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2013年3月23日土曜日

地域経営実践士の初級に

今、「サムライ」と言えば、WBCの3連覇に挑んだ野球チームのことを指すのだろう。3月17日、「塁を盗めそうだったら、2人とも、次の塁を盗め」という作戦が失敗に終わったことで、3連覇という目標を逃したことは、改めて語るまでもなかろう。社会システム論を少々織り交ぜながら「作戦」とは何かを語るなら、それは「他とは区別される具体的な内容」と「それが作動する明確な条件」が必要である。今回は、盗塁という字の如く、「塁を盗む」にあたって「this ball(このボールで盗みにかかれ)」ではなく、いくら強権の捕手でも大きな動作の投手という状況を鑑みれば「green light(行けたら行け)」という(ある種の明確な)指示があったのだが、2塁ランナーが「(盗みにかかった以上、戻ってはならないのに)戻ってしまった」ことと、「(全員のバランスがうまく取れないときには)走るな」といった指示あるいは条件づけが必要であったのだろう。

運動と言えば、専ら「社会運動」な私にとって、サムライと聞けば野球(侍ジャパン:電通の登録商標らしい…)でも、サッカー(サムライブルー)でも、ホッケー(サムライジャパン)でもなく、諸々の実践現場の担い手に対する資格(士:さむらい)を連想してしまう。今日は、本年度、試行的な取り組みとして、京都大学の宇治キャンパスで実施されてきた「日本・地域経営実践人財養成講座」の特別講義と修了式に参加した。通常「人材」とされるところを「人財」と扱うのは、人は材料ではなく、まちの財産である、とするという視点に基づくものであり、人が「有用か無用か」は、予め区別されないという意味なのだろう。なぜなら、この取り組みの仕掛け人は、長らく鳥取県智頭町の「地域経営」の仕掛け人となってきた、寺谷篤さん(転地療養で京都に移住後は、篤志さんを名乗っておられる)であるためだ。

講座というよりも「塾」という性格が強い、この1年の試行的な実践は、この3月11日の「一般社団法人日本・地域経営実践士協会」の設立へと結実した。今日はこの間の「塾長」であり、法人の理事長に就任した岡田憲夫先生による特別講義が行われ、地域経営のためには「小さな事起こし」が必要であると説かれた。それは、各種の実践は「おのれのためだけにするのか」という問いかけであり、それぞれに共有し、共感しあう公共空間こそが「マチ」であり、それを持続的に発展していくには「事起こし」によるソーシャル・イノベーションこそが求められる、という論理である。岡田先生は、そのイノベーションへの「ベクトル」(それぞれが満たされる望みの度合いと方向)こそが「まちのビジョン」となるため、一人からでもできるが一人だけでは続いていかない「小さな事起こし」を、「必ず実現する」「必ず実践する」ために、「必ず計画する」ことが鍵であると、熱弁をふるわれた。

岡田先生の講義の後、通し番号で8番の「認定証」を岡田先生から授与された私は、「事起こし」が小さくて済むのは「当事者の参加があってこそ」する言葉に応えるかのように、「ぶれとずれの違い」、「図化と表化の合わせ技」、「ドリルによる問いの問い直し」の3点を、認定証を受け取った者の決意として述べた。「ぶれとずれの違い」とは、このところの政権交代に伴う流行言葉を揶揄しつつ、「ずれる(diviate)」という自動詞ではなく「ずらす(shift)」という他動詞で物事を捉えることで、主体と対象と目的が明らかになる、という観点である。そして「図化と表化の組み合わせ」とは、図によってある構造や状況に概念的に迫るのであれば、表によって概念や実態の構成要素を系統的に整理することも大切である、という観点である。そのため、今後、「士(サムライ)」として地域経営の実践に取り組んでいく(ことができる)者としては、直面する現状を「ドリル」のように捉えて、その答えを探る中、改めて自らに突きつけられた「問いを問いなおす」こととしたい、と発意するところである。

2013年3月22日金曜日

議事は判決だから…

金曜日は会議デーである。そのため立命館の朱雀キャンパスで過ごすことが多いが、今日は朝から夕方まで、衣笠キャンパスで過ごした。立命館の会議は概ねテレビ会議システム(SONYのIPELAという、IP接続による他地点接続による会議システム)が導入された部屋で行われるので、前後の予定で参加会場に融通がきく。最近でこそ、学生たちもskypeなどを使って「画面の向こうで同席」することが多いが、skypeなどは個人間で機器と機器とが接続されるが、上記のIPELAでは会議室を接続するという理念のもと、相当の投資を伴いながらも、「この部屋の向こう」でも会議が続いているという前提が担保されている。

テレビ会議システムが活用されることで、同時に複数のことが動いていく。9時半からは「災害復興支援室定例会議」で、朱雀キャンパスをメイン会場に、衣笠キャンパスとびわこ・くさつキャンパスとが接続され、特に次年度の取り組み計画と課題の整理、連携協定を締結している岩手県大船渡市との記念事業の意見交換が主な議題だった。続いて、11時からはサービスラーニングセンターの運営会議で、11の審議事項を含む18の議題が2時間で議決された。立命館大学のサービスラーニングセンターは教学部に位置付いているという特徴があり、いわゆる教授会のような正課科目を扱う部分と、一方でいわゆるボランティアセンターのような各種の活動を扱う部分と、両側面を有しているので、自ずから会議の議題の幅は広く、量も多い。

会議は議長の「捌き」と「裁き」のいかんによって、進行の度合いと結果が左右される。そう、会議は、事前の「議題」の整理(すなわち、捌き)と、その場の「議事」の進行(すなわち、裁き)によって、組織の充実度と参加者の満足度を決定づけるのだ。以前、IIHOEの川北秀人さんによる『NPOマネジメント』では、「会議の議事録は判決文」という表現を用いられていた。多くの会議に参加し、また時には事務局の役割を担うことや、時には司会の立場を担うこともあるので、折に触れて、この比喩を想い起こす。

転じて、遅めの午後から夕方は、「会議」ではなく「研究会」と「懇親会」であった。同じ会でも、性格は全く異なる。研究会は、この1年、一部は公開で実施してきた「ボランティア・サービスラーニング研究会(VSL研究会)」で、一般には非公開で意見交換をした内容(他大学の訪問調査と、学びの効果に対する評価について、など)について総括し、次年度の課題と展望を整理した。そして、夜には京都が学生のまちであることを実感できるお店の一つ「地球屋」で、学生オフィスによる「2012年度立命館大学学びのコミュニティ集団形成助成金」を獲得した「そよ風届け隊」の福島でのボランティア活動の振り返り会を終えての懇親会にお邪魔して、福島大学の学生さんらと共に、楽しい時間を過ごさせていただいた。

2013年3月21日木曜日

Design your Community with Energies

2004年から、大阪ガス株式会社のエネルギー・文化研究所(CEL)の研究プロジェクトに参加させていただいている。当時、財団法人大学コンソーシアム京都に勤務していた私は、在職4年を経て、それまでのインターンシップやリエゾンオフィスといった産官学地域連携の事業から、研究事業の担当への異動の只中にあった。そして、1997年の「京都・大学センター」時代からお世話になっていたボスが、出向元に戻ることになり、事務局のトップが交代するという変化の只中にもあった。そんな折、2002年度から(当時のボスのはからいにより、研修という位置づけのもと勤務時間の調整をお許しいただくこととして)大阪大学大学院人間科学研究科に社会人入学させていただき、渥美公秀先生のもとで上町台地界隈におけるネットワーク型のまちづくりについて研究していたご縁もあり、CELの弘本由香里さんから、大学コンソーシアム京都への委託研究の提案を頂戴した。

その後、2006年に同志社大学大学院総合政策科学研究科のソーシャル・イノベーション研究コースの助教授に任用いただいた後は、組織間で協定が締結され、新川達郎先生を代表者とする共同研究や、それまで3年間にわたって大学コンソーシアム京都の「単位互換科目」の「コーディネート科目」として開講されていた『コミュニティ・デザイン論』を、大学院科目として設置するなどの展開がもたらされた。今日は、その科目『コミュニティ・デザイン論研究』の今年度の総括と、次年度の展望を議論する研究会が行われた。本来であれば講師陣が全員揃えばいいのだが、それぞれに多忙な方々は更に多忙を極めている時期である。よって、4人での研究会となった。

今日の研究会では、新川先生を中心に、改めて「コミュニティデザイン」とは何かについて、意見交換を重ねることとなった。例えば、コミュニティデザインという概念がイメージ先行になっているのではないか、などである。よって、各種の実践に注目が集まるからこそ、改めて各地の事例の中で見られる「デザイン」の上での意図を、丁寧に紐解いていく必要がある。そこでは、目に見える側面、すなわち建物だけではなく、共同体の維持発展のプロセスへの視点を深めていこうと確認した。

とはいえ、2013年度の『コミュニティ・デザイン論研究』は、ゲストとして話題提供等をさせていただくのだが、いわゆる非常勤講師(同志社では「嘱託講師」と呼んでおり、立命館の「嘱託講師」とは全く別の意味合いで同じ名称が用いられている)は勤めない。よって、研究会での貢献を中心として、コミュニティデザインにまつわる歴史的背景、ハードにまつわる人の動き、クリエイティブな人たちが何を目指したかといった、人と物と出来事の関係について掘り下げていくこととしたい。ちなみに今日の研究会の後は、ガスビル食堂にて会食をさせていただいた。その折、新川先生から、東日本大震災における集団移転の問題について、東北における「平均的な敷地面積(100坪)」と「用地買収と提供(65坪程度)」、それらに対する「(中層の災害公営住宅への)政策誘導」から、「二重三重に選択肢が限られている」中で「選択肢から選び抜くまでの時間」と「仮設からの退去のタイミング」とのせめぎあいが生まれていることなどを伺い、またも大きな問いに向き合うことになった。

2013年3月20日水曜日

これはアーツカウンシルではない?

『Ceci n 'est pas une pomme(これはリンゴではない)』(1964年)などで知られるルネ・マグリットの絵を見たのは、阪神・淡路大震災の後のことだった。それ以前にも教科書か何かで見ていたが、そのときは「ふーん」という感じで受けとめた気がする。しかし、阪神・淡路大震災で被害を受けたまちでのボランティア活動を続ける中、当時、住んでいた京都とを往復するあいだに、兵庫県立近代美術館で開催されるはずだった個展が大阪駅の大丸ミュージアム梅田で開催されることを知った。そして、印刷物で見た作品を目の前にして、改めて「言葉」と「絵画」の組み合わせによる「作品」から、不思議な感覚に駆り立てられたことを、よく憶えている。

あれから18年ほどが経った春のお彼岸の今日、お寺で檀家・檀信徒の皆さんをお迎えした後、午後からは大阪府立江之子島文化芸術創造センター(enoco)で開催された「大阪アーツカウンシル」の「報告・説明会とシンポジウム」に向かった。既に15日には東京、17日には高槻と、2会場で開催されたものであるが、今回は「シンポジウム」も併催された。シンポジウムは、2012年1月に、私が事務局長を努めさせていただいている「大阪でアーツカウンシルをつくる会」の緊急フォーラムでもお招きをした、ニッセイ基礎研究所の吉本光宏・主席研究員の基調講演と、「報告・報告」に続いて行われた。コーディネートはアサダワタルくん(日常編集家)、パネリストは太下義之さん(三菱UFJリサーチ&コンサルティング主席研究員)、木ノ下智恵子さん(大阪大学コミュニケーションデザイン・センター特任准教授)、弘本由香里さん(大阪ガス(株)エネルギー・文化研究所特任研究員)、福本年雄(ウイングフィールド代表)であった。

昼過ぎまでの大蓮寺での法要と、夜に應典院にて開催されるお彼岸関連企画のために、enoco会場では「報告・説明会」における「対談」の聞き手を務めた後、シンポジウムの途中までしか参加できなかった。しかし、應典院寺町倶楽部の小林瑠音さんによる「Twitter中継」と、comos-tvによるパブリックビューイングがなされたので、それらによって内容を追いかけることができた。なお、comos-tvは「中継」のみであって、アーカイブ化はされているものの、オンデマンドで視聴はできない。例によって、この日の内容は後日、報告書にまとめられるのと、上記のcomos-tvで不定期に再放送される可能性があるので、それぞれ、今後の動向にも関心が向けられれば、と願う。

ネットを通じた中継で会場の発言を追っていると、上記の吉本さんが「大阪のアーツカウンシルはアーツカウンシルではない」といった発言をされたことを知った。確かに、初年度の「評価」を中心に据えた自治体主導型の展開では、英国を発祥とする世界的な潮流に対して、行政改革の一環として、さしずめ事業仕分けの執行機関といった傾向も指摘できるだろう。ちなみに会場には、東京で「2年の任期と報酬」について小さな希望(例えば、諸外国からも招聘可能)と大きな失望(例えば、位置づけの低さ)を抱かれたように見受けられたやくぺん先生(渡辺和さん)、高槻で「行政の側に立つ専門家による評価は価値の査定になるという観点への懸念」を訴えられた天野画廊(天野和夫さん)のお顔も拝見した。さて、「これはアーツカウンシルではない」との指摘を得た「大阪アーツカウンシル」の船出は、果たしてシュルレアリスムか、はたまた人をおちょくっていると受けとめられるか、制度設計を担った私(たち)の責任は、重い。

2013年3月19日火曜日

会議へ、会議から

研究室の引っ越しから一転、今日は会議の連続だった。一つは大阪ボランティア協会の理事会・評議員会である。大阪ボランティア協会はこの3月で谷町二丁目へと引っ越すため、福島区吉野の大阪NPOプラザでの会議は今日が最後であった。午前中いっぱいの議事を終え、そそくさと昼食を食べて向かったのが大阪市公館での「大阪市芸術活動振興事業専門家会議」である。

大阪ボランティア協会は「社会福祉法人」であるため、評議員の代理出席が許されておらず、その一方で「定足数」の基準が比較的厳しいために、私も含め、出席率が比較的高いように思う。ただ、議事の内容が理事会と重複することもあって、理事会と評議員会は合同で開催される。ちなみに理事会も評議員会も、錚々たる方々が名を連ねているため、末席を汚しているようなものだ。それでも、あるいは、だからこそ、「皆様から発言を」と、会場にマイクが向けられた折には、発言の切り出し役を担うことが多い。

今回、マイクを手にして、事業の内容の整理が進んでいるのに対して方法の精査が進んでいないのではないか、そして各種の事業の趣旨は明確だが対象が不明瞭ではないか、さらに協会による中間支援機能としての「つなぎ手」の立場で展開する事業もあっていいのではないか、といった問題提起をさせていただいた。言うまでもなく、これは大阪ボランティア協会に固有の問題ではなく、ネットワーク型の組織に見られる傾向であろう。いかにして、主語を「私」にせず、相手を「主役」にできるか。こうして「自分が役に立つよりも、他者を役に立てる」ことができれば、求め、求められるという二者関係が、求め合う、助け合う、頼り合う、そんな相互の関係へと深化していく。

こうした投げかけに続いて、コミュニティ・サポートセンター神戸の中村順子さんや、たんぽぽの家の播磨靖夫さんなどが発言をなされた。とりわけ、播磨さんの「論理と哲学と余裕」がなければ、「状況に追われ、対応に追われ、社会変革までもたらせない」と訴え、「みんな大事ではなく、何が大事なのか」を示すことができなければ「小さな痛みに寄り添えなくなる」と述べた。返す言葉がない、というのはこういうときの状況を表現するのかもしれない、などと思いつつ、「大阪市芸術活動振興事業助成金」に向かった。応募された74件の審査を5時間あまりの合議により決定したのだが、ここでもまた「論理と哲学と余裕」の3点セットが、自分事として突き刺さってくる、そんな場面に立ち会ったような気がしている。

2013年3月18日月曜日

心太方式の引越

心が太いと描いて「ところてん(心太)」と読む。なぜ、そんな字が充てられたのかを調べたくなることが、小さな現実逃避なのだろう。時折ウェブで参照する「語源由来辞典」によると、遣唐使が「テングサを煮て溶かして、型に流して固めて食べる」という製法に対して、「こころふと」という呼び名がつけられてことが謂われとのことだ。要するに、テングサが「凝海藻(こるもは)」と呼ばれていたこととあわせて、「太い海藻」(ふと)を「凝る(凝り固める)」(ここる?)から、「こころふと」そして「心太」となり、その後、熟語の湯桶読み(ゆとうよみ)が適用されて「こころてい」に、さらに江戸時代には「ところてん」へと落ち着いたとのことだ。

語源はともかく、このたび「ところてん方式」で、すなわち「後から棒でつつかれて」出て行くことになったのが、立命館大学びわこ・くさつキャンパスのアクロスウィング424研究室なのである。4月から衣笠キャンパスを所属とする雇用となるため、年度末までに個人研究室を移さねばならないことは、秋口からわかっていたことである。しかし、私が衣笠に移るにあたって、その後、公募された共通教育推進機構のサービスラーニングセンター科目の担当教員が、私が使わせていただいた研究室に入ることが、後々明らかとなった。その方の任用には関わっていなかったものの、結果として同じ学会、同じ大学院で博士の学位を取られた方なので、気楽にお迎えを考えていたら、大学の事情がそれを許さなかった。

考えてみれば当然なのだが、部屋を「明け渡す」、ということは、まず「(使用の期間が)明ける」前に「空ける」、そして「渡す」という段取りが必要なのだ。つまり、家のリフォームで言えば「居ながら」ではなく、完全に「がらんどう」にした上で、部屋のクリーンアップ(消臭や消毒などもされるのかもしれない…)がなされ、そして「引き渡し」となる、という具合である。転じて、上記のように「知り合い」のあいだで「鍵だけ渡せばいいや」では済まないのだ。これを大学の事情などと言うと、私の方が非常識だ、と言われるのだろうが、少なくとも「クリーンアップ後に新使用者に年度当初から供用」というタイミングを鑑みれば、現使用者である私は年度末を待たずして完全撤収をしなければならないのである。

かくして、「荷物があるなら、予め送っていただいたら引き受けますよ」と、直接交替で考えていた段取りは大幅に見直さざるをえなくなり、3月12日と3月17日に、夜を徹して作業を行うこととなった。そして迎えた本日3月18日、朝10時過ぎからの日立物流さんの職人技がいかんなく発揮されることで、12時半には積み出し、そして14時過ぎから衣笠キャンパス尚学館812への積み込み、そして15時半には完了という、にわかに信じがたい事態にて収拾をつけることができた。途中、この間、何度も「約束」を破られている学生と、南草津駅にて「お説教ランチ」をしたのだが、小さな開放感から「説教」よりは「説法」に近くなってしまったかもしれない、と内省を重ねている。ともあれ、この4月から京都の人として再出発を図ることになるので、皆々様のご愛顧と、「次の何か」に備えて、身の周りは常に整えておきたいと誓う一日であった。

2013年3月17日日曜日

pass(合格)後のpath(小径)

昨日、17日に引き続き、立命館大学の大学院課が主催する、2013年度大学院新入生向けセミナー「大学院で獲得する“充実”」の教員セッションにお招きをいただいた。昨日は衣笠キャンパスだったが、今日は朱雀キャンパスでの開催であった。なぜか、びわこ・くさつキャンパスでの開催はない。しかし、今日はBKCでの長い夜を送ることになるのであった。

教員セッションと掲げているが、プログラム上は座談会1とされ、比較的若手の教員が大学院時代をどのように過ごしたかの話題提供を交えて「大学院で学べること」について語り合う、というものであった。私のペアは両日とも経済学部・経済学研究科の坂田圭先生だった。2名の現役院生をお世話役に、両キャンパスそれぞれ8名ほどの参加者と1時間ほどを過ごした。参加者は進学が決定している方もいれば、今後の進学を希望している人もいて、さらに進学先や希望先の研究科も混ざり合う構成だった。

坂田先生が「大学院の研究生活」と題し、「大学院とは?」「進路とタイムテーブル」「大学院での学び」「就職活動」と、起承転結でまとまりのある話を用意されたのに対して、私は「pass後のpath」と題してミニワークショップと解説を行うこととした。詳細は割愛するが、ミニワークショップでは「感情曲線を描く」こととし、そこから「社会のトピックを個人のエポックにする」ことの意味、それが研究を進めていく上で「問いを問いなおす」契機となる、と示した。結果として、自らの能力(skill)を高めるだけでなく、職能(ability)が高まるよう経験知を豊かに、というメッセージを投げかけることとなった。ゆえに、合格(pass)した後、細く長い小径(path)かもしれないが、未知なる軌跡を大胆に描いていっていただきたい、という「オチ」をつけて、場を後にした。

朱雀から向かったのは、高槻である。15日に東京で開催された「大阪アーツカウンシル(仮称)」設立にあたっての報告・説明会の「高槻バージョン」である。東京では私からの「経過」説明の後で東京藝術大学の熊倉純子先生と対談をさせていただいたのだが、高槻では以前は結婚式場だったというパラダイス感が漂う「高槻現代劇場」の一室にて、共に制度設計にあたってきた帝塚山大学の中川幾郎先生と対話を重ねることとなっていた。この内容も、後程「報告書」に抄録される予定とのことなので、その公開を心待ちにしていただくこととして、ここでは最も印象に残った「(東京への)inferior compelx」という言葉を記しておくに留めたい。その後は参加者の皆さんと「質疑応答」ではなく「拡大座談会」のような場づくりになるよう議論を進行させていただいて、Cafe Neutralでスタッフの皆さんと「今後」の作戦会議をした後、翌日に控えた「研究室の引っ越し」の険しい道のりへと歩みを進めたのである。

2013年3月16日土曜日

遅れた春節と、少し早めの春と

大学コンソーシアム京都に在職していた折、当時、立命館大学政策科学部の教員でおられた田井修司先生からの提案で、中国の内蒙古自治区での沙漠緑化活動に、学生と共に参加した。2001年3月に初めて訪れて以来、同じ年の9月、2002年の3月と8月、そして2005年8月と、合計5回、学生らと共に現地で活動した。ちなみに「沙漠」は「砂漠」のミスタイプではなく、「水が少ない」土地が「漠」として広がっている、という意味からも、むしろ(日本でも)「砂漠」と書かれなければならないのだ。加えて「沙漠緑化」とは「沙漠化した」土地を緑化するという活動であるので、砂が移動して堆積した層の下にまで根が張る灌木(ポプラなど)を植え、その後で根の張り易い樹種(沙柳など)を植え、その後、被覆率向上にマメ科の植物を広げていく、というのが、私(たち)が行ってきた活動である。

この内蒙古での沙漠緑化活動の担い手の一人、エコスタイルネットの増田達志さんと共に、決まってこの時期に「春節パーティー」を開催している。春節とは、旧暦の正月を祝う中華圏のお祭りである。新暦における元旦は1月1日と決まっているものの、それに対する旧暦の正月は年によって異なり、2月10日だった2013年は、もろもろの多忙さも相まって、3月に入ってからの「パーティー」の開催となった。そんなイレギュラーの開催のためか、さしずめ沙漠緑化活動の同窓会の様相を呈する宴も、少人数での実施となった。

そんな季節外れの春節パーティーの今日、朝から立命館大学の衣笠キャンパスで2013年度 大学院新入生向けセミナー「大学院で獲得する“充実”」で、話題提供をさせていただいた。これは立命館大学の「大学院課」という部署が主催するセミナーで、大学院進学を希望している学部生と、この4月入学の入学予定者を対象に「大学院時代をいかに過ごすか」を深める機会とされている。昨年度までは外部の事業者に委託されていたとのことであるが、大学院生たちに「入口」と「出口」の<あいだ>にあまり迫ることができなかったもようで、教員や現役院生らの積極的な参画によって企画運営がなされることになったという。企画運営のリーダーシップは、立命館大学大学院先端総合学術研究科特別招聘准教授で、大学院キャリアパス推進室のお仕事もされておられる西田亮介さんで、先般、サービスラーニングセンターによるVSL(ボランティア・サービスラーニング研究会)でお招きした折は私の都合が合わなかったため、対面では初めてのご挨拶をさせていただいた。

セミナーの様子は明日、17日にも開催されるので、2日分まとめて触れることにして、今日は午後に應典院で開催された「グリーフタイム」にも伺ったことを記しておくこととしたい。グリーフタイムは2009年の9月から、奇数月の第4土曜日に開催されている「悲しみのためのとき」をお寺で創出するという取り組みである。当初は宮原俊也さんと尾角光美さんによって営まれていたが、宮原さんが単独で担った時代を経て、今はその後に宮原さんと共に担ってきた佐脇亜衣さんが場をつくっておられる。今回も、参加者それぞれが「悲しみ」に向き合うときが生み出されていたが、帰り際に佐脇さんとお話したところ、この春から鳥取でのお仕事を始められるそうで、しかし、それでも2ヶ月に1度は應典院にやってきて、この「グリーフタイム」を続けていくという決意を伺って、何とも、春という区切りにこそ、続けることと続けないことを見定めていかねば、と学ばせていただいた次第である。

2013年3月15日金曜日

東京で大阪アーツカウンシルの説明会


かつて、大阪から東京に出かけることは、それだけで一仕事だっただろう。東海道線沿線に住んでいた私は、東京に出ると言えば、決まって「大垣夜行」と呼ばれた夜行列車にて、浜松から出かけていた。1968年(昭和43年10月:いわゆるヨンサントオ)のダイヤ改正で生まれたこの列車も、新幹線の普及や飛行機の割引運賃の設定、さらには規制緩和による夜行バスの価格競争により、最早「過去」のものとなっている。そもそも、所要時間の短縮のため、今でも静岡県内は「のぞみ」号が停車しないのだが、大学受験の折、100系の2階建て車両の1階にあったグリーン車の個室に乗ったときの旅客情緒は、今なお、時折思い出す記憶である。

今日は朝に立命館の朱雀キャンパスでの災害復興支援室の会議を終えた後、日帰りの東京出張に出かけた。毎週金曜日の朝が立命館災害復興支援室の会議日なのだが、「定例会議」と「事務局会議」とが隔週ごとで交互に開催されている。今週は事務局会議の日で、3月11日の「いのちのつどい」の総括などが行われた。また、「いのちのつどい」を前に、台湾の淡江大学で開催された震災復興をテーマとした「学生フォーラム」も開催されていたので、それぞれに「次」に向けた展望を探る機会ともなった。

そうして、一仕事を終えて向かった先の、ちょっと、いや、かなりの大仕事が、東京・千代田区にある「アーツ千代田 3331」での「大阪アーツカウンシル設立に向けた報告・説明会in東京」であった。その名のとおり、大阪での事業を、東京で報告し、説明をする、という機会である。この会は、2月中旬に事業者が公募され、3月に契約がなされ、プレスリリースから2日で公開の議論の場が開かれるという、言葉を選ばずに言えば「無茶苦茶」な業務である。そんな業務をプロポーザル形式によって受けたのが、NPO法人こえとことばとこころの部屋(ココルーム)NPO法人地域文化に関する情報とプロジェクト(recip)NPO法人アートNPOリンクの協働事業体だ。

この「説明会・報告会」は、東京を皮切りに、17日には大阪府高槻市の「高槻現代劇場」で、20日には「シンポジウム」も含めて大阪市西区の「大阪府立江之子島文化芸術創造センター」で開催される。大阪における一連の改革等の動きに批判的、否定的な方からは、「なぜ東京から開始だったのか」という問いかけがなされ、そこには「話題性を求めるためだろう」などの詮索も働くだろうが、単純に日程調整の関係からこの日となり、しかし「なぜそもそも東京で開催されるのか」ということに対しては、上掲のプロポーザルにおいて、「今後、(大阪アーツカウンシルの)統括責任者が公募されるとされているなら、東京でも、この間の経過を報告し、公募にあたっての経緯を説明する必要があろう」などと記されたゆえんである。ということで、今回は「事業者」ではなく、「事業者(前掲の3NPO法人)および主催者(大阪府・大阪市)のあいだの調整」のなかで、私が大阪府市統合本部の都市魅力推進会議において、基本的にワーキンググループにて非公開で審議された内容を踏まえて「大阪アーツカウンシル設立の経緯」をお話させていただくこととなった。ここではその詳細は割愛させていただくが、およそ30分の話題提供の後、先月、2月2日に岩手県大槌町での「ひょっこりひょうたん塾」でもご一緒させていただいた、熊倉純子さん(東京藝術大学)との約1時間の対談が極めて痛快であり、後々、文字化される機会を心待ちにしていただきたい。

2013年3月14日木曜日

脱・戦闘的関係


関西学院大学人間福祉学部実践教育支援室の室長を務める川島惠美先生のお招きで、関西学院大学の「今後の実践教育のあり方を考える研究会」にて話題提供をさせていただいた。川島先生とは、電子メール等で情報交換などをさせていただいたきたが、きちんとお会いしてお話をするのは、先般、関西学院の千刈キャンプで開催された催しが初めてのように思う。その縁結び役として「つなぎ手」になっていただいたのは、ブレーンヒューマニティーの能島裕介くんである。

インターネットを通じて簡単にやりとりができる中にあって、非公開の2時間の研究会に招く上で、川島先生は「つなぎ手」を求め、そして依頼状を手渡しいただくという手順をとっていただいた。こうしてお心配りをいただいた以上、招かれる側としては、どのように応えればよいのかを熟慮することになる。今回、私が臨んだ姿勢は「質問がなくなるまで、その問いに答えていく」というものであった。結果として、マクロビオティックなお弁当をはさんで、10時から14時まで、研究会のメンバーとスタッフの皆さんと語り合うことになった。

そもそも、研究会から私に求められたのは、立命館大学におけるサービスラーニングセンターの事例であったが、既に文献等で理論的観点について整理がなされ、さらには他大学への訪問調査も行われたとも伺っていたので、冒頭部分では「参加者からの自己紹介」よりも、研究会の活動を通じてわかったこと、さらには逆にモヤモヤしていることを伺うことから始めさせていただいた。すると、10名の方から、それぞれに悩みや迷い、さらには今後の展望などを伺うことができた。ここでは詳述しないが、そうしていただいた投げかけは、近いうちに、立命館大学サービスラーニングセンターのFAQにも盛り込んでいきたいと思うことが多数を占めた。招かれた側ながら、得るものがあったということ、これはサービスラーニングの鍵概念の一つ「互恵的関係(reciprocity)」と重なるように思う。

そもそも、「メリット・デメリット」を含め、「勝ち組・負け組」といった「戦闘」のメタファーは、一見、勝ち負けの論理から離れた「Win-Win」にも及ぶと考えている。それ以上に、この「Win-Win」こそが「良い関係」と捉えることに、少し憂慮を重ねている。なぜなら、互いに「勝者」であるという認識のままでいられるのは、利害関係に配慮した戦略的協調がなされた結果であって、それは両者とは別の領域に敗者を置く構図にあるのでは、と思うためだ。そういう意味で、お弁当をいただいてから、ある助手の方からの質問で、「サービスラーニングの手法で学んだ学生にはどうなって欲しいと思っていますか?」に対し、「自分の知らないことを知り、本を読み、文を書き、他人と語ることを楽しいと思える、そんな謙虚さを携えられるようになって欲しいですね」といった返しが意外だったようで、ぜひ、個人的かつ直線的な個体の成長ではない集団での学びの充実を図るセンターとして、今後、両大学のあいだで切磋琢磨しあう関係が育まれれば、と願うところである。

2013年3月12日火曜日

キャンパス間の移動準備

春は何かと異動の時期だが、この4月からは、立命館大学共通教育推進機構准教授という立場は変わらずとも、びわこ・くさつキャンパス(BKC)から、衣笠キャンパスへと、拠点が変わることになった。とはいえ既に2011年度の後半から、衣笠キャンパスの科目を専任教員として担当し、2012年度からは、最早BKCでの科目は担当してこなかった。とはいえ、サービスラーニングセンターの副センター長という立場もあって、BKCには週1回のペースで通うようにはしていたし、何より草津市とのサービスラーニングに関する協定もあって、少なくとも前期には週1回のペースで草津市役所7階の「草津未来研究所」に「総括研究員」という立場で赴いていた。ともあれ、この4月からは、草津市役所との関わりも変えさせていただくこととなり、恐らく草津には衣笠からBKCへのシャトルバスで移動することが増えそうな気がしている。

思えば約2年前、残り半年の任期を残しつつ、同志社大学大学院総合政策科学研究科から移籍するにあたり、新町校舎の臨光館419から、BKCのアクロスウイング424への研究室の引っ越しは、難を極めた。社会人院生の方々の論文執筆スペースとして提供もしたのが懐かしい記憶だが、それ以上に、5年の任期のあいだで膨大に増えた書籍や書類の整理もままならない中で、引っ越しのその日を迎えたためである。その年の修了生の方々や、過去のゼミ生の皆さんの協力もあって、2トン車2台でなんとか運び込み、「押し込むように」搬入して、2年が経ったことが、にわかに信じがたい。ところが今回はそうした「荒技」は許されておらず、そもそも物理的な面積が狭くなる上に、次の使用者のためのクリーニングの段取りのため、3月18日の一点突破で、引っ越しを完了させなければならないという条件があるのだ。

ただ、2年前の同志社から立命館への引っ越しは自費によったが、今回はリサーチオフィスの計らいで業者さんの手配と、その費用の負担はいただけることになった。逆に言えば、だからこそ、その前準備を怠ることはできない。ということで、本日は研究室で夜をあかす覚悟で、BKCで1日を過ごすべくやってきた。そしてその覚悟は、固い決意として守らねばならなくなった。一応、目に見えて「変化」は見えるが、道のりは、遠い。

これまた幸いなことに、向かいの420研究室が空いていることもあって、そちらを「仮置き場」(かつ作業スペース)として使わせていただくことも認めていただいた。とはいえ、いわゆる「断捨離」を強行に実施しなければ、3月18日が迎えられない。言うまでもなく、愛用のscansnapで「取り込んで捨てる」という時間的な余裕もない。ということで、お昼の荷物の受け取りと、夕方からの地域連携に関する会議を終えた後の今宵は、BKCでの一番長い夜(その1)となった。

2013年3月11日月曜日

あいだにある<いのち>

東日本大震災から2年、今日は立命館での「いのちのつどい」に参加した。立命館は前任校の同志社と異なって、宗教的な裏支えがない。しかし、なぜ「いのち」のつどいなのか。こじつけに思われるかもしれないが、それは「立命館」という学園の名称の「真ん中」に「命」という文字がある、そこに意味を見いだしたいと考えたためでもある。

2011年4月21日に発足した立命館災害復興支援室は、小学校から大学院までを有する総合学園として、今次の大震災に何ができるかをコーディネートすべく、およそ2年にわたって各種の取り組みを展開してきた。昨年の3月11日は京都マラソンの開催のため、その休憩ポイントに立命館大学衣笠キャンパスが用いられたこと、さらには周辺地域の移動に制約があることなどから、とりたてて震災から1年で何かをしよう、という動きにはならなかった。ところが今年は、2011年末から16便にわたって運行してきた「後方支援スタッフ派遣」プログラムに参加した学生・教職員、さらには教育面、研究面の幅広い取り組み、それらを現地との関係が深まってきたことから、この「つどい」の場を催すことにした。第1回と銘打ってはいないものの、今年だけで終えないようにしよう、という決意で臨んだ場でもある。そのため、命名も、今年開催されれば60回を数える「不戦のつどい」へのオマージュを捧げる名称とした。

今年は衣笠キャンパスをメイン会場に、びわこ・くさつキャンパス、そして朱雀キャンパスでの3拠点同時展開とした。キャンパスごとに微妙に内容は異なるのだが、14時46分を前後した「追悼のとき」だけは、同じ枠組みとした。先述のとおり、「御本尊」などがないゆえに、代表者による献花に続き、大阪のマッチポイントさんの協力を得て、アートキャンドル(メイン会場は3本の太い蝋燭に11本の細い蝋燭を並べ、サブ会場は2年目を象徴する太いキャンドルを2本とした)への献灯、そして1分間の黙祷が行われた。何とも言えない、静かなときが流れた。

今次の大震災の支援に携わった人であれば何度も実感させられたであろうが、この大規模・広域・複合型災害においては、地震の発生時刻だけでなく、津波の到達時刻もまた、深い意味を持つ時間である。しかし、地震の発生時刻が同一であるのに対し、津波の到達時刻は、地域によってまちまちである。逆に言えば、ここにこそ、「被災された地域」を「被災地」と一括りにしてはならない、という気づきを見出せるだろう。あの日から2年、衣笠キャンパスに集った約180人の方々と同じときを過ごす中、びわこ・くさつキャンパスでは85人が、そして朱雀キャンパスでは48人が、さらには全国、また世界のあらゆるところで、それぞれ祈りと誓いの場を過ごしたことに尊さを感じてやまず、今なお2668人が行方不明とされていること(注:2013年3月11日時点/最新情報は警察庁の「東日本大震災について」の「警察措置と被害状況」参照)に悲しみを覚えずにはいられない。

2013年3月10日日曜日

復興の踊り場に立って

明日で東日本大震災から2年となる。明日になれば、東日本大震災から2年が過ぎた、あるいは、3年目に入った、などと言われるのだろう。私は講演の機会をいただいたときには、決まって「日数」を示し、わかりやすい単位でくくることで、簡単に整理してしまわないように訴えている。それにならえば「あの日」から760日の今日、梅田のスカイビルで開催された「3.11 from KANSAI〜一歩、また一歩〜」に参加した。

振り返れば、阪神・淡路大震災は、「そのとき」よりも「あのとき」の経験を活かすなかで、多くの出会いとその後のつながりが生まれたのだが、今日、お邪魔したのも、そうしてつながりがひろがっていきた中でお世話になりつづけている赤澤清孝さんからのお誘いをいただいたためであり、会場では早瀬昇さんや田村太郎さんをはじめ、多くの方にお目にかかった。今日の催しは多様な企画が織り込まれていたものの、参加したのは「支援組織対象企画」と銘打った最終プログラム「被災地で復興に取り組む団体を関西の智恵や経験で支えよう!」であった。岩手から臂徹さん(一般社団法人おらが大槌夢広場 理事・事務局長)、宮城から兼子佳恵さん(NPO法人石巻復興支援ネットワーク代表理事)、そして福島から鎌田千瑛美さん(一般社団法人ふくしま連携復興センター理事・事務局長・peach heart共同代表)の3人がお越しになり、その3人の語りを田村さんがコーディネートし、全体の司会を赤澤さんが担う、というものであった。プログラムの前半ではそれぞれ地域の「今」と「ちょっと先の未来」が語られ、後半は参加者が興味を抱いた語り手を囲んでのトークセッションとなった。

田村さんによれば、今は復旧の過程と異なって、目に見えた進展を見いだしにくい「復興の踊り場」の状態にあるというが、それゆえトークセッションでは、先般、大槌での「ひょっこりひょうたん塾」にお邪魔したご縁で、臂さんとの語りを選んだ。若干、予想はついていたものの、各セッションでの対話の内容を全体で共有、という時間が用意され、はからずも内容を紹介するお役を臂さんにご指名いただいた(田村さんからすれば「やっぱり」だったようだが…)ので、13人による45分ほどの内容を、次のように3点にまとめて報告させていただいた。まず地元で復興を担う人たちは「日程調整からプロジェクトの調整」を目的にした情報共有会(水曜日の午前中)を行ってきているということ、次に地域内での行政・民間のネットワーキングは「行政による地区ごとの地域復興協議会を縦糸とすれば、復興まちづくり会社の下部組織としてのまちづくり分科会が横糸として位置づけられそう」であること、とまとめた。そして今後の関西からの支援のあり方としては、「テーマに沿って利害調整が必要となってくる段階に入る中で、顔を見える関係でつながると多様性が閉じ、つなぎやすいところにつないでしまう」だろうから、当事者による支援活動が「小手先の動き」にならないよう、「外部のリソースとして頼ってもらえるだけの関係を、地元の方々と結ぶこと」と述べた。

ちなみに、この復興のイベントの前には、兵庫県立美術館での「フィンランドのくらしとデザイン」の最終日に駆け込みで鑑賞しにいったのだが、皆がムーミン関連の展示に関心を示すなか、私はインダストリアルデザインとテキスタイルのコーナーに時間を割いた。人だかりとなっているムーミンのコーナーを抜けたとき、一緒に行った妻が「ムーミンはスウェーデン語で書かれている」と言った。その話を、その後の復興イベントにおいて、上掲の兼子さんが「支援を受ける中で劣等感があった」と涙ながらに語る場面でふと、想い起こした。暮らしや仕事を語ることばを、私たちはきちんと持ち合わせ、選び、そして自覚的に用いているのか、時代を見つめる眼差しについて深く問いなおす一日となった。

2013年3月9日土曜日

市民のエネルギーと自治への渇望


始発で飛び、最終便で戻るという1泊2日の台湾出張から帰国した。7時の関西空港発、しかも第2ターミナルビルからの国際便は、大阪に住んでいないと搭乗が困難であることを学習したところであるが、同時にLCCの最終便は、帰宅にも不安をもたらすこともまた、学んだ。35分ほど遅れての搭乗口案内となった台湾・桃園空港から、現地時間で20時20分頃出発したピーチMM028便は、関西空港に22時26分に到着した。ただ、ピーチの到着便が遅れたが如く、リムジンバスの到着も遅れて、はからずも22時30分のバスに22時37分に乗車して、家路についた。

こうした動きを取ったのは私だけで、淡江大学と立命館大学の共同による学生フォーラム「震災復興と東アジアの未来を担う若者の使命」に参加した代表団の学生及びスタッフは、7日の午後にキャセイパシフィック航空の便で入り、9日の昼過ぎの便で戻った。要するに、7日に別用が入っていた私は、往復同じ航空会社でなければ経費が高額になるということで、結果としてこのような旅程となったのである。それゆえ、本日はお昼過ぎまで学生らと行動を共にし、それ以降は単独でしばしの台湾を楽しませていただくこととした。ちなみに朝7時半過ぎに学生たちと待ち合わせをして、大学から手配済のバスで市内中心部へと向かったのだが、ここにも淡江大学の学生たちが随行し、結果として午前中いっぱい、台湾観光の案内役を買って出てくれた。

学生たちとは台湾の地下鉄「MRT」の淡水線「圓山駅」で正午に待ち合わせをしたのだが、時間どおりに戻った学生は皆無だった。少々の後ろめたさを覚えながらも、101タワーなどで異国の地を存分に楽しんだことを、それぞれの表情や、バス乗車前の記念撮影、さらには涙を浮かべながらのハグなどから、充分に感じ取った。私もまた、感情の高ぶる学生たちが窓越しに手を振り続けるバスを路上から見送る側となった後は、中正紀念堂付近に向かった。ちょうど、午前中に、スタッフと共に向かった故宮博物院でのFacebookでのチェックインを見た松富謙一さんから「日式住宅の残る青田街に」とご案内をいただいたためである。

そうして青田街を散策し、小さなキャリーバッグを抱えながら、中正紀念堂に向かうと、遠くから騒がしい声が聞こえてきた。中正紀念堂の位置する「226記念公園」の西側「自由広場」の先で、反原発の大規模なデモがなされていたためだ。歌、ラップ、演説、旗、幟、フェイスペイント、仮装、行進、などなど、台湾第四原子力発電所の廃炉を求める訴えと、独自した国家としての自治を求める訴えが、多様な表現によりなされていた。ちょうど帰国前、ある学生が「台湾で印象に残ったのは?」と聞いたところ「地下鉄のICチップ入りのトークンや、信号が変わる直前になるとLEDによる歩行者用信号で人が走り出すデザインとなっていた」などを指しながら「日本より進んでいる」と言っていたのだが、そうした「見える側面」の背景だけでなく「行動の背景」にある精神性に、もう少し、深い思考を重ねていきたいと、圧倒された風景から強く感じた次第である。

2013年3月8日金曜日

約束と役割と…


東日本大震災から2年を前に、3月8日から9日にかけて、1泊2日の日程で台湾の淡江大学への出張に出かけている。用務は、淡江大学と立命館大学との共同主催による学生フォーラム「震災復興と東アジアの未来を担う若者の使命」での参加である。最も大きな任務は、「Distant Suffering and Great Earthquakes:距離を越えて繋がり合うこと〜2つの大震災からの学び〜」と題した基調講演で、逐次通訳を入れて30分の持ち時間をいただいた。フォーラムには淡江大学の日本語学科の学生を中心に20名程度、立命館大学からは公募した学生13人が参加した。

基調講演では、「感情移入と共感の違い」を説明することで「支援」とは「する」側と「される」側との相互の関係が取り結ばれることが重要であること、距離を越えて思いを寄せる「Distant Suffering」では他者の苦しみを「わかりあえない」からこそ自分事として捉えられるうる何かに重ねて「共に苦しむ」ことから対話が始まるのではないかということ、そしてよりよい未来を展望する上では過去の経験に学び「競争から共生へ」と行動の選択肢を判断する際の論理を変える必要があること、この3点を伝えた。基調講演の後には、立命館と淡江の学生が、それぞれ「震災と私」を20分ずつ語った。そして予め参加者が用意してきたテーマごとの「テーブルトーク」を30分ずつ2セッション行われ、それらのトークを通じた内容から、印象に残ったワードやフレーズをA4の紙に書き出す「フリップディスカッション」が行われた。全員が一つの円になり、何が気になっているのかを語った後は、改めて語りたい人、あるいは語り直したいテーマを学生たちが見つけ、(1)3人から5人以内で、(2)両大学の学生の混成とすること、という条件のもと「グループセッション」となり、35分ほど語り合った。

グループセッションの後、7つに分かれたグループから、簡単に内容の共有がなされた後で、まとめのスピーチを再びさせていただいた。当初は日本語学科のMa先生の予定だったが、事情でお越しになれなくなったので、グループセッションの内容に触発され、「約束と役割」という2つのキーワードを投げかけることにした。そもそも、基調講演の際に、立命館の学生から「ボランティアで支援する際の動機」について、淡江の学生から「原子力発電の事故など、前例のない事柄に対して、過去から何を学ぶというのか」といった質問がなされたことも、無関係ではない。ここで「約束」とは「名も無き個人として関わり始めた匿名での関係が、やがて互いの特性などを知り合う顕名での関係となっていく過程には、有言か無言かにかかわらず、小さな約束を立て、それを守ることが大切」ということであり、その上で「復興の過程が終わりを迎えるのは、支援される側だった人たち支援する側へと立場が変わり、担い手としての役割を果たせたと思うときではないか」という問いかけをして、フォーラムを終えることにしたのだ。

実はフォーラムの前日から「チェキ」を用いてのまち歩きのワークショップを両大学の学生が行っていたこともあって、ある程度の「関係」ができつつある中でのフォーラムであった。しかも、今回は大学内の寮に宿泊をさせていただいたこともあって、夜まで多様な交流があったとも聞いた。フォーラムの後は淡江大学の国際部によるパーティーをご用意いただいたのだが、そこでも国際部長の先生から、「学生たちが自分の意見を言い、自分たちの考えを整理していくという、素晴らしいフォーラムだった」と、評価のお言葉をいただいた。ただ、圧倒的にお世話になった今回のフォーラム、果たしてどのように「恩返し」をするのか、私たちが担うべき役割は大きく、そして必ずや、日本にお招きをするという約束を、夜の台湾のまちでスタッフやボスらとの歓談の中、決意を固めるのであった。

2013年3月7日木曜日

被災地のリレーに見るダイナミックス

私には複数の師匠がいる。師匠とは恩師と少々異なる。無論、恩師は無数にいるが、通常、師匠と呼ぶ方は多くはないはずだ。少なくとも、浄土宗の僧侶として大蓮寺・應典院の秋田光彦師は文字通り師匠の一人であり、加えて、大阪大学大学院人間科学研究科でグループ・ダイナミックスを学ばせていただいた渥美公秀先生は学問の師匠の一人である。

2013年3月7日、18時半から應典院で開催されたインターネットラジオ「ロスト・チャレンジ」の公開収録は、はからずも私にとって師匠である2人が同席する機会となった。2011年4月、東日本大震災を経て開始したこの収録も、第1期としては今回を最終回とする記念の回ということもあって、感慨に浸りながら、聞き手を務めさせていただいた。なお、少なくとも来年度はこの収録がないために、2010年4月から「木曜の夜に應典院に来れば、何かある」というトークサロンの企画「チルコロ」は、2000年から毎月第3木曜日に開催(ただし8月・12月・1月は休会)している「いのちと出会う会」のみとなるため、その枠組み自体を止めることにもなる。應典院という場の担い手として、場を開くことに一定の愛着と執着を重ねてきたつもりなのだが、ただ開くだけでは人が集まることなく、結果として個人の執念や恩讐が高まる前に、潔く事業の枠組みを整理せねば、と考えた結果でもある。

そうした区切りの機会の語り手としてお迎えした渥美先生のお話は、やはり圧倒させられた。だからこそ師匠なのであり、師匠だからこそ当然のことなのかもしれない。ともあれ、「被災地のリレーの力学」と掲げたテーマに対して、「目の前の人たちのベターメント(雰囲気づくり)」のために、振り返る間もなく次々と動く中で「そこにいる人」を大切にして、小千谷市の塩谷集落と、岩手県野田村に拠点を据えた背景と、今後の展望を2時間にわたって語っていただいた。この間、多くの話を伺い、問いかけも重ねてきたものの、マイクスタンド越しに向かい合って語り合う中で、そもそもは(阪神・淡路大震災前に何度も訪れたまちで)「何故ボランティアに熱心になるのか」と感じておられたこと、阪神・淡路大震災の後には「奇妙な夢」を見られたということ、さらには『ボランティアの知』のまえがき部分にてご専門の「グループ・ダイナミックス」について「武器」と掲げた意味について「持っているだけで意味のある武器もあって、すぐに成果を出さなくていいものに対して、ゆっくり考えて理解することもできる、そんな道具を持っていた」という含みがあること、など、随所にわたって自分にとっての気づきと学び直しの機会を得た。加えて、復興とは何かという問いかけには「南三陸の方が、次のお世話ができるときそれが復興です、と仰っていた」というエピソードを交えつつ、「次に同じような苦しみをした方に関わるとき」に、復興のプロセスには変化を見いだすことができ、それが「被災地のリレー」としてバトンを渡し、ある瞬間には共にリレーゾーンを駆け抜けることもある、と語られ、これまた「渥美節」に魅惑されてしまった。

これまで特別編の3回を含めると27回にわたって展開してきた應典院のインターネットラジオ「ロスト・チャレンジ」は、30分を1本として4本連続を1回分として収録し、編集し、提供してきた。これはポッドキャストとしては、比較的、聞く側に負担感をもたらすものであると思われるものの、この時代に各々が何を考え、そうした発言がそれまでの何に起因するのか、さらに個々のエポックがどのように絡み合っているのか、決して平坦な道のりではない生きざまを紐解き、未来のあり方を寝る、そんな「音声による手紙」であり、その時点で確かに話していたことを「証明する消印」のようなものであると思っている。ちなみに第一期の最後、渥美先生からは「まとめ」ではなく「先祖からの伝統、生き方、文化などに対して、死者をどう扱うか、その際に決してヒーローとして扱わないということを前提にして」と「問い」をいただいた。無論、渥美先生の回だけでなく、耳学問ということばもあるくらいなので、「ながら」で楽しんでいただけるものになっていると確信するのだが、その背景には、微に入り細に入り、レコーディングエンジニアとして気持ちを行き届かせてくれたアーティスト、中垣みゆきさん(ばきりのす)の仕事が横たわっており、ここに謹んで謝意を表させていただく。

2013年3月5日火曜日

とりあえず、合宿!

仕事の仲間によれば「合宿をしよう」という人は、職場にはあまりいないらしい。勝手な想像だが、長い会議と思われているのかもしれない。しかし合宿は、フォーマル(定形)ではないもののオフィシャル(公式)に位置づけることによって、日常とは違った「人」と「なり」が見えてくるし、何よりも論点を集中させる場合や、あえて視野を広げて論点を拡散させることも可能である。この、インフォーマル(非定形)だが、決してアンオフィシャル(非公式)ではないという場の位置づけと、参加への動機づけができてこそ初めて、合宿は「単に集まって泊まり、長い会議がなされる」という観念から解放されることになろう。

というわけで、今年度から夏と春に行われている、立命館大学サービスラーニングセンターの学生コーディネーターの1泊2日の合宿に、教職員スタッフの一人として参加した。夏は3コマのレクチャーを行ったのだが、それはむしろ講義を受講して欲しい、というメッセージにかえて、「大喜利」の進行役と学生による「補い合う関係づくりのためのコンセンサス形成のワークショップ」へのコメンテーターというお役を担わせていただくことになった。大喜利は初日の朝に行われ、2時間にわたって自らの役割と周りのスタッフとの関わりについて「とんち」をきかせた問答を行うこととした。普段から「答える」ことには慣れているが、自分で問いをつくって「さげる(あるいは、落とす)」ことには慣れていないと見え、だいぶ苦戦をしていたもようであった。

後半のコメンテーターとしては、サービスラーニングセンターのウェブサイトでも提供させていただいている動画でも述べている「ツール・ロール・ルール」の3つの「ル」を基底として、グループとチームと組織の違いへの関心を促した。これまでグループは足し算でチームは掛け算ということを「相乗効果」や(スポーツ競技などの)「ポジション」といった観点から指摘してきたが、今回はそこに「組織は引き算と割り算」というアナロジーを持ち込むことにした。それは、大喜利を終えた後、川中大輔先生が進行役となり、半日にわたって2つのキャンパスの混成グループが「個々の長所と短所」を紐解いていくこととしたものの、サービスラーニングセンターという機関全体からみた個々の位置づけについて、ほとんどのスタッフが視点を持ち合わせていなかったためである。組織が引き算と割り算というのは、「因数分解」という思考から迫ったのだが、それなりに響く概念だったもようなので、今後、精緻に論じてみることとしよう。

こうして密なる議論を行った立命館大学サービスラーニングセンターの合宿だが、夏にびわこ・くさつキャンパスの「エポック立命21」で行ったこともあって、この春は衣笠キャンパスの「西園寺記念館」にある衣笠セミナーハウスで実施した。ところが、ここは食堂設備もなければ、住宅街の中の立地ということもあって、物音や話声による騒音問題に厳しい。そもそも、私にとっての衣笠セミナーハウスはアカデメイア立命21であり、当時は飲酒が可能であった「嵯峨野セミナーハウス」という選択肢もあった。それを思うと、俗世から離れて、とことん異空間を楽しみながら、飲酒やスペシャル料理などにより異文化に浸ることができる同志社びわこリトリートセンターは実に恵まれた施設であり、合宿などの拠点となると感じ入るところである。

2013年3月4日月曜日

手業の合わせ技のために

最近、朝7時43分、天満橋発の京阪電車の特急列車で京都方面に移動することが多い。そして3月1日も同じ時間の列車に乗ったのだが、ちょうど、この3月10日で営業運転を終了する「旧3000系特急車」であった。私が生まれる前、1971年から1973年にかけて製造され、「テレビカー」として名を馳せた名車も、時代の流れで引退となる。情緒あふれた列車に揺られ、今日は京都の三条から京都市営地下鉄東西線で山科まで出て、そこから立命館大学びわこ・くさつキャンパスへと、JRと近江鉄道バスで向かう予定としていた。

ただ、尼崎の事故以来、列車の定時運行と安全運行とは、相克する問題として丁寧に取り扱われるようになってきたと思う。無論、定時運行が望ましいのであるが、定時運行ができない理由に想像力を巡らすことができないなら、それは単に横柄な消費者でしかないだろう。例えば、自ら生命を絶つ手段として列車を利用する人もいるし、病に苦しむ乗客もいるだろうし、ましてや病に苦しむのは乗務員も同じである。転じて、列車が遅れることにいらだちを覚える人々は、人にまつわる物事や出来事の動きが、直接ではなくても人によって支えられていることに、あまりに無理解であると言えよう。

ということで、今日は人身事故と急病人の乗客の救護により、予定の時刻よりも15分ほど遅れてびわこ・くさつキャンパスでの面会を終えた後、10時半からテレビ会議、そこから衣笠キャンパスに移動して会議と打ち合わせ、そして18時半からひと・まち交流館で会議、と、移動の繰り返しの一日だった。昔は移動の時間が作業の時間だったが、最近は移動の時間はなるべく思考を整理する時間にするようにしている。常時「on」な状態になっていることが、他者への眼差しと、自らの発想を豊かにする契機を自ずから失わせている気がするためである。そして、そうすることによって、逆に座って考える時間を尊く扱うことができるようにもなる、と感じている。

とりわけ、今日は夜の会議のために「机に座って考える」時間を必要とした。会議の内容は、2006年に同志社に着任して、ほぼ最初に担わせていただいた京都府国際課による「インドネシア技術交流プロジェクト」のフォローアップの取り組みである。同プロジェクトは2009年に同課から「終了」が宣言された後、プロジェクトのコアメンバーを中心にして2010年にNPO法人化され、実は私がその法人「てこらぼ」の理事長をさせていただいている。「手業(てわざ)の合わせ技(コラボレーション)」のためのさらなる飛躍を求めた今日の会議は、考える時間を取ったことによって充実したものにできたと、大きな宿題を抱えていた当事者として、過大かもしれないが、満足のいく自己評価を下している。

2013年3月3日日曜日

皆が一人に本堂で…


ひなまつりの今日、應典院では「びわ創大縁日」と題した催しが行われた。「いのちのつながり」と「門前のにぎわい」と「飛び地の入会地(いりあいち)」と、3つのフレーズを掲げての催しであった。これは琵琶湖が「河川法」という法律上は一級河川として位置づいているとおり、湖につながっている川、さらには川が流れていく海、そのあいだに住む方々が「縁」を結ぶ「日」にしたい、という主催者の願いが込められている。

そもそも「びわ創」という名前は、「琵琶総」と呼ばれた国の大規模開発に対する当てこすりでもある。詳細は主催団体「びわ湖・流域暮らしとなりわい創造会議」の代表で、むしろ「琵琶総」に対する皮肉を「びわ創」という名前に求めたと思われる、滋賀県立大学の上田洋平さんの文書を参照いただきたい。ともあれ、琵琶湖総合開発特別措置法に基づき、制定された1972年から1997年にかけて取り組まれた総合開発とは全く異なる創造会議として、今年度滋賀県は「びわ創」と掲げた事業を展開してきた。そして、本日の「大縁日」を迎えるまでのあいだ、若狭湾から大阪湾までの流域における各地の取り組みを紐解き、紡いできた縁を、大阪湾の手前にある應典院にて結んだ、という具合である。

一連の取り組みの結び目として開催される「大縁日」にあたって、スタッフの皆さんが事前に会場の下見に来られた折、「飛び地」の「入会」という言葉が浮かんだ。流域として「線」でつながっているが、つなげられるまちは「面」であるためだ。そんな風に思い浮かんだ言葉に多少の理屈を交えた物語を、以下のとおりに寄稿させていただいた。そうして、朝からボディーワークやら、昼から餅つきやら、昼過ぎから「絵解き」やら、さらに研修室では「手前味噌づくりワークショップ」やら、さらに「門前」には終日にわたって飲食や物販のブースやら、と、大賑わいの一日だった。

そうして盛り上がりの中、クロージングの前の「リレートーク」にて、小さな出来事が起きた。恐らく、脳卒中の前兆とおぼしき「いびき」を、参加者のお一人(75歳・男性)が立てたのだ。周りの声掛けへの反応から、トークのつまらなさに対する居眠りではなかろう、と判断し、應典院のスタッフが救急車を呼び、4分ほどでAEDを持参した救急隊員が本堂ホールに入って来られた。救急車内での手当の後、2時間ほどの点滴を経て事なきを得たとのことであるが、ご本尊が見つめる中でのリレートークによる語りの場は、かたずをのんで見守る場と変わった。こうして、救急隊員の方々にお世話をいただいてからトークを再開した後、江州音頭で終わった「大縁日」は、文字通り、多く方々の縁に恵まれた一日となったのであった。


飛び地の入会地(いりあいち)
山口洋典(應典院寺町倶楽部事務局長)
中学校のときだったでしょうか、社会科の「地理」で「飛び地」という言葉に出会いました。徐々に恋愛話も友人どうしでし始めた頃で「離れていても、心は一つ」といった恋人どうしの物語みたいだ、と感じました。その後、時を経て、内モンゴルの沙漠緑化のプロジェクトに携わる中で、問題解決には過放牧を止めることが重要と知りました。そして、互いに役割を担う上でのルールこそ「入り会い」だと教わりました。
このたび、「呼吸するお寺」と掲げる應典院にて、地域を越えてつながりの物語が紡がれる場が生まれることを大変楽しみにしています。インターネットにより、物理的な制約を超えて「つながり」が育まれる今、あらためて各々の「ホーム」を大事に「アウェイ」を思う、そんな節度ある越境人としての知恵とネットワークを深める機会になることを願っています。

2013年3月2日土曜日

補うことと助けること


2週連続で、平和堂財団による夏原グラントの選考会が開かれた。先週は継続審査で今週は次年度の新規応募分が対象であった。グラントとは聞きなじみの薄い言葉かもしれないが、「何かを与える(grant)」という意味から、活動にあたっての助成金や就学にあたっての奨学金という意味合いを持つ。夏原「ファンド(基金)」からの助成金と混同されるところかもしれないが、琵琶湖およびその流域の自然環境の保全活動への活動資金の助成という明確な目的を掲げて授与されるため、平和堂財団の基本財産の出捐者である夏原平和さん(株式会社平和堂代表取締役社長)の名を冠しつつ、理念に対して忠実に「グラント」とされている。

細かい話だが、助成は補助とは異なると、常々主張している。それは文字からも明らかとすることができ、実際に漢文風のレ点を挿入してみると、「成すために助ける」ことと「助けを補う」となることからも、説明がつく。要するに、「成すために助ける」のは、「助けることによって成されるはずことが充実する」と考えて提供されるのが助成金であり、「本来は別の主体がなすべきところを助けてくれる人々の取り組みを補わねばなるまい」と考えて供出することが補助金ではないか、ということである。よって、補助金は特に行政機関等の公的な主体による制度として位置づけられ、助成金は行政機関等に民間の団体も加えた幅広い主体による取り組みであると言えよう。

ただ、補助でも助成でも、未来永劫、延々と特定の主体から外部資金が提供され続けることは稀である。ちょうど、自転車から補助輪が取れた後、不安定ながらに後ろを支えられながら、自らの足でペダルをこぎ続ける、そんな構図と似ているかもしれない。だからこそ、補助する側も、助けて支える側も、そうしてペダルが回ることで、どこに向かおうとしているのか、そしてそのための舵取りができそうなのか、きちんと見極める必要がある。ただペダルをこぐだけは目的の場所に到達できないように、ただ活動するだけでは活動の目的にそった目標の達成は困難である。

そんなわけで、グラントからの支援をなすことによって、問題解決がなされるのか、そして外部資金への依存度が高まることで逆に継続性が低くなることはないか、などといった議論を64件の応募に対して行った(ちなみに民間の助成金に対して申請という表現を掲げるのは、何とも「民間の行政化」だと感じてやまないのだが、ここでは立ち入らない)。朝10時から始まった議論は、午後の時間まで食い込むこととなったが、その後で向かったのは、学生時代から8年ほど生活を送った西陣であった。そして、二条駅の向かいのカフェ・パランでお茶をし、立命館の朱雀キャンパスに立ち寄った。そうして多くの活動や場所に触れた一日で、年を重ねても継続して関係が育まれ、そうした関係によって空間が育てられている場所に心地よさを覚え、大阪への家路に就いた。

2013年3月1日金曜日

洒落と頓知


つまらない会議は、つまらない。つまらない、とは、詰まらない、の意味である。だからこそ、「議論が煮詰まる」とは、大抵は具に出汁がしみてくるというような意味合いで、好意的に捉えられる。その反面「頭が煮詰まる」と言うときには、個人で抱えすぎ、あるいは集団では抱えきれず、文字通り「行き詰まる」ことになる。

議論が「行き詰まる」と、場が「息詰まる」。何とも、言いようのない間が、場に漂うのだ。とりわけ「空気を読む」ことに関心が向く人は、この間をどのように受けとめるのか、相当悩むことになる。その際、「空気を書く」ということにも関心が向く人は、場の担い手となって、何らかの行為を決するのだ。

今日は朝から電話で来年度の立命館大学サービスラーニングセンターのプログラムについて打ち合わせをし、その後、立命館災害復興支援室で3月8日の台湾・淡江大学での「学生フォーラム」と3月11日の「いのちのつどい」の打ち合わせ、そして午後から京都大学桂キャンパスで科研費に採択された団地再生についての研究会と、議論を重ねる場面が続いた。朝の電話は2月末を締切とさせていただいた書類に対して「会の代表として一任されてプログラムをつくったが、それが担当者に丸投げを意味するので、現時点での応募は辞退したい」というご判断を巡っての意見交換となった。相手のある話なので、そこでは結論は出なかったものの、互いの関わりと気配りが、よりよい事態をもたらすものになれば、と願うところである。続いての災害復興支援室の打ち合わせも、多くの相手の顔を想像しながらの意見交換となり、それぞれに「その日」と「その日以降」にささやかでも希望を見出せるようにしたい、という共通認識のもとで、しかるべき内容を確認した。

そうして向かった午後の研究会は、予定では3時間にわたっていたのだが、その中でなされた30分ほどの話題提供が、極めて「つまらない」ものだったのだ。先般、オランダ・アムステルダム等でフィールドワークを行ったのも、この研究プロジェクトに関するところなのだが、京都府および京都府住宅供給公社といった行政関係、さらには堀川商店街を運営する協同組合、何より他ならぬ居住者をさておき、担い手不在のマネジメントシステムの提示と懸念事項に対する選択肢の妥当性が結論として示されたことが、それこそ「何とも言えない」雰囲気をその場に醸し出すこととなったと感じている。そもそも府営住宅なのに、府がいないのは、不甲斐ない、などとも語ってしまったのだが、そうした事業主体の話はさておき、研究を進めてきた若者に対し、つい、「あなた(がた)はここに住みたいですか?」と問いかけたものの、残念ながら、その質問の背景にある「自らも当事者になる決意や覚悟があるのか」という問いには関心が向かなかったようだ。枝雀師匠の「サゲ」の4分類で言えば「ドンデン」になるのだが、こうした問いに「(理由あって)住みません」と、「(訳がわからず)済みません」と、とんちを効かせて答えて欲しいと、空気の読み書き(リテラシー)に関心を向ける私は思うのであった。