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2014年8月4日月曜日

騒がしさと隣り合わせの闇の中で

今年も「それから」の時期がやってきた。大蓮寺・應典院での「詩の学校」特別編である。毎月開催されている通常の回とは異なって、秋田光彦住職の協力のもと、墓地での詩作と朗読を行うというものである。進行役は変わらず、詩人の上田假奈代さんだ。

「それから」には、少し不思議な印象を覚える人もいるだろう。夏目漱石の小説の題名にもある。確認させていただいたことはないが、大蓮寺・應典院での墓地での詩作と朗読の場に名付けられた意味は、「死別」の「それから」を思う時間と空間に対して名付けられたのだろう。事実、案内文にかえて綴られている上田假奈代さんの詩は、「死と詩が同じ発音をもつのは、たんなる偶然ではないと思う」で始まる。

今日は朝から関西国際交流団体協議会による「ESD(持続可能な開発のための教育)実践による人材育成〜学校と地域(NPO)の連携を中心として」にお招きをいただいた。「グローバル化の中のローカルな実践〜地域に根差したボランティア活動による学びの意義」と題して、1時間半の話題提供をさせていただいたのだが、ボランティアの活動時間を記録する「ESDパスポート」に対して、批判的な発言をしたことで、昼食の折に何人かから「あれは…」と丁寧な説明をいただくことになった。いわゆる「見える化」の意味、また活動への契機や発露を生むということについて、一定理解をしているのだが、ツールの使用が前提かつ先行することで、主体性を(対象に)「発揮させる」という学習から教育への逆転が導かれることが気になっての発言であった。

ビュッフェスタイルの昼食をいただき、應典院にて来客対応を経て、「それから」を静かに迎えた。そのあいだにも、手際よく仕事を仕上げる兄弟子と会話をさせていただくなど、変化に富んだ一日だった。以下に、「それから」にて、佐世保やパレスチナやウクライナなど、遠い彼の地の悲しい事件を思って書いた詩を留めておくことにする。加えて、この詩の朗読の後、私の逃げと甘えの構図に対して住職から厳しくも適切な叱責をいただいたことを忘れぬためにも、その事実を記しておくことにしよう。


騒がしさと隣り合わせの闇の中で

鳴く。蝉が鳴く。
それは季節のあかし。
1週間の命が奏でる、
7年分の声。

笑う。共に笑う。
それは喜びのあかし。
あなたがいるから私がいると、
互いの存在に気づくとき。

走る。車が走る。
それは生産のあかし。
忙しさに身を委ねる、
働く人々の音。

飛ぶ。飛行機が飛ぶ。
それは文明のあかし。
手の届かない空を横切る、
重たい塊の影。

光る。まちが光る。
それは都会のあかし。
喧噪の只中を灯す
文明に落とす影。

泣く。人が泣く。
それは悲しみのあかし。
闇の中に光を求める
やさしいあなたの涙。

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