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2014年1月25日土曜日

キャパシティーとホスピタリティー


木曜日の夜に妻の実家から連絡が入り、土日の予定が立てにくかった今日、結果として京都で一日を過ごした。少しだけ朝はゆっくりさせていただいて、食事もブランチとなった。ちなみに共働きながら、ほとんどの食事は妻が作ってくれている。なので、こうしたゆっくりした朝には、時々、私が台所に立つ。

確か2週間前もそうだった。食べるばかりになっている私、作ることも嫌いではない。よって、まずは冷蔵庫と対話し、何ができるかを考える。「まにあわせ」ではなく「ありあわせ」でつくりあげるところは、料理も、また活動も変わらない。

と言いながら、かつお出しの具だくさんの味噌汁、そして目玉焼き、そして何か、というパターンがほとんどである。時折、ごま油が多いと指摘されることもあるが、「まにあわせ」の名も無き料理への調理は、「美味しんぼ」などから知った断片的な知識による。今日の目玉焼きも、単行本7巻の「国際目玉焼き会議(International Fried Eggs Conference)」にて、山岡士郎が同時通訳ヘッドホンセットをしながら披露していた「蒸し焼き風」を試してみた。男の手料理、などと形容されるように、冷蔵庫と調理器具との「戦いの後」は、流し付近に残骸が残り、レンジには比較的大量の「戦利品」が残る。

ちなみに夜は現在参加している堀川団地(京都市上京区)の開発に関する公開トーク「『まちとアート&リノベーション』堀川ヨルトーク・堀川団地再生フォーラム」があり、そちらに参加する予定であった。ところが、てっきり堀川団地付近での開催と勘違いして、会場を間違えた上、複数の組織でのタイアップイベントだったため、開会から10分ほど遅れて到着すると、最早満員を通り越して、階段まで人があふれていた。Ustreamでの中継も行っているようで、大きなカメラが「客席側」にも向けられ、なんだか「参加」するよりも「存在」して居続けることに、小さな圧迫感を覚え、終了を前に自宅に戻ることにした。明日は家にこもって仕事をせねば、という日でもあるので、どうやら「数食」同じものを食べる機会が続きそうである。


2014年1月24日金曜日

集団で試されること


「で、何学部の先生なのですか?」とよく尋ねられる。今、立命館大学では学部に所属せず、13ある学部を横断した科目を提供する「共通教育推進機構」の教員として働いている。いわゆる「パンキョーのセンセイ」である。振り返れば、同志社で働いていた際も、学部ではなく「総合政策科学研究科」で任用されたため、この7年ほど、同じ質問を寄せられ続けていることになる。

そんな「学部に所属しない」私も、定期試験の際には学部の応援に駆り出される。試験日程が近づいてくると、昨年度まではBKCに所属とされたためスポーツ健康科学部から、今年度からは衣笠キャンパスの所属のため法学部から、日程調整の打診が入るのだ。そして今日も政治学の試験で監督補助をさせていただいた。にしても、「知識の量を試す」ような科目を担当することがなくなったため、久しく試験問題を作成していないのだが、限られた時間で穴埋めや論述をすることで評価できる内容とは何なのか、と、監督する立場になると、よく考えさせられる。

そんな季節の風物詩のような仕事の後は、朱雀キャンパスに向かい、立命館災害復興支援室の会議に出席した。複数のキャンパスで同時に物事が動く現在の立命館では、キャンパス間をつないだテレビ会議システムがあるのだが、やはり「メイン会場」にいた方が、議論の雰囲気に浸りやすく、参加への意欲が高まる。最近はskypeなどでも複数拠点を接続して議論をすることができるものの、個人の端末を接続するのと部屋が接続されるのとでは違いがある。とりわけ個人レベルでのskypeなどによるネット会議では、接続したい人たちが具体的な目的を持ってつながりあっているので、自ずから発言が促されるものの、組織レベルでのテレビ会議においては、通常の会議と同じく誰が発言していて誰が発言しないのかに配慮をして、集団での意志決定がなされたという実感を駆り立てなければならないのだ。

会議の後は、西の稜線が夕焼けに染まるくらいまで、朱雀キャンパスのデスクにて仕事をした。やはり、流行言葉で終わってしまったのかもしれないが、昨年の初頭まではよく聞いた「ノマドワーク」なのだが、やはり、チームのメンバーがいるところで仕事をすると、単なる作業にはとどまらない。何気ない会話の中から、新しい動きが出てくるのだ。朝に感じた「個人を試す集団」から、「個人が活きる集団」へ、同じ立命館の中でも、全く違う環境を行き来する一日となった。


2014年1月23日木曜日

なくしたものの埋め合わせ

注意が足りていない。とはいえ、目の前の何かに問われているわけではない。むしろ、目の前の風景の先にあること、つまりは次の予定や、終えられていない予定に囚われる傾向がある。そして、気づかぬうちに、何かを落としてしまうことがある。

そもそも、今日は終日、原稿に向かう予定であった。この予定も数ヶ月前に終えられていなければならないものであったが、午後に京都駅での打合せが入ったために、市バスの一日乗車券を購入して、気分転換の一日にしよう、そんなことを考えた。相棒としてデジタル一眼レフカメラを選び、鞄に入れて家を出た。妻の出勤時間にあわせて、である。

思えば、昨日、應典院に鍵束を忘れたことが、今日に響いている。妻には安眠を妨害するという不幸をもたらしたものの、昨晩は幸いなことに妻が枕元に電話を置いて寝ていたいたため、なんとか家に入ることができた。そこで、今日は京都方面に移動する應典院のスタッフに鍵を運んでいただき、京都駅で受け取らせてもらう、そんな手はずを整えた。そこに、小さな気のゆるみが出たかもしれない。

結果として、今日は愛用の帽子をなくしてしまった。こどもの頃に読んだ「ドラえもん」の「落とし物つりぼりとつりざお」があれば、などと思いながら、思い当たる場所に問い合わせてみるも、残念ながら見つからなかった。そこで、交番に向かい、遺失物届を出したのだが、警察官からは「どこで落としたんですか」と、「それがわかったら苦労しないよ」という問いかけがなされるのだが、私の隣では財布をなくした左京区在住の大学生が、同じような質問を投げかけられていた。「どう帰ったらいいのか」と途方に暮れていた彼を放っておけないと思った私は、「もう、この一日乗車券は使わないから、どうぞ」とやさしい嘘をついて、物をなくした悲しみを、物語で埋め合わせをして、妻に怒られに家路につくのであった。



2014年1月22日水曜日

still in immature

There was a English lesson today. My habit is to read the article in the The New York Times to be used in class today on the Keihan train. However, if I really want to master English, it is not a good way to ready just before the class. I should listen to English, read English, and write in English through my daily life.

So now, I'm using English to look back on today's events. Today's article in our class was "Sudan's Lost Boys Are Drawn Into War at Home" which is featured tribal dignity. In the discussion, our instructor Tad noticed the conflict from "the paradox of plenty". This phrase tells us to to bring the fight to us not only "shortage" also "rich".

After the English class, I went to Outenin temple. Because our chief priest is invited from the head quarter Jodo Shu in the tomorrow morning, I take a role to make slides for that time. Typically this role was for our senior priest, however, he is focused on his own temple, my role is expanding gradually. As my opportunity is increasing, I have gotten the hang of designing points.

The another purpose of going to Outenin temple was to confirm photo books which are ordered last week. At the beginning of this year, I decided to make a photo book as not to let my photos "neglected" after shooting. In fact, this is the second time to make a photo book, but I can't create it skillfully. Furthermore, tonight I have realized I'm still immature as a monk while eating Nepal dinner with our senior priest and my boss.


2014年1月21日火曜日

振り返りを語ることで振り返る


肌寒い一日だった。雪こそ降らないまでも、車のフロントガラスに薄い氷が張るような朝、妻を職場へ見送って、私も職場へと向かった。タイムカードがない仕事だが、朝一番からオフィスというのも、やはり身が締まる。そんな一日の終わりには、学内の研究会だが公開で開催される「教学実践フォーラム」が待ち構えている。今日は全学補講日ということもあって2人しか乗車しなかった午後のシャトルバスに乗ってメイン会場、立命館大学びわこ・くさつキャンパス(BKC)へと向かった。

今回出講させていただいたフォーラムのテーマは「Deepening Reflection〜現場から学ぶ学生の「ふりかえり」をどう深めるか」であり、昨年10月に行われた私大連盟での座談会「サービス・ラーニングの学びが学生にもたらすもの」(『大学時報』2013年11月号に所収)にも通じる話であった。ちょうど、前日の「ボランティア・サービスラーニング研究会」において、筑波大学の唐木清志先生が、日本の教育評価は「思考・判断・表現」、「技能」、「知識・理解」、「関心・意欲・態度」、と4つの観点別評価がなされているが、米国でのサービスラーニングにおいても、日本における4つ観点のそれぞれが、順に「探求と批判的思考」、「コミュニケーション」、「人間経験の多様性」、「倫理と社会的表現」に対応する、と紹介された。そうした議論を得ていたこともあり、既にレジュメは1週間ほど前に提出させていただいたものの、一夜漬けの試験勉強を終えたかのごとく、意気揚々と出向かせていただいた。ちなみに、私一人ではなく、私の発表には草津市での「草津街あかり・華あかり・夢あかり」のプロジェクトの受講生から2名、そして私の発表の前には金井萬造先生(経済学部)のゼミが、また2つの発表に対するコメントをサービスラーニングセンター長でもある坂田謙司先生(産業社会学部)が行った。

メイン会場がBKCということはサブ会場もあり、朱雀キャンパスと衣笠キャンパスと3拠点がIP通信によるテレビ会議システムで接続された。フォーラムでは冒頭に教育開発推進機構の河井亨先生から、「講義型ではなく経験学習型の取り組みにおいて、学習者が経験からの学びのために、どのような振り返りを教員は促し、どんな点に注意をし、なぜその点を意識したのかを深めたい」と趣旨が語られた。それらを受け、「着地型観光」をテーマとする金井ゼミからは、ゼミ長がまず発表し、まずは現場に出て講義を受ける、そして講義以外での交流機会を持つ、それが情報共有を容易なものにし、信頼関係の構築に功を奏していることが触れられた。そうした生の声に続き、金井先生から、長らくアルパックという現場で仕事を重ねてきた経験を大学に持ち込む上で工夫してきたこととして、文化・経済・まちづくりという観光が持つ3つの要素に引きつけて深い思考を促しているということ、またその際に一級のものを見せて評価の基準を定めていること、それは「なぜ」と問う心を養って欲しいため、と説明がなされた。

通常はスライドを作り、それを効果的に使って話をする私だが、今回はテレビ会議システムを使用するとあって、さしずめラジオ番組のような語りで進めることにした。まず、ライブ感を演出するが如く、金井ゼミとサービスラーニングセンターでの取り組みの共通点(現場での集団による学びで、評価観点を教員が提示し、低い到達点で満足しないよう精緻な洞察を促していること)と相違点(ゼミが同質的な学びのコミュニティであるのに対してサービスラーニングでは学部や回生が多様であること、また現場からの要請が受講ガイドに掲載された上で学生がプロジェクトを選択していること、そして教育評価においては成績評定よりも学習効果を重視していること[細かく言えばGPA評定ではなくP/F評定であること])を挙げ、レジュメと資料に基づいて、学生へのインタビューを盛り込み、30分の「生放送」(さしずめトークライブ)を行った。学生からは「進めていくうちに自己完結してしまい、プロジェクトがどういう理念だったのかを見失ないように、目標に沿って動いているかを確かめることができた」、といった声や、「いろんな違いがある中で、自分の役割を見いだすのに立ち止まって見つめる機会が必要だった」などと語られた。コメントでは「数値で示しにくい経験学習は客観的に評価できるのか」と「実践を盛り込んだ学習におけるリスクマネジメントはどうしているのか」などが寄せられたが、「自己評価と第三者評価と相互評価が一致するよう、物事・出来事へのまなざしの精度を上げること」と「責任感や正義感、使命感で始まった活動が義務感や強制に変化させないために、まずは学生から現場の方々に頼ることが大事」であることをテニスの比喩を用いて語ったのだが、実は今日のフォーラムに参加したことが、この間の学びの最大の振り返りになった、と打ち上げの席で学生が語っており、やはり「問われる場に身を置く」ことで「言語化」する機会をつくることが大切なのだ、と、私もまた振り返りを通じて振り返ることができた一日であった。

 

2014年1月20日月曜日

描画と見聞


應典院でのコモンズフェスタ三昧から一転、今日は大学デーであった。朝一番には、東日本大震災で被害を受けた地域へ全国の大学生が足を運ぼうというキャンペーン「きっかけバス」の京都府チームの一人と面談をすることになった。全国規模で、横並びの取り組みを重ねているこの取り組みには、参加者が「現地に行く」ことが目的となって、「現地に行った」参加者に運営者が満足して終わってしかわないか、小さな懸念を抱いている。当の本人にも伝えたのだが、多方面から注目と期待が高い中で、この取り組みが大きな被害を受けた地域に行き続ける「きっかけ」となったとき、そうした人たちとどう向き合う覚悟や決意があるのか、「きっかけ」づくりをした担い手たちが「多様な価値観がある」と横に追いやらないことこそ、被災地の支援を掲げる上では大切となるだろう。

サービスラーニングセンターでの面談の後は、「Service Learning I」という講義であった。科目名がカタカナではないところからも明らかなように英語による科目であり、2005年度に文部科学省の「現代的教育ニーズ取組支援プログラム(現代GP)」に採択された「JWP (Japan and World Perspectives Program)」の一つである。私は2012年度から担当させていただいているが、昨年度は宗田勝也さん(難民ナウ!主宰)と大石尚子さん(BIMBI slow clothes代表)に、今年度は三田果菜さん(Happy Beauty Project代表)に、と、同志社大学大学院総合政策科学研究科のソーシャル・イノベーション研究コース時代にご縁をいただいた方々に非常勤講師をお願いし、共同担当という形で進めてきた。今日は15回目にあたる最終回ということもあって、この半年間のチームごとの活動内容が発表され、それらに対するコメント役として参加し、最後にYouTubeのトレンドマネージャー、ケヴィン・アロッカさん(Kevin Allocca)さんのTEDのプレゼンテーション「バイラルビデオが生まれるメカニズム(Why videos go viral)」から、新しいことで人に影響を与えるには、「Tastemakers」(流行仕掛け人)、「creative participating communities」(創意あるコミュニティ)、「complete unexpectedness」(全くの予想外さ)が鍵になるのとされる、と伝えた。

英語でのサービスラーニングの講義の後は、月1回のサービスラーニングセンターの運営会議、関係者との打合せ、そして公開での「ボランティア・サービスラーニング(VSL)研究会」と続いた。運営会議では次年度事業計画の立案に向けて、特に復興支援関係についての意見交換が主要な審議事項であった。その後の打合せでは、いわゆる課外活動(最近は正課外プログラム、と呼ばれている)のあり方と、わずかな時間でサービスラーニングセンターによる次年度のインターンシップの方向についてのすりあわせが行われた。そして、VSL研究会では筑波大学の唐木清志先生をゲストに、「アメリカ公民教育におけるサービスラーニングと日本型サービスラーニングの方向性」というテーマで議論を深めた。特に、学びの成果の「ふりかえり(リフレクション)」について問いを投げかけさせていただいたが、あいにく次の予定があって、豊かな討議の場に参加することは叶わなかった。

夕方には立命館から同志社へと向かった。週に1回、「母校」から「古巣」でのお役のためである。2006年から担当させていただいている「臨床まちづくり学」では、「時間と空間の設計概念〜「いま・ここ」 の場へのまなざし〜」と題して、状況論についての講義と、その理解のために、「自然科学だけが科学ではない」ことを菊池誠先生の「まん延するニセ科学」(NHK「視点・論点」、2006年12月18日放送)、チャイルド・ケモ・ハウスの取り組み(毎日放送「VOICE」、2013年9月10日放送)、マザーハウスにおける山口絵理子さんの姿勢(Eテレ「ようこそ先輩課外授業」、2012年10月27日放送)を使い、場づくりの特徴に迫った。何とも、充実した一日であったが、改めて「百聞は一見にしかず」そして「百書は一描にしかず」(文字で書くよりも、図や表で描くことで抽象化や系統化が図られるということ)を感じつつ、夜の懇親会は失礼させていただき、久しぶりに自宅で夕食をとることができた。


2014年1月19日日曜日

祭りの終わり


充実の日々を重ねた「コモンズフェスタ2014」の幕が閉じた。今年は12月8日から15日を「一の段」、1月11日から19日を「二の段」とし、そのあいだの12月25日から26日に「24時間トーク」を開催した。年明けすぐの2週間の祭りよりもよいだろう、という考えと、昨年度も行われた24時間トーク「如是我聞」を効果的に配置しよう、そういった工夫を通じた期間設定である。ただ、そこに「段」という名をつけたのは、統一テーマに「じゅうばこの隅」と掲げたためであり、重箱なら、文字通り、折り重なった一段目、二段目と数えるだろう、と考えたのだ。

2012年9月5日、藤浩志さんを應典院に招いて行ったトークサロン「美術家藤浩志が語る人をつなぐアート」の際、藤さんが「フォーマット」という概念を強調しておられたのが、今でも印象に残っている。フォーマットとは文字通り「規格」のことであるが、条件を設定することで一定の制約が生まれ、制約のなかから一定の創造がもたらされる、といった文脈で語られたように思う。正確な表現はともかく、具体的に藤さんの取り組みを例に挙げてみると、「かえっこ」(いらなくなったおもちゃを使って地域に様々な活動を作り出すシステム)にしても「部室ビルダー かえるぐみ」(その背景は着手前にご自身でブログにまとめられており、その後ご自身の解説する動画がYouTubeにアップされている)にしても、どこかで誰かが実施できる「規格」ができている。そして「規格」は「企画」へとつながるのだ。

今回のコモンズフェスタは、昨年から(再)導入した「企画委員の組織化→企画委員会の開催→実行委員会への移行→実行委員による運営」という「企画」からの流れを確かなものとし、同時にチラシの「規格」を定めたことで当面は18の企てを画していくことも定まった。雇われの身である私、いや、いのちあるものとして、いつか私が應典院を去る日が来る。よって、その日のために、企画の規格を定めていくことに、昨今は特に関心を抱くようになってきている。お寺(浄土宗應典院)の事業部門がNPO化(應典院寺町倶楽部)されているという、希有な「規格」が定まっている構図がある上、その構図が「お寺を開く」ためにあるということからすると、必然的に向き合わねばならない問いなのかもしれない。

期間の長短ではなく、とにかく濃密な時間を生んだ今年のコモンズフェスタも、最後は「クロージングトーク」で終えることになった。秋田光彦住職にも参加いただき、企画の段階から参加いただいた方々と共に言葉を交わしたのだが、stand flowerによる演劇『よぶ』(作・演出:勝山修平)の後の実施ということもあって、話は演劇の内容にも及びつつの語りとなった。必要以上に単純化させてしまって恥ずかしいのが、「正しいものが全てを失う」というヨブ記、それにまつわる吉本隆明さんの論考に立花裕介さんが触発されたことで原案がまとめられたお芝居からは、直接・間接を問わず、何らかのかたちで体験したものの印象が大きいと、それを他者にうまく表現することは難しい、ということが、口々に語られた。だからこそ、こうして集っているのだ、などと思いながら、来年のコモンズフェスタでは「阪神・淡路大震災から20年」という、「年ごとに想い起こす」という枠組みに向き合わねばならず、はてさて、どうしたものかと「規格」が落ち着いてきた今だからこそ、今から胸騒ぎをしている祭りのあとである。





2014年1月18日土曜日

場を共有し財を持ち寄るお祭り


大阪、天王寺区の北西の端にある應典院では、1月19日まで「コモンズフェスタ」が開催中だ。よって、今日はその「ラスト1日」である。スポーツであればブービー賞に位置づくものの、例えば祇園祭というお祭りであれば「山鉾巡行」の前の「宵山」のように、大盛り上がりの一日であった。実際、朝6時半から「鳩を放つ」、10時半から「外国僧と日本語で語る」、14時からは「臨済宗の典座さんから食作法を学ぶ」、19時からは「『まわしよみ新聞』をまわしよむ」、15時と19時は「ヨブ記」に着想を得た「演劇『よぶ』」の公演と、壮絶な編成がなされた。

さすがに早朝のプログラムは失礼させていただいたのだが、午前中から夜のプログラムまで、記録係を兼ねて参加した。應典院寺町倶楽部の事務局長という立場がありながら「参加」とはどういうことだ、と問われそうだが、この「フェスタ」は、実行委員の企画によって組み立てた、文字通りのお祭りである。実際、コモンズフェスタは「お寺でのアートとNPOの総合芸術文化祭」などと称している。よって、そうした多くの担い手によって生み出される場に、私も参加することが筋だと考えている。

とはいえ、立場がある以上、何かと前に出なければならない場面もある。ただ、特に今日のプログラムでは、それこそ「作務衣」で身をまとい、ただ作務をさせていただくこととした。ただ、カメラという道具を持ってスタッフとして参加していると、どうしても距離が生まれてしまうのが申し訳ない。例えば、午前中のプログラムでは参加者の一人から、スリランカ、台湾、中国(杭州)のお坊さんに「宗教教育において最も大切なものは?」などといった問いが投げかけられ、議論が盛り上がるのだが、そうした場面を収めるべく、一歩引いた視点から全体を見渡すことになるし、午後のプログラムでは「しょうがごはん、ピリ辛こんにゃく、白菜汁」といったお食事をいただきつつも、お汁の数が足りなくなった折には「一般」参加の方に行き届くように「スタッフ」が配慮していくことになる。

そもそも「commons」とは「共有地」という意味であるが、「common」と単数形になると「常識」という意味に(も)なる。抽象的な表現となるが、應典院再建翌年の1998年から始まった「コモンズフェスタ」は、最初から個人を単位にしない(お寺という)「共有地」でのお祭りが、お祭りを通じた「共有財」の創出の機会となる、という点において、何とも絶妙な名称だと感じてやまない。と同時に、そうしたお寺の本堂で「ヨブ記」における「正しい者が被る不幸」をテーマにしたお芝居がなされるなど、「参加者」として楽しまない手はない。その演劇の最中、昨年度のコモンズフェスタで生まれた「コモンズ」の一つである「まわしよみ新聞」を、この1年あまりのあいだに全国各地で実施され編集された200ほどをテーブルに載せて「まわしよむ」というコモンズのコモンズに触れられたことも、何とも言えない場所の力を体感する機会であったと思えてならない。



2014年1月17日金曜日

19年目の1.17


今年もこの日がやってきた。1.17。そもそも数字は記号であるが、この3つの数字と、そのあいだに打たれている1つの終止符は、私にとって終わらない問い(直し)の世界への扉を開いた日である。実際、阪神・淡路大震災から19年、今なお問いは深く、広がっている。

少なくとも、東日本大震災以降は欠かすことなく「阪神淡路大震災1.17のつどい」には参加させていただいているが、今年ははじめて神戸で前泊した。この間、始発で向かってJR三ノ宮駅から駆け足で向かうのが常だったが、前泊したことで、また違う雰囲気に浸ることができた。11時半過ぎにJR三ノ宮駅に着き、ホームから「そごう」を眺め、そして花時計の前を通って、開始の5時間あまり前に「東遊園地」に到着すると、前を歩いていた高校生とおぼしき2名が、ボランティアの受付テントで手続きを始めていった。大学入学時にはボランティアから遠いところにいた私も、今や、こうしてボランティアをはじめる人たちに温かいまなざしを向けている。

そして、5時46分。いつものように、5時45分50秒を前に、会場のスピーカーからは時報が流され、「46分ちょうどをお知らせ」された後、1分間の黙祷となった。会場を照らしていた電灯は消され、竹筒の中で揺らめく蝋燭の灯りと南側に建つ「神戸関電ビルディング」のオフィス照明によって浮き上がらせた1.17の文字が厳かな祈りのときを支えてくれるのだが、このところデジタル一眼レフによる連写音が静寂な空間に響き渡っていく。「伝える」側による「伝えられる」側への無言の暴力であるようで、小さな怒りを覚えるのだが、それを前後して、私が学生と共に赴いた9月の東北において、宮城の名取でお目にかかった方と再会をし、「地域における関心の高さ」、「時間の経過と共にもたさられる関係の変化」などについて意見交換をしたことは有意義だった。

「つどい」の後は、人と防災未来センターに向かった。実は今、震災資料専門員の高森順子さんからの呼びかけで、この夏に行った「定点観測写真」の展示が行われているためである。ここでも前述の閖上でお会いした方とお目にかかり、さらには人と防災未来センターの南側の「なぎさ公園」で開催されていた「ひょうご安全の日のつどい」で、学問の師、渥美公秀先生が理事長を務める「日本災害救援ボランティアネットワーク」による岩手県野田村の物産(しいたけ、ほたて)のテントを覗かせていただき、「教え子に買わして悪いな…」などと滅相もない言葉をいただきつつ、奇しくも新神戸から京都まで新幹線に乗り、さしずめ映画『その街のこども』のような気分に浸って昼からの立命館災害復興支援室の会議へと向かった。ちなみに夜は門真市教育委員会による「門真市生涯学習フォーラム~みんなでつくろう!おもしろいまち・おもろいまち門真!」にお招きいただき、應典院の取り組みを紹介させていただいたのだが、最後に「生涯学習は医療費を下げます」などと、なんだか珍妙なことを述べ、長い一日を終えた。





2014年1月16日木曜日

多く動く性分


「お前は多動だ」と、よく言われる。もっとも、私がこどもの頃はADAD(Attention Deficit / Hyperactivity Disorder)という概念がなかった。2000年にアメリカ精神医学会(American Psychiatric Association)が定めた「精神障害の診断と統計の手引き(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders」の第4版修正版(Text Revision of the DSM-IV:DSM-IV-TR、第4版は1994年に発表)によると「行動障害」らしい。また、2009年に亡くなった米国の精神科医、レオン・アイゼンバーグ(Leon Eisenberg)は、ドイツの週刊誌「Der Spiegel」(英語に翻訳すると「The Mirror」となるようだ)のインタビューで、「ADHS ist eine fabrizierte Erkrankung(英語に翻訳すると「ADHD is a fabricated illness」)と述べており、精神医学の世界においては製薬会社が主導して「fabricated(でっちあげ)」が行われていると、増大化する社会的コストに注意を喚起した(記事中では「Die genetische Veran- lagung für ADHS wird vollkommen über- schätzt」とあり、英語に翻訳すると「Genetic tax assessment for ADHD is completely over-estimated.」となる)。

もっとも、多動性をどのような障害として分類するかの議論とは別に、多くの不注意が思わぬ出来事を引き起こすことは確かである。実際、今日は朝からパソコンを分解しなければならなくなった。不注意によって、水分が筐体内に流入したためである。あわせて、ナイロンのサイフを洗い、鞄を水切りしなければならなくなった。コーヒー好きがたたっての結果なのだが、その誘因は不注意による。

別のコンピュータで見たところ、幸いにしてデータは完全に読み取ることができたので、読み込みができているうちに別のドライブにコピーし、今日も應典院のコモンズフェスタへ向かった。今日は真宗大谷派の僧侶、川浪剛さんの企画で「母が性職を選ぶとき」である。今、長く釜ヶ崎で活動してきた川浪さんは、東日本大震災で「フードバンク」という取り組みに携わったことで、改めて貧困に対する福祉資源のコーディネートに取り組む準備を進めており、本企画もその一環に位置づけられる。企画趣旨には「母子家庭が増えている中で、母親が性職を選ばざるを得ない状況を生み出している原因は何なのか。また、彼女たちの就労支援や食糧支援のあり方を考えます」と綴られた。

今日のゲストはセックスワーカーであったことをカミングアウトするBUBUさんで、現在は行政機関のワーカーとしても女性・母親の支援に携わっていらっしゃる。研修室Bの椅子が足りなくなり、パイプ椅子で増席をする程のご参加をいただいたのだが、BUBUさんからすると「そうして注目されるということが複雑」とのことで、実際、質問で寄せられる「セックスワークという職業に就いていたときの印象」を尋ねられると「一人の発言が全体の代表と政治的利用されてきた」ことへの憤懣が、やさしい口調で語られた。ともあれ、会場の方々を交えて、多くの言葉が交わされた2時間の最後、BUBUさんが「マイノリティの方においやってきた世界では、自分がしたいことをするのではなく、相手がしてほしいことをすること、つまり、いかに相手を尊重できるかが支援」が大切と語られた。そして、「ホームレスにやさしい社会か、ホームレスを生み出さない社会か」ではなく、「ホームレスという生き方を否定しない」で、異なる価値観に寄り添って「生きるを支える」ことが大切(この点で、長生きを支える延命治療と生命倫理の問題に議論が及ぶが、今回は立ち入らない)とまとめた川浪さんの言葉に、かねてより「支援」ではなく「支縁」と訴えてきた願いの根を見た気がしている。


2014年1月15日水曜日

working stories for good working


Wednesday is a day of English for me. Lessons have not been scheduled for all Wednesday, but we have a weekly session in this semester. Today's theme was "Inequality". And, we discussed about the relations between equality and economics through understanding the article of New York Times which is titled as "Why Inequality Matters" by Paul Krugman who is a famous Keynesian.

Because the economics is not a natural science, every research question has no correct answer, but there are many appropriate stories. So, economic topics is very difficult to be discussed also in Japanese. Moreover, today's article is not a straight news, it was in the opinion section. As a result, I spent an hour in relatively quiet than usual.

I went to "Exhibition to Work For..." in a large block of time in the afternoon by blocking my work. This exhibition is organized by Tokyo Itoi Shigesato Office and was held at the Parco Museum (Shibuya, Tokyo) in June of last year. Someone can point out that this exhibition is composed of a sense of Tokyo, but I'm Interested in the stories about the back ground of craftsman which is featured from the center of Japan's economy. Since Mr.Itoi-san has worked copywriting, this exhibition is focused on word surrounding the work.

After thinking about the work from the exhibition about two hours, I went to work to Outein-temple. Today, I recorded the salon organized by our master priest, Mitsuhiko Akita, just talking about the not only the performance in "funeral" but also the contribution for "ordinary life" by religionists. I have not become a monk to the funeral, so today's discussion was an opportunity to re-question myself about the ethics. I cherish the story and words I met today for the good working.


2014年1月14日火曜日

ペースメイクとムードメイクで慌ただしい一日

昨日が成人式だったこともあり、大学ではその余韻が残った学生を見かけた気がする。それもそのはずで、今年は2回生しか受講できない講義を担当しているためだ。そんな火曜日の講義も、今日が今期最終となる。ハッピーマンデーにより、月曜日の講義はまだ続く。ともかく、年が明けると年度の区切りを徐々に迎えていくことになる。

講義に先立って、今日も朝から打合せと会議が続いた。ささやかなこだわりなのだが、打合せは人の「meet」(落ち合い)が、会議は案の「confer」(持ち寄り)が大事なので、それぞれ立ち居振るまいを変えているつもりである。なので、恐らく会議での私の立ち居振る舞いに否定的な方もいるだろう。理念に囚われているという批判は甘受するものの、穏便に済ますことが会議の大義ではないだろうから、会議に出席し参加する上での作法として感受いただきたいものだ。

ともあれ、立命館大学の「ボランティアセンターの設立から10年」を迎えたサービスラーニングセンターの次年度の事業計画についての打合せと、東日本大震災から3年を迎えての災害復興支援関係の定常事業のあり方についての会議を経て、4限「現代社会のフィールドワーク」という講義を迎えた。15回の講義を着実にしなければならないと「当局」からの指導がある昨今である。クリスマスイブに行われた13回目には約1ヶ月をかけて行ってきたグループによるプレゼンテーションが行われ、松の内に行われた14日目にはプレゼンテーションの振り返りを行った。そして今回、最終回には、先週の終わりに投票してもらった「全員でフィールドワークをしたい場所」に行くことにした。投票の結果、僅差で金閣寺となったため、「訊かないとわからないことをきちんと問いかける」ことを通じて「ネットで検索しても出てこないことをチームで探ること」を課題としたフィールドワークとした。

講義と講義のあいだには、2月に東北に行く学生たちの事前学習のための打合せを行って、「ソーシャル・コラボレーション演習」という科目の最終回を迎えた。この講義は既に時間割の時間外で各種の取り組みが進んでいることもあって、私の現場(の一つ)、應典院でのフィールドワークを行うこととした。ちょうど、晩にはむつさとしさんによる「直観讀みブックマーカー」があったので、そちらに参加を促したところ、粛々と場になじみ、そしていつの間にか場をつくっていっていた。終わった後はネパール料理に流れたのだが、学生たちの飲食のペースと合わず、何となく年を感じてしまう、そんな一日であった。



2014年1月13日月曜日

大阪モダン寺を訪ねて

「今年のコモンズフェスタは飛ばしてますね。」実行委員会のメンバーの一人、むつさとしさんが今日、そうつぶやいた。もちろん、Twitterのつぶやきではなく、対面での会話の中での一言である。應典院を拠点にアートとNPOの総合芸術文化祭と標榜する「コモンズフェスタ」は、應典院再建の翌年、1998年から始まった。当初は文化の秋の開催であったが、2007年度からは冬に時期を移している。

冒頭の言葉が実行委員から出てくるあたり、コモンズフェスタの、そして應典院の醍醐味を多くの人に味わっていただく機会を生み出せていると言えるだろう。そもそも、コモンズフェスタは、1997年からの1年のあいだ、應典院に企画・提案をいただいた各種の企画を束ねて「文化祭化」したことで始まった。はじめの2年は実行委員会によって運営がなされたが、2000年から4年間はプロデューサーを起用し、アートの要素を軸としながら、各種の取り組みを重ねた。そして、2年間の休会を経て、2006年から6年にわたっては事務局主導で企画をしてきたものの、2011年に東日本大震災と関連づけた取り組みを最後に、実行委員会体制に原点回帰することとした。

そんな実行委員の一人が観光プロデューサー「など」のむつさとしさんなのだが、昨年度に引き続いて今年も各種の企画を創案いただき、今日はその一つ「大阪モダン寺巡礼ツアー」が行われた。これが実に楽しかった。夏に行われた実行委員会での企画会議の折に提案されたのだが、コモンズフェスタを前に、9月28日にリサーチツアーが、そして12月7日に上町台地マイルドHOPEゾーン協議会による「オープン台地」参加企画として、既に2回実施されている。ちなみに、同じくむつさんの創案で、1月14日に應典院で実施予定の「直観讀みブックマーカー」も、全国各地で実施されていらっしゃる。

むつさんは「モダン寺」として「近代寺、コンクリ寺、マンション寺、イエ寺」を掲げ、非木造寺院としての建てられることになった意味と、その背景を探ることをツアーの目的としている。実際、今日は大阪市の都市計画に基づく道路拡幅工事で移転せざるをえなくなった日蓮宗の単立寺院である「自安寺」さん、御堂筋の整備によって境内地の縮小を余儀なくされた真言宗の「三津寺」さん、そして大阪大空襲による焼失からの再建を移転(島之内から堀江へ)を含めて余儀なくされた浄土真宗本願寺派の「萬福寺」さんにお伺いさせていただいたのだが、やはり、どこもハードとソフトの両面に豊かな物語があった。なんとも、共有地や共有財などと訳される「コモンズ」のお祭り(フェスタ)の一つとして、実に味わい深い一日だった。そんな一日の終わりは、應典院に対するもう一つの職場、立命館の同僚の皆さんとの新年会で、こちらはこちらでローカルな論点とグローバルな視点が織り混ぜてよくしゃべり、よく食べ、よく飲んだイタリアンな夜となった。


2014年1月12日日曜日

スペックよりストーリーよりリアリティ


大阪の浄土宗寺院「應典院」での総合芸術文化祭「コモンズフェスタ」の後半線がスタートしたため、撮影の仕事を担う機会が増える。昨年の終わりに、ニコンDfという、昔から写真に馴染みのある人間の関心を引いてやまない製品が発売されたのだが、値段が値段だけに、なかなか手が伸びない。そこで、「買いたい理由」が数多く出てくるため、「買わない理由」を探そうと躍起になったりする。特に値段の面で踏みとどまらせることが、少なくとも妻の疑念を駆り立てない上で重要となる。

思えば、15年ほど前には、撮影といえばフィルムを用いていた。そして、高校生の頃に風景写真家の水越武さんの写真に圧倒されたことが原体験となって、柄にもなく「コダクローム」を常用して、写真家の世界の末端に身を置きたいと、相当の数のシャッターを切ってきた。「コダクローム」ならではの、あの何とも言えない赤みを帯びた発色は、デジタル全盛となった今でも設定によって「再現」することは可能だろう。しかし、それはあくまで操作的な表現にすぎず、レンズとフィルムとの相性に適切に合わせた露光量と露出時間によって表出された物質的な表現とは意味が異なる。

今日は應典院のコモンズフェスタのプログラムが「ヨガと仏教讃歌」ということもあって、音が静かなiPadで撮影することした。ところが、あまりに静かで、気配を感じさせずに、ガラス越しの撮影を行ったため、参加者の皆さんの目には、まるで変質者のように写ってしまったようだ。ガラス越しに狙いを定める姿を認識されるに至るには、ネットでの掲載も考えての撮影のため、できるだけ顔が向かないタイミングを狙っていたことも影響している。ゆっくりだが動きのあるヨガの場面をどのように捉えるのか、苦慮を重ねていたためだ。

そうして小さく後ろめたさを抱いた撮影の後、少し時間があいたので、ふと「フォトブック」を作成してみることにした。というのも、このところ、気仙沼で「ひと」に着目し観光案内に取り組んでいる「気楽会」(気仙沼を楽しみ、気仙沼を楽しくする会)の皆さんの実践に学び、昨年の夏の東北でのプログラムの報告書をフォトブックで仕上げることにして、なかなかの感触を得たためである。そこで、撮りっぱなし、ハードドライブに入れっぱなしになっていることが気になっていたので、先般帰省した折に持って行こうと考えていた、父の古希の祝いの会のフォトブックをつくることにした。ちなみに、今夜は應典院のスタッフで慰労会を行ったのだが、目の前で繰り広げられる職人の技を堪能するため、出していただく料理は写真に収めず、記憶の中にとどめた。



2014年1月11日土曜日

「かげ」の存在感

今日から2013年度の應典院寺町倶楽部による「コモンズフェスタ」は後半戦が始まった。毎年1つの統一テーマを掲げているのだが、今回は「じゆうばこの隅〜ハコモノ(箱物)とヒトモノ(人物)が織りなす玄妙な世界〜」という、何ともややこしいものとした。「自由な箱」と「重箱」との掛詞なのだが、この後者の比喩から、「一の重」として2013年の内に開催するものと、「二の重」として2014年に入って開催するものと、文字通り重層的に組み立てている。既に12月8日から12月15日の連続企画と12月25日21時から26日21時にかけての24時間トークを終え、本日1月11日から1月19日まで、またも各種の企画が目白押しなのである。

後半戦の初日から、展示、ワークショップ、映像上映&トークと3つの取り組みが重なった。展示は3人の美術家グループ「hyslom」によるもので、前半のコモンズフェスタの皮切りに行われた「伝書鳩」のワークショップの記録映像等をもとにしたものとなっている。ワークショップは、2009年から應典院で開催されている「グリーフタイム」の特別編が開催された。そして、映像上映とトークは、上掲のhyslomが2012年度に制作した「出会った人たちをモチーフにした」という映画『My cap My mud My handkerchief』の世界初上映と、編集者で映画関係のライターである中西佳代子さん、農家で映画監督の山崎樹一郎さん、そして大蓮寺・應典院の秋田光彦住職をゲストに語り合われた。

中でも、今日の「グリーフタイム」は、比較的多くの機会に参加してきているものの、印象深いものとなった。ちょうど、朝に三陸鉄道のドキュメンタリーを見たためか、誰がが誰かの思いに応えて頑張るという物語に、胸が打たれやすくなっていたこともある。今は代替わりを重ねて、佐脇亜衣さんが担い手となっている「グリーフタイム」は、当初から「分かち合い」の時間は設けず、それぞれのグリーフ(喪失悲嘆などと訳される)に向き合うための時間を生み出すことを重視している。しかし、こうして特別編のときだけだけは、普段とは異なる仕掛けを織り込むことにしているため、開始時の共同主宰者の一人で、臨床心理士の宮原俊也さんも遠方(福島県郡山市)から駆けつけ、参加者の方々が色や言葉や造形などによって悲しみの「溜めの時間」を過ごした後、「なぜそれだったのか」が語り合われることとなった。

「大切なもの、ひとを思う姿はきれい。」これは今日語り合いの冒頭で宮原さんが口にした言葉である。いくつかのワークが用意され、それぞれに悲しみに浸りきることができる「グリーフタイム」だが、鉄とガラスとコンクリートでできたお寺の奥を、照明も半分落として開催されている様子は、さしずめ「悲しみの遊園地(プレイパーク)」とでも位置づけることができ、まずもってその門(應典院が会場であることを考えると、お寺の山門)を通るまでに、気持ちの仮の整理とでも言えるような、相当の準備や決意が求められるだろう。はからずも、夜のトークでも「過剰な説明」にあふれた時代ではないか、という議論が出た。目の前にいる人からの「わかりやすい言葉」ではなく、目の前にいない人を思いながら「丁寧に紡がれた物語」を大切にしたいと、多くの「おかげ」で考えた一日であった。





2014年1月10日金曜日

始める上での困り事と、続ける上での悩み事。

昨日、三宮で過ごした夜のお酒が朝に残り、無理がきかなくなってきたのだと自省することから今日は始まった。そのため、何とか全身の血液を巡らそうと、朝風呂に入ることにした。そのとき、窓の向こうから耳に入る音から、京都市内では夜のうちに屋根にうっすらと雪が積もっていたことを知った。寒さもあって血の巡りが悪いのか、など、高血圧症や風邪気味という体調をさしおいて考えてしまう悪い癖も自覚しながら思う朝であった。

午前中はそうして自宅で作業をさせていただいて、午後からは立命館の朱雀キャンパスへ、災害復興支援室の定例会議に向かった。年が明けて初めての会議だったこともあり、議題は山盛りだった。しかし、中でも主要な議題は、年末に行われた立命館と福島県との協定締結記念事業についてであった。振り返れば3週間前の話なのだが、近いようで遠く、遠いようで近い記憶の中にある催しだ。

そもそも、12月20日の「ふくしまとはじめよう。京都・立命館」は、凄まじい連帯感と濃密な集中力によって結実した催しである。8月24日の福島県副知事による立命館への訪問時のフリートークを拠り所に、11月13日の福島県庁に往訪しての打合せが行われ、そこから財政当局との折衝を両機関を重ねて行った。結果としてチラシや立て看板での告知は1週間という短い期間を余儀なくされた。それでも「やる」ことになったたのは、今回で「終える」のではなく、今回から「はじめる」ために必要とされたためだ。

本日の振り返りでも、「はじめた」ものを、どう「つづける」かが議論となった。組織づくり(organize)よりも組織化を続けること(organizing)が難しいように、生み出す上で困ることは多いが、育て続ける上は悩みがつきない。立命館での打合せを終えた後は、應典院に向かい、以前からお世話になっている美術家の方との打合せの後、ほぼ不定期ながら年2回刊行している冊子の巻頭インタビューを行い、2003年から続く演劇に特化した舞台芸術祭の制作者会議に出席したのだが、それぞれに活動を続ける上で事業を仕上げる困難さに向き合った気がしている。ただ、それぞれに一人で抱え込まねばならない孤独感はないゆえに望みと楽しみがあるので、もう少し頑張っていくことにしよう。


2014年1月9日木曜日

四都物語

JR西日本による「三都物語」というキャンペーンは、少なくとも関西在住の人には大変印象に残っているようである。「いやー、今日は神戸まで」などと言うと「そんなら、三都物語やね」などと返ってくる。それこそ、『探偵ナイトスクープ』での「関西電気保安協会」を「普通に読めない」(どうしても、CMでの節回しがついてしまう)のと、何か通じるものがありそうだ。かく言う私も、静岡で生まれ育った18年よりも、関西暮らしの方が長くなって、2年あまりが過ぎた。

静岡から京都に出て来て、滋賀のキャンパスに学んだ私は、今、滋賀・京都・大阪の拠点を行き来している。まさに、何をもって「都」と呼ぶかは議論が分かれるだろうが、少なくとも滋賀には「大津京」という駅名があるし、言うまでもなく平安京が置かれた京都と、難波宮のあった大阪は「県」ではなく「府」と呼ばれていることからすると、滋賀・京都・大阪の移動は三都物語である。今日はそこに神戸への移動も入った。歴史と都市文化の文脈を重ねるのは乱暴かも知れないがが、何となく四都物語と呼んでみる一日であった。

朝は立命館大学のびわこ・くさつキャンパス(BKC)で打合せで始まった。年始早々の日程調整で、3月に行われるサービスラーニングセンターの学生スタッフの合宿について、続いてBKCの開学20周年に関する打合せとなった。その後は大阪・應典院に移動し、11日からのお寺での総合芸術文化祭「コモンズフェスタ」などの確認を行った。そして、阪神電車へ乗り入れる近鉄電車で神戸・三宮へ、大阪ガスによる地域研究プロジェクトの打合せに向かった。

JR西日本は福井の敦賀と兵庫の播州赤穂まで新快速が走り、近鉄と阪神は奈良と神戸三宮を快速急行が走る。小学校時代からの悪友、中学校時代の「紙上旅行クラブ」の経験、さらには先般の高校時代の恩師(1年生のときの担任、専門は地理)との出会いなどもあって、鉄道による旅客情緒が好きなのだが、思えば、移動の手段としての利便性ばかりにあやかってきた気がする。何より、静岡にいたときには考えられない広域移動ができる環境(少なくとも、実家の最寄りである磐田駅からは、乗り換えなしで2県以上をまたいだ移動することは不可能である)は、帰宅困難リスクが高いことを意味している。実際、降りるはずの駅をはるかに通り過ぎて西明石で起こされたり、野洲や守山や彦根や米原で行く手(正確には戻り手)をはばまれたりすることが幾度となくあるのだが、今日はなんとか、行きも帰りも目的の地で降りることができた。





2014年1月8日水曜日

the 1st year anniversary of the English class

      Today is an anniversary for me. Because I have joined the English class of Asahi Culture Center, Nakanoshima in the last January. And this year, I didn't rest even once! But, it is a long way to be a fluent speaker and writer.

     The reason I'm attending class eagerly is quite a suitable to get used to English. In this class, a volunteer student presents an article which is selected from the New York Times within 15 minute before we discuss about that issue in English. Candidates is selected by our teacher "Tad", article is determined by the vote of the students.The article presented by a volunteer is voted from the candidate that our teacher has chosen. The selected article is scheduled as the materials of two weeks after.

      In fact, I did not know the reality of the culture center until I participated this class. However, I was using a metaphor of a Culture Center in Japan like that  "this is different from a culture center" or "it seems like a cultural center". Probably, the person who is using a negative metaphor of the cultural center has prejudice to the learner for the culture, as a consumer of a culture. Through my experience in this year, I realized that culture center is not a shopping mall of culture, but cross roads of the cultures.

      I saw the "Close Up Gendai" (Today's Close-up)  just featuring Ms. Malala Yousafzai. She is well known a 16-year-old girl fighting to get the right of girls' education and also famous survivor who was attacked by fundamentalists. In the interview by Hiroko KUNIYA, "Going to school is a way to entering the new world of learning" Malala said so. Now, I am grateful to have an environment to learn to the new world even around 40's.



2014年1月7日火曜日

温度調整の難しさ

1月7日、松が明けた日の朝は、大変な冷え込みだった。今、自宅から立命館大学の衣笠キャンパスまでは徒歩で向かうのだが、朝8時半を過ぎても、いくつかの場所で霜がおりたままの風景に出会った。実際、その途上ではお借りしている駐車場の前を通るのだが、日陰という立地も重なって、車全体が冷凍庫の中に置かれているか、「Back to the Future」のタイムトラベルから戻った後のようであった。そして、キャンパスでは、時計台を望む場所にあるサツキの葉に、全体にわたって霜が残っていた。

こういう日は、決まって訪れる場所それぞれで、エアコンの温度調整の不統一が気になって仕方ない。実際、日陰の個人研究室のエアコンは、室内機が部屋の中央にあるために、窓際に置かれた机の側では、窓からの冷気の方が勝ってしまう。また、11時からの打合せは、日が射し込む部屋であったために空調よりも日射の熱の方が勝っていたし、昼休みを利用したサービスラーニングセンターの学生スタッフへのミニレクチャーでは、室外機の真下で話すことになったために、頭がぼーっとしてきた。また、午後と夜に行った講義では、午後の講義室は集中暖房であったために「難」は免れたが、夜の講義室は部屋単位で設定温度が変更できるため、最初に入室していた学生か、最後に退出した学生が設定したと思われる「30度」の環境にて、頭を回さねばならなかった。

室温の激しい変化は、風邪のために本調子でない身に、かなり堪えるものがある。それこそ「頭を冷やせ」ではないが、それなりに思考を巡らすには、熱すぎない方がよい。ただ、外で着るコートを着たまま室内で過ごされるのは、身だしなみへの配慮を促す上では不本意である。何とも、温度調整は難しい。

かつて、経済学者のアルフレッド・マーシャルは「Cool Head but Warm Heart」と述べた。後に映画になった小説の名「冷静と情熱のあいだ」でも、冷たい方が先で、温かい方が後である。本日の午後の講義では、年末に行ったチームプレゼンテーションの振り返りの時間を設けたのだが、ある意味、熱気に包まれた「あの日」と、準備に費やした「その間」の立ち居振る舞いを見つめ直し、学びと学び去り(ガヤトリ・スピヴァクの言う「unlean」)の大事な機会となった。車も人間も「ウォームアップ」に「クールダウン」とは、よく言ったものだが、人間は機械とは違う、と捉える私にとっては、また新たなメタファー探索への旅が求められている気がする。


2014年1月6日月曜日

ことばに、つばさを。

今日から仕事始めである。しかし、年末からの風邪により、どうも調子がすぐれない。私の風邪のパターンは、まずは喉に違和感を覚え、喉の痛みが激しくなる前に鼻水が止まらなくなり、続いて頻繁に咳が出るようになり、喉が痛くなって、全身が熱っぽくなって、鼻声ながらに沈静化する。こうして6つの段階に分けてみると、今日は5段階から6段階目のあいだくらいだろう。

体調が優れなくても、仕事はせねばならない。事務仕事は集中して仕上げることができるが、「時間割」の名のとおりに時間が割られている講義というものは自分の都合だけを押しつけることができない。その上、これは講義に限ったことではないだろうが、事前準備と事後整理の両方が求められるために、割られた時間だけ気合いを入れれば乗り越えられるという性格のものでもない。ということで、同じ年度ながら、1週間ほど前にはどのようなことを述べて終えたのかを想い起こしつつ、今日の講義の準備を今日行って、講義に向かった。

以前、ラジオの仕事をされている方の話として、「3分番組のためには3時間の準備をすることがあるが、3時間の番組のためには3分の準備で臨むことがある」と聞いたことがある。最近、このことを痛感することが多い。自らの環境に引きつけてみると、3分という時間で最大限の表現をするためには相当の仕込みが必要であるし、3時間という時間であれば一人で何とかしようと思わずに他者と共に雰囲気をつくっていくための手の見せ方・関係の開き方が重要である。無論、よって3分のための3時間は「創作」のための時間として、3時間のための3分は「構想」のための時間として、それぞれ位置づけることができる。

普段、教える仕事をしている私だが、今日は自分の講義に続いて開講されている講義に来られたゲストから多いに学ばせていただく日となった。それは、日頃からご縁のある詩人の上田假奈代さんである。「コミュニティ・デザイン」について取り上げる講義のゲストで来られた上田さんは、ご自身の活動の紹介の後、普段、何をしているのか(すなわち、コミュニティをデザインしているか)を体験を通じて理解してもらえるよう、詩のワークショップを行ったのだ。そして単にペアでのインタビューによる詩作と朗読で終えるのではなく、最初に受講生が行った自己紹介や朗読された内容と、詩作を通じて他者の人生に触れて「ことばを人生のみかたに」している日常を盛り込んだ詩作を朗読され、なんとも、その中でも綴られていた「ことばに翼を」つけている、超絶なコミュニティ・デザイナーだと実感した。



2014年1月5日日曜日

なかなか説明は難しい

20年ぶりにして初となる学年全体での高校の同窓会の余韻が、今日も残っている。ホテルオークラ浜松、という、なんとも年齢を重ねてきたことを自覚せねばならないような会場に集まったのは、450人あまりの卒業生の約1割ほどであった。20年ぶりに会う顔もあれば、20年前には話をしたことがない人もいた。それでも、20年というときが流れた今、同じ空気の中で学んだという共通体験によって、例えば「高校時代は話したことなかったね」などと切り出すことで、皆が語り合える仲間なのだ。

案内状にも「恩師の先生のお声掛けを」とあったことを、会場で想い起こした。東大や京大への進学実績に恐ろしく固執していた物理の先生、そして時に時間割の調整を行って2時間連続での授業として野外巡検に連れ出してくれた地理の先生、2人がお見えだったのだ。そして、その地理の先生こそ、趣味人として生きる私のロールモデルとなっている一人でもある。そんなアクティブな先生も、既に64歳で、退職後に続けてこられた講師の仕事も、今年で終えられるという。

一次会は、先生方から「お願い」の挨拶と、「母校の今」の紹介、そして一人20秒の「一言スピーチ」、そして「校歌斉唱」という流れで進められた。そのため、あいだの時間で交流を重ねることになったため、クラスごとに配置されたテーブルに運ばれていく食事には、あまり手が延びなかった。ちなみに、校歌斉唱は、高校時代「も」応援団の役割であったため、指揮とエールをきらせていただいた。昨年度の流行語を交えた小話と、小道具として当時の学ランを持っていったものの、視聴率は低く、反応は少なかった。

振り返ると、高校時代は本当に楽しい時間だった。図らずも、上述した「母校の今」について、例の地理の先生が紹介された折、私(たち)の世代のアクティブさ(例えば、加山雄三さんの「蒼い星くず」でのダンスを後輩へと継承していったこと、初日の出を見に小旅行に行く集団がいたこと、廃線になる列車に学校を休まずに行った人がいること、など)にも触れられたのだが、それらはどれも「我が事」であり、懐かしさがこみ上げてきた。久々に会えた仲間たちと共に、そうした時間を懐かしみながら、また新しい思い出を刻む、そんな機会をつくってみようと、日付が変わってから湯船に浸かり、夢想を重ねた。新幹線での1時間10分ほどの移動で、何とも言えない時間旅行ができたこの年始もまた、思い出の一つである。



2014年1月4日土曜日

物語が呼び覚ます20年

昨日乗るはずだった新幹線に乗って、地元に戻ってきた。沿線火災によって運行見合わせとなった昨日とはうってかわって、日常の駅の様相を呈していたが、帰省ラッシュと重なったためか、車内は混雑していた。そもそも、エクスプレス予約では指定席をとることができず、自由席を購入せざるを得なかった。そして、乗車した「ひかり462号」は自由席の乗車率が100%を越えており、京都駅から浜松駅まで、デッキで立っての移動となった。

浜松駅から磐田駅までは3両編成の普通列車、興津行きで移動した。駅には父が迎えにきてくれていて、そのまま回転寿司屋に予約していた持ち帰りの注文を引き取りにいった。ちょうど、母の兄姉が年始参りに来るとのことで、それにあわせて弟夫婦と共に昼食を実家で取ることになったためである。以前は商店街の寿司屋さんを贔屓にしていたはずだが、そのお店は既になくなり、結果としてチェーン店での持ち帰りとなっているのが、少しもの悲しかった。

そうして親類との昼食を終えると、ふと「百人一首をしよう」ということになった。振り返ると、小学校から高校くらいまでは、1月2日に母方の縁者が母の実家に集まり、いとこどうしで百人一首をしていた。なんだか懐かしい感覚になり、その当時からするとメンバーも違うのだが、100枚の札を互いに競って取り合うことになった。あまり得意な方ではないが、「秋の田のかりほの庵のとまをあらみ我がころも手は露にぬれつつ」は弟が、そして「君がため 春の野に出でて 若菜摘む 我が衣手に 雪は降りつつ」だけは私が、それぞれ、上の句を読み上げた瞬間に札を取りにいっていたことを思いだした。

そして、親類との団欒の後、夕方からは高校卒業以来、初となる学年全体での同窓会が開催された。これは40歳を迎える年に、高校(及び旧制中学時代を含む)全体の同窓会の幹事をすることになっていることよる。そこで、2015年の夏に向け、改めて会える人たちが一同に会し、旧交を温めることで、学年としての連帯感を高めようという狙いがあった。日付が変わっての帰宅となるので、この話は「明日に続く」ものとすることにしよう。




2014年1月3日金曜日

規制で帰省が…

こどもの頃、「そんなことしたら雪が降る」と言われたことがある。どんなときに言われたかは思い出せないが、何か珍しいことをしたときに言われたことはよく覚えている。もちろん、珍しいことはするものではない、という戒めではない。それほど、驚いたと言いたかったのである。

静岡県の磐田市で生まれ育った私は、18歳で地元を出るまで、雪の中で遊んだ経験はない。たしか小学校の頃(2年生だったようにも思うし、既にプールの工事がなされた高学年だった気もする…)、校庭に雪が舞い、児童たちはこぞって校庭に走っていった気がする。そもそも温暖な地域の冬は、磐田原台地からの「空っ風」が吹くため、雪となるのは、ほぼ稀なのだ。それゆえ「雪が降る」という表現は、稀な状況を引き合いに出した圧倒された感覚の表出なのである。

今日はそんな静岡への帰省を予定していたのだが、朝から有楽町駅付近の火災により、叶わなかった。この時期、それこそ滋賀と岐阜の県境のあたりの降雪で遅れることはよくある話である。しかし、まさか東京の火災で5時間あまりも不通になるとは、文字通り想定外であった。しばらくは京都駅で様子を見ていたのだが、ハンドマイクを持った駅員が「東京・品川間の沿線火災により、上下線とも運転を見合わせており、新しい情報が入り次第お伝えします」と繰り返すばかりだった。

京都駅でTwitterの投稿を見ると、運転再開のためには火災の鎮火の後に安全確認が終えられる必要があるものの、相当の時間を要すると判断し、さらには運転見合わせとなって以来、東西に向かう人々でごったがえしたコンコースの状況から、たとえ運転再開となっても、列車にのる順番は相当、後になるだろうという見込んで、払い戻しをして帰宅することにした。ただ、新幹線の特急券はエクスプレス予約にて、乗車券はJR西日本管内にて購入したために、若干、手続きがややこしかった。ただ、こうした状況でも、運転再開時刻を見越して運行ダイヤから該当しそうな列車の指定券を買おうとする家族がいたり、そもそも東京駅と品川駅での火災なのに東海道新幹線全線がなぜ運行見合わせになるのか(要するに、ターミナル駅で「列車がさばけない」上、「途中駅での待避」にも限界がある、ということ)の説明を求める方がおられたりと、窓口対応の方々も大変そうであった。ということで、年始恒例の「お寿司」にありつけなかったので、近所の回転寿司に向かったのだが、やはり海の幸に恵まれた地元の味はなかなかのものである、ということを味わって、自宅にて静養を重ねた一日であった。


2014年1月2日木曜日

あるもの活かし、高くつく…

12月26日から、AppleのLightningケーブルがないまま過ごしてきた。通常はないと困るものなのだが、年末年始ということもあって、ないままで過ごせてきた。用途はiPad miniの充電と同期である。そのケーブルは、12月25日から26日にかけて、應典院にて開催された24時間トーク「如是我聞」の際、2階ロビー「気づきの広場」で充電した際そのまま放ってしまったところ、どこかに紛れてしまった。

1994年からApple社の製品を愛してやまない私だが、実はLightningケーブルは1本しか持っていなかった。それはSteve Jobsを敬ってきたこともあり、ポストJobs時代の製品をほとんど持っていないためである。ノートパソコンも未だにMagsafe 2が採用されたパソコンは持っておらず、日常的に用いている端末はMacBook Airの2010年モデルであり、OSもバージョン10.6(Snow Leopard)だったりする。だからこそ、1本しかないケーブルがなくなって以来、iPad miniは鞄の肥やしとしての石板(slate)となっていた。

そんな私にとって、紛失したケーブルの捜索よりも、唯一のケーブルの「代わり」をどうするかが難題である。まずはiPad miniについていた純正のものを順当に購入するか、それとも別のものにするかの選択が迫られる。別のものにするなら、今使っている携帯電話が以前も使っていたモトローラの3G端末(V3xx、日本ではM702isとしてNTT DoCoMo仕様にされて販売)のため、1本で複数の用途に使えるようにするかどうかの選択が迫られる。人生とは選択と決断とが頻繁に反復することを再認識させられる。

結果として、以前のApple社が採用してきた30ピンのDockコネクタをLightningに変換するコネクタを購入することにした。気づけば複数台のiPod、iPhone、iPadを購入してきたため、手元に多くのDockケーブルがあるためである。ところがこの変換アダプタは、ケーブルを買うよりも高くつく。なんとも、古いものを大切にするということはお金がかかるものだ、と、朝に注文して夜に届くという流通環境への驚きと共に感じ入るところである。

2014年1月1日水曜日

対面での挨拶と画面での再会と

謹賀新年。2014年、平成26年が始まった。昨年は「毎日ブログを更新」という目標を定めたものの、まとめ書きをするなど、自分への課題は達成できなかった。今年の目標は不言実行、という、都合のよい課題を掲げつつ、少なくとも自分で納得のいく1年としたい。

そんな一年の始まりは、一年の終わりからの流れで迎えた。「呼吸するお寺」という銘打つ應典院にて、組織のディレクターで事業のプロデューサーの立場である「主幹」の立場をいただいている私も、実は僧籍登録は本寺の大蓮寺でなされている。そうしたこともあって、この数年、年末は大蓮寺での除夜の鐘の手伝いをさせていただいてきた。そして2013年から2014年も、54回目の梵鐘の音と共に迎えたのである。

新年を迎えるとともに、大蓮寺では「修正会(しゅしょうえ)」という法要と、秋田光彦住職による法話が行われる。昨年よりもあたたかったためか、満場の本堂での会となった。ちなみに住職の法話は「仏さまに見られているということ」についてであった。ちなみに、大蓮寺によって設置されてきたパドマ幼稚園のこどもたちから地域の方々を含む檀家さんらが参加するため、幅広い層に響く物語と語り口をと、住職は工夫を重ねているとのことである。

そうして年末年始をまたいで人をお迎えする場に携わるため、電話やメールや年賀状よりも速く、その場で年頭のあいさつをさせていただく方が決まっておられる。変わらぬご縁に感謝したい。そうしてご挨拶をさせていただいて、深夜よりも早朝という時間に帰宅、少し休んだ後に、朝7時から毎日放送で放映された番組「角淳一のおとなの駄菓子屋 新春渡辺謙スペシャル2014」の録画を見た。昨年、気仙沼で出会った人々や風景と、画面を通じて再会させていただくことで、改めて今年もまた、距離を越えて現地に関わっていこう、と決意を固めた元旦である。