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2008年12月30日火曜日

mobile me

 iPhoneが、単なる電話と異なるのは、私にとって最適な情報ビューワーであるためだ。情報ビューワーとして都合がよいのは、画面の大きさだけではない。また、ペンのいらない操作性だけでもない。最大の理由は、MacOS機を常用しつつ、情報の一元化を図っていることにあろう。

 というのも、iPhoneは、同じくAppleから提供されているmobile meというサービスを使うことによって、グローバルな情報だけでなく、ローカルな情報、つまり個人情報との同期を図ることができるのである。予定表、アドレス帳、メール、それらの情報が一元化されるのだ。iPod Touchもまた、mobile meを使うことができる。しかし、iPhoneと決定的に異なるのは、(少なくとも私の場合は)softbankの3G回線がつながっていれば、いつでも、情報の同期を取ることができるのだ。別に取るに足らないこと、と思う人もいるかもしれないが、早くからPDA(Personal Digital Assistant)を使ってきた私としては、何の気兼ねもなくデータの同期が取れるということは、極めて画期的なことなのである。

 ガジェット好きな私は、以前、Apple社(当時、Apple Computer社)から出されていたNewton Message PadというPDAを使っていた。1998年のことである。日本語版はなかったものの、エヌフォーという会社が開発してたソフトを使って日本語化をして使っていた。残念ながら、その中に入れたデータの取り扱いに困り、Palm社の機種に乗り換え、Macと同期させて使っていた。

 皮肉なことに、Appleが作ったNewtonの個人情報は、同じ会社のMacとのあいだで同期が取れなかったが、Palmとのあいだでは、OSXの時代になっても、一手間をかければ容易に情報の一元化を図ることができた。しかし、一つだけ困ったのは携帯電話の番号を、着信履歴等とあわせて同期を取ることであった。最初はSymbianOSが動くモトローラのM1000という機種を購入し、その後、WindowsMobileが動くHTC Zという機種を應典院から支給していただき、それぞれに使っていたものの、操作性と日本語の扱いがうまくいかず、不満が募っていた。そこに出てきたAppleによるiPhoneとmobile meは、私にとって、かねがね望んでいたハードとソフトのパッケージなのであった。









2008年12月29日月曜日

iPhone

 今年一番の買い物は、iPhoneだったかもしれない。言うまでもなく、値段で、という意味ではない。結婚にあたっての衣装や旅行などは、iPhone何台分にあたるだろうか。とはいえ、それぞれに、お金の大小には代え難い、魅力や価値がある。

 とりわけ、iPhoneの何が一番かというと、ライフスタイルやワークスタイルが、この近年希に見るくらい変化したためである。その要因は、手の中にインターネットの世界が埋め込まれている、という点にある。無論、これまでも、NTTパーソナルの時代から、PHSで通信環境を整えてきたし、携帯電話はM1000というビジネスFOMA第一世代機から使ってきた。しかし、iPhoneほど、ただ「できる」だけでなく、何の気なしに通信を「する」ことを楽しませてくれた端末はなく、さらには活用「したい」と思わせる仕掛けを喜ぶことができるものはなかった。

 iPhoneが最も画期的なのは、単なる携帯電話の枠ではなく、携帯情報ビューワーとして最適化されているところにある、そう捉えている。すなわち、文字入力等もできるのだが、それ以上に、インターネットを通じて情報を吸い出し、目の前に表現してくれるという端末だ、ということだ。事実、私はこの12月から、職場・個人の全てのメールを、ほぼiPhoneで確認するようにしている。その他、電車の時刻などの確認等も、すべてiPhoneだ。

 ただ、不便なこともある。まず、1994年12月から使ってきたNTT DoCoMoでは困らなかった「圏外」に遭遇することが圧倒的に増えており、その最たる場所が自宅(の寝室)なのだ。その他、電池の持ちの問題などもあるが、それ以上に不便なのは、それだけiPhoneの使用がライフスタイルとワークスタイルに根付いているため、忘れた時に、情報から、また電話環境を失ってしまう、ということだ。実際、今日も演劇鑑賞等に出かけたのであるが、途中、住職からメールが送られており、お会いしてから「メールを送ったけど」と言われる始末であった……。







2008年12月28日日曜日

scansnap

 今日は應典院の仕事納めだった。例年、仕事納めの日は、個々の机周辺の清掃、エアコンのフィルターの清掃、ワックスがけ、が恒例となっている。ちなみに、昼食を全員で食べることも恒例行事の一つである。加えて、住職が「下座行だ」と仰いながら、たった一人で、全てのトイレを掃除をされるのも、恒例となっている。

 さて今年の大掃除、個々の机まわりの清掃は1時間の予定であったが、私だけが、遅々として片付かず、足並みを乱してしまった。無理もない。机の上は書類の山、山、山であったのだ。「雪崩」と揶揄されながらも、一つひとつ、思い出に浸りすぎないようにしながら、整理し、片付けていった。

 書類だらけの机上を整理するにあたって、極めて役立っているのが、富士通の子会社「PFU」から出ているscansnapという機械である。より一般的な名称で呼ぶなら「ドキュメントスキャナ」と呼ばれるものだ。A4サイズまでの紙を、最大50枚までセットでき、その後ボタンを押せば瞬時に読み込んでいってくれる。しかもそれは、PDF形式やJPG形式など任意の書式で保存ができる上、ファイルの容量を重視するのか、あるいは画質を重視するのか、など、ある程度の設定がパソコン上で可能となっているのである。

 とりわけ、パソコン関係の機械は「ガジェット」と呼ばれるが、私はそもそもガジェット好きな人間であるとよく言われている。このscansnapも、数あるモデルのなかでも「scansnap fi-5110EOX2」と「S500-W」と「S300M」の3つを所有しており、中でも應典院に置いている「S500-W」は、以前に探しに探して新品を購入した逸品なのである。と言うのも、「S500-W」は、発売5周年に出た「限定」モデルだったのだ。今でこそ、後継機種のS510はMac専用モデルとしてホワイトモデルが出ているが、「S500-W」は……などと、際限なく「モノ」について語ってしまいたくなる私、来年も「モノフェチ」の癖は直りそうにない。



  

 



2008年12月27日土曜日

祈り

 應典院の自分感謝祭が行われた。と、簡単に書いたが、なかなか伝えるのは難しい。應典院の年中行事の一つで、一年間を振り返り、次の一年を展望する音楽法要、と記したところで、なかなか伝わらないだろう。自分感謝祭は、秋田光彦住職、池野亮光事務局長など僧侶スタッフはもとより、城田邦生主務及び森山博仁主務ら技術スタッフと、さらには素晴らしいオルガン演奏を行っていただく藤田礼子さんと、玄妙な照明計画と技巧によって得も言われぬ場を創造していただくホシノ貴江さん、そして来場いただく方々の協創によるものである。

 應典院で働く者ゆえに身びいきとなるが、なかなかの催しである。音楽法要と言いながらも、まずは灯明をあげ、献花し、そして線香をあげる。その後、基本的に浄土宗の枠組みに沿っているが、どんなお宗旨の方でも読むことができる「般若心経」を中心にした読経が行われる。続いて住職による法話が行われ、最後に、今年の悔やみを記した「自分懺悔(さんげ)カード」を炊きあげる「浄焚」と、来年への展望を記した「自分感謝カード」を三宝に載せて誓いを立てるという儀式だ。

 ここで行われる住職の法話は、さしずめ、清水寺で行われる「今年の一文字」のような意味合いでもある。昨年は若くして癌で亡くなったJRの運転士(念のため、尼崎脱線事故の運転士ではないことを記しておく)のお話と「呼びかけ」ということをテーマにしたお話であった(ように思う)が、今年はホスピス病棟で亡くなった方の末期に向き合われたお話と秋葉原連続殺傷事件のことが話題に上った。端的にまとめるなら、「つながり」について取り上げた話であった。とりわけ、秋葉原事件の犯人は、犯行前、しきりにインターネットの掲示板へ事件発生に至るまでの経過を綴ったのは何故なのか、さらにそれに対して直接的に反応しなかったのはなぜか、それらを手がかりに、「つながり」についての問題提起が行われたのだ。

 要するに、今年の自分感謝祭では、私自身は生かされている存在であるということ、いわゆる「縁起」の教えが説かれた。その際に使われた「道具」の一つが、山尾三省の詩である。この詩は、先ほど少し触れた、ホスピス病棟で亡くなられた方に、秋田光彦住職が薦めた書籍の一つに掲載されていたものである。毎年12月26日の午後2時と午後6時から行われる催しであり、一年でたった2回の機会を得ていただかなければ、なかなかその醍醐味を堪能することができないのであるが、本日の法話で触れられた詩の全文を以下に示すので、追体験をしていただければ幸甚である。



永劫の断片としての私





人間とは何か

私とは何か という

日常世間から忘れられた問いを

正面に立て 生涯をかけて

どこまでも追っていくのが

お寺 という場の仕事であり 詩人の仕事でもあります



お寺には昔から

阿弥陀様という如来が 座っておられますが

人間とは何か

私とは何か



という問いと 阿弥陀様の間に

どんな関係があるのかといえば



人間というものは

また 私というものは

(私達を生み出した)この永劫宇宙の 断片であることが

昔から知られていたのです



阿弥陀様というのは

人格化された 永劫宇宙の姿であり



私達は どのように思考や文明を展開させたとしても

この永劫宇宙の

断片であることから

逃れることは できません



ですから ありのままに

その永劫宇宙の 断片としてあり



ありのままに

南無不可思議光仏 と

永劫宇宙を讃えることが

その断片としての私の

喜びとなり

知慧の完成ともなります



人間とは何か

私とは何か という

世間にあっては難しい問いを

正面に立て 生涯をかけて



どこまでも追っていくのが

お寺という場の仕事であり 詩というものの仕事です







山尾 三省 2002 祈り 野草社、 pp.121-124.

2008年12月26日金曜日

いきなりはじめるダンマパダ

 先般、大失態をやらかしてしまった。私が管理職を務めている應典院での映画会において、である。應典院というお寺は、檀家制度によらず、NPOによる会員制度により各種事業の企画運営がなされているが、その会員さんの投げかけによって上映した映画とトークのイベントに対し、あまりに無様な集客数に止まってしまったのである。遠方より来場いただいた監督及び企画立案をいただいた会員の方には謹んでお詫び申しあげると共に、年の瀬の忙しいなかでご参加いただいた有縁の皆さまに深い謝意をお伝えさせていただきたい。

 最近、つとに感じているのは、「ウケる」ことばと「響く」ことばは違うということである。正確に数えたことはないが、概ね年間で50本ほどの事業に携っている。そんなか、特に最近、体のいい「ウケねらい」のことばを吐き、結果として、響くことばを紡ぎ出せていないのかもしれない、という焦燥感に責めさいなまれることがあるのだ。その背景には、緻密、綿密、かつ継続的で集中的な情報発信が行えていないのではないかという反省がある。

 惨憺たる結果を適切に受け入れようと深い悩みに浸っていたところ、昨日実施された應典院の月次会議にて、住職より『いきなりはじめるダンマパダ』がスタッフ全員に手渡された。この書物は、昨年度、應典院にて開催された原始仏典「ダンマパダ」を取り上げた仏教講座の内容が再構成されたものである。講座の講師であった釈徹宗師(大阪府池田市・如来寺住職)の著作だが、2008年の夏に出版の話が具体化し、12月には刊行されているという手際の良さに圧倒される。当時の講座風景の写真を提供すればよかったという後悔を携えつつも、一方で講座に参加された方々の熱心な姿勢は今でも容易に想い起こすことができるという、希有な学びの場であったことをここに記しておきたい。

 振り返れば、今年の應典院はスタッフの底力で仕上げたコモンズフェスタに始まり、途中にチベット騒乱に関する講演会や恒例の演劇祭などを経て、明日、自分感謝祭にて幕を閉じる。単なる年の瀬の感傷的な雰囲気に浸っているのではなく、改めて今年は何をなしえたのかを考えつつ、昨年、應典院で生まれ育った学びの場が一冊の本にまとめられていることに喜びを覚え、久しぶりにブログに書き込みを行ってみた。既に記したとおり、秋には應典院で結婚式も挙げさせていただいた。この年に出会い、またつながりなおした皆さまへの感謝とともに、重要なときに響くことばを持ち得なかった自分自身への懺悔(さんげ)の思いを携えて、再び私語りを始めていくことへの決意を表させていただきたい。





仏教の目指す理想の宗教的実存とは




 自分自身との関わり、他者との関わり、さらには神との関わり。生と死を超えるものとの関わり、あるいはこの世界、社会を超えるものとの関わり。

 その関わっている姿こそ自分自身そのものである、これを宗教的実存と言うことにしましょう。

 では、仏教の目指す理想の宗教的実存とは何でしょうか。

 それは、「成り切る」ことです。歩くときには歩くことに成り切る、坐るときには坐ることに成り切る、念仏すれば念仏そのものに成り切る。でもそのためには、自分のありのま(改ページ)まの姿をしっかりと自覚せねばなりません。



 何の笑いがあろうか。何の歓びがあろうか。 ーー 世間は常に燃え立っているのに。汝らは暗黒に覆われている。どうして燈明を求めないのか。(一四六)



 君のその笑い、その喜びはニセモノだ。世間は常に自分の都合で燃えるような焼け焦がされるようなニセモノの世界じゃないか。虚妄じゃないか。厳しくがぶり寄ってくるような偈です。

 ここで語られる「暗黒に覆われている」とは、「無明」のことです。「自分自身のありのままの姿さえ見えていない」ことを表しています。君は闇の中にいるのだ、そのことに気づかないのか、というのです。どうして真の姿を求めないのか、それでいいのか、そのように第一四六番は迫ってきているのです。この文章を読んで、実存不安を感じる人はそうとうな宗教的実存派ですね。

 この一四六番はたいへん迫力のある偈です。すごく力強い。ちょっとお疲れ気味のみなさんの宗教的実存を呼び起こそうとしているかのようです。

 ちなみにここで出てくる燈明は、仏教の教え(で得た智慧)のことです。例えばみなさ(改ページ)んが真っ暗な部屋にただ一人居るとします。自分の手足さえ見えない、真っ暗闇です。それが私たちの今の現実存在なのかと第一四六番は語りかけています。どの方向へ向かって歩けばいいのかさえわからない。自分はどんな人間なのかさえわからない。そこへ、燈明がもちこまれます。一気に部屋の様子がわかります。自分の姿も見えるし、どの方向に出口があるかもわかる。そして、暗闇だと現れなかった自分の姿が黒々と、くっくりと出現します。この影は自分が抱える煩悩を表しています。そう、仏教の教えに会わなければ、煩悩も見えてこないんですよ。でも、大丈夫。煩悩があっても、燈明があります。燈明はものごとの実相を魅せてくれる智慧です。

 仏道を歩む、仏教を実践するということは、暗闇の中に燈明を照らすことです。ですから、世界中の仏教はみんな明かり(ローソクとか)を荘厳しますね。明かりとお花、これは世界のどの仏教でも荘厳されます。明かりが智慧、お花が慈悲を表しています。

「『智慧』と『慈悲』の獲得と実践」、これぞ仏教が目指す理想です。









釈 徹宗 2008 いきなりはじめるダンマパダ:お寺で学ぶ「法句経」講座 サンガ(pp.269-271)