今日から2013年度の應典院寺町倶楽部による「コモンズフェスタ」は後半戦が始まった。毎年1つの統一テーマを掲げているのだが、今回は「じゆうばこの隅〜ハコモノ(箱物)とヒトモノ(人物)が織りなす玄妙な世界〜」という、何ともややこしいものとした。「自由な箱」と「重箱」との掛詞なのだが、この後者の比喩から、「一の重」として2013年の内に開催するものと、「二の重」として2014年に入って開催するものと、文字通り重層的に組み立てている。既に12月8日から12月15日の連続企画と12月25日21時から26日21時にかけての24時間トークを終え、本日1月11日から1月19日まで、またも各種の企画が目白押しなのである。
後半戦の初日から、展示、ワークショップ、映像上映&トークと3つの取り組みが重なった。展示は3人の美術家グループ「hyslom」によるもので、前半のコモンズフェスタの皮切りに行われた「伝書鳩」のワークショップの記録映像等をもとにしたものとなっている。ワークショップは、2009年から應典院で開催されている「グリーフタイム」の特別編が開催された。そして、映像上映とトークは、上掲のhyslomが2012年度に制作した「出会った人たちをモチーフにした」という映画『My cap My mud My handkerchief』の世界初上映と、編集者で映画関係のライターである中西佳代子さん、農家で映画監督の山崎樹一郎さん、そして大蓮寺・應典院の秋田光彦住職をゲストに語り合われた。
中でも、今日の「グリーフタイム」は、比較的多くの機会に参加してきているものの、印象深いものとなった。ちょうど、朝に三陸鉄道のドキュメンタリーを見たためか、誰がが誰かの思いに応えて頑張るという物語に、胸が打たれやすくなっていたこともある。今は代替わりを重ねて、佐脇亜衣さんが担い手となっている「グリーフタイム」は、当初から「分かち合い」の時間は設けず、それぞれのグリーフ(喪失悲嘆などと訳される)に向き合うための時間を生み出すことを重視している。しかし、こうして特別編のときだけだけは、普段とは異なる仕掛けを織り込むことにしているため、開始時の共同主宰者の一人で、臨床心理士の宮原俊也さんも遠方(福島県郡山市)から駆けつけ、参加者の方々が色や言葉や造形などによって悲しみの「溜めの時間」を過ごした後、「なぜそれだったのか」が語り合われることとなった。
「大切なもの、ひとを思う姿はきれい。」これは今日語り合いの冒頭で宮原さんが口にした言葉である。いくつかのワークが用意され、それぞれに悲しみに浸りきることができる「グリーフタイム」だが、鉄とガラスとコンクリートでできたお寺の奥を、照明も半分落として開催されている様子は、さしずめ「悲しみの遊園地(プレイパーク)」とでも位置づけることができ、まずもってその門(應典院が会場であることを考えると、お寺の山門)を通るまでに、気持ちの仮の整理とでも言えるような、相当の準備や決意が求められるだろう。はからずも、夜のトークでも「過剰な説明」にあふれた時代ではないか、という議論が出た。目の前にいる人からの「わかりやすい言葉」ではなく、目の前にいない人を思いながら「丁寧に紡がれた物語」を大切にしたいと、多くの「おかげ」で考えた一日であった。
後半戦の初日から、展示、ワークショップ、映像上映&トークと3つの取り組みが重なった。展示は3人の美術家グループ「hyslom」によるもので、前半のコモンズフェスタの皮切りに行われた「伝書鳩」のワークショップの記録映像等をもとにしたものとなっている。ワークショップは、2009年から應典院で開催されている「グリーフタイム」の特別編が開催された。そして、映像上映とトークは、上掲のhyslomが2012年度に制作した「出会った人たちをモチーフにした」という映画『My cap My mud My handkerchief』の世界初上映と、編集者で映画関係のライターである中西佳代子さん、農家で映画監督の山崎樹一郎さん、そして大蓮寺・應典院の秋田光彦住職をゲストに語り合われた。
中でも、今日の「グリーフタイム」は、比較的多くの機会に参加してきているものの、印象深いものとなった。ちょうど、朝に三陸鉄道のドキュメンタリーを見たためか、誰がが誰かの思いに応えて頑張るという物語に、胸が打たれやすくなっていたこともある。今は代替わりを重ねて、佐脇亜衣さんが担い手となっている「グリーフタイム」は、当初から「分かち合い」の時間は設けず、それぞれのグリーフ(喪失悲嘆などと訳される)に向き合うための時間を生み出すことを重視している。しかし、こうして特別編のときだけだけは、普段とは異なる仕掛けを織り込むことにしているため、開始時の共同主宰者の一人で、臨床心理士の宮原俊也さんも遠方(福島県郡山市)から駆けつけ、参加者の方々が色や言葉や造形などによって悲しみの「溜めの時間」を過ごした後、「なぜそれだったのか」が語り合われることとなった。
「大切なもの、ひとを思う姿はきれい。」これは今日語り合いの冒頭で宮原さんが口にした言葉である。いくつかのワークが用意され、それぞれに悲しみに浸りきることができる「グリーフタイム」だが、鉄とガラスとコンクリートでできたお寺の奥を、照明も半分落として開催されている様子は、さしずめ「悲しみの遊園地(プレイパーク)」とでも位置づけることができ、まずもってその門(應典院が会場であることを考えると、お寺の山門)を通るまでに、気持ちの仮の整理とでも言えるような、相当の準備や決意が求められるだろう。はからずも、夜のトークでも「過剰な説明」にあふれた時代ではないか、という議論が出た。目の前にいる人からの「わかりやすい言葉」ではなく、目の前にいない人を思いながら「丁寧に紡がれた物語」を大切にしたいと、多くの「おかげ」で考えた一日であった。
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