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2014年8月31日日曜日

ゆがみとへこみを携えて

移動が続く8月の末、不注意で移動させてはいけないものを移動させてしまった。駐車していたレンタカーのサイドブレーキが甘く、緩やかな下り坂で車が動いてしまったのだ。幸いにして集落の皆さんの知恵と配慮で事なきを得たが、一つひとつの所作に気が抜けてしまっていたのだと恥じている。何より、誰にも怪我がなかったことが不幸中の幸いであった。

最近の車はわざと壊れるようになっている、と、昨晩の懇親会である方が話しておられた。「クラッシャブルゾーン」という言葉も使われるとおり、巧妙に成形されたプラスチックのパーツを、金属のフレームが支えている。つくられた空間に向けてプラスチックは凹み、かかった力に応じて金属が歪むのだ。普段ダンプに乗っている方からは、「ものは壊れるし、車は治せば済むから、とにかく怪我がなくてよかった」と、何度も励ましていただいたのだが、やはり凹んだ箇所や、歪んだ部品を覗き見てしまうと、心情としては落ち込まざるをえない。

そんな事故を起こしてしまった私もあたたかく包み込んでいただいた新潟・小千谷の塩谷集落には、また秋に訪れる。まずは9月末の稲刈り、次に10月23日の新潟県中越地震の慰霊祭である。あの地震から今年で10年ということもあり、10月の初旬に開かれる会合にもお邪魔させていただくかもしれない。立命館大学の学生たちも2012年からお世話になっているが、震災10年で人が減っていく集落の現実を受けとめるべく、大学間連携による活動拠点を整備しつつあることが、頻繁に訪問する背景となっている。

私は立命館大学では学部に所属する教員ではないため、いわゆる「研究室」要するにゼミを持ってはいない。その代わりと言っては語弊があるが、全学を対象にした教養教育の一環として、サービスラーニング科目を担当しており、それゆえ、学部や回生を横断してのフィールドワークを展開できている。ゼミと違って1年単位でメンバーが替わっていくものの、継続して参加する学生もいることも重なり、現場での受け入れの調整をいただいている「塩谷分校」のリーダーの方からは、「立命館は素直な子たちで、好きだ」と仰っていただけて、格別の喜びを感じている。転じて、昨晩のミーティングでは、別の大学の大学院生に「経験の長さや立場の違いを踏まえてリーダーの自覚を持つこと」「大学間の垣根が取れることで顕在化する相違点に注意を向けること」「現場以外の場所でも会う意味を大事にすること」などを(偉そうに)指摘したのだが、それらはまた自分への課題であることを伝えきれず、また現場あるいは現場以外で語りあうことにしよう。




2014年8月30日土曜日

新潟・小千谷の山あいで踊り明かす夜

気仙沼、大船渡をめぐった8月の末、新潟の小千谷にやってきた。前日まで花巻にいたので、うまく移動ができるとそれほど遠くないのだが、飛行機の直行便がないこと、また変更不可の往復チケットで予約していたこともあって、一旦、伊丹に戻っての移動である。飛行機は新潟付近を通過するものの、飛行機に途中下車はないので、自ずとそうなる。

小千谷にやってきたのは「二十村郷盆おどり」への参加のためである。これは7年前から始まった、4つの集落による合同の盆踊り大会だ。今年は新潟県中越地震から10年を迎えることから、地震の後で始まったことは明らかである。復興の過程で、同じ節まわしで踊る集落の持ち回りで、1つの場をつくる取り組みが始められたのだ。

今年は荒谷という集落での開催であった。私は塩谷集落で実施されている、田植えや稲刈りや学習会や見学会などを通じた地域間交流の取り組み「塩谷分校」の関わりで、塩谷から参加させていただいた。田植えや稲刈り等で塩谷を訪れる、また訪れてきた学生たちも、浴衣や法被姿で参加した。大阪大学から2名、関西学院大学から5名、そして立命館大学から4名、という具合である。

集落ごとに異なる法被をまといつつも、皆さんの身体は馴染みの節回しで自然と動いているもようであった。転じて、大阪大学の渥美公秀先生のもとで学んで京都大学防災研究所に在職中の宮本匠くんや、関西大学の草郷孝好先生など、日頃はなかなか会えない方々にも再会したことが、不思議なようで不思議ではなかった。あいにくの雨模様で一時中断を強いられたものの、「次に降ったらやめましょう」という長の決断のもと、太鼓と歌にのって、予定の時間を超えて踊り明かすことになった。中断して程なく小千谷高校3年生の生徒さんから「太鼓、どうでした?」と満面の笑みを浮かべながら訪ねられたときの彼女のその明るい表情、加えて来年の梶金集落の長の「ちっこい文化を大事に」「がんばっていきましょう」という呼びかけから、隣り合う集落との一体感のもと、踊り明かすという楽しみは、やはりその場にいないとわからないと痛感したのであった。

2014年8月14日木曜日

大学が休みのときには…

立命館大学は夏期一斉休暇中である。しかし、休みのときにこそ働く人たちがいる。例えば、今日は電気工事で大学が停電となり、13日から15日は成績管理機能も統合された学生情報システムにログインができない。そもそも、学生たちにとっては「長い夏休み」も、大学全体にとっては「それまで」と「これから」をつなぐ大事な時期である。

そうした中、今日は学生たちの自主活動団体の相談を2件、承っていた。ところが、上述のとおり、大学構内での打合せが叶わない。機転を利かせた1つめの団体(福島県で仮設住宅に暮らす方々の支援を継続的に行い、この夏で6回目の取り組みとなる)からは、「大学の近くの喫茶店にしましょう」と提案があった。大学周辺の地域に目を向けているからこその選択肢なのだろうと、復興支援の現場での立ち居振る舞いも想像できてうれしかった。

学生からの相談の多くは「いいグループ」だが「いいチーム」にはなれていない、という組織化の問題に通じるように思う。無論、私の関心がそこにあるからかもしれない。ともあれ「仲良く」「雰囲気がいい」という、一見、肯定的に捉えられる立ち居振るまいを紹介してもらった後には、決まって「なのですが」と逆接で結ばれ、「これからどうしたらいいかが課題なんです」などと続く。

そんな折、リーダーの学生から、「本も読んで勉強してみたんですが」と、読み通した痕跡の残る本がテーブルに出されたところ、「なんか違うんですよね」と言葉が重ねられた。その違和感を大切にして他者に丁寧に関わっていって欲しい、という意味で、「包み込み型」(for you)と「浸り型」(with you)とで、関係構築の方法や作法は違うよね、ということを、具体例を交えて(例えば、足湯には温度計やストップウォッチが必要なのか、など)示してみた。これはもう一つの団体にも通じるのだが、特に外部資金を得ようと、何らかの応募書類に記入する折、必要に駆られて誰かを「役職」者にし、その反面で、一人ひとりのメンバーの「役割」は軽視され、結果として個々を機能別に分化したグループに所属させることで組織づくりは完了できた、と捉えているように思う。もう一つのグループ(関西の若者たちにHIV/AIDS等の普及啓発を行うべく、京都YMCAによるエイズ文化フォーラムのスタッフとなっている)は、同じ喫茶店でも市内中心部のチェーン店での相談となったのだが、その前のグループとの議論も踏まえつつ、「原体験がないとモチベーションは高まらないのでは?」「スキルを認めならオファーしよう(身方にボールを回そう、とも)」「〜だけど、を、〜だから、に」「〜な夏2014、などと統一のお題を出して、夏休み明けに持ち寄っては?」「一般名詞で語らず固有名詞で名付ける」「身内を敵にしない」などと、キャッチフレーズ風に今の膠着状態を解くべくフレーズを投げかけ、最後は「悪知恵とは経験値だ」などと結んでみたものの、この夏の学生たちの伸びしろを期待してやまない。

2014年8月5日火曜日

風化と劣化・風評と定評

「一生のうちに3回だけ何でもお願いできるカードがあったら、今回その1回を使う。」そう言われてしまうと、なかなか断れない。当初、今日は科学技術研究費による研究プロジェクト「地域のまちづくりと連携した市街地型公的住宅団地の再生」の研究会に参加する予定であった。しかし、研究会に出席する返信をした7月の末になって、急遽、日帰りでの福岡出張となった。

朝から福岡に向かったのは、「ふくしまから、はじめよう。サミットキーマン会議」に出席のためである。先般、7月23日に大阪で開催された折、立命館災害復興支援室が協力団体として並んだこと、加えてその場に私が参加したことが直接のきっかけだ。そもそもそうした場に協力する運びとなったのは、さらに遡ること2013年12月20日に学校法人立命館と福島県とは「相互の人的・知的資源を活かした連携・協力及び福島県の新しいイメージづくりの情報発信を目的とした協力」を目的とした協定を締結しためである。

会議の冒頭、福岡側の参加者から「福岡で福島を取り扱うにあたって、福島県は何をテーマに据えたいのか」が問われた際、広報課の方は「風化と風評被害にどう向き合うか」と応えられた。すると、進行役を務めた田坂逸郞さんは「風化した後、風評を払拭したとして、47都道府県の1つに戻るのでよいのか」と言葉を重ねた。いわゆる「devil's advocate」などと言われる天の邪鬼な返しを重ねながら、地震と津波と原子力災害を受けた(そして今も被害の只中にある)福島に対して、誰が何にどのような関わりを重ねることで、誰の何をどこまで支援できるのか、16人で議論が進められた。他人事が我が事になるにはどうしたらいいか、数字を正確に把握したいモチベーションがない人に何をどう伝えるといい関係が広がるのか、ネガティブイメージを止めるのかポジティブなイメージをつくるのか、いかに仕事をつくりだすか、福島から福岡へのラブコールをどのような言葉で表現するか、手段を確定する前にどう見て欲しいのかのブランディングを先にしなければならないのではないか、一点突破のテーマを定めるとしたら何か、まずは重点エリアを定めてはどうか、モノが行き交う関東での対策とは違う観点となることを大前提にすべきではないか、現状を見ることから始めないといけないのではないか、などなど、それぞれの立場から問いが投げかけられていった。

それぞれの都合もあって、全員が顔を並べての議論は1時間15分だったのだが、終了後の雑談で「災害の風化の中でも記憶の劣化が一時の風評ではなく確かな定評をもたらしているのではないか」と問いかけさせていただいた。会議中の議論の中で、ポジティブとネガティブという二項対立の図式で捉えられることが多かったこともあって、そうした視点をずらすための言葉遊びでもある。そもそも、社会問題に取り組むということは、主体も対象も価値中立的に当該の問題(イッシュー)を捉えていないために、当事者が言葉や数字を重ねれば重ねる程、ポジティブな人はよりポジティブに(○は◎へ)、ネガティブな人はよりネガティブに(▲は×へ)と、両者の溝は広く、深くなっていく。立命館は大分県別府市に立命館アジア太平洋大学(APU)を置いているのだが、今日、APUの副学長が参加できていたら、もっと鋭く「次の一手」を考えられただろうに、などと思いながら、同じ立命館からの出席者である文学部の心理学専攻の学生と共に「認知的不協和」などの話をしながら帰路に就くと、理研のCBDの笹井博士の自死・自殺の報道に触れ、評価や評判とはかくも人を苦しめるものだと感じる一日であった。

2014年8月4日月曜日

騒がしさと隣り合わせの闇の中で

今年も「それから」の時期がやってきた。大蓮寺・應典院での「詩の学校」特別編である。毎月開催されている通常の回とは異なって、秋田光彦住職の協力のもと、墓地での詩作と朗読を行うというものである。進行役は変わらず、詩人の上田假奈代さんだ。

「それから」には、少し不思議な印象を覚える人もいるだろう。夏目漱石の小説の題名にもある。確認させていただいたことはないが、大蓮寺・應典院での墓地での詩作と朗読の場に名付けられた意味は、「死別」の「それから」を思う時間と空間に対して名付けられたのだろう。事実、案内文にかえて綴られている上田假奈代さんの詩は、「死と詩が同じ発音をもつのは、たんなる偶然ではないと思う」で始まる。

今日は朝から関西国際交流団体協議会による「ESD(持続可能な開発のための教育)実践による人材育成〜学校と地域(NPO)の連携を中心として」にお招きをいただいた。「グローバル化の中のローカルな実践〜地域に根差したボランティア活動による学びの意義」と題して、1時間半の話題提供をさせていただいたのだが、ボランティアの活動時間を記録する「ESDパスポート」に対して、批判的な発言をしたことで、昼食の折に何人かから「あれは…」と丁寧な説明をいただくことになった。いわゆる「見える化」の意味、また活動への契機や発露を生むということについて、一定理解をしているのだが、ツールの使用が前提かつ先行することで、主体性を(対象に)「発揮させる」という学習から教育への逆転が導かれることが気になっての発言であった。

ビュッフェスタイルの昼食をいただき、應典院にて来客対応を経て、「それから」を静かに迎えた。そのあいだにも、手際よく仕事を仕上げる兄弟子と会話をさせていただくなど、変化に富んだ一日だった。以下に、「それから」にて、佐世保やパレスチナやウクライナなど、遠い彼の地の悲しい事件を思って書いた詩を留めておくことにする。加えて、この詩の朗読の後、私の逃げと甘えの構図に対して住職から厳しくも適切な叱責をいただいたことを忘れぬためにも、その事実を記しておくことにしよう。


騒がしさと隣り合わせの闇の中で

鳴く。蝉が鳴く。
それは季節のあかし。
1週間の命が奏でる、
7年分の声。

笑う。共に笑う。
それは喜びのあかし。
あなたがいるから私がいると、
互いの存在に気づくとき。

走る。車が走る。
それは生産のあかし。
忙しさに身を委ねる、
働く人々の音。

飛ぶ。飛行機が飛ぶ。
それは文明のあかし。
手の届かない空を横切る、
重たい塊の影。

光る。まちが光る。
それは都会のあかし。
喧噪の只中を灯す
文明に落とす影。

泣く。人が泣く。
それは悲しみのあかし。
闇の中に光を求める
やさしいあなたの涙。