真で、辞令は手書き(筆耕)という、ちょっと格調が高い、そんなセットでございます。

2011年4月1日金曜日

+R

 気づけば調べ物が好きになっていました。今ではインターネットという便利なものがあるので、検索エンジンに知りたい事柄を入れれば、比較的簡単に情報を得ることができるようになりました。そこでは、SEO(search engine oriented)という概念で「見つけられる」側の工夫が取り上げられるところですが、当然、見つける側も、適切なキーワードの選択が必要となります。文字通り「キーワード」、すなわち、鍵を開けることばを選び抜かねばならないのです。
 思えば大学に入ってすぐ、私はNCSA Mosaicというブラウザという道具と、メディアセンターと名付けられた新しい図書館の形態に触れ、知の扉が常に開かれていることに小さな興奮をしていたように思います。そこには入学と同時に開学した、真新しい立命館大学びわこくさつキャンパスであったことも無関係ではありません。今であれば、Microsoft PowerPointなどによって「説明」がされていくような講義形式が半ば主流となってきているかもしれないのですが、そうした真新しいキャンパスであっても、講義そのものは板書とレジュメが中心でした。しかし時には視聴覚素材が織り交ぜながら、まるで教員がディスクジョッキーのように伝えることを楽しみながら学びの場をプロデュースしている講義もあり、高校とは違うな、と感じることも、ままありました。
 理工学環境システム工学科に土木計画学を学んでいたこともあって、専門教育の中で「PDCA(Plan→Do→Check→Action)サイクル」について、複数の講義でその意義を叩き込まれたものの、そうして得た知見を社会に重ねていく上では「PDCA」の前の段階に+R、すなわちResearchが重要であることを仲間から教わりました。転じて、学生時代から、多様な実践に関わることができたのも、そもそも何かをする前、そして計画する前に「調べる」ことに楽しみを得ていたためなのではないか、そんな風にも思ったりするのです。逆に言えば、調べる、計画する、そうしたことに楽しみを覚えるがゆえに、実行する、評価する、そして当初の計画を遂行する、そうしたところまで集中力や執着が徹底できないのかもしれない、そんな開き直りのようなことも思ったりもしてしまいます。
 そんな、思い出深い大学時代を過ごした立命館大学びわこくさつキャンパスに、この4月から戻ることになりました。大学としての質量両面のサービスが充実してきた中、学ぶとは何か、大学とは何か、そして今の時代とは、ということに真摯でありたいと思っています。今、立命館は「+R」(末川博・名誉総長の「未来を信じ 未来に生きる」のことばをもとに、立命館を未来にプラス、という意味合いだと思われます)というタグラインを定めていますが、この「R」のアルファベットに重ねて、「調べる(Research)」の楽しみを、大学時代に深く味わって欲しいと願っています。そして、学習者に丁寧に寄り添っていく、そんな決意や約束の意味を込めて、綴ってみました。


心機一転ということで、立命館カラー「えんじ」に近い、LAMYのローラーボール(水性ボールペン)「AL-star(アルスター)」のラスベリーを使い始めたので、まだ、名前の入っていない個人研究室のプレートの前で一枚。