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2007年11月22日木曜日

演技と演出

 本日、平田オリザさんの小学校でのワークショップのお世話をさせていただいた。平田さんは京都をはじめ、関西圏でも多くの小学校で演劇教室を行ってこられているものの、大阪では初めてになるという。一方で應典院とは1997年の舞台芸術祭「space×drama」以来、何度かご縁をいただいている。2006年より大阪大学に来られたことも重なり、大阪でも実演授業を、と考えた際、應典院がコーディネート役を、とご用命いただいた次第である。

 開催に協力いただいたのは、應典院の校区である、大阪市立生魂小学校だ。6年生は19人、1クラスしかない。40人学級の5クラス編成の小学校で学んできた私にとって、クラス替えなしに6年間を過ごす生活は明らかに未知の世界である。ともあれ、應典院の校区であること、さらには1クラスゆえに、不公平なしに大先生の授業を受けられるということから、大阪市教育委員会にあいだに入っていただいて、今回、開催の運びとなった。

 朝9時40分から、お昼の12時25分まで、3時間分をつかっての授業だった。皆が驚かされたのは、子どもたちが臆することなく、置かれた状況に対応していったことだった。実演授業の内容は、5人一組になり、転校生がやってきた、という物語を、その班独自の視点を盛り込んで完成し、最後に発表するというものだった。初めの1時限は概ね内容が決められたものを語尾や語用を変えて演じてみる、次の1時限は内容まで変えていく、そして最後の1時限に推敲と練習を重ねた上で4つの班がそれぞれ発表した。

 物語をつくるヒントは、「生活の中にある」と言う平田さんのことばが印象的だった。もし自分が転校生だったら、もし自分が先生だったら、もし自分が朝の喧騒の中で騒いでるとしたら、というように、何重もの「もし」に思いを馳せることで、自ずと、全員にとって合点がいく物語が出来上がる、私の整理ではそういう言い方でまとめられる。そんなふうにして出来上がった4つの物語は、実際に起こっていなかった出来事でなくとも、どこかで起こりそうな会話によって構成されている。なるほど、これが平田さんの言う対話のレッスンなのだ、と、改めて学ばせていただいたワークショップであった。



第三章 コンテクストを摺り合わせる

相手の力を利用する(抜粋)




 大事なことは、常に台詞を関係の中で捉えるということです。

 演出家の仕事は、この関係のイメージ、コンテクストを明瞭に示していくことであり、俳優の仕事は、そのイメージを的確につかんで、他者との関係を織り上げていくことにあります。

(平田, 2004, p.114)







平田オリザ 2004 演技と演出 講談社現代新書1723


2007年11月21日水曜日

カシコギ



 韓国名で「カシコギ」という魚がいる。日本名では「トミヨ(富魚)」と言い、いくつかの種類は既に絶滅、あるいは絶滅の危機にあるらしい。中でも、平成3年に埼玉県の指定天然記念物に指定されている「ムサシトミヨ」は、熊谷市ムサシトミヨ保護センターを拠点にして保護下におかれており、関西圏では琵琶湖博物館など、ごく限られた施設でしか見ることができないという。このトミヨ、産卵期のオスの行動に特徴がある。

 一言でまとめれば、この魚は産卵期になると、オスが水草類を集めて作った巣にメスを誘い、メスの産卵後に受精を終えると、オスは懸命に卵を守り、世話をする。子が成長するころ、オスは既に死んでしまう。食べ物も摂らずに、必至に守るためだ。短命なオスがいるからこそ子が生まれ育つのだ。

 この習性に着目して書かれた小説がある。母親が家を出て、最愛の息子を育てる父の話だ。運命は残酷なもので、その最愛の息子タウムが白血病にみまわれてしまう。そこで父チョンは治療費をまかなうために、家を売り、自らの角膜を提供し、息子のために愛を、自らを捧げるのだ。

 以前に購入した本だったが、ふと、今日の朝、この物語に登場することば(入院中のタウムのベッド脇に貼られていたことば)を思い起こした。果たして、自分はどこまで懸命に生きているだろうか、そして誰かが懸命に生きようとしている懸命さに対して、真摯に向き合えているだろうか、そんな問いが出勤途上の私に突き上げてきた。懸命に守り、愛を捧げる子がいない以上、私にとって時間を捧げる対象は家庭や家族ではなく仕事や社会だ。このまま仕事や社会に時間を捧げていくことが、本当に懸命に生きるということなのか、この前の「選挙ショック」も重なって、実は思い悩んでいる。



第二章・夏至




「あなたが虚しく過ごしたきょうという日は、きのう死んでいったものが、あれほど生きたいと願ったあした」

(後略)



(趙, 2000=p.56)





Cho, C. 2000 Pungitius Sinensis, Balgunsesang.

金 淳鎬(訳) 2002 カシコギ サンマーク出版


2007年11月20日火曜日

ゆく都市 くる都市

 惨敗ということばはあるが、「惨勝」などということばはないと思っていた。しかし、堀田善衛の『上海にて』という作品の中で、中国の人が大量の犠牲を払いつつも、結果として日本の侵略から勝利したことを「惨勝」と表現した、と紹介しているらしい。文字通り「惨めな勝利」を指して表現したそうだ。今回の大阪市長選、私見だが、結果はこの「惨勝」ではなかったかと感じてやまない。

 順番が前後したが、大阪市長選、私が応援していた橋爪紳也さんは結果として惨敗だった。4人の選挙戦、などと言われたものの、結果は4位、89,843票であった。この数は、有権者数が2,073,215人、投票者総数が904,054人、有効投票数が895,730人であるから、有権者の4.33%、投票者総数の9.93%、有効投票数の10.03%を獲得したことになる。ちなみに、今回の投票率は43.61%だった。前回が33.92%であったから、ある程度の伸びを見せたことになる。

 そんな選挙の結果に対して、「惨勝」なることばを用いたくなったのはなぜか。ある民放は20時2分に「平松候補に当確」と速報を出したのだから、完勝ではないか、そんな声も聞こえてきそうだ。しかし、自ら「シロウト」と言い、政策ではなく「夢」を語り、そもそも政党に推されたからと言って立候補して当選した方に、大阪市の窮状を切り盛りすることができるのだろうか?もちろん、政権交代できる政治風土を生むことが必要だということには充分な理解を抱いているものの、政党と政策の両面から選ばれてしかるべきではないのか。

 投票が締め切られた20時過ぎより、私は橋爪紳也事務所に、大蓮寺・應典院住職と訪問させていただき、一連の会見の場に立ち合わせていただいた。報道各社の質問の最後に「敗因は何だと思いますか」と投げ掛けられたのだが、そこで「勝者に勝因はあるが、敗者に敗因はない」と橋爪さんが応えたのが実に印象的だった。市民に推され、市民の呼びかけや投げ掛けを通じてバージョンアップを図ったマニフェスト、「各候補の支援団体やマニフェストの評価を比較する異例の法定ビラ」など、橋爪さんが遺した市政への問題提起に、われわれは、また民意の反映として選出された新市長はどのように向き合うのか、真摯な姿勢が問われている。ともあれ、少なくとも投票率が延びたことは事実なのだから、ちょうど手元に10月31日に開催された、橋爪さんの出版記念パーティーの際に頂戴した書物にもあるとおり、よりよい都市を創造するために、それぞれがより深い貢献をしていく必要があろう。





あとがきにかえて ドバイで考えたこと




(前略)想像の翼を拡げる立場にあるのは、経済成長をとげつつある都市の住民だけではない。誰もが自分たちの価値観の変化や科学技術の進歩に応じて、また環境問題など人類共通の課題が現前化するにつれて、新たな生活を創案し、新たな空間を発明し、かつての都市のうえに新たな都市を重ねてゆかなければならない。

 少子化と極端な高齢化社会という状況に直面している日本の都市に暮らす私たちも例外ではない。転機にあるがゆえに、将来の世代に託すに値する都市の姿を私たちは発明する必要に迫られている。そのためには諸外国の都市に学び、今日における普遍性を知るとともに、比較する視点を持って自分たちの都市に潜む固有性を確認する作業も不可欠だ。

(後略)



(橋爪, 2007, p.178)





橋爪 紳也(2007) ゆく都市 くる都市 毎日新聞社




 

2007年11月18日日曜日

戦いは終わっても結論は出ない〜橋爪夫妻最終演説

 私には妻がいない。しかし、今回ほど、こんな妻の存在がそばに居ればいいな、と思ったことはない。同時に、夫と妻の関係を超えて、互いに敬意や尊敬を抱き合っていることを、第三者に対してさわやかに見せることができる夫婦に対して、憧れと羨望を感じてやまなかった。その夫婦とは他ならぬ、橋爪紳也さんと橋爪里女さんのことである。

 大阪市長選の最終日、大阪市長候補者、橋爪紳也さんの選挙活動の最終演説を聴くべく、19時頃から難波のビックカメラ前に馳せ参じた。ちょうど、その木曜日には、麻生太郎氏と松あきら氏が、それぞれの政党の力によって、大きなバスの上から演説をしていた場所である。一方で橋爪さんは、木箱の上に立っての、まさに立会演説である。当日15時半からに行われた、心斎橋の東急ハンズ前での演説では、少しだけ弁士を務めさせていただいたのだが、100mほど向こうで行われている、丸山弁護士の演説に、なぜか釈然としない思いを抱いた。

 一方で、橋爪さんの最終演説は、応援者の演説も含め、すべてに胸を打つものだった。この間、口八丁な点に加えて手八丁なところもあるので、ただただ、演説内容のテープ起こしをさせていただいてきたが、ネット社会を象徴してか、それぞれに関心をいただけたようである。そんなことを意識しつつも、最終の演説を省みるに、これまで以上に文字化しておきたい衝動に駆られた。よって、19時からの演説の全てではないが、以下に遺しておきたいと思う。

 いつかきっと、ここに示す内容が、大阪の歴史の1ページとして、多くの方々に畏敬の念が抱かれることを切に願うばかりだ。何より、大阪市長選挙に伴う選挙活動期間は間もなく終わりを告げるのであるが、その期間中に、対立候補の方々はもとより、肝心の大阪市役所に対して、市民と対話する姿勢を見せた市長候補者がどんな効果を与えたのか、丁寧な検討が行われていいだろう。無論、選挙戦は終わったとしても、その選挙活動を通じて投げ掛けた問題や、さらにはそこで提起したことに対する結果も、そして結論も出ていないことを、我々は踏まえておく必要がある。



【音声ファイルアドレス(備忘録)】

http://homepage.mac.com/yamaguchihironori/20071117hashizumefinal.mp3



20071117final.gif




<橋爪里女さん>

 みなさん、こんばんわ。橋爪紳也の妻でございます。(こんばんわ)いつもは橋爪紳也の隣で、ただ見守っているだけの私でございますが、今日は選挙期間最終日、「もう、黙ってられへん」ということで、一言お話させていただきます。(拍手)

 橋爪紳也が大阪市長選立候補を決めました日から、私は妻として、橋爪を精一杯応援していこうと、決心して今日までやって参りました。その間、他の候補者の方のことも、いろいろ勉強させていただきました。そこで、私の気持ちは変わりました。

 私は、最早、橋爪紳也が、私の夫であるから、という理由だけで応援しているわけではありません。(そうだ)次の大阪を作っていく人間は、橋爪紳也でなければならないのです。(そうだ)

 皆さん、今朝の新聞をご覧に成ったでしょうか?現職の関市長、陣営の方が何とおっしゃっていたか。明日の投票、投票率が上がると不利だから、投票率、上がらないで欲しい(なめるな!)。そんなこと、おかしいじゃないですか。(おかしい)

 橋爪紳也は違います。みんな投票に行きましょうと訴えています。橋爪紳也は、みんなと一緒に、大阪のまちを作ろうと訴えているんです。ですから皆さん、明日はぜひ、投票に足を運んでください。そして、皆様方の一票一票を、橋爪紳也に頂戴したい。よろしくお願いします。



<橋爪紳也さん最終演説>

 市長選挙、 2週間の間、戦い抜いて参りました。妻には全く相談もせず、立候補いたしましたが、ここまでついてきて、参りました。夫婦で、二人で、各地を、商店街とかをまわり、あと市民のボランティアの皆さんと共に、大阪市内、端から端まで駆け抜けて参りました。

 私が大阪市長選挙、立候補する。先ほども申し上げたように、最初の動機は今のままの大阪ではアカンという怒りでした。もう一つあります。東京都知事選。いろんな立場の候補者が出て、日本中のメディアが注目して、誰が東京都知事にふさわしいのか。そういう選挙戦です。

 大阪市長選挙、これまで盛り上がったためしがありません。(そうだ)見えないところで、各政党が候補者の選定をして、新聞は推測でいろんな記事を書きますが、結局最終的に出てくるのは、共産党の候補者と、オール与党体制。初めから勝負がわかった、そういう市長選挙ばかりでした。(そうだ)

 それで、大阪、よくなるわけがないんです。この数年間、日本中、変わったまちは市民派の市長候補が出たり、市民派の議員が出て、いろんな選択肢があって、それで初めて政治というのは動くんだ。私はそう考えておりました。(そうだ)

 しかし、大阪市議会も、与党と共産党、それだけで構成されていて、市民派の議員が全くいません。大阪の政治風土は44年間、そういうものだったんです。ここを変えなければいけない。私はそう思いました。(そうだ)

 自らの仕事を捨てて、全てを捨てて、これは、これまでと違う選択肢を立てることで、大阪の政治風土を変えたい、市民の皆さま、目を覚ましてほしい、大阪を変えなければいけない。そういう思いで立ちました。本当に、覚悟の上の立候補でした。(拍手。がんばれー)。

 マスコミの人に何度も言われました。政党の推薦がつかなければ、橋爪はもう途中でやめるのか。黒川紀章さんみたいにおもしろいことせよ…バカにすな、と思いました。(笑い)

 私は思い余って市長選挙、立候補いたしました。最初にしたこと、何かわかりますか?選挙のマニュアルの本を買ったんです。(笑い)全く政治のしろうと、選挙戦、したこともありません。何とか選挙とはどういうものか、勉強しようと致しました。

 一人で立ったその夜、たった一人で、事務所で、冷めた焼きそばを食べながら、どうしたら選挙ができるのか、悩んでました。何人かの応援団、来てくれました。友達が駆けつけてくれました。テレビは有力候補だと、当時報道してくれました。

 橋爪紳也、悠々自適で、祭り上げられて、担ぎ上げて、政党のハシゴの上に立っているもんだ、みなさんそう思っていたはずです。ところが、その日の晩、全くひとりぼっちの私がおりました。そこから私の選挙は始まってます。

 市民のみなさま一人ひとりに思いを伝えることで、選挙戦が始まりました。今回の選挙戦、私が本を読んで一番学んだことは、二度と同じ選挙がないということが書いてあったんですね。選挙は歴史だと書いてありました。一度の選挙しかない。本当に今回、そのことを実感しております。マスコミ、友人は、みんな橋爪紳也らしい選挙をせよ、そういうことをおっしゃってます。そのため今回、日本で初めて、大阪で初めての選挙戦、展開することとなりました。日本の選挙で初めて、登録文化財、国の文化財を選挙事務所に致しました。日本で初めてのことです。歴史や文化を活かしたまちづくりをしてきた、橋爪紳也らしい選挙戦。そういうことを証明するために、文化財を選挙事務所に致しました。

 大阪で初めて、水の上、川の上で演説をいたしました。大阪、水の都なのに、これまで船を使った選挙戦、なかったそうです。水辺のまちづくり、関わってきた橋爪紳也ならではの選挙戦でした。

 今回、最も日本で初めての試みは、市民の皆さまと共に、マニフェスト、政権公約をつくったことです。(拍手)市民の皆さまと、数十回会合を重ね、700人以上の方と話をし、それで政権公約をつくりました。日本で初めてのことです。

 私の選挙戦、私たちの選挙戦は、既に日本の選挙史上に、歴史に名を遺しました。はじめて、日本ではじめて、市民の方と公約をつくる、政権公約をつくる、この試みをしました。真の市民派の選挙、日本で初めての市民派の選挙、橋爪紳也、われわれのボランティアのスタッフ、みんなでつくりあげた選挙戦です(そうだ、拍手)。

 大阪を変えるためには、市民の力を結集することが必要です。市民から担がれた、市民とともに立ち上がった市長は、市民のみなさまの方を向いて、市民のみなさまのために仕事をいたします。政党から担ぎ上げられた市長は政党のために仕事をいたします。しがらみだらけです。(そうだ、そのとおり)。組織、団体を背景に持った市長は、組織、団体のために仕事をいたします(そうだ)。既得権益を守ります。(そうだ!)

 われわれ、市民の声を真にかたちにするためには、市民の中から市長を立てなければいけません。橋爪紳也、46歳。真の市民派の市長候補として、今回闘って参りました。これが最後の一言です。「大阪をなんとかせなあかん、もう黙ってられへん」。明日、橋爪紳也、私に、皆様の一票をお願いいたします。ありがとうございました。

勝手連は身勝手連中ではない〜勝手連メンバー最終応援演説

 にしても、「橋爪紳也さんを応援する勝手連」は、勝手連らしくなってきたと思う。本日、最終の演説が行われたのだが、勝手連からは2名が応援演説を行った。そのお二人とも、それぞれの立場が全面に出つつ、しっかりと「応援」という目的を適えるものであった。あくまで主役は、候補者であることが、しっかりと伝わってくる。

 同時に、橋爪紳也さんを応援するということは、結果として応援の呼びかけが橋爪さんだけに向かっていけばよい、というわけではない。すなわち、呼びかけの対象は、橋爪さんを通じて、広く市民に向けられるのである。そこでは、有権者であるか否かだけが重要ではない。大阪という大都市には、選挙権があるなしを問わず、何らかの形で自ずと関わっているからである。そんな前提を強調するまでもなく、当然のようにその前提が埋め込まれた演説のお手本として、以下の演説はなされたと言えよう。



【音声ファイルアドレス(備忘録)】

http://homepage.mac.com/yamaguchihironori/20071117hashizumefinal.mp3



20071117.gif




<片桐知子さん>

 千日前の皆さん、こんばんわ。私は片桐と言います。私には二人、子どもがいます。私、子ども、二人生まれてから、自分の子どもだけでなくじゃなくて、もうとにかく大阪の子ども、日本の子ども、世界の子ども、みんなすごい気になるようになったんです。

 今の子どもね、おぎょうぎ悪いと思いません?なんか思いやりがないと思いません?何か自分中心やと思いません?それね。誰がつくったと思います?今のね、自分さえよければええ、自己中心的な大人がそういう子ども、作ってるんですよ。私は思います。そうやって、いっつもそう怒ってました。

 でも、私に何ができるの?私、政治活動も、市民活動すらしたことない。政治って難しい。だからただ怒ってただけでした。でも、2ヶ月前です。橋爪紳也さんと逢ったんです。で、橋爪さんが言わはったんです。「今の大阪な、ホンマヤバイ。このまま放っとったらな、ホンマ、マズイことになんねん。だからな、黙ってられへん。なんとかせなあかんねん」。それ聞いて、今まで私、自分が何もせえへんかったこと、すごい反省しました。

 それで、一生懸命、このマニフェスト、読みました。マニフェスト読み過ぎて、くちゃくちゃになりました。泣いてしまいました。この中身ね、メチャメチャ感動するんですよ。下手な映画より感動します。(拍手)

 このマニフェストはね、市民の人と一緒につくりはったんですよ。だからね、生きているですよ、このマニフェスト。このマニフェストはね、実行するね、橋爪さんの約束事なんです。だからこのマニフェスト、橋爪さんが市長になれへんかったらね、実行でけへんのですよ。もったいないじゃないですか。(そうだ、拍手)

 今ね、マスコミは、大阪市長選挙は自公と民主党の戦いや、と言うてるでしょ?組織票の人等はね、「選挙行け」言わんでも行きますよ。(そうだ)一番ね、大事なのはね、個人票でしょ?個人の票が一番市民の声でしょ?(そうだ)

 市バスにね、選挙は11月18日って書いてあるじゃないですか。地下鉄乗ったらね、選挙、11月18日行きましょうって言うてるでしょ?あれね、組織票の人になんか何にも関係ないですよ。個人の票の人に言うてるんですよ。つまり、橋爪さん、応援してくれてるんでしょ。(そうだ、拍手)。

 何が組織票ですか?今回の大阪市長選挙は、組織票と個人票の戦いなんですよ。(そうだ)絶対負けるわけにはいきません。(がんばれ)

 ここまで言ってね、あれなんですけどね、私、実は大阪市民ちゃうんです。(笑い)でね、大阪市でね、15年くらいね、小っちゃな会社、やってます。だからね、法人税は払ってます。法人税というのは市民税でしょ?立派な市民税やのに、私、選挙権ないんです。私、選挙行きたい。橋爪さんに入れたい、せやけど、選挙権ないんです。こんな悔しいことありません。

 皆さん、大阪市民のみなさん。票、持ってはるでしょ?明日は絶対棄権せんといてください。自分のために働く大阪市長、誰なんや、ちゃんとこの目で見て、今からでも遅くありません。ホームページにマニフェスト、載ってます。ビラにも書いてます。ちゃんと読んで、ちゃんと読んで明日絶対に投票に行ってください。よろしくお願いします。(拍手)



<橋爪紳也さん>

 こんばんわ。橋爪紳也、46歳、大阪市長候補です。「大阪をなんとかせなあかん、もう黙ってられへん」このことばを、市民の皆さまに伝えて参りました。私が市長選挙に出馬するに至った動機は、大阪、今の市長のままではあかん、この怒りが根底にあります。今のままの大阪でいいですか?大阪の元気のなさ、この状態のままでいいですか?変えなければいけません。

 私は心の底から怒っておりました。しかし、どうしたらいいのかわからない。いろんな人と話をしてました。誰か市長選挙、現職の対抗馬として出ないのか?そういう話をいろんな場所でしておりました。そこで言われたのが、「そんなこと言うんったら、お前が出ろ」(笑い、そうだ!)。ホンマに出てしまいました。

 市長選挙、出馬表明をした日、たった一人でした。推薦人の方、十何人、お願いしましたが、誰も選挙の専門家はいず、思いあまって、橋爪紳也、飛び出た、それを支えてくれました。それから私の市長選挙が始まりました。真の市民派として選挙をする、それはどういうものなのか、全くわからないままに、ここまで闘って参りました。

 ある時、スタッフの一人が教えてくれました。市民派の市長選挙は、候補者の思いを周りの人間に伝えることから始まる。周りの人間を本気にすれば、その人たちがまた多くの人に伝えてくれる、この熱の伝導、熱を伝えていくことで、選挙戦を戦うのが市民派の市長選、そう教わりました。(拍手)

 これまでの選挙、私は常識として、組織があって、そこで担ぎ上げられた候補者が市長とか議員になる、それが当たり前と思っていました。しかし、違う選挙の仕方がある。違う市民の熱の伝え方がある。今回、私は身を持って知りました。

 「大阪をなんとかせなあかん。もう黙ってられへん。」私の思い、皆さんに伝わっているでしょうか?(伝わってるぞー)。今のままの大阪市でいいわけがありません。今の市長でいいわけがありません。(そうだ)市民の皆さま、大阪市を変えましょう。(変えよう!)大阪市役所、変えましょう(変えよう!)、大阪市長を変えましょう。(変えよう!)

 大阪を変えるためには、市民の力が必要です。みなさんの思いが必要です。

 声を出してください。声をあげてください。「大阪をなんとかせなアカン」。「もう黙ってられへん」皆さまの声を集めることで、大阪市を変えることができます(そうだ!拍手)

 明日 11月18日、大阪を変えましょう。市民の思いを伝えて大阪を変えましょう。今晩8時まで、市長選挙、活動ができます。皆様の思い、まだ明日の朝まであります。ぜひとも、皆さんの思い、まわりの人たちに伝えてください。橋爪紳也の思い、まわりの友人、知り合いに訴えてください。明日大阪を変えます。(拍手)市民の皆さまが大阪を変えます。市民の皆さまが大阪市長を変えます。大阪を変えるのは、市民の皆様です。(そうだ!)

 市民の皆さま、大阪市なんとかしてくれ、そういう話ではありません。市民のみなさま一人ひとりが、大阪の将来のために何ができるのか、それを考えてください。まずできることは、明日大阪市長選挙、投票所に足を運んでいただいて、橋爪紳也、46歳、私に一票いただくこと、ここから大阪市が変わります。ぜひとも明日、私に皆さまの思い、伝えてください。よろしくお願いします。ありがとうございます。



<生駒伸夫さん(生駒時計店)>

 千日前の皆さん、こんばんわ。私はこの大阪、北浜で商売を続けて、会社は130年ほどになります。私はこの大阪で仕事をして30年になります。橋爪さんと初めて知り合ったのは、うちの会社は非常に古い、古い建物で、もうボロボロになって、どうやっていくんだ、と。親父らとは、建て替えてもう貸すしかないんちゃうか、と。そんな苦労をしてきた、昭和の終わり、平成の初め。突然、覗きに来てくださって、「ええ建物やから、大事にせえよ」そんなことを言うてくださったのが橋爪先生でした。大事にせえよ、という人がだんだん増えてきて、それで大事にせなあかん、そう思って、なんとか今まで保ってきました。

 一方で、中央公会堂は、市が、本当に100億円を超えるような予算で、ずいぶんきれいになりました。公共のものは確かに税金できれいにしていくべきだと思います。本当に、使い手があるいい建物になっていると思います。でも、民間のものは、民間の工夫で何とか大事にしていきたい、そんな中でも一番相談に乗ってくれたのが、この橋爪さんでした。

 そして今回、私は橋爪先生が立候補されるというのは、新聞のニュースで見て、びっくりしたほうです。そして今、ボランティアとご紹介いただきましたけれども、私はボランティアでも何でもない、何もお手伝いしていない、ただ、橋爪先生のこの「黙ってられへん」という声に引きずられて、「何かしゃべってよ」と言われたら、僕かて黙ってられへんのです。

 この、橋爪先生の「黙ってられへん」という思いが、普通の一人ひとりの中で、俺も黙ってられへん、僕も黙ってられへん、私も黙ってられへん、その声が大阪を変えるんです。大阪って何や、と。確かに、まち、建物、川、いろんなもんがあります。でも大阪っていうのは、大阪のまちの人です。大阪を変えるって言うのは、大阪の僕らが変わるっていうことなんや、と思います。(そうだ!)

 この、橋爪先生の「黙ってられへん」という声、私、ホンマ、カラオケも嫌いで、マイクなんか今、手、震えてますよ。それでもね、それでもここで、声を上げたい、それが、橋爪先生の思いやと思ってます。(拍手)

 ホンマに、70歳の超えた市長。僕はやっぱり日本人ですから、ご高齢の方々、尊敬します。本当にいろんなことをされてきて、ご苦労もあったと思います。確かに、後を継ぐ人がなかったら、最後まで責任取ってもらわなあきません。でも、若い中から、今度は俺らに任せろ、という人が出てきたときには、ちゃんと、引き下がっていただく、譲り渡していただく、それがやっぱりお年をめされた方の、やっぱり役割やと思います。

 若い人、信用してください。そして、逆に若い人、20代、30代以下の人、選挙権のない人も、これから大阪を支えていくのはその世代、みなさんに支えていただかないかん。ただちょっと先に生まれた、ただちょっと後に生まれた。それだけで何にも変わりありません。経験だけです。

 でも、今、この時代に、じゃあ大阪を支えていくのはどの年代や、と言うたら、橋爪先生のこの40代と違うんですか?(そうだ!)

 ホンマに、 70代の人、もうご苦労様だと言いたい。(そうだそうだ!)そして、人から頼まれて、その気なかったけど…そんな人に、やっぱり、やっぱり任せられません。非常にソフトで、ええ人格の方やったとしても、一定の組織に支えられて出てきた人。シロウトやと言うたら、もしなったら、その組織と相談するだけ。橋爪先生はホンマに、40回以上、みなさん方700人以上と、タウンミーティングを繰り返して、バージョンをアップして、このマニフェストを作られました。

 さっきの片桐さんもおっしゃってましたけど、私も、最後の1ページ読んだとき、泣きました。ホンマに、皆さん、これ、パソコン環境にある人、すぐダウンロードできますから、最後の1ページだけでええですから、読んでください。

 そして、明日、大阪変えましょう。せいぜい、よろしくお願いいたします。

2007年11月16日金曜日

ステッカー型評価シート〜選挙事務所×近代建築

 昨日、橋爪紳也事務所を訪ねてきた。選挙戦の終盤を盛り上げていくために、ポスターにステッカーを貼るためだという。私の知り合いの大学院生がそのステッカー貼りの手伝いを行うということもあって、その段取りを確認したいという意図と、あわせてどんな事務所で選挙を戦おうとしているのかを見せていただきに行ってきた。率直な感想は「こういう事務所のスタイルもあるのか」というものであった。

shibakawa.gif 橋爪紳也さんは、言わずと知れた建築史の研究者である。そんな専門的知見を携えて臨んだ選挙戦において、橋爪さんは前線基地を近代建築の名所として名高い「芝川ビル」の1階に置いた。昭和2年(1927年)の竣工というから、ちょうど今年で90歳を迎えたこととなる。南米マヤ・インカの装飾を纏ったビルに合うよう、看板の色などにも配慮がなされているのだが、そこに堂々とオートバイを横付けしてしまったことに、やや萎縮をしてしまう。

hashizumeoffice.gif 先日、興味深い新聞記事があることを教えていただいた。産経新聞による「大阪市長選 事務所で特徴、4候補の戦略」というもので、橋爪事務所は「レトロな雰囲気と候補者のイメージを重ねる戦略も立てた」と記されている。ちなみに私の知り合いの何人かが「等身大のガンダムのフィギュアがある」という話をしていたが、これは明らかに間違いであり、「1/12スケール」の「シャアザク」がある、というのが正しい。ちなみに今回、近くまでのぞき込めばよかったものの、恐らくカラーリングから2001年モデルではなかったかと思われる。

 近代建築、ガンダム、その他万博や遊園地など、橋爪さんの関心領域を取り上げていくと枚挙にいとまがない。しかし、それらの関心に、一貫する柱がある。それは「文化」だ。改めてポスターに貼られたステッカーを見るにつけ、水曜日の「政談演説会」での、はしづめ事務所のスタッフのことばが身にしみてくる。



20071116.jpg




 以下、はしづめ紳也事務所のスタッフが述べたことばを遺しておく。

http://homepage.mac.com/yamaguchihironori/20071114presentation.mp3

 いかに政策本意で候補者を選ぶことが重要かが鮮明に打ち出されていると言えよう。



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 ここにビラの方、配っていただいたやつがあると思うんですけどね、宮崎県の東国原さん、嘉田さんと対比して共通しているのは何か、政党推薦がなかったこと、というふうに書いてありますけども、これは橋爪さんにも共通している。ここで答え「まる1」のところにあるんですけれども、二人とも、政党推薦がなかったことから絶対勝てないと言われていたんですね。僕も嘉田さんのときはホント、選挙スタッフとしてずっと一緒にいたんですけれども、本当ですね、「がんばってねー」「また4年後も出てねー」と言われるんですね、これ。4年後じゃないだろ、今回勝たなきゃしょうがないぞ、と。

 それはですね、橋爪さんも今回、2週間の本当に短い期間の中ですけれども、1週間前と比べてすごく反応がよくなっています。やはり知名度がなかったということで、政党推薦がなかったということで、なかなか浸透していけなかったんですけど、ここに来て、本当に街宣、盛り上がっております。

 ここをですね、皆さん、今日来ていただいた皆さんが、ここからまた拡げていっていただく、と。橋爪さんの、ここ後ろの評価シートですが、比較シートを見ていただいたらわかるんですけども、本当に政策もナンバーワン、そして変なしがらみもない。何より大阪生まれ、大阪育ち、そして大阪の研究をずっとしてきて、これ以上の候補はいない。大阪が待ち望んだ候補だ。橋爪紳也を市長にしなかったらもったいないです。(拍手)ありがとうございます。

 もうそれを皆さん今日、ここに大体900人ぐらい入っていただけていると思うんですが、皆さんですね10人声を掛けていただいたら9000人、その9000人がさらに10人声を掛けたら90000ですよ。いくらでもひっくり返せるんです。新聞の世論調査は当たりません。そんなのを気にせずにですね、この勢いに乗って、最後3日間、橋爪紳也大逆転、橋爪紳也市長の誕生に向けて、皆さん元気出していきましょう。よろしくお願いします。

「上書き保存」型マニフェスト〜橋爪紳也さんの挑戦

マニフェストということばは、この5年のあいだに、爆発的な勢いで世の中に浸透した。語源を辿ってみると、ラテン語に由来するものであるそうだ。ラテン語の「手」を意味する「manus」と「打つ」を意味する「fendere」が、やがてイタリア語「manifesto」になったという。日本語で「手打ち」と言えば、関係の成立(手打ち式)、丁寧に行うこと(手打ちうどん)、落ち度があったものに対して成敗すること(手打ち、あるいは手討ちにいたす)などの意味があるが、あながちそこからはずれていない。

 要するに、マニフェストというのは、何らかの形で整理、まとめ、立場を明らかにすることだ。2003年の公職選挙法の改正も相まって、さらには三重県知事であった北川正恭さんが範とした英国の総選挙の実践から学ぶことを通じて、政党も候補者も、出馬にあたってマニフェストを作成することが当然という状況になった。これまでの公約と異なるのは、広報用のリップサービスではなく、自らが就いた暁にはどのような政策を実現していくのか、目標を掲げて宣言するところにある。そして候補者の動きのみならず、そうした取り組み自体を支援する団体も生まれている。

 例えば「ローカル・マニフェスト推進ネットワーク」(http://www.local-manifesto.jp/network)は、北川正恭さんが代表を務める、マニフェスト作成の支援や評価を行うと同時に、マニフェスト型公開討論会の開催に取り組む団体である。実際、この大阪市長選挙にあたっても、10月27日の13時から、阿倍野区民センターにて公開討論会が開催されている。私もまた、その場に参加させていただいた。これまでの実績をアピールする方、今後の大阪を弁舌さわやかに話す方、独善的な采配が行われることの問題点を指摘する方、など、それぞれの主張の中で、極めて論理的に、マニフェストを説明しようとした候補に好感が寄せられた。それは橋爪紳也さんだ。

 事実、今回大阪市長選に立候補した橋爪紳也さんのマニフェストは、その原語的な意味としての「手打ち」に相当するものだ。その象徴は、出馬表明に続いて発表されたマニフェストが、市民との対話の機会を積極的に設けることにより、公示日までに2回の「バージョンアップ」を図ったことである。私が名付けるところ「上書き保存形式」でのマニフェストの作成、発表、更新は、全国初の取り組みだという。こうした対話の有り様に大いなる感銘を受けた人は少ないはずもなく、それが11月14日の橋爪紳也さんに関する「政談演説会」もなされているので、以下、私の師である秋田光彦さんの演説を紹介させていただきたい。



 なお、

http://homepage.mac.com/yamaguchihironori/20071114akitamitsuhiko.mp3



で、現場での演説の様子を伺い知ることができる。



 また、橋爪紳也さんのマニフェストは、



<トップページ>

http://www.hashizumeshinya.net



<バージョン0.9:2007.9.27>

http://www.hashizumeshinya.net/pdf/manifesto_ver09.pdf

<バージョン0.95:2007.10.18>

http://www.hashizumeshinya.net/pdf/manifesto_ver095.pdf

<バージョン1.0:2007.10.25>

http://www.hashizumeshinya.net/pdf/manifesto_ver1.pdf



と、その変遷を辿ることができる。



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 私の出身であります上町台地には、大阪の古いものがたくさんございます。大阪城があって、四天王寺があって、お寺や長屋の街並みがあります。

 そういったものを、単なる古ぼけた文化資源ではなくて、現代の都市には必要なものなんだと初めて見抜いたのは橋爪紳也さんです。どこかで忘れられてしまったような、まちの中の取り残されたそういう文化が、実はこれからの大阪の一番魅力になる、大阪の創造性の源なんや、大阪の元気の素なんや、と、はっきりと断言したのが橋爪さんです。

 不思議に思いませんか?人間はね、路地を歩くとね、なぜかこう、楽しくなります。水辺を歩けば気持ちがやさしくなる。長屋に暮らせば、人に親切になります。寺町に行ったら、なんとなく大らかになります。そういう昔から引き継がれてきた、そういう生活の中に根付いたものの中にこそ、人間の本当の豊かさが、生活が、暮らしがある。

 それはどういうことかと言うと、橋爪さんがそもそも私たち市民一人ひとりに対して、非常に大きな生活者としての尊敬を持っている、リスペクトを持っていらっしゃるからです。そういう考え方の要因と言いますか、そういう考え方っていうのは、別に勉強して身に付くものじゃないんですよ。私、かねがねずっと不思議だったんですが、橋爪さんの生い立ちを聞いて「ああ、なるほど」と納得しました。

 よくご承知のように橋爪さんは、旧南区の島之内、建築塗装業の息子さんでいらっしゃいます。昭和35年生まれ。当時はね、たくさんの住み込みの職人さんがいらっしゃったそうですよ。家族だけではなくって、いろんな、たぶん職人さんのヘンコな人もいっぱいいたと思うんですが、そういうたくさんの、様々な人の中に揉まれながら育っていった。つまり、人間にはいろんな人がいるんや、人間にはいろんな多様性があるんや、ということを、ご自分の生い立ちの中で体得していただいた。

 と同時にね、塗装という仕事は技ですよ。職人は技です。技術というものを親方からお弟子さんへ引き継いでいく。技というのは人から人へ伝えなくては滅んでしまうんです。あるいは、伝えていくたびに、新しく、こう、技術を革新していかないと、また滅んでいくわけです。そういう、古いものをただ丸ごと保護の対象にしてしまうのではなくって、それを磨きながら、書き換えながら、新しい時代に届けていこうとする姿勢こそ、橋爪紳也さんの人間に対するまなざし、あるいは私たちのまち大阪に対する一貫した橋爪さんの姿勢だと、私は思います。

 これまで、ご承知のように橋爪さんは大阪の数々のまちなみに関わってこられました。水辺であったり、船場であったり、堀江であったり、法善寺横町であったり、上町台地であったり、まちの中に根付いてきたものを、引き継がれてきたものを、あるいはその暮らしや生活の中にある技みたいなものを、次の世代へ、次の世代へと、意識して伝えてきてくださいました。

 今橋爪さんが言っている文化産業も同じですよ。アートとか、コミュニティ・ビジネスとか、デザインとか、社会起業とか、そういったものを全部、人の働き方や活かし方にいちばんやさしい技とはいったい何なんだろうということを、彼は私たちにメッセージしようとしているわけです。

 橋爪さんはそういう丁寧な視線、人間に一番近い視線で、大阪をずっと見つめてきてくださいました。私はそういう橋爪さんを、心から信頼していますし、そういう人こそ、大阪のこれからの本当のリーダーにふさわしいと思っているんです。

 この、さっきから話題に出てますマニフェストを読んで、私は感動しました。こんな心強い、心のこもった挑戦者の呼びかけを今まで聞いたことがない。と同時にね、これを読んで、「あ、われわれはやらなあかんねん」市民に対する橋爪さんの敬意、リスペクトをひしひしと感じながら、私たちもまた、この大阪のまちを良くしていくために立ち上がらなあかんねん、ということを、つくづくとこのマニフェストを読ませてもらって感じた次第です。

 皆さん、私が言っていることがもし、本当にそうやと思った方は、これから一つひとつ、問いかけしていきますから、ぜひ「そうだ!」と声を掛けてもらいたいと思います。いいですか?

 私たちは、ようやく対等にわたりあえる、語り合える、向き合える市長候補を得ました。どうですか?「そうだ!」

 政党や組織に寄りかかるのではなくって、本当の真のリーダーとして向き合える人と出会った。どうですか?「そうだ!」

 これからの大阪の希望を語り合うことのできる人と出会った。どうですか?「そうだ!」

 次の世代へ、若者や子どもたちにも、大阪の夢を届けることのできる人に、私たちは出会った。どうですか?「そうだ!」

 どうか、18日の投票日まで、みんなの力で橋爪さんを応援しましょう。そして、家族のみんなや、学校のみんなや、職場の、そして私たちのまちの友達や、みんなに橋爪紳也の名を届けて、立派な市長として、私たち全員応援していきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。

2007年11月15日木曜日

「大阪をなんとかせなあかん。もう黙ってられへん」

 久しく、間が空いた投稿になってしまった。間の抜けた、というのはこういうことを言うのかも知れない。お調子者で、口八丁。ことば遊びが得意ということは、結局物事の本質に接近する深みから理解を遠ざけてしまうこともある。

 しかし、口八丁だけでなく、手八丁でもあると開き直り、ここに敬愛する人が発したメッセージを紹介させていただきたい。2007年11月14日20時17分、大阪市中央公会堂、大会議室で行われた「政談演説会」において、10分7秒にわたり、一切の原稿を見ることなく、900人程度が集った市民を前に、述べた物語である。ややもすると、この物語は、よい意味での都市伝説となって、長らく語り継がれるかもしれない。少なくとも私はそれを切に願い、ここに文字化し、遺しておきたい。



 なお、



を確認いただければ、以下のメッセージを臨場感を持って追体験できるだろう。



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 今日は皆さんと私、思いを一つにしていただきたい。私は、「大阪をなんとかせなあかん、もう黙ってられへん」、大阪人としての誇りを回復するために、今回、市長選挙、立候補いたしました。

 私の父親は戦後、三重県から大阪へ出てきました。ペンキ職人で、親方について修行いたしました。大阪に行けば仕事がある。なんとかがんばって働ける。働けば希望が希望がかなえることができる。そういう思いを持って、私の父親は大阪で働きました。

 昔大阪は日本中から憧れのまちだったはずです。大阪に行けばチャンスがある。がんばった人は報われる。そういうまちでした。

 私の父親は本当に正直な人で、口べたで、営業力なかったんですが、だけど多くの人から信頼をしていただき、商売を大きくできました。私は本当に職人のせがれとして誇りを持っております。

 私もこの身体の中に職人の血が流れております。正直で嘘をつかず、仕事をコツコツとやる。多くの人のためにがんばって仕事をする。これが私の信条であります。

 しかし、この数年間大阪は、どうもそういう昔のような憧れの対象になっていない。閉塞感があります。5年後10年後、本当に元気な大阪、私たち、希望の持てる大阪になっているでしょうか?

 ここ数年間、悪いニュースばっかり耳にいたします。経済では大企業の本社がどんどん東京に逃げてしまう。産業は名古屋の方が元気であり、大阪は元気がない。東京に行くたびに「大阪、元気がないなぁ」「そうですわ」、そんな話ばっかり続く数年間でした。大阪は今後、どう変わっていくのか?そんなビジョンをリーダーが示してくれていません。

 一方で大阪市役所、問題だらけ、不祥事だらけです。市職員の厚遇問題、様々な不祥事。大阪市の財政赤字、5兆円にも上ります。5兆円と言ってもピンと来ませんが、毎日500万円づつ支払ったとして、3000年もかかる。理解不能なんですね。この20年ぐらいのあいだに、大阪市、なんでそんな借金?すべて市民の税金ですよ。税金をもとに無駄遣い、いつしてきたんですか?誰も説明してくれません。

 責任を取る、情報公開する、そんなことが全然できてない。第三セクターも合わすと、市の負債、7兆円になります。市民一人あたり270万円を超える。これ、夕張市と変わらないんですね。大阪市、財政破綻寸前。大阪破産寸前。新聞にはそう書いてます。だけど、私たち市民は危機感、全然ないんです。まさかこの大きな大阪が夕張みたいにつぶれるわけがない。そう思ってきました。しかし関市長の改革路線、市役所職員の厚遇を叩き斬るのはいいんですが、市民サービスもどんどん悪くなってきている。これはまさに夕張と同じになるかもしれないんですね。

 ここでなんとか変えなければいけない。しかし変わらない。なぜかと言うと、今まで大阪市役所は44年間、市役所の中で、助役が市長になってきました。役人が次の市長を作る。この繰り返しの中で、誰も責任を取らない、市民にちゃんと説明をしない、そういう市長が順番に出てきたんです。ここを変えなければいけません。(そうだ!)

 私、橋爪紳也、全く組織や団体、政党とはしがらみがありません。しがらみがないからこそ、出来る仕事があります。全国をご覧ください。政党や組織、団体としがらみのない、市民派の市長が、市民派の知事が、地域を変えた、そんな事例がどんどん続いています。

 宮崎県、東国原知事が宮崎の観光・物産、全国にPRいたしました。滋賀県では私の先輩、環境学の専門家である女性知事が、嘉田さんが、新幹線の駅の工事を止め、ダムの工事を止め、税金の無駄づかいを止めました。

 市民派だから、市民派の知事、市民派の市長だから、出来る仕事があります。(そうだ!+拍手)次は大阪市の番です。大阪市からも市民派の市長を立てなければ、大阪は根本的に変わりません。(拍手)

 私が真の市民派として、大阪の将来、変えて参ります。子どもたちの世代に、ツケを遺しません。財政赤字、見事に切り抜けてみせます。大阪の元気のもう一度回復して、日本中、世界中に大阪をPR致します。(そうだ!)税金の無駄遣い、絶対にさせません。(拍手)

 市民の皆さんは、もっと怒りを持たなあかん。大阪市、何してるんや、思わなあかん。変えなあかんのです。大阪市を変えるのは市民一人ひとり、皆さんの力なんですね。

 選挙は一日で変わります。政治は一晩で変わることができる。滋賀県、宮崎県、一日で変わりました。(そうだ!)次は大阪市の番です。(拍手)

 11月18日は大阪、日本中から注目されます。市民派の私が市長になって、大阪を見事に変える。それが日本中に情報として伝わる。大阪が変わる日なんです。

 ぜひとも、皆さん、私の思い、多くの人に伝えてください。大阪を何とかせなあかん。「大阪をなんとかせなかん。もう黙ってられへん。」声を上げていただきたい。

 他の候補者、ご覧下さい。70歳の現職市長に10年後、20年後、大阪を語る力はありません。彼は全然夢を語っていない。(そうや!拍手)なおかつ、市長は、関さんはしがらみがありすぎる。しょっちゅう言うことが変わる。(そうだ!)地下鉄の民営化でも、何度変わったかわからへん。(そのとおり!)そんな市長に任せていっていいんですか?いいわけないでしょ。(そうだ!拍手)

 民主党の平松候補は、政党から頼まれて立候補したと、記者会見でのうのうと仰った。大阪市長は頼まれてなるようなもんですか?そんなはずはないです。(拍手)しかも自らシロウトやと仰った。シロウトを市長にしてどうするんですか?(拍手)大阪、全国から笑いもんですよ。記者会見でシロウトって言う市長を選んでいいんですか?

 私はまちづくりの専門家としてやってきました。これまでの仕事、大学の職を投げ売って、人生全てかけて、大阪のために、この身、捧げるつもりで覚悟を決めました。(拍手)ありがとうございます。

 後ろ向きの改革ばかりしている70歳の市長に任すわけにはいかない。シロウトのアナウンサーに大阪を託すわけにはいかない。大阪のために「いのち」を捧げる男でないと、大阪市長が務まるはずがない!(拍手)

 政党から立った市長は、政党のために仕事をします。組織、団体、後ろに背負った市長は、組織、団体のために仕事をいたします。私は、一切のしがらみがございません。市民の中から見事に立ちました。市民に向かって、市民のために、人生かけて仕事をする、当たり前のことです。(拍手)

 ぜひとも皆さん、11月18日、大阪市長選挙の投票日、日本中に大阪市の人は変わった、意識は変わった。大阪市民は大阪をあきらめてない。これまでの組織、団体ばかりの選挙ではなくて、無党派層、浮動層が、大阪を変えた。そういうメッセージを日本中に示したい。ぜひとも皆さん、ここに、会場に集まっていただいた皆さん、知り合いの方、100人、200人、声をかけてください。500人の輪が5000人になり、50000人になり、そして20万になる、そうすれば大阪は変わるんです。

 ぜひとも11月18日。残り3日間、選挙戦がございます。私は市民派らしく、ここにいる愛する妻と、(拍手)ボランティアのみんなと、大阪市内、この広い大阪市内、端から端まで駆け抜けて、声を掛けて、市民の方と共に、声を出して、選挙戦、戦い抜いて参ります。皆さんもぜひとも大阪をあきらめないでください。(拍手)

 「大阪をなんとかせなあかん。もう黙ってられへん」。この言葉を、あと3日間、声が嗄れるまで、血を吐くまで、叫び続けて参ります。ぜひとも皆さまも、このメッセージ、大阪市民の全ての人にお届けください。よろしくお願いします。(拍手)

2007年2月16日金曜日

新世紀エヴァンゲリオン

 大学時代に「はまった」アニメーションがある。これはアニメーションに限ったことではないが、私は何かに「はまる」と、その世界を自分の語りで再構成したくなる。例えば登場していた台詞の暗記、例えば登場していた人物の物真似、例えば登場していた物品の購入などである。飲み会の席はもとより、多くの場で「スクール★ウォーズ」の台詞を繰り返したり、学校の先生の仕草やことばを真似てみたり、テレビで見たことのある物品を携行している、そうした私を知る人は多いのではないだろうか?

 そんな私が大学時代にはまったアニメーションは「新世紀エヴァンゲリオン」であった。それも4回生の頃だ。既にテレビ放送は終わっており、LD(レーザーディスク)等が発売されていた。そのビデオを、地球温暖化防止京都会議(国連気候変動枠組み条約第三回締約国会議:COP3)のために動いていたNGO「気候フォーラム'97」で共に事務局員として働いていた方に紹介され、一気にはまったのである。

 はまったのには理由がある。というのも、当時の私は、1995年にドイツのボンにて開催されたCOP1にて決定してた「COP3で地球温暖化防止のための議定書を策定する」という当初目的が達成されるよう気候フォーラムで働きつつ、その内容を立命館大学理工学部の卒業論文にまとめ、さらには翌年度から開始する財団法人大学コンソーシアム京都のインターンシップ・プログラム「NPOネットワークシステム」コースの基本的な枠組みの検討にあたっていたためである。なぜそれではまるのか?そこが鍵である。

 はまったの理由は、主人公「碇シンジ」がつぶやく「逃げちゃダメだ」というセリフが、ズシンと音を立てて自分に響いたためである。実は今日はそのことを久しぶりに思い返したのだ。なぜなら、国際ボランティア学会第8回大会の準備を、その「新世紀エヴァンゲリオン」が嫌いだけど見てはまった経験のある方とともに進めたためである。「逃げちゃダメだ」というセリフを無言でつぶやきつつ、しかしその準備作業の労をねぎらうためにお寿司屋さんに行くという暴挙に出て、飲酒の上に満腹のお寿司を食したために、当面この「逃げちゃダメだ」というセリフをつぶやきつつ、仕事の回復運転に当たらねばならなさそうだ。





新世紀エヴァンゲリオン

volume 1 使途、襲来

我々は何を創ろうとしているのか?:連続アニメーション『新世紀 エヴァンゲリオン』が、スタートする前に




4年間逃げ出したまま、ただ死んでいないだけだった自分が、ただひとつ

『逃げちゃダメだ』

の思いから再び始めた作品です。

自分の気分というものをフィルムに定着させてみたい、と感じ、考えた作品です。

それが、無謀で傲慢で困難な行為だとは知っています。

だが、目指したのです。

結果はわかりません。

まだ、自分の中でこの物語は終息していないからです。

シンジ、ミサト、レイがどうなるのか、どこへいくのか、わかりません。

スタッフの思いがどこへいくのか、まだわからないからです。

無責任だとは、感じます。

だがしかし、我々と作品世界のシンクロを目指した以上、当たり前のことなのです。

『それすらも模造である』

というリスクを背負ってでも、今はこの方法論で作るしかないのです。

私たちの『オリジナル』は、その場所にしかないのですから……



(GAINAX, 1995, p.173)



庵野 秀明 (1995) 我々は何を創ろうとしているのか?:連続アニメーション『新世紀 エヴァンゲリオン』が、スタートする前に GAINAX(原作) 新世紀エヴァンゲリオン(1) 角川書店







2007年2月15日木曜日

地域社会に貢献する大学

 最近、本当にいくつかの業務を引き受けすぎている。自覚があるということは相当のことだと思う。なぜそこまでやるのだ、と問われても「ほっとかれへんから」と、インチキ関西弁を使って応えている。阪神・淡路大震災の折に「なぜボランティアをするのか」という多くの人たちの問いに対して早瀬昇さんがそう応えているのだが、この挿話はまた、私自身が震災時も、またその後も人と関わり、地域社会と関わっていくことを説明する論理となっている。

 ちなみに、今日は、現在引き受けている「いくつか」のうち、第9回日本アートマネジメント学会運営委員会が應典院で開催された。私は第9回日本アートマネジメント学会運営委員会事務局長に着任している。既に今、第8回国際ボランティア学会実行委員長と第9回日本NPO学会運営委員とあわせると、3つの学会の委員をさせていただいている。ややくどい物言いになってしまうが「学会」とは「学術会議」のことで、一定の用件で公開された場において、最新の知見を研鑽する機会とする必要があるため、多くの人々の創意工夫のなか、年間1回以上の「研究大会」が実施される。

 いみじくも、最近関わりのある学会の大会は、8回目ないし9回目と、この10年の間に設立されている。そしていずれの学会にも「理論と実践」の両面に重きを置こうという風潮がある。ここに、学問的知見とは、閉じられた世界に完結するものではなく、実践のなかから紡ぎ出され再び実践に還元されてしかるべし、という力学を見て取ることができる。こうして学会の役割も変わってきているのであるから、研究者も、また大学(高等教育機関)の役割も、同時に変化してきていると言ってよい。

 そこで、研究者、また大学に求められるのは、実践の現場において当然とされている習慣や規範に対して注意を払うということだ。大学の常識は世間の非常識、と前職の職場でよく聞いていたので、とりわけ何かに貢献するには、その貢献する先のことがわかっていなければ難しいのではないか、という問いを携えてみることにする。そうすると、自ずと「地域社会に貢献する」には「地域社会のこと」がわかっていないといけないという視点が生まれるし、「会議に貢献」するには「会議のメンバーのこと」がわかっていないといけないということになる。こんなことは常に考えることはないのだが、ちょうど理論と実践の架橋を想定内とする学会の運営委員会において、「会議に対する最大限の貢献をする」という雰囲気(規範)があまり生み出せなかった運営委員長として反省の念を抱いたため、ここにこうした雑記を遺しておきたい。





地域社会に貢献する大学

1 序論(抜粋)




 大学はこれまでも地元地域に対し、経済的、社会的に広範な貢献をしてきたといえるであろう。例えば、職業関連以外の教育、地元企業への研究支援、公開講座、コンサート、博物館や美術館の開放などがそうである。それに対して、現在の現象の特徴はこれらの活動を主要機能である教育や研究と同等であるのみならず、それらと統合された「第三の機能(third role)」として認知するということである。

 地域特有の需要に応えるには明らかに高等教育は新たな資源と新たな指導・経営形態が必要となる。それらにより、大学は地域の顧客が必要とする知識・技術に関するシンクタンク、ならびにそれらの提供者となりうるのである。地域と関わることにより、大学は一部の高等教育政策により生まれつつある「対応性の高い大学」(responsive university)の特性を多くもつことになる。



(OECD, 1999=2005, p.16)







2007年2月14日水曜日

映像コンテンツ産業の政策と経営

 3月10日、特定非営利活動法人大阪アーツアポリア(http://artsaporia.exblog.jp)が企画運営を行うフォーラムにて「聴き手」を務めるため、事前打ち合わせを行うために武田五一設計の「関西電力京都営業所」に訪問してきた。フォーラムのタイトルは「アートで動く、NPOが動く2007」だ。副題にも掲げられているように、「芸術系NPOを支援・育成のための事例紹介と意見交換」の場である。特定非営利活動法人大阪アーツアポリアは應典院寺町倶楽部とともに、本年度より、大阪市・財団法人大阪都市協会による「現代芸術創造事業」を受託している団体である。

 今回私が聴き手としてお話をお伺いするのは、特定非営利活動法人アートポリス大阪協議会(http://www.artpolis-osaka.com)の梅田哲さんである。アートポリス大阪協議会の歴史は1990年にさかのぼる。当時、社団法人大阪青年会議所の感性都市委員会において「アートポリス大阪」構想が発表され、具体的な内容に関する懇談会が大阪と東京に設置、そして懇談会最終報告として「10の提案」が設定されたのである。1994年には現在の名称に変更され、企業人等を中心に、大阪を文化的にも経済的にも展開可能性の高い世界都市にすべく、その後も活動が継続されている。

 なお、今回、大阪アーツアポリアの方がアートポリス大阪協議会の方に事例紹介をお願いしたのは、「名前が似ているから」ということも背景の一つにあったという。同じ特定非営利活動法人(NPO法人)で、少々名前が似ているゆえ、何度か間違えて問い合わせがやってきたとのことだ。それで調べたところ、興味深い活動をしているということがあって、いつかお招きしよう、と考えていたという。それで、今回のフォーラムの趣旨を検討するなかで、最適なゲストのお一人ということになり、さらには共に現代芸術創造事業を展開している應典院寺町倶楽部の事務局長である私が聴き手を務めては、ということで今回の運びとなった。

 ちなみに、私が聴き手を務めることになったのも、意味ある偶然の一致であるような気がした。というのも、私は前職(財団法人大学コンソーシアム京都)にて、経済産業省によるコンテンツ産業活性化関係の事業に従事していたことがあるためである。應典院でも映画関係の事業に取り組んできているが、私が常々不思議に思っているのは、特に映画においては「製作・配給・上映」という三層構造と「観賞」が大きく切り離されているという点がある。そんな関心も寄せつつも、当日はあまりしゃしゃり出ることなく、本来の目的である「聴き手」の立場を全うしたい。





映像コンテンツ産業の政策と経営:行政・NPO・企業の協働型創造システム

第3章 映画・映像コンテンツ産業育成支援(抜粋)




いうまでもなく、アートポリス大阪協議会の活動1つで大阪の映画・映像産業が活性化されるわけではない。加えて、市民が風待ちの受身の姿勢を保ち現状に安住しているようでは、社会が変わる者ではない。成熟化社会を迎えたこの時代に、生活に潤いを与え、社会に刺激を与える芸術・文化に対して、市民は何を自覚し、自ら何に寄与できるのか。筆者はアートポリス活動を通じ、自ら活動することに臆病であった市民と共感することで、市民の持つポテンシャルが世界に向けて開花できるものと確信している。



(梅田, 2006, p.86)



梅田 哲(2006) 映画・映像コンテンツ産業育成支援 山崎・立岡(編) 映像コンテンツ産業の政策と経験 中央経済社 76-89.









2007年2月13日火曜日

世界の中心で、愛をさけぶ

 自他共に認めるながら族だ。テレビは言うに及ばずマンガを見ながら食事、ラジオを見ながら勉強、最近は音楽を聴きながら通勤、などなど「ながら」で形容される習慣を挙げていけばきりがなく、何より博士論文も「ながら」で書いたことは、同時期に同じく「ながら」で執筆していた仲間によく知られた話だ。いつのことか忘れたが、「ながら」で何かをすることに対して集中力があるのか、ないのか、誰かと話し込んだ経験がある。「ながら」でも何かができるということは、結果として集中力があるといういうことだ、と私は主張していた気がする。

 そんな私が今日は「DVDを見ながら作業をする」という暴挙に出た。さすがに、DVDを見ながら仕事をするのか、と思われそうだが、「ながら」ができる背景には集中力がある、という前提を持っている私である。つまり「集中力を高める」ためにはどんな「ながら」の素材がいいのか、その時々の作業に合わせてその素材を慎重に選んでいるつもりである。それなのに、なぜDVD、という疑念ははやり払拭できそうにない。

 ちなみにここで言うDVDとはDVD-Videoのことで、具体的には「世界の中心で愛をさけぶ」の映画版を見ながら作業をした。この映画はベストセラーとなった同名の小説をもとにしたものであるが、忠実に映画化したわけではない。とりわけ、主人公の大人になってからの物語に力が入れられていること、さらにはそのことによって原作には登場しない「律子」という人物が物語の鍵を握るという点に特徴がある。「限定」ということばに弱い私は、以前この映画の「限定BOX」を購入しており、それがたまたま机のそばにあったこと、また特典ディスクを見ていなかったこと、自分自身の甘酸っぱい高校時代を思い出して懐かしむことができること、それに加えて映像もキレイでBGMならぬBGVとして使えそうなこと、などから、「かけっぱなし」で作業を進めた。

 結局、作業ははかどったと思う。既に知っている物語だから、その世界にのめり込みすぎることはない。だからこそ、「何となくそっち」に気をやりつつ、本来なすべきことに大方の集中力が向けられた、そんな風に考えている。ただ、こうした改めて「ながら」と集中力について考えてみると、ながら族において集中力は「ある」か「ないか」の問いは妥当ではなく、それは散漫か否かが問われている問題なのだ、と、勝手に論点をすり替えたくなる、そんなながら族の私だ。



世界の中心で、愛をさけぶ




亜紀:ねぇ、サクの誕生日は11月3日でしょ。

朔太郎:そうだよ。

亜紀:私の誕生日が10月28日だから、サクがこの世に生まれてから私がいなくなったことは1秒だってなかったんだよ。私がいなくなっても、サクの世界は有り続けるわ。

朔太郎:何弱気になってんだよ。しっかりしろよ。

亜紀:サクに怒られるとは思わなかった。

朔太郎:ウルセェ。

(1:44:24〜1:46:00)




重蔵:天国ってのは生き残った人間が発明したもんだ。そこにあの人がいる。いつかまたきっと会える。そう思いてぇんだ。

(1:18:24〜1:18:50)















2007年2月12日月曜日

文化の解釈学

 修士論文の審査をさせていただくと、自分の研究姿勢を見つめ直す機会にも出会える。特に、その研究の新規さや斬新さを見つめていきたいという思いも重なって、審査すべき論文を的確に読み解こうという衝動に駆られる。そうして、絶妙な質問を選び抜き、発表の後にことばを重ねる。その後のやりとりを冷静に評価すれば、学位を授与するに相応しいかは、自ずと明らかになる。

 修士論文の公聴会は「公が聴く」という字を充てることからも明らかなように、公が聴いて、その内容の如何が判断される。ちょうど、NPOに対して「公益」が問われるのと同じ構造かもしれない。実際、特定非営利活動法人は、申請後、2ヶ月間の縦覧期間を経て、認証を受ける法人形態である。つまり、2ヶ月間、公の声が聴かれる環境が提供されているのだ。

 2日連続で開催された公聴会の際、私のゼミを受講していた方から、審査と審査の合間に質問を受けた。内容は、現場の記述の仕方についてであった。というのも、来年、ご自身がその場に立つことを想定して、公聴会の内容を聴いていたのだが、どうも自分が思う研究とは違うように思えてならないのだ、という不安に駆られたためだいう。とりわけ、フィールドワークの方法論についても講義で触れてきたのもあって、こうした不安が先に立って研究が進まなくなってはいかん、と、コーヒーを飲みながら話を深めることにした。

 フィールドワークに関するいくつかの書物を見ると、よく「厚い記述」ということばが紹介されている。これをうまく伝えるために、今回用いた比喩は「ワイドショーのレポーター」と「刑事事件の起訴状」の比較である。ちょうど、映画「それでもボクはやってない」を見たばかりということもあって、それなりにうまく表現できたと思っている。つまり、研究の現場のリアリティを表現するには「淡々と、しかし精密に」すなわちその場の空気を緊迫感を持って伝えていくことが大切なのだ、緊迫感を持って伝えさせていただいたつもりだ。





文化の解釈学 <1>

第1章 厚い記述:文化の解釈学的理論をめざして




 文化が公的なものであるのは意味が公的だからである。まばたきが何であるかを、あるいは、身体的に、いかにまばたきをするかを知らずにはまばたき(またはまばたきのまね)はできないし、また羊を盗むこととは何かを、また実際に羊を盗むにはどうするかを知らないのでは、羊盗み(あるいはそのまね)をすることはできない。しかしこの真実から、まばたきの仕方を知ることはまばたきをすることであり、羊の盗み方を知ることは羊を盗むことだという結論を引きだすのは、厚い記述を薄い記述と受け取り、まばたきをまぶたを閉じることと同一視したり、羊盗みと牧場から羊を追い出すことと同一視することと同じような混乱をきたすことになる。(pp.20-21)



 われわれが記録する(あるいは記録しようと試みる)ものは、生の会話そのものではないので、事情はいっそう微妙である。しかも、きわめて周辺の、あるいは特殊な意味での参加を除けば、われわれは研究対象の社会の中で活動する人間ではない。このために、その会話に直接加わることはなく、ただその会話のごく一部を、われわれのインフォーマントを通じて理解することができるに過ぎない。これはみかけほど致命的ではない。というのは、事実クレタ人はすべて嘘つきであるとはかぎらないし、何かを理解するためにあらゆることを知る必要もないからである。だが、これは、発見した事実の概念的操作として、つまり単なる現実の理論的再構成として人類学的分析を見ることを、むしろ不十分なものに思わせる。意味の対称的結晶が存在する物理的複合性の中から浄化した意味の対称的結晶を明らかにし、その存在を、自己発生的な秩序原理とか、人間精神の普遍的属性とか、または広大な、先験的(アプリオリ)な世界観に帰するようなことは、もともと存在しない科学が科学をよそおうことであり、見出すことができない現実を想定することにほかならない。文化の分析は、意味を推定すること、その推定を評価すること、より優れた推定から説明的な結論を導き出すことであり(あるいは、そうあるべきであり)、普遍の意味の世界を見出すことでも、その形のない風景を描きだすことでもないのである。(pp.34-35)



 民族学的記述には三つの特色があると思われる。まずそれは解釈を行なうということである。次に解釈する対象は社会的対話の流れである。さらに解釈はそういう対話が消滅してしわないうちにその「言われたこと」を救出しようとすることであり、それが読めるようにすることである。(p.35)



 文化理論は厚い記述の与える直接の資料と切り離せないために、その内側の論理によってそれを形成する自由はむしろ限られている。それが到達しようとする一般性は、その微妙な特殊性の中から生まれてくるのであって、大がかりな抽象化に基づくものではない。(p.43)



 主要な理論的貢献は、特定の研究にあるだけではない−−これはたいていどんな学問においてもそうである−−。またそれをこういう研究から抽象し、「文化理論」といえるようなものにまとめることは大変難しい。理論構成はそれが行なう解釈に密着しているために、解釈を離れるとあまり意味がなくなるか、興味も失われてしまう。これは、理論が一般性がないからではなく(一般性がなければ理論的とはいえない)、理論の適用ということを離れては、それはただの常識か、さもなければ空虚なものに思われるからである。民族誌的解釈のある試みに関して作られた一連の理論的接近(アプローチ)を取りあげ、それを別の民族誌的解釈に活用してみることができる。こうしてそれをいっそう正確に、いっそう広い適用に発展させるのである。このように研究は概念的に発展するものである。しかし「文化解釈の一般理論」を書くことはできない。あるいは書けるかも知れないが、それはほとんど役に立たない。というのは、理論構成の基本的課題は、抽象的規則性を取りだすことだけではなく、厚い記述を可能にすることであり、いくつもの事例を通じて一般化することでなく、事例の中で一般化することなのである。(p.44)



 事例の中で一般化することは、普通、医学や深層心理学では臨床推理と呼ばれている。この臨床推理は、一連の(推定上)意味するものから出発して、それを理解できる枠の中においてみようとするのである。測定は理論的予測に即して行なわれるが、症状は(それが捉えられる場合でも)理論的特性にてらして調べる−−つまり診断される。文化の研究では意味するものは症状や症候群ではなく、象徴的行為や象徴的行為群といったものであり、その目的は治療ではなく社会的対話の分析である。しかし理論が、ものごとの隠れた意味を掘りだすために用いられる方法は同じである。(p.45)



ギアーツ(1973=1987)

Geertz, C. 1973 The Interpretation of Cultures : Selected Essays, Basic Books.

吉田 禎吾・柳川 啓一・中牧 弘允・板橋 作美(訳) 1987 文化の解釈学[1]  岩波現代選書3-56.
 











2007年2月11日日曜日

成功するプレゼンテーション

 大学院の教員ということもあって、修士論文の審査は必ずやってくる年中行事の一つである。5年の任期であるから、あと4回、この経験をするのであろう。逆に言うと、この土日は、私にとって初めて、修士論文の審査をする機会なのである。自分自身が修士論文を執筆したのはやや遠い昔のこととなっているが、当時の自分からすればまさか今ごろ逆の立場となっているなどとは思っていなかった。

 修士論文は、博士論文もまた同様に、「公聴会」という場でもって、その内容を発表しなければならない。「公」ということばからも明らかなように、誰もがその場に来ても構わない、という前提があるものの、実際は同級生や後輩が傍聴の中心だ。一方で公聴会それ自体は指導教員(主査)と、2名の審査者(副査)による口頭試問の場でもある。よって、副査として指定された場合には、事前に精読して、一定のコメントとともにいくつかの質問を投げかける必要がある。

 最近は機材の普及もあって、公聴会でもまた、Microsoft社のPowerPointというソフトを用いて、液晶プロジェクターにて画面に投影されたものが発表資料として用いられることが多い。しかし、ここに発表の「罠」があるように思えてならないので、ここで記しておきたい。それは、「公聴会」は、研究発表の場であって、資料説明の場ではない、ということだ。具体的に言うと、「PowerPointをご覧下さい」や「画面のとおりです」という説明では具体的な内容を発表したことにはならないし、「技術不足で表現できませんでした」と言って事実や結果の抽象化に対する関心と実践をおろそかにしているような発表に対しては、学術的知見を紡ぎ出すという研究者の姿勢を疑わざると得ない。

 もちろん、これは公聴会に限ったことではないが、パソコンという道具を使いこなすことができないのであれば、他の道具を使うか、あるいは道具の使いこなしのために精一杯の努力をなすべきだ。昔話になるが、私の修士論文はPowerPointが一般的ではなかった(蛇足だが、私は当時から熱血Macユーザーだったが、Aldus Persuasionというソフトのほうが学術界では優勢だった)上に、液晶プロジェクターも高価であったため、PowerPointで作成したスライドをOHPシートに印刷して、それを用いながら発表をした。そんな昔話を思い出したのは、多くの発表がPowerPointというソフトに引きずられて、肝心の研究発表という前提が崩れてしまっているように思えたのだ。以前、卒業論文の発表を行った後に読んだ書物「NGO運営の基礎知識」にも紹介されていたことであるが、人前で発表を行う上では、PowerPointなどの道具を活用するという伝え方も大事であるものの、やはり重要なのは内容であって、それ以上に伝えたいことが伝わるように「聞き手」に配慮するという人柄であると、強く主張しておきたい。





成功するプレゼンテーション

第一章 プレゼンテーションの基本

二 プレゼンテーションの原則





 「プレゼンテーションを上手にやるにはどうしたらいいでしょうか」と質問をすると、ほとんどの人が「何といっても内容です」と答えます。確かに内容がなければ話になりません。

 さらに「同じ目的で、同じ原稿や資料を用意し、あなたと私とプレゼンテーションを始めた場合、どちらがうまくできるでしょうか」と質問すると、ほとんどの人は「もちろん先生の方がはるかに上手にできます、プレゼンテーションの先生ですから」といいます。ということは、内容が問題ではないということです。同じ内容であっても、上手にできる人もいれば、下手にやってしまう人もいる。したがって、内容以外の要素が重要な決め手になると考えられます。

 では、何が必要なのでしょうか。一つは、「人前で話す技術」つまりデリバリー(伝達)の技術、伝え方の技術です。例えば、上手に視覚化し、メリハリをつけ、説得力ある話し方をする技術が必要となります。

 でも、どんなにいい内容、よい技術を身につけても、お客さんに嫌われてしまっては何にもなりません。クライアントもしくはプレゼンテーションを受ける側から、「なんだ、あいつは。あんなやつの話を二時間も聞くのか」と嫌われてしまっては受け入れてもらうことはできません。したがって、もう一つ、パーソナリティー(人柄)も重要な要素になります。

 つまり、プレゼンテーションにおいては、

  (1)人柄(Personality)

  (2)内容(Program)

  (3)伝え方(Presentation skill)

の三つの「P」が必要になるわけです。



箱田(1991) pp.22-23

(文中の「括弧付き数字」は、原点では「マル囲み装飾数字」だが、引用の際に変更した)







2007年2月10日土曜日

生活防災のすすめ

 インドネシアのジョクジャカルタに出張することになった。京都府によるジョクジャカルタ特別区との「テキスタイル技術協力事業」の推進について、現地を訪問し、調査報告をして欲しい、というものである。当初は2月の予定であったが、先方、王室の都合で延期となっていた。中止やも、という話も出たが、結果として日程変更がなされることとなった。

 10月から、月1回程度集まっているのだが、そこでは西陣織と王室バティックなどのコラボレーションの有り様について語り合っている。研究会という形態を取っており、帯ときものを中心に、ジュエリーやバッグ、アクセサリー等をプロデュースして発信する専門商社の社長さんが委員長で、私は副委員長をさせていただいている。その他、織屋さん、百貨店のバイヤーの方、ウェブ制作等のコンサルティング会社の方、インドネシアからの留学生、そして京都府の職員の方々という構成である。こうした動きに関わらせていただくことになったのも、同志社大学で仕事をさせていただくことになったためである。産官学地域連携に取り組む「リエゾンオフィス」の方からお声掛けをいただいて、プロジェクトに参加させていただくことになった。

 とりわけ、私に課された役割は、国際的な技術交流を行っていく上で、「防災」や「生活者の視点」についてどのように盛り込んでいくべきか、天の邪鬼な視点を持ち込むことだと認識している。というのも、インドネシアは津波の被害に逢っているためである。今回、京都府が積極的に取り組んでいる技術交流は、20年間にわたる友好協定を維持、発展させていく具体策であるのと同時に、より実践的で実効的な復興への支援という目的も重ねられている。ただ、研究会の回を重ねるごとに、「キャッチコピー」や「チラシのデザイン」をする役割も担うこともあり、嫌な思いはしていないまでも、やや便利遣いモードになっていると言えよう。

 今日は10月から数えて5回目の研究会で、3月に開催予定の「試作品展示会」の企画検討が行われた。目玉は、インドネシアの地域資源とも言える「香木」を手がかりにした、お香とバティック織等のコラボレーションだ。匂い袋などが彩りを添えることになるだろう。ちなみに私がこうした取り組みに持ち込んだ「ネタ」は、「防災」と「減災」ということばに見る理論的観点と、展示会にちなんで名付けたプロジェクト名称「てこらぼ」であるので、興味のある方には3月21日から22日、新風館3階のトランスジャンルでの企画に足を運んでご確認いただければ、と思う。





<生活防災>のすすめ:防災心理学研究ノート

1 <生活防災のすすめ>

3.<生活防災>とは何か(抜粋)




 防災が、生活全体の中に他の諸領域とともに混融しているのだとすれば、防災(あるいは、その中の特定の側面)だけを抽出し、その最適化を図ることは現実的ではない。生活まるごとにおける防災、言い換えれば、他の諸領域と引き離さない防災をこそ追求すべきである。本書では、以下、こうした防災のことを、<生活防災>と呼ぶことにしよう。

 実は、<生活防災>は、部分的にではあるが、何人かの先駆者たちによってすでに実践に移され一定の成果を生み出しつつある。そのきっかけとなったのが、空前の都市型災害となった阪神・淡路大震災(1995年)である。この未曾有の大震災によって、<最適化防災>(のみ)に依存することの危険性がはっきりと露呈したのである。すなわち、地震予知、建造物の耐震化、ライフラインの整備、情報伝達システムの強化−どれも非常に大切なことではあるが、いずれも単体としては明らかに力不足であった。そして、より重要な事実として、多くの人が、たとえ将来、それぞれの側面が単体として<最適化>されたとしてもけっして十分ではないだろうという直感を得た。むしろ、震災の重要な教訓として得られたのは「コミュニティの重要性」、「助け合いの必要性」、「普段の意識、準備の大切さ」といった、ある意味でとらえどころのない茫洋とした事項群であった。これらこそ、生活全体の中に浸透・混融した防災、すなわち、<生活防災>が目指すところにほかならない。



矢守(2005) pp.3-5





2007年2月9日金曜日

アーツ・マネジメント

 「大阪でアーツカウンシルをつくる会」にコアメンバーとして関わっている。大阪市の文化政策をよりよいものにしよう、という市民側の動きである。アーツカウンシルというのは自治体が設置するものであるから、われわれがいくら「つくりたい」と思っても、われわれだけでつくることはできない。だからこそ、アーツカウンシルが「できる」ために、「つくる会」ができた。

 アーツカウンシルは、アーツ・マネジメントを実践する上で欠かせない存在である。放送大学のテキスト「アーツ・マネジメント」によれば、アーツ・マネジメントとは、「ジャンルが複数にわたる」芸術そのものに対して、「家元制度的な日本型マネジメントと異なる」かたちの「合理的でより民主的と見なされている欧米型の管理」をしていくこととされている。ちなみに放送大学は多くの人々の高等教育への修学機会を広く提供することを目的としているのだから、テキストもまた、比較的平明に書かれているという特徴がある。英語名「University of Air」から紐解く字義的な意味(空気が所有する大学)も壮大であるが、その実践は着実なものであると言えよう。

 アーツカウンシルによって支援される対象となるアーティストならびにその作品や活動そのものから見てみれば、別に支援などいらない、と思われるかもしれない。しかし、地域の社会的、文化的な発展を考えれば、自治体はアーツを支援する必要がある。アーティストの自発的な意欲、アーティスト組織の内発的な努力に依存するだけでは、創作活動の拠点は常に流動的となってしまうためである。創作活動の拠点が流動的となる、ということは、常に「お客さん」を迎えつづけなければならない、ということになるのだが、お客さんを招き入れる上での戦略や戦術、またお客さんに対する基本的な考え方がなければ、お客さんもまた、居心地が悪く、早々にその場を去ってしまうことになろう。

 今回、「つくる会」で議論をしているのは、アーティスト支援組織が、自治体の政策とうまく共鳴し、地域の魅力を高めていくことが狙いである。だからこそ「大阪で」ということばが付与されている。大阪の文化として吉本、阪神、たこ焼、この3つが前に出てくることが多いものの、それだけが大阪の文化ではない。芸術や美術と言うと少し距離が出てきそうだがアートというと少し身近になりそうなこと、例えば詩や映像やダンスや演劇や映画、そうした媒体が生活にもたらす彩りや潤いを実感してもらいたい、少なくとも私はそうした願い携えて、この活動に関わっている。

 本日、21時過ぎから5人で行った「つくる会」の打合せは、突き出しに「揚げパスタ」が出てくる、ちょっと小粋なバーで行った。それぞれ共通の宿題をやってくることになっていたために、その「答え合わせ」から始めた。思いが共鳴しあうのか、驚異的なスピードで打合せは終了した。次の日程調整も、お店を出た後の立ち話で決まった。このフットワークの軽さが、うまく「大阪」に、つまり大阪府、大阪市にも伝播していくといいのだが…。





アーツ・マネジメント

2 アーツ・マネジメント史(抜粋)




 近代的アート制度は、アーティスト・アーティスト組織、彼らを援助する人々・組織・制度からなる。後者は、さらに直接的にサポートする人々とからなる。直接的に援助をするのは、個人的なパトロンやアーツカウンシル(文化評議会)や芸術NPOなどの組織であり、間接的にサポートするのは、批評家や芸術機関などの評価者、そして、美術・音楽・演劇などを鑑賞する鑑賞者などである。アートは、自由な自己表現に基づく産物であり、本質的に、近代的な資本主義経済−−勤勉な競争原理に基づく価値創出活動−−とも、なじみにくい性質を持つ。しかしその一方で、社会が成熟していくにつれて、人々が求めるものが、自己表現であり、自己実現であり、その究極の活動の一つが芸術活動でもある。近代社会の発展につれて、この一見矛盾する二つのプロセスが、一つの社会の中で同時に進行してきたのである。その結果、アーティストの数が大幅に増え、そのアートを観賞する人々の数も増大した。しかも、その一方で、アーティストやアーティスト集団を支える人々とその組織や制度が機能分化し、発展してきたのである。また、アーティストと鑑賞者を媒介する組織や制度も洗練・細分化してきた。



川崎・佐々木・河島(2002) p.22

《川崎 賢一 2002 アーツマネジメント史 川崎・佐々木・河島(2002)  pp.21-31》







2007年2月8日木曜日

京都発NPO最前線

 「朝食会とか、パワーランチとか、好きやもんな。」朝、9時半過ぎ、京都駅の地下街で擦れ違った元同僚のことばはそう言った。まだ、服飾店等のシャッターは空いていない地下街を、彼は銀行の振り込み確認に出かけているところだ、という。一方で私は、きょうとNPOセンターの事務局長であり常務理事(時々、ここに綴っている友人であり同志のひとり)と朝食会の店を探していた。

 朝食会やパワーランチなど、食事を取りながら会合をすることをまわりに提案するようになったのは、2002年の米国研修以降だ。2002年の10月、ほぼ1ヶ月間を、私は東京のNPOサポートセンターを通じ、アメリカ合衆国国務省の招聘で、International Visitor ProgramのMulti Regional Projectの日本代表として、NPOマネジメントに関して学ばせていただいた。8日から31日のハロウィンまで、ワシントンD.C.に始まってクリーブランド(オハイオ州)、ダラス(テキサス州)、シアトル(カリフォルニア州)、そしてニューヨーク(ニューヨーク州)と5都市を、17ヶ国から参加した19人とともに周遊した。そこで学んだ習慣が朝食会であり、パワーランチであった。

 言うまでもなく、すべての会議が朝食会とパワーランチで占められるわけではない。感覚的には、聴くことだけではなく話すことをも重視するときに、朝食会やパワーランチという形態が採られていたような気がした。だからこそ、誰かから聴くことだけを目的にしない会議の場合は、食事を取りながら行うことを提案するようにしている。もちろん、「ながら」族となることを嫌がる人もいることは承知をしているので、相手を見て提案することを忘れてはならない。

 きょうとNPOセンターの常務理事との朝食会は、ホテルグランヴィア京都がを常としている。しかし、今日は遅めのスタートとなったために、別の場所を探さざるを得なかったのだ。ともあれ、お互い忙しい身で、あえて朝食会をしているのは「思いついたらその後に動くことができる」上、「夜に同じ時間を掛けるよりも圧倒的に低コストである」という点も見逃せない。何より、素敵な料理とともに雰囲気を変えて議論をすることで、日常の繁忙さを客観的に見つめなおすことができること、友人であり同志が言う、この「優雅な時間」の心地よさに、月1回程度、浸っている。





京都発NPO最前線:自立と共生の街へ

ボランティアに愛はいらない(抜粋)




 ボランティアは社会的な活動なのです。愛とか善意とかいう精神主義的な言葉では特徴づけない方がいいのです。「愛は地球を救う」というキャンペーンのテレビ番組がありますが、あれも要するに「お金は地球を救う」ということに他ならないのです。「同情するなら金をくれ」という身も蓋もない真実がそこにあります。もちろん、愛情もお金も必要でしょうが、愛情こもったお金というのはややうさん臭いと思いませんか。自由に使えないのですから。

 ボランティア活動はつながりという言葉でとらえることのできる関係を表現しています。手紙や電話と一緒で、情報発信すればするほど受け取る情報量が多くなります。孤独にある人は発信量が少ないので、受け取る情報量も少なく、悪循環に陥るのです。

 つまり、自己開示です。悩みを相談し、プライバシーを打ち明け、救いを求めれば求めるほどアドバイスは多く入ります。自分の弱さを見せるということですね。弱くなった分だけ他人からエネルギーを注いでもらうことができるのです。もちろん、弱くなるには勇気がいります。弱くなることで結びつくという人間関係の作用があります。他人に依存する力とも言い換えることができます。依存することで自立するのです。弱くなることで強くなるのです。ボランティアされるにも力量が求められるということです。



きょうとNPOセンター・京都新聞社会福祉事業団(編)(2000) p.211

《中村 正 2000 ボランティアのすすめ:ボランティアとNPO きょうとNPOセンター・京都新聞社会福祉事業団(編) pp.183-221》







2007年2月7日水曜日

パブリック・アクセスを学ぶ人のために

 「京都三条ラジオカフェ(FM 79.7MHz)」というコミュニティFMの番組審議委員をさせていただいている。コミュニティFMというと、自治体がお金を出して放送している放送局、と思われがちなのだが、この放送局は違う。放送局の免許を有しているのは「特定非営利活動法人京都コミュニティ放送」という組織だ。そう、この放送局は全国で初めてのNPO立FM局なのである。

 全ての放送局は「電波法」の制約を受ける。したがって、NPOがやっていようが、自治体が出資した放送局であろうが、番組審議会なる第三者機関を設けなければならない。上京区に居を構える私は、きょうとNPOセンターの立場からこのFM局の設立に携わったことも重なって、開局間もなく、番組審議委員に就かせていただいた。概ね月1回程度、審議会を行い、そしてその内容を「番組審議会レポート」なる番組として放送することで、「公共の(空間を飛ぶ)電波」を流している側の責任を果たす、という原理原則に立っての取り組みである。

 ちょうど、テレビ局による事実の「捏造」や「歪曲」が問題となっているが、そこにスポンサーが無関係ではない。NPO立の放送局である「京都三条ラジオカフェ」は、広告主という意味でのスポンサーによって支えられるという考えを持たず、多くの人が「協力」しあって、市民のメディアを共有するという立場を取っている。コンセプトは「お小遣いで番組ができる」放送局である。京都市内中心部しか聴取範囲ではないものの、500円あれば、1分間、自分のメッセージが電波に乗って飛んでいくのだ。

 通常、FMラジオはマスメディアとされているものの、こうした市民メディアとしてのFM局は、伝える側と伝えられる側、さらにはそれらを支える側やそもそも環境をつくる側、それぞれの関係構築が絶妙である必要がある。私はこのことについて、「listener(リスナー:聴く側)」重視を謳った放送局側の論理から脱却し、「listenee(リスニー:聴かれる側)」の自覚と責任に基づいた良識ある放送の実現である、と述べたことがある。別の言い方をすれば「伝える」こと(行為)よりも「伝わる」こと(成果)、また「伝えている」こと(内容)こそが大切だ、ということだ。そんなことを思いながら、「歩いて暮らせるまち」と謳っている三条通を抜けていくと、アイドリングストップをしているオートバイに出会ったのだが、ここにも、何気ないメッセージの発信があるように思え、市民の立場で物事に取り組む意味を見つめ直した一日であった。





パブリック・アクセスを学ぶ人のために

日本NPO初の放送局運営(抜粋)




 一九九二年にはじまったコミュニティFMの制度では、資本金や施設をもたないNPOによる運営に前例がない。法人としてのNPOを認証する特定非営利活動促進法は、阪神淡路大震災を契機に誕生した法律である。(中略)

 京都コミュニティ放送では運営はNPO(京都コミュニティ放送)、営業は株式会社(京都三条ラジオカフェ)の二本立てにしているのでやっていけそうだと、きょうとNPOセンター理事でもある中村正理事長は放送免許交付に期待を寄せる。また財政基盤をつくるため「公共空間としての放送局を支えませんか」と会員やサポーターを募集し、最低五、〇〇〇万円程度をめざして資金募集をしている。心配される放送設備だが次世代企業のベンチャーオフィスが集積し、技術的なバックボーンのある京都リサーチパークの応援を得る。ラジオカフェから電話回線でそこに音声を送り、電波を出す(後略)。



津田・平塚(編)(2002) p.309

《松浦 さと子 2002 パブリック・アクセスにおけるNPOの役割 津田 正夫・平塚 千尋(編)pp.291-312》







<新版>





2007年2月6日火曜日

モバイル書斎の遊戯術

 知る人ぞ知るモノフェチである。何かを尋ねられれば型番で応えることも少なくない。ちなみにモノフェチとコレクターは違う、という主張を持っている。私はコレクターではなくモノフェチであって、「ただ集める」のではなく「納得のいくモノを使う」という立場を貫いているつもりだ。

 そんななかで今日届いた「Bluetooth」機器はいただけなかった。Bluetoothとは最近、特に普及し始めた無線通信技術であり、赤外線のように通信距離や遮蔽物の制約を受けにくい上に、通信速度が比較的早く、消費電力も低い部類に入ることから、モバイル機器で導入されつつある。私のMacも、携帯電話も、また通信用に所持しているPHSも、いずれもBluetoothに対応している。そうした中で新たに導入したのが「iPod」をBluetoothで聞くことができるようになる機材と、その機材のレシーバーとなる上に携帯電話のハンズフリーをも実現するという機材のセットであった。

 何がいただけなかったかと言うと、「音質が悪い」のである。というのも、私が今使っているヘッドホンは、昨年得度して僧侶になった折、友人であり同志から贈られた「BOSE」社の「Quiet Comfort 2」という逸品である。そのため、「ウソがウソと出てしまう」のだ。明らかにBluetoothを介さないほうが音がよいのだ。この失敗に至った要因は商品選びの際の「スペック偏重」以外の何者でもなく、そのために実物を触って試すことなく購入してしまったインターネットショッピングの落とし穴にはまってしまったのである。

 (理)工学部で学んでいた頃、ものづくりとは「美・用・強」を満たさねばならないと教わった。美しく、人に用いられ、そして強い、という3原則である。これに習って言えば、ただ単に機能満載では用いられない。何より「美しさ」をもっと追求すればよかったと、今一度型番に目をやりつつ、新たなモノ探しの旅に出るのであった。



モバイル書斎の遊戯術

鞄の中から『QV-10』と『リブレット』が消えた日(抜粋)




 ところがまた問題発生。撮った画像を外へ出しようがないことに気づいたのだ。画像転送のためには専用のソフトが必要だし、しかもウィンドウズ・マシンしか転送先に選べない(マックも忘れるなよな)。そこでIBMの『ThinkPad530CS』があることを思い出し、転送ソフトを買いましたです。ところが、げーっ、だ。『ThinkPad530CS』は256色マシンゆえ、『カラーザウルス』のデジタル写真を転送すると減色してしまうんだって。赤外線通信もうまくいかず、あれこれやっているうちにIBMマシンの「ウィンドウズ95」が死んでしまった。

「デジタル携帯電話」経由で自分宛にデジタル写真をインターネット・メールとして送信することも考えたが、気が遠くなるほど通信料がかかるので断念。『リブレット20』用に買ってあった2万8800bpsのカードモデムを使っての有線送信を試みたが、今度は『カラーザウルス』お嬢ちゃん、モデムカードを全然認識せず。脳味噌ドロドロだわ。

 それでも懲りず『カラーザウルス』で使えると風の便りで聞いたモデムカードを買ったのだが、これまたインターネット接続できず! 私はこうしてこの1か月、怪しいキャッチバーで「ミニスカートを脱ぐなら3万円」「ブラジャーとるなら6万円」「パンティーとるなら10万円よ」……と、じゃかすかじゃかすか財布の中身を吸い上げられるような状態を続けているのであります。



山根(1999)p.79 <初出:DIME/1996.12.19>







2007年2月5日月曜日

字のない葉書

 文字通り、再会とは再び会うことである。得意の「和英辞典的思考法」に基づけば「reunion」ということばもまた、文字通りの意味を表す。ことばとは不思議だ。もちろん、meet(see) again、という表現もあるように、同じことを伝えようと思っても他のことばもあるし、場合によっては同じことばで複数の意味を持つこともある。

 今日は複数の意味の再会が果たされた日であった。一つは、大学時代の友人との再会であった。新潟に暮らす友人が、お寺に尋ねてきてくれた。別用で関西に来てくれたためであったが、懐かしさに花を咲かせながら、将来に実らせたい果実に思いを馳せる機会となった。

 また、夕方に迫る午後に出かけたアート系のワークショップでは、思わず多くの「用事がある人たち」にお会いした。ワークショップの内容は、貸切の路面電車のなかで即興で演奏を行うという現代音楽の取り組みであった。多様な切り口で楽しむことができるそうした場に集まって来られる方々もまた多様である。思わぬところで「そうそう、今度のあれですが…」と、簡単なすりあわせが出来た。

 これは今日の出来事ではないが、先日届いたアメリカからのメールも、思わぬ再会の場となった。返信をするなかで思い出したのは、以前、小学校の教科書に載っていたエッセイであった。時間と空間を置いても、ふと思い出すことができるそうした心地よさ、それこそが生きている実感ではないか、などと、いい意味での感傷的な思いにふけった自分を実感した。年度末に近づきつつも、あと11ヵ月遺った今年、どれだけの、そしてどんな再会に巡り会えるか、楽しみである。



眠る盃

字のない葉書(抜粋)




 終戦の年の四月、小学校一年の末の妹が甲府に学童疎開をすることになった。すでに前の年の秋、同じ小学校に通っていた上の妹は疎開をしていたが、下の妹はあまりに幼なく不憫だというので、両親が手離さなかったのである。ところが三月十日の東京大空襲で、家こそ焼け残ったものの命からがらの目に逢い、このまま一家全滅するよりは、と心を決めたらしい。

 妹の出発が決まると、暗幕を垂らした暗い電灯の下で、母は当時貴重品になっていたキャラコで肌着を縫って名札をつけ、父はおびただしい葉書に几帳面な筆で自分宛の宛名を書いた。

「元気な日にはマルを書いて、毎日一枚づつポストに入れなさい」

 と言ってきかせた。妹は、まだ字が書けなかった。

 宛名だけ書かれた嵩高な葉書の束をリュックサックに入れ、雑炊用のドンブリを抱えて、妹は遠足にでもゆくようにはしゃいで出掛けて行った。

 一週間ほどで、初めての葉書が着いた。紙いっぱいはみ出すほどの、威勢のいい赤鉛筆の大マルである。付添っていった人のはなしでは、地元婦人会が赤飯やボタ餅を振舞って歓迎して下さったとかで、南瓜の茎まで食べていた東京に較べれば大マルに違いなかった。

 ところが、次の日からマルは急激に小さくなっていった。情ない黒鉛筆の小マルはついにバツに変った。その頃、少し離れた所に疎開していた上の妹が、下の妹に逢いに行った。

 下の妹は、校舎の壁に寄りかかって梅干の種子をしゃぶっていたが、妹の姿を見ると種子をペッと吐き出して泣いたそうな。

 間もなくバツの葉書もこなくなった。三月目に母が迎えに行った時、百日咳を患っていた妹は、虱だらけの頭で三畳の布団部屋に寝かされていたという。



向田(1979) p.43:<初出:家庭画報/1976.7>



<単行本>





<文庫版>





2007年2月4日日曜日

まんがゼミナール

 節分の今日、同志社大学にて「缶詰」となっていた。たまりにたまった、もろもろの作業を処理するためである。とりわけ、大阪ガスのエネルギー・文化研究所(CEL)(http://www.osakagas.co.jp/cel/)の委託研究、そして24日から25日の国際ボランティア学会第8回大会について、まとまった時間を取る必要があった。そもそも、インターネットがつながらないところで仕事をすれば、嫌でも「創造」に時間を費やすことになるのだが、調べものも入るために、大学の研究室に身を置くことにした。

 お昼は学食で取ることにした。節分にあわせて「恵方巻」を売っていた。バレンタインデーにはチョコレート、という風習と同じようなものだ、と、関西発祥の文化をバカにしていたこともあったが、やはりこうやって選択肢の一つとして毎年目に触れるようになると、自ずと手が伸びてしまう。今年の恵方は北北西と記されていたものの、切れていない太巻寿司として、普通に(つまり、息継ぎもせず無酸素運動で一気に食べ上げることはせずに)食させていただいた。

 昼食は現在大阪ガスCELの研究のチームに入ってもらっている京都大学の大学院生と共にした。午前に研究室にやってきて、夜まで一緒に「缶詰」をしている。一人ではだれてしまいそうなところを「相互監視下」に置こう、という具合である。したがって私は目下修士論文に追われている彼から、隣から「これって、どうなんでしょう?」と問われる。そこで、いくつかの資料を使いながら「こうちゃうか?」と、事実を整理する新しい発想を投げかける役目を負った。

 研究室には比較的多くの書物があるが、今日、最も役に立ったのは「藤子・F・不二雄」先生のまんが入門講座の書物であった。実に、論文執筆に、またフィールドワークのまとめに、合点がいく「知恵」が盛り込まれていたためだ。とりわけ、「話作りの名人になるためには!?」(pp.98-102)に示された、(1)誇張して考える方法<「オーバーオーバー」(ドラえもん13巻)>、(2)逆転してみる方法<ドラえもんでは「あべこべクリーム」(ドラえもん1巻・大長編5巻)>、(3)比喩(たとえ。ほかにたとえること)を使ってみる方法<「魔界大冒険」の美夜子さん(大長編5巻)>、(4)願望をアイディアに生かす方法<「ジャイアンシチュー(味のもとのもと)」(ドラえもん13巻)>、(5)批判精神をアイディアに生かす方法<「どくさいスイッチ」(ドラえもん15巻)>、などは、まさにガーゲンが「生成力ある理論」と綴っている内容に重なるものだ。そんな書物を薦めた後、「これって、文献リストに挙げるべきですか」と問われた質問に「洒落のわかる人ならね」と曖昧な返事をしてしまい、とんだゼミナールとなってしまった。





藤子不二雄(F)まんがゼミナール

第6章 シナリオを作ろう(物語発想法) (抜粋)




 「まんが」を「映画」にたとえれば、きみはまずシナリオライターであり、次に監督でもあるのです。シナリオにしたがって登場人物を決める。この役にはこの男、この役にはこの女……、というように、主役から端役にいたるまで、きみが配役(キャスティングといいます)するわけです。さて、この俳優(キャスト)たちが、どんな名演技を見せてくれるかは、すべてきみの腕ひとつにかかっているのです。

 それでは、いったい名演技とはなんでしょうか。一言でいえば、役の性格や感情を、いかにもそれらしく、態度で表現するということなのです。

 たとえば、幸せな人をかくことにしましょう。いくらセリフで「ボカァ幸せだなあ」といわせてみても、その喜びの度合は、なかなか伝わるものではありません。十円玉を拾ったくらいなら、かすかにほほえむ程度でも、百円、千円と、その額が上がっていけば、笑顔プラス上半身のアクション、さらにバンザイしてとび上がるほどの表現になってくるはずです。百万円ともなれば、うれしなみだやらヨダレやら、なんともだらしのないことになってしまうかもしれません。もっとも、人によっては、フンとマユ一つ動かさずに、おもむろに、ポケットにつっこむやつがいるかもしれません。こうして、性格描写の問題もからめて、シナリオをどう読みとり、どう演技させるか(演技プランといいます)の判断をするのは、シナリオライターでもあり監督でもある、きみの役目ということになります。

 正確な感情表現をするためには、ふだんからの観察が大事です。どんな気持ちの時、自分は(または他人は)どんなしぐさをするかを考えてみましょう。反対に、どんなしぐさは、どんな気分を表しているのかを考えるのも一案です。



藤子(1988) pp.94-95





2007年2月3日土曜日

事例で読む現代集合住宅のデザイン

 来客の多い一日だった。朝は釈徹宗先生とお連れ合い、そして「Hideyuki Fund」(http://www014.upp.so-net.ne.jp/hideyuki/)の岡本純子さんが来られた。その後、台湾から寺院と建築関係の視察団、27名が應典院を見学された。続いてお昼を過ぎて、大阪府立現代美術センターの「第4回アートカレイドスコープ」の公募作家が、プロデューサーである北川フラムさんと、センターの職員の方々と共に打合せに来られた。

 それぞれに、有意義なお話をさせていただき、自分自身の社会の向き合い方に対して考えさせられた。朝一番のお話では、特に高齢の末期ガンの患者さんに対するホスピス活動と、小児の場合とでは、スピリチュアルケアはどう違うのか、または同じなのか、「いのち」の尊さについて深く考える機会となった。台湾の視察団の皆さんとのあいだでは、文化の違いを超えて、「なるほど」と感じていただく説明をどこまでなすべきか、逆に台湾における仏教の「今」をきちんと学んでおかねば、という衝動に駆られた。そして午後の打合せでは、作家と、作家が生み出す作品と、その環境を支援するスタッフの役割について、作品制作を受け入れる側のスタッフワークも含めて、よりよい形を模索していかねば、という決意を固めた。

 そんななか、無生物のお客、具体的には「新しい電話機」がやってきた。やや、招かざる客とは言えないが、招きたくないという思いもある。それは「Windows mobile」というOSで動作するものであるからだ。いみじくも先般、Apple社から「iPhone」なる携帯電話が発表されたことも重なって、根っからのMacユーザーとしては「やや招きたくない客」と感じてしまう。

 パソコンのソフトにも、建築設計を意味する「アーキテクチャ(Architecture)」ということばが充てられる。私がWindows(あるいはMicrosoft)が嫌いなのは、このソフトの建築設計が実に美しくないのである。住み心地の悪い家には誰も住みたくはないはずだが、長年住んでいると住みごたえが出てくることもある。しかし、もともとの設計が悪いところに住み続けるのは「住み応え」ではなく「住み堪え」だ。実はそれでも、これまで使ってきたモトローラ社のM1000よりも数段に利便性は高そうなことはわかってきたので、これから生活のリズムとインテリアコーディネート等々で納得のいく住まいの実現に取り組んでいくことにしよう。



事例で読む現代集合住宅のデザイン

古くて新しいテーマ「生活から建築を考える」(抜粋)





 言うまでもなく、「生活から建築を考える」には古いも新しいもない。常に設計計画の基本にある理念の一つである。しかし、今日、この理念をもう一度訴えなければならない状況がみられる。その理由は、生活を軽んじているということではない。そうではなく、一見、生活を重視しているようでいて、「生活から建築を考える」という本質から離れた状況が目立つからである。



日本建築学会住宅小委員会(編)(2004) p.109







2007年2月2日金曜日

大阪学

 映画「それでもボクはやってない」を見に行ってきた。難波に出来た「TOHOシネマズ」で、である。たまたま1日ということもあって、物凄い人であった。昨年の映画興行収入は、1985年以来、21年ぶりに外国映画を上回ったというニュースもあるように、映画産業の盛り上がりは、「コンテンツビジネスブーム」との相乗効果で、活気づいていると言えよう。

 今回の映画は、「Shall we ダンス?」などで知られる周防正之監督の最新作だ。先般、「発掘!あるある大事典2」の放送休止(打ち切り発表直前)の折、「スタメン」なる番組が番組時間を繰り上げて放映された。その際にゲストで出演された監督の話も興味深かった。そもそも、実際にあった痴漢冤罪事件を映画にしよう、と取材を重ねたところ、思わぬところに興味が惹かれていったという。

 監督の興味は、痴漢冤罪の背景にある刑事事件の問題点であったという。検事の取り調べに至るまでの調書への「誘導」、また検事における起訴への思い、さらには裁判官と「国家」との関係、などなど、枚挙にいとまがない。さらに監督の関心は、裁判の「傍聴マニア」にも向けられていた。有罪率99.9%とも言われる裏側を垣間見た気がする。

 そんななか、周防監督による「リアリティ」の追求には驚かされた。キャスト、カメラワークはもとより、冤罪という「犯罪被害者への着目による被害者」への取材を重ねてきたなかで明らかになった構造的暴力を明らかにした構成力は極めて秀逸だ。言うまでもなく、痴漢は犯罪である。そのことをつとに考えさせられたのは、実は周防監督の映画よりもずっと以前、関西圏のなかでも大阪のみに掲出された「チカン、アカン」と記されたポスターであったりする。



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大阪学

文庫のためのやや長い目のあとがき(抜粋)



 九五年のことだが、阪神淡路大震災のテレビ・ニュースを見ていた。震源地の北淡町長が、「さア、こんな時は冗談を言うて大笑いせなあかん」と言うている。家が全壊したおばさんがマイクの前で、「家はないけど、元気はありまっせ」と話している。傾いたビルのオーナーが、「これは自信過剰やったわ」と地震と自信をからませて洒落をとばしている。仮設住宅の抽選に外れたおじさんがマイクを突きつけられて、「地震に当たって仮設に当たらん」と口走る。避難所に見舞いに来た村山首相に、おばさんが「来るだけやったらあかんでエ」と浴びせる。こんな光景は、ほかではあまり見られないだろう。この復興は当初考えていたよりも早いだろうと、私はテレビの前で思った。



大谷(1997) pp.216-217



<文庫版>





<ハードカバー(上記あとがきは掲載なし)>





2007年2月1日木曜日

芸術創造拠点と自治体文化政策

 大阪に「アーツカウンシル」をつくろう、という動きに関わっている。具体的には、先般1月11日に提出された「大阪市の創造都市戦略における芸術文化の果たす役割の再考を願う嘆願書」の発起人として参加した。最終的に22団体、68名、計90組が名乗りを上げた「嘆願書」は、「芸術文化評議会」という名称で、アーツカウンシルの設立を提案する。ここで「アーツカウンシル」とは、「行政からはある程度の距離を保ち芸術文化表現の独立性を保ちつつ、官民恊働で施策を検討・実施していく機関」(同、嘆願書より)とされている。

 「アーツカウンシル」の設立を呼びかけた嘆願書は、佐々木雅幸さん(大阪市立大学社会人大学院創造都市研究科教授)、平田オリザさん(大阪大学コミュケーションデザイン・センター特任教授)、原久子さん(大阪電気通信大学教授)の3名によって市長に手渡された。そもそも、なぜこうした嘆願書が提出されるに至ったかというと、現在大阪市は「経営企画室」が窓口となって「創造都市戦略」と題した市政改革方針の策定を進めているためである。最近「パブリックコメント」なる制度が各方面で投入されているため、この「創造都市戦略」も「大阪市電子申請」というウェブページから意見を伝えることができた。が、それでは伝えきれないと思いがある、ということで、私の知り合いたちが草案をつくり、結果として「嘆願書」としての提出に至るのであった。

 今年度より大阪の文化政策に関わってきているが、この間、いくつか感じること、思うこと、考えることがある。率直に、しかしやや抽象的に、「配慮の過不足」があると表現をしておこう。とりわけ「過」な部分は自治体内に、一方で「不足」は現場に、という方向がありそうだ。もちろん、大阪市の「現代芸術創造事業」を受託しているので、自治体文化政策に直接触れている身としては、最大限に現場の意向を汲み取っていただき、事業の執行や予算の獲得にあたっていただいていることも触れておかねばなるまい。

 魅力的な都市というのは、人々が集い、そこにそれぞれの思いが弾け、多くの人の息づかいが都市の躍動感となって昇華しているのではないか。少なくとも應典院のキャッチコピー、「人が、集まる」「いのち、弾ける」「呼吸する、お寺」というのは、地域資源としてお寺が果たす役割を自戒していることを伝えることばであると言えよう。そうしたお寺で働いているのもあって、本日、「嘆願書」提出の報告会と、嘆願書の提出名義である「大阪市の『創造都市戦略』における芸術文化の果たす役割の再考を願う市民の会」の解散式、そして「大阪にアーツカウンシルをつくる会」の設立に向けた意見交換に参加してきた。何より、こうした動きをつくっていこう、という人たちとの話が、もっとも創造的な場である、と、最終の京阪電車の特急列車に乗りながら思うのであった。





芸術創造拠点と自治体文化政策:京都芸術センターの試み

第1章 芸術創造と自治体の役割(抜粋)




 「文化」は、受け継がれる文化としての「生活文化」と、芸術・学術・技術の文化や非日常文化、未来を切り開く文化(社会を創る文化)であるところの「創出文化」に分かれていて、芸術は「創出文化」領域のなかのほんの一部を占めるものに過ぎない。筆者は「日常的な生活文化」の先端部分として「非日常的な芸術文化」があると考えている。どちらも大切なものだが、「生活文化」と「創出文化」(芸術)は、政策を論議するうえで、混同してはならない。

 筆者が本論で題材とする「文化政策」とは、狭義の芸術政策のことである。生活文化の隆盛、発展はもとより期待するところだが、自治体が公金を投入して政策を展開する以上、マーケットが形成された生活文化よりも、市場が形成されていない芸術への支援が大切であると考えているからだ。

 人々の会話や行政職員のなかでも、芸術と文化が混乱しているケースが多々みられる。今後は、「芸術文化」と呼ぶ場合は非日常文化である芸術を強調し、「文化芸術」もしくは「芸術・文化」と呼ぶ場合は「文化と芸術と」と並列して考え、日常文化+非日常文化の総称として理解していいのではないか。

 しかし、芸術文化と生活文化を分断することを主張している訳ではない。芸術文化と日常文化が互いに作用しあうべきである、と考えている。



松本(2006) pp.14-15







2007年1月30日火曜日

デザインのデザイン

 無印良品が好きだ。大好きだ。無印、と言いながら確固たるブランドとなっているところが、実におしゃれである。時に、カバンの中身の大半と、全身の服(下着を含む)が無印良品の製品となることもある。ユニクロは否定するが、無印良品は肯定する、この背景には、無印良品を貫く思想に共感するためだ。

 無印良品というブランドは、私にとって究極のコラボレーションのお手本である。なぜなら、自分たちが掲げた思想に合う商品や企画があれば、それを「無印良品化」して、自らのブランドの中に取り込んでいるからだ。例えば、文房具にしても、自社開発のもの以外に、既に他社から発売されているものの色を変え、型番やブランド名を印刷せずに販売することがある。その他の無印良品の商品と並べて違和感のないものが、次々に無印良品の世界に取り込まれていくのだ。

 私が関わっている内蒙古での沙漠緑化活動に無印良品の宣伝販促室の方(当時)来られたのも、改めて無印良品のブランド力に触れる機会となった。上司の指示であったと仰っていたが、「何か」が「そこ」にあると思って、文字通り「愚直」に、しかし「穏やか」かつ「奥ゆかしく」、多くの人のことばや、自らが触れる異文化に、関心を向けていたことが印象的だった。ちなみに、その出会いがご縁で、大学コンソーシアム京都での勤務の折、担当していた「コミュニティ・ビジネス&サービス講座」での企画商品(入浴剤使用可能シャワーヘッド、など)を、学生たちがプレゼンテーションさせていただいたこともあった。さらに言えば、内蒙古で宴席を重ねていくうちに、「いつかウチ(良品計画:無印良品を扱う会社の法人名)で働いてみませんか?」というリップサービスをいただいたこともあるのだが、もしも機会があるならぜひ、と本気で思ったのであった。

 以前ワークショップに参加して改めて敬服した深澤直人さんをはじめ、サム・ヘクトやジャスパー・モリソンなど、世界で活躍するデザイナーを起用し始めたのも、私がさらに無印良品に興味を持たせる背景となった。無論、インハウス(社内)のデザイナーの、自社ブランドへのこだわりや貢献も見逃すことができない。何より、そうした多くの発想について調和を取り、一つのブランドを維持しているところに、NGO・NPOにおける問題解決能力向上のための知恵があふれているように思う。無知な人をただ取り込んでいくのではなく、関心のある人を巻き込みつつも関心のない人が関心を持つように光を充てていくこと、そうした啓蒙型から啓発型の問題解決の提案と実践に、NGO・NPOの実践家も学ぶべきところは多いだろう、と、これまた昨日の読書会で議論の遡上に上げたところである。





デザインのデザイン

第4章 なにもないがすべてがある(抜粋)




 無印良品が目指す商品のレベル、あるいは商品に対する顧客の満足度のレベルはどの程度のものなのだろうか。少なくとも、突出した個性や特定の美意識を主張するブランドではない。「これがいい」「これじゃなきゃいけない」というような強い嗜好性を誘発するような存在であってはいけない。幾多のブランドがそういう方向性を目指すのであれば、無印良品は逆の方向を目指すべきである。すなわち、「これがいい」ではなく「これでいい」という程度の満足感をユーザーに与えること。「が」ではなく「で」なのだ。しかしながら「で」にもレベルがある。無印良品の場合はこの「で」のレベルをできるだけ高い水準に掲げることが目標である。

 「が」は個人の意志をはっきりさせる態度が潔い。お昼に何が食べたいかと問われて「うどんでいいです」と答えるよりも「うどんがいいです」と答えた方が気持ちがいいし、うどんに対しても失礼がない。同じことは洋服の趣味や音楽の嗜好、生活スタイルなどについても言える。嗜好を明確に示す態度は「個性」という価値観とともにいつしか必要以上に尊ばれるようになった。自由とは「が」に近接している価値観かもしれない。しかしそれを認める一方で、「が」は時として執着を含み、エゴイズムを生み、不協和音を発生させることを指摘したい。結局のところ人類は「が」で走ってきて行き詰まっているのではないか。消費社会も個別文化も「が」で走ってきて世界の壁に突きあたっている。そういう意味で、僕らは今日「で」の中に働いている「抑制」や「譲歩」、そして「一歩引いた理性」を評価すべきである。「で」は「が」よりも一歩高度な自由の携帯ではないだろうか。「で」の中にはあきらめや小さな不満足が含まれてるかもしれないが、「で」のレベルを上げるということは、この諦めや小さな不満足をすっきりと取りはらうことである。そういう「で」の次元を創造し、明晰で自身に満ちた「これでいい」を実現すること、それが無印良品のヴィジョンである。

 無印良品が手にしている価値観は、今後の世界全体にとっても非常に有益な価値観でもある。それは一言で言うと「世界合理価値=WORLD RATIONAL VALUE」とでもいうべきもので、極めて理性的な観点に立った資源の生かしかたや、ものの使い方に対する哲学である。



原(2003) pp.108-109







オランダ 寛容の国の改革と模索

 研究者の「お作法」が正しいかどうかは、実に些細な表現から読み解くことができる。「お作法」というと、ふざけた言い方と思われるかもしれない。ここで「お作法」ということばを用いたのは、研究を進めていく上での「流儀」を押さえているか否かを判別できる要素がある、と言えるためである。もちろん、研究者に対して骨董品を評定するかのように真贋の判別をつけることは妥当ではないが、一方で生きた研究者の物事、出来事に向き合う姿勢は積極的に問われてしかるべしであろう。

 どこに「お作法」が出るかと言えば、少なくとも私は引用文献と語尾から読み解くことができると感じている。引用文献は、古典を押さえつつ最新の情報を押さえているか、という点に姿勢が反映する。もっと細かく言えば「どこかで参考にする」のではなく「きちんと引用する」ことができているか、つまり「何となく読みました」ではなく「ここが先達から引き継ぐべき知見である」という意志が見られるかどうか、も問われてよい。加えて言うと「ジャーナル」とも呼ばれている学術雑誌、すなわち書籍だけでなく論文からも引用しているかどうかも、学会ならぬ「学界」の動向に関心を抱いているかを判断する根拠と言えよう。

 とりわけ、研究者の執筆する文章に求められるべき要素として「断定」することが必要であると考えている。文系か理系かを問わずに、研究の成果は「結論」によって次なる研究へと継承されていく。結論があるということは、研究の上で問うてきたこと(Research Question)があり、その問いを明らかにするために進めてきた調査のなかで何らかの結果があり、その結果を先行研究に照らし合わせることを通して吟味(考察)し、今回は明らかにならなかった点(課題)を述べ、次の方向(展望)が示されねばならない。したがって、自ずと「結論」は「〜と思われる」といった「私語り」ではなく、制度や状況など無生物な主語を用いるなどして「没人称化」した言説のなかで、「〜だ」や「〜である」と断定する形となる。

 大学進学率が50%へ近づき「大学全入時代」と呼ばれる今、大学院進学率が10%を越え「大学院大衆時代」を迎えている。研究型大学院と専門職大学院と、大学院の性格も「学位」の出し方で区別がなされているものの、社会に向き合い、世界を「研ぎ」「究める」人々には、ある程度の資質が問われてよい。ちなみに今、私は同志社大学大学院総合政策科学研究科で2006年春季より開講されている「臨床まちづくり学」なる講義の担当しているのだが、その受講生とともに、月1回の頻度で読書会を開催している。ここに綴った文章は、本日開催された読書会で取り上げた書物(すなわち、標題に掲げた「オランダ」)を読んだところ、「論理的」(つまり、logical)と表現すべき部分に「理論的」(つまり、theoretical)と表現されていた部分に違和感を覚えた理由を参加者に対して説明した中身をまとめたものであることを記しておく。





オランダ 寛容の国の改革と模索

第1章 究極の合理主義者のとらわれない改革(抜粋)




 麻薬はなぜ悪いのか。この答えはじつは単純ではない。「常識」としては、「体に悪い、だから法で禁止し、違法行為だから犯罪として取り締まる」。しかし、これには異論が出されている。大麻などはタバコよりも直接的な害も中毒性も低い、と。もちろん、まったく無害とする見解はないようだが、タバコのほうがより有害だという認識は優勢のようだ。現在タバコを違法にしている国はないと思われるが、タバコが合法なら、大麻は合法としてもよいというのが、「理論的」な帰結かもしれない。実際、大麻の個人使用を事実上取り締まりからはずした国は、オランダ、ベルギー、デンマーク、ドイツ、スペイン、フランス、イタリア、ポルトガル、イギリス、スイスなど、ヨーロッパでは多数派になっている。

 しかし、オランダがドラッグを健康上の害が比較的低いソフトドラッグと害の大きなハードドラッグ(コカイン、覚醒剤など)とに分け、前者の少量個人使用を事実上合法化したことは、たんなる「害」の問題ではなかった。決定的だったのは、「HIV/エイズ」である。



太田・見原(2006) pp.37-38







2007年1月28日日曜日

活動理論と教育実践の創造

 「いしかわ地域づくり円陣2006」では、うまく話せた部分と話せなかった部分との両極があった。うまく話せなかった部分の殆どは午後の分科会だった。一方で、うまく話せた部分は夕方の全体会だった。いくつかの肩書きを持ち、話をする顔もいくつかあるなかで、基本的には現場の人間だという思いがある。しかし、今回は「実践家モード」よりも「研究者モード」が際だってしまったような気がしてならない。

 伝えたいことを伝えるには、いくつかの方法がある。繰り返し述べているとおりに、比喩はその一つだ。社会心理学に対して痛烈な問題提起を行ったガーゲンの書物によれば、比喩(メタファー)の使用は人々に対して「視覚代理物(visual substitution)」となり、既成の常識的展開を除去するという。そんなこともあって、博士論文では「長縄跳び」をメタファーに用い、ネットワーク組織とまちづくりについて論じた。

 今回の話で採った方法は「和英辞典と英和辞典の連続使用」と「韻を踏んだキーワードセットの提示」であった。前者は全体会で用い、具体的には「交流」を「exchange」に置き換え、さらには「exchange」を「交換」に置き換えるという具合で話を展開した。もう少し文脈に触れるならば、「交流」というのはex(外)に向かって何かをchangeする(変える)ことである、と考えてみると、それは何らかの価値を外にいる誰かと交換することになるのではないか、という問題提起を行ったのだ。さらにその後で「その際の価値の交換は不等価交換であり、お互いに恩返しをし続けることに弛み無き交流が続いていく」と、モースの「贈与論」でも紹介された「ポトラッチ」という実践を引き合いに出しながら語ってみた。

 ちなみに今回用いた「ツール・ルール・ロール」というキーワードセットの提示は、ユーリア・エンゲストロームによる「活動理論」の援用である。この「活動理論」は明快な理論ではあるが、都合良く、手際よく引用できる日本語の解説本は少ない。そこで、私なりに「道具」を「ツール」に、「分業」を役割分担という観点から「ロール」に置き換え、キーワードとなるもう一つのことば「ルール」ということばの語感に合わせて、よい活動を行うために必要なもの、と説明をした。無論、ある行為の結果をよりよい成果として結実するためには、主体と対象を支えるコミュニティの存在は欠かせないが、そのために必要な考え方は何か、という考え方の道具として、この理論を用いて現場の知を説明し、ちょっと上手く説明できたのでは、とほくそ笑んで見るのであった。





活動理論と教育実践の創造:拡張的学習へ

第4章 文化歴史的活動理論の原理と方法論

2 協働の仕事や組織の概念的分析道具としての集団的活動システムのモデル(抜粋)





 集団的活動システムのモデルとその諸要素はエンゲストローム自身によって次のように説明されている。



 ここでの主体は、特定の観点によってどの行為主体を選ぶのかに応じて、個人あるいはサブグループを指し示す…。対象は、ここでは「なまの素材」あるいは「問題空間」を指し示す。活動はそれらに向けられるのであり、またそれらは成果へとモデル化され転換されるのである。そのことを助けるのが物質的あるいはシンボリックな、外的あるいは内的な、ツール(媒介の働きをする道具や記号)である。ここでのコミュニティは、多様な諸個人、あるいはサブグループから成る。それらは一般に同じ対象を分かち合っている。ここでの分業は、コミュニティのメンバーのあいだで課題を水平的に分かつことと、権力や地位を垂直的に分かつことの両方を指し示している。最後にルールは、明示的あるいは暗黙的な統制、規範、慣習を指し示している。それらは活動システムの内部で、行為や相互作用を制約している。活動システムの構成要素のあいだでは、不断の構築が進んでいる。人間は、道具を使うだけでなく、それを不断に後進し発達させもするのであり、それは意識的なこともあれば無意識的なこともある。彼らはルールに従うだけでなく、それをつくったり、つくり直したりもするのである。(Engestrom, 1993, p.67)



 このような「集団的活動システム」は、活動理論の分析単位であり、人びとのさまざまな組織や仕事の現場(workplace)を分析するための概念的モデルとして役立つものである。





山住(2004) pp.84-85









能登はいらんかいね

 ありがたいことに、年間を通して多くの方々にお招きいただき、お話をさせていただく機会を頂戴する。謝金を頂戴したはじめての「単独公演」ならぬ「単独講演」が増えたのは、1999年ごろではなかったかと思う。時は、特定非営利活動促進法が成立し、NPOがブームになり始めた頃だ。基本的に、講演の際に資料として用いるレジュメは何らかのかたちで毎回書き換えるようにしてきているが、当時「NPOよもやま話」と題して作成したA4両面刷1枚の資料はだいぶん重宝した。

 今回の石川での講演では、前日の打合せをとおして、以前に作成した資料を上書きした。今回は1日のイベントで2回、しかも別の肩書きで登壇する。後半は鼎談なので「絶妙なコメント力」が最大限に発揮できるように集中力が勝敗の分かれ目となるのだが、前半は3時間かけてのテーマ別の検討会である。私が担当させていただくのは「地域内交流の拠点としてお寺はどのように機能しうるのか」という観点からの事例報告と、来場者を交えたフリートークであった。

 資料の上書き保存のポイントもいくつかある。必ず行わなくてはならないのが古くなった統計や法律等のデータの改訂で、それに加えて現場のリアリティが伝わる写真やエピソードを挿入することにも関心を置いている。ただし、私が特に心がけているのは「絶妙な比喩を使う」ということだ。今回は、拠点を活かすにあたって「演劇」に関連づけた説明を行うこととしたため、拠点を劇場に、利用者集団(コミュニティ)を友の会に、コーディネーターやディレクターなどを舞台監督になぞらえ、作家による「シナリオ」こそが大切であって、誰がそれを担うのかが拠点や場を活性化するか否かを左右するのでは、というお話をさせていただいた。

 自分が講演をさせていただくことも多いが、逆に自分たちの取り組みにゲストを招くことも多い。その際には、終了後の懇親会をどうするか、などに気が回ってしまう。今回、全体会の鼎談に続いて行われた交流会では、私の「交流とはexchangeということばに置き換えられるのだから、価値の交換を外部と行うことが大切だ」という発言が随所に援用され、少し気恥ずかしい想いがした。ただ、そんな全体会で壇上にあった鼎談者用の水が諸外国のものではなく「越後の天然水」だったこと、さらには「1,000円相当の地域特産物」を持ち込むと交流会費用が1,000円(通常は2,000円)になること、さらには「猪汁」をはじめとして地元産品がふんだんに振る舞われていたことなど、実にホスピタリティとこだわりにあふれているな、と感服した次第である。



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能登はいらんかいね(三番)




冷やで五合 ぬくめて五合

しめて一升 酒ありゃ楽し

能登はいらんかいねー

ふるさと能登はョー

氷鳴らして  想いを馳せりゃ

御陣乗太鼓の 音がする



詞:岸元 克己・曲:猪俣 公章・歌:坂本 冬美(1990)













2007年1月27日土曜日

魂の森を行け

 旅客情緒は、何とも言えない風情がある。そんなことを綴ると「鉄道マニア」と思われそうだ。くれぐれも、誤解して欲しくないのは、あくまで「旅」が好きなのであって、「乗り物」だけに終着があるわけではない、ということだ。ただし、ここで「乗り物だけではない」と表現を切り取られてしまうと、まるで無理矢理に予定をつくって鉄道の旅を選択しているように思われるかもしれない。

 この週末の講演のため、スーパー雷鳥サンダーバードにて、湖西線を経由して北陸へと抜けていった。地球温暖化か、はたまた単なる暖冬のレベルなのか、要因は定かではないものの、気づく限りでは車窓から雪景色を見ることはできなかった。ともあれ、目的地の金沢では、明日、小松で開催される「いしかわ地域づくり円陣」にて、私が話題提供を行う第4分科会でコーディネーターを務める大学時代からの同志が待ち受け、夕食を食べながらの打合せを行う段取りだ。大阪を15時43分に出発した列車は、目的地の金沢に向かうにつけ、暮れゆく風景のなかを駆け抜けていった。

 今回の旅のお供は、先般紹介をいただいた書物「魂の森を行け」である。初版・帯付きを求める癖もあって、Amazonのマーケットプレイス、すなわち古本で手に入れた。帯には「1000年の森を創造するドン・キホーテ 植物学者・宮脇昭は、ポット苗を手に突進しつづける。」と記されていた。以前、NHKのテレビ番組で「知るを楽しむ」というシリーズにて特集されていたこともあって、興味を持ってはいた。そこに字が大きいのも重なって、簡単に読破ができそうな気がしていた。

 私が好きなテレビ番組「情熱大陸」よろしく、ライフヒストリーの取材を通してその人の「今」と「ちょっと先」を浮き彫りにしているのが本書であった。宮脇昭さんは、日本の「鎮守の森」がそうであるように、「潜在植生」に着目し、本来はどんな木や草が生えるのかに着目して森作りを行っていくというものである。とりわけ印象的だったのが、中国での植林に関するものであった。金沢での約5時間の講演を終えてとんぼ返りをする先が、内蒙古での沙漠緑化の仲間たちとの「春節パーティー」であることに思いを馳せつつ、生態系とは何かを考えながら列車に揺られるのであった。





魂の森を行け:3000万本の木を植えた男の物語

6章 「ふるさとの森」再生




 宮脇は、モウコナラのドングリを100万個拾って欲しい、と中国側に依頼した。中国側は、「とてもじゃないけれど、1万個すら拾えない」と最初は尻込みをした。しかし、実際にやり始めると、中国人たちは実に80万個のモウコナラのドングリを拾い集めてきた。そのドングリをもとにビニールハウス内で気温調整をしながらポット苗を作った。発芽率は90パーセントだった。

 1回目の植樹は1998年7月4日に行われた。このとき、宮脇は驚くべき現象を目の当たりにする。日本で植林ツアーとして1000人のボランティアを募ったのだが、なんとそこに1400人もの人々が応募してきたのである。ツアー料金12万5000円が自腹であることを考えるとこれは驚異だった。この日本人ボランティアたちに中国側の1200人が加わり、2600人が一斉に万里の長城の周りで植樹した。その数、実に4万5000本。わずか1時間でこれだけの苗木が植えられた。そして、そののちも植樹は続けられ、硬い岩盤がむき出すようなところに実に40万本近い幼木が植えられていった。

 中国側は津尾初、宮脇方式による植樹がうまくいくかどうか疑心暗鬼で見ていた。しかし、ほとんどすべてのポット苗は活着する。その成果を見た中国の役人は真顔でこう宮脇に言ったという。

 「100パーセント活着している。不思議だ。しかし、100パーセントと言えば、北京市人民政府の局長や部長が信用しないから、活着率98パーセントと報告したいが許してくれるか」

 こののち、同様に都市化が著しい上海市でも宮脇方式によるエコロジー緑化が進められる。





一志(2004) pp.139-140



<ハードカバー>





<文庫版>









2007年1月26日金曜日

前衛仏教論

 1月25日は法然上人の命日である。法然上人は浄土宗を開いた元祖であり、開祖や宗祖、などと言われる。阿弥陀仏による「救済」の力を信じて「南無阿弥陀仏」と唱えることを教義として掲げた。「専修念仏」や「口唱念仏」などと言われる、単純明快な教義だ。

 法然上人は、貴族社会を中心とした権力構造に対する民衆の精神的、政治経済的な解放を願い、「念仏」をとおした信心を浸透させていった。こうして仏教に民衆化の道が切り開かれていった。組織を通して出家と在家を明瞭に区別してた時代からの転換である。無論、浄土宗をはじめとした鎌倉仏教以前に、空海や最澄による南都寺院へのあくなき挑戦があったことも見逃してはならない。

 専修念仏をとおした在家仏教という浄土宗でも、全国に8つある本山では、出家・在家を問わず、修行の場が提供される。今回、法然上人の命日にあわせて一昼夜かけた念仏会「不断念仏」があるとの情報を住職が得た。そこで、應典院の僧侶スタッフ3名は、1月24日の業務が終わってから、京都の百万遍「知恩寺」に向かった。24日のお昼から、25日のお昼まで、定期的に行われる読経の他は、駅伝の襷リレーのように、参加者が木魚の音に重ねつつ、ただただ「南無阿弥陀仏」を唱えていく修行に、2時間ほど参加させていただいた。

 今、浄土宗では法然上人の「800年大遠忌」事業が進められている。法然上人が亡くなった1212年から数えて800回忌にあたる年に向けて、後進が「恩返しを」という報恩事業が宗をあげて取り組まれているのだ。実は私も少しだけ関わっており、「共生・地域文化大賞」という事業を通じて、改めて救済、共生(ともいき)の精神を広めていこう、という構想の会議に参加していた。にしても、約800年経っても供養の機会が生み出されるというのも凄いな、と改めて思うのと同時に、果たして自分に対する弔いは誰が、どこまでしてくれるのだろうか、と感傷的になってしまった「プチ修行」なのであった。





前衛仏教論:<いのち>の宗教への復活

第一章 仏教の本質とは何か

報恩って何だ(抜粋)




 一つの宗派を興すには、ときの為政者による組織的弾圧や、既存の宗教勢力からの抵抗などがあって、いつ殺されておかしくないほどの緊張感があったはずです。一つの草庵を構えることすら、ままならなかったでしょう。

 とすれば、その苦労を思い起こすために、全山の僧侶が厳しい修行期間に入るなどして、「歴史の始まり」を再体験するような試みがあってもいいと思うのですが、たいていは「開祖への報恩」という言葉が声高に繰り返されるだけで、単にお祭りで終わってしまうのです。

 あるいは、開祖と呼ばれるほどの偉いお坊さんというのは、民衆の救済ということを念頭に置いた人たちだったわけですから、その精神を汲んで、全山の僧侶や信者が共同でボランティア活動をするとか、募った寄付金で社会福祉事業を起こすとか、そういう発想があってもいいように思うのです。

 現代社会において、これ以上お堂やお墓や石碑を建てても、無用の長物となるのは、目に見えています。喜ぶのは、その工事を受注した業者ぐらいのものです。



町田(2004) p.22







2007年1月25日木曜日

10 years

 ライフヒストリーとは、よく言ったものである。今日は美術家、井上廣子さんとの打合せがあった。3月4日に應典院で行う、大阪府立現代美術センター主催の「大阪アートカレイドスコープ」の企画として、あるドキュメンタリー映画を上映するための意見交換が主な目的であった。その「ついで」のように、應典院寺町倶楽部のニューズレター「サリュ」のインタビューも同時に行わせていただいたのである。

 井上さんとは初見ではないが、改めてライフヒストリーをお伺いすると「へぇ」ボタンを連発せずにはいられなくなる。井上さんは、精神病院や強制収容所などを訪問し、その場の空気を撮影することをライフワークとしている。もともとはタペストリーなどを制作していたのだが、それが阪神・淡路大震災を契機に作風を一転させたという。私にとって都合のよい解釈のもと、その変化を説明するならば、新たなライフワークのはじまりは、全く新しい分野への挑戦というよりも、むしろ幼少期、さらには青年期に浸っていた雰囲気への回帰とも言えるとのことであった。

 人に歴史あり、ということを、インタビューを通じて実感した。井上さんは子どものころ、本をよく読み、よく野外に出ていたのもあって、空想が好きで好奇心が旺盛となったという。お話を伺っていて、自分の子どもの頃を思い出した。おばあちゃんにかわいがっていただいた私は、音楽をよく聴き、テレビドラマをよくみていたのだが、それゆえに作品の世界や人間関係に対して思いを馳せることを常にしていたような気がする。

 なかなか恵まれた学校生活を送っていた私は、高校3年生のときには文化祭の後夜祭で「ジョニー・B・グッド」を歌い、さらにさかのぼれば、中学3年生のとき「10年後の同窓会」という小さな演劇の脚本を書いた。その作品は、受験が終わったか終わらないかの頃に、私が演出をし、クラスの中で上演した。名前から着想されるかもしれないが、物語はロバート・ゼメキス監督作品「Back to the Future」をモチーフにして(脚本の表紙には同映画のロゴマークを模したタイトルを手描きして)、主題歌には「10 years」を用いるという、やや「ベタ」な構成であった。ふるさとを離れた生活をして久しいものの、10年後どころか、同窓会自体きちんと出来ていないことを思い出し、それそろ懐かしさにきちんと触れてみたいな、と思ったインタビューであった。





10 years(抜粋)




『大きくなったら どんな大人になるの』

周りの人にいつも聞かれたけれど

時の速さについてゆけずに

夢だけが両手からこぼれおちたよ



あれから10年も

この先10年も



行きづまり うずくまり かけずりまわり

この街に この朝に この掌に

大切なものは何か

今もみつけられないよ







詩:misato watanabe・曲:senri oe・歌:misato(1988)



2007年1月24日水曜日

地域からの挑戦

 大阪ガス株式会社エネルギー・文化研究所と京都大学・同志社大学との共同研究で進めている、上町台地界隈の情報データベース「 uemachi.cotocoto 」の形がほぼ出来上がった。イベント情報を切り口に、都心への愛着を高めていくための仕組みと仕掛けをつくることを目的にした、実践的な研究である。まちで開催されている多くのイベントに参加し、参加者を企画者が巻き込んでいくことが、より豊かな都心居住を実現するのではないか、という前提に立っている。何をもって豊かか、と問われれば、社会的、文化的、歴史的に、と、やや抽象的な物言いになってしまう。

 そもそも都心は住む場所ではない、とされてきた。人が住まないからこそ店が出て、店が出るからこそ人が集まる。そして、人が集まるとそこには神秘的、霊的な物語、いわゆる「都市伝説」も生まれる。占いなどもその一つであり、事実、今の時代にも夜の都心には占い師が店を構えている風景に出会うことがある。

 1970年代から80年代にかけて、住まい手が自らの地域に関わっていく実践が地域をより豊かにしていくという考え方から、行政主体の都市計画という概念は「まちづくり」ということばに置き換えられて語られるようになってきた。こうして「ひらがな」で書かれることによって、漢字表記の「都市計画」はより柔らかな印象で受け止められるよう、多くの主体がこのことばを使ってきている。通常「都市計画」はハード(都市基盤)が中心であったことも重なって、そこにソフト(ひと・イベント)も必要だ、という説得力は、文字通り「柔らかい(ソフト)」なことばを用いることによって導かれてきたと言えよう。このあたりは、私の博士論文でも展開した、「まちづくり」という語源の旅であり、とりわけ、田村明氏の著作によるところである。

 「まちづくり」に対して「くにづくり」こそ必要、という主張もある。まちづくりに取り組む人々に対して、「世界の平和、家庭の不和」などと揶揄されることもあるが、「一国一城の主」という時の「国」だ。言うまでもなく「国家」ではない。果たして、今、誰が「くに」を語り、「くにづくり」に取り組めているのか、少なくとも、上町台地界隈の多文化共生、持続可能な地域開発、新旧融合のまちづくり、そうしたことを考える道具として、今後「 uemachi.cotocoto 」をせいぜい活用していくことにしよう。





地域からの挑戦:鳥取県・智頭町の「くに」おこし

第1章 二一世紀の国と「くに」




 「国が破れる(国にガタがくる)」とは、どういう意味か。そのイメージをつかんでもらうために、国を五重の塔たとえてみよう。

 五重の塔の一番下は、国の土台となる自然。その上に、文化や習慣の層(第一層)が築かれる。その上には、政治、経済、社会の諸々の仕組みの層(第二層)がつくられる。さらに、道路や鉄道、河川、港湾や広場などの社会基盤施設(土木インフラストラクチャ)の層(第三層)が構築される。その社会基盤施設の上には、さまざまな土地利用が行われ、家屋やビルなどの建築物が建てられ、土地利用・建築空間の層(第四層)ができる。私たちの生活は、その上で営まれる。つまり、生活の諸々の活動は、最上階の層(第五層)を構成する。このような五重の塔を我々は多層的な「社会システム」と呼んでいる。



岡田・杉万・平塚・河原(2000) p.3




 二一世紀の日本では、最も小さな五重の塔、つまり、国を形づくる最小の基本単位は何にすべきであろうか。基本単位とは、国という生きた五重の塔(社会システム)を構成する細胞に当たるものである。本書では、その基本単位として、「共有する風景を実感できる空間」を提唱する。そして、これを「くに」と呼ぶ。

 「くに」は、多くの地域において、旧の字(あざ)(現在の小字(こあざ))程度の広さに相当するだろう。江戸時代以来、生活を営む最小の集落単位でもあった。「おらがくに」であり、「くにのお母さん」であり、だからこそ「くにへ帰る」。

 この国にガタがきているのは、この国の大きな屋台骨が緩んでいるからだ。しかし、それだけではない。この国を隅々で支えているはずの「小さな屋台骨」にもガタがきている。小さな屋台骨とは、わが国に無数とある小さな「くに」を支える大黒柱のこと。「くに」という小さな五重の塔も、金属疲労をきたしている。生き生きした「くに」が存在せずして、その延長上に成り立つ「国」がどうして堅牢でありえよう。

 では、どうするか。大きな国はなかなか変わらない。国が「大きく変わる」ことに、すべてをかけるのか。「大きく変わる」のを座して待つのか。

 発想を変えてはどうだろう。国が大きく変わるのをじっと期待するのではなく、小さくてもいいから「くに」を変えてみてはどうだろう。「大きく変わる」のから「小さく変える」への転換だ。



岡田・杉万・平塚・河原(2000) p.5







2007年1月23日火曜日

ド・ラ・カルト

 「ドラえもんで何かわかるんですか?」研究室に訪れた後輩はそう言った。久しぶりの再会だった。「他に言うことないんかい」と思う部分もあったが、ついぞ「のび太の結婚前夜(25巻)」や「さようなら、ドラえもん」(6巻)」や「帰ってきたドラえもん(7巻)」など、後に映画化された作品たちを挙げてその魅力を語りたくなってしまう。

 藤子不二雄作品を小学館の学習雑誌(例えば、小学四年生、など)や「コロコロコミック」でリアルタイムに読んでいた世代だ。結果として「てんとう虫コミックス」も多数持っている。その昔、実家の近所の本屋さんでもらったドラえもんの色紙はどこにいってしまったのだろう…。ともあれ、幼少の頃に根ざした藤子マンガの世界には大人になっても心地よく浸り続けており、奈良そごうで開催された「藤子・F・不二雄の世界展」やサントリーミュージアムでの「THEドラえもん展」にも足を運ばせる。

 「大事なことはドラえもんで教わった」という本も出ているとおりに、「ドラえもん」は作者である藤子・F・不二雄自身が「のび太」に投影されることによって構成されている「メッセージマンガ」と言える。「サザエさん」とやや似て、「ちびまる子ちゃん」や「クレヨンしんちゃん」とはやや非なるところがあろう。なぜなら、「ドラえもん」も、また「道具」も、(少なくとも執筆段階では)物体として存在しえないためである。しかし、テレビ版(精確には、テレビ朝日の大山のぶ代版)のオープニングテーマソングにあるように「あんなこといいな、できたらないいな」を「ふしぎなポッケ」でかなえてくれる「存在しえない存在」に、多くの人々が心地よさを感じているのではないだろうか。

 「ドラえもんやその道具は子どもを甘やかせることを肯定する悪例だ」といった批判も時になされるのだが、それは作品の世界観を(小学館ドラえもんルームが)「公式」にまとめた書物によると、その批判にはきっぱりと「否」と答えられる。ちなみに、今、島根で働く立命館大学の後輩が、今、同志社大学でも働く私の研究室に訪れたのは、大学院進学の相談であった。こうして、仕事や暮らしの変化につれ物事の捉え方やそれぞれの関係が変わるように、ドラえもんも連載を続けるなかで登場人物内の関係も変化し、作者の作品への思いも変わっていると分析されている。そうして紡ぎ出された作品に対して、読者が日々の生活のなかでも「どこでもドアがあったらいいのに」とつぶやきつつも「ないことはわきまえている」という両者が併存するとおりに、自ずと作品の世界に没入させつつ日常生活を正視させるという、強引に仏教語を使えば「空(くう)」としての「ドラえもん」の存在に学ぶことは多い。



ド・ラ・カルト

まえがき(抜粋)




 小学生の時にリアルタイムで雑誌の連載を読んだ幸せな世代がいます。また、自分の子供の本を取りあげて、ついつい夢中になってはまってしまった世代もいます。それぞれに好きな作品があり、それぞれにドラえもんに寄せる思いがあります。

 四次元ポケットから出てくるひみつ道具やドラえもんのメカなど、入社試験問題に出るほど今では一般常識となってしまった感のある様々な設定も、実は必ずしも不動のものではなく、情況あるいは時代に対応し変化しています。時代と共に生きている息の長い作品ならではの生命力を感じます。



小学館ドラえもんルーム(1997) p.4







2007年1月22日月曜日

子どもたちの命

 3日間かけて應典院にて行われた「チャリティー絨毯展」が終わった。正式名称は「アフガンこども教育・母親自立支援チャリティ絨毯展」である。主催は東京の「国際子ども教育基金」と全日本仏教青年会だ。クンデゥース産の最高級絨毯を中心に、イラン遊牧民カシュガイ族100人の子どもが織ったミニ絨毯が特別展示販売された。

 應典院では初となる催しであったが、大阪では大阪府仏教青年会の協力のもと、4回目の開催となるという。昨年は四天王寺で開催されたようだ。売上金はカブールのアフガン女性が運営しているNGO「CWEF(The Children & Women's Education Fund)」の活動の支援に充てられる、とある。今回はアフガニスタンの教師たちの活動範囲を広げるための足となる中古の自動車を購入するのが目標とされていた。

 應典院での開催の運びとなったゆえに、應典院ならではの特性が出ればいいな、と思っていたところに、私の知り合いから連絡が入った。その知り合いは、著書「がんばらない」などで知られる鎌田實さんが代表を務める「JIM-NET(日本イラク医療支援ネットワーク)」の佐藤真紀さんである。JIM-NETでは2006年よりバレンタインデー・ホワイトデーの時期に合わせたチョコレート募金、名付けて「限りなき義理の愛作戦」を行っており、ちょうど20日には京都に来ており、大阪にも寄れますよ、とのことでった。イラク開催の1週間ほど前であった。

 そこで、主催の皆様に連絡を取らせていただいたところ、21日に受付横でJIM-NETの佐藤さんらを中心にイラク支援チョコレートを販売するということに相成ったのである。販売されるチョコレートは一口500円の募金と扱われ、そのうちの400円が白血病の子どもの一日あたりの薬代として使われる。ちなみにチョコレートは六花亭のアーモンドヤッホーで、さらにイラクの子どもたちの絵に湯川れい子さんと酒井啓子さんと東ちづるさんがそれぞれ文章をつけるというコラボレーション商品だ。ホワイトデーバージョンも用意が進んでいるようで、身近なつながりが大きな支援へと連鎖していくことを、イベントの実施における人と人との縁結びをとおして実感した次第である。



JIM-NET http://www.jim-net.net




カラー版 子どもたちの命:チェルノブイリからイラクへ

IV 命を考える

小さな優しさの連鎖(抜粋)




鎌田 『雪とパイナップル』(集英社)という絵本を、ぼくは書きました。その本を出したのは、つぎのようなことがあったからです。ぼくたちチェルノブイリ連帯基金は信州大学医学部の応援をもらって、チェルノブイリで、一一人の難治性の白血病の子どもに骨髄移植をしました。そのうち一〇人の子どもは白血病を克服して治ったのですが、一人の子どもは死んでしまった。その亡くなったアンドレという子どものお母さんを訪ねていくと、アンドレのお母さんは、彼の写真をぼくに見せてくれながら、以下のような話をしてくれた。



 私たちは、いちばん大切なものを失った。だけど、忘れられない日本人の若い看護師さんがいる。息子は骨髄移植を受けたあと、敗血症という病気で熱にうなされて、ものがまったく食べられなくなった。そのときに、日本からきたその看護師さんがアンドレに「何が食べたい?」って聞いたのです。初めはアンドレは答えられなかった。日を変えて、また彼女がアンドレに「何なら食べる?」って聞いたところ、アンドレは「パイナップルが食べたい」って。

 国が貧しくて、北国ですから、パイナップルは輸入品。これまでに一度だけパイナップルのかけらを食べたことがある、そのことを思い出して彼はパイナップルと言った。それを聞いた日本の看護師さんは、ちょうど二月で雪の多いマイナス二〇度の町のなかの店を一軒一軒まわって、「パイナップルありませんか?」と探すのだけれど、ないのです。それが町中の噂になった。そしてパイナップルの缶詰を持っているあるベラルーシの人がその噂を聞きつけて、ああ、日本人はベラルーシの子どものためにそんなことまでしてくれるのかと感心して、このパイナップルをどうぞ使ってくださいと言って病院にもってきてくれた。うちの息子はパイナップルを食べることができて、その後、敗血症が治って退院できた。だけど、一〇ヵ月後、白血病が再発して亡くなった。

 私たちは、息子といういちばん大切なものを失ったが、うちの息子のために、雪のなかをパイナップルを探してくれた日本人のいたことを忘れない。




 ここには、すごく大切なことが二つある。一つは、大切な子どもを助けてあげることができなかったにもかかわらず、お母さんは感謝してくれているということ。成功したからとか、うまくいったからとか、何かしてもらったから感謝をするのではなくて、いちばん辛いときに、子どもの言葉を聞きとめてくれて、子どものために何かをしようとしてくれた人がいてくれたこと。お母さんは大切なものを失ったけれども、悲しみを少し、その若い看護師によって癒されている。人間の関係というのは、どうもそういうことが大事なんじゃないかと思う。

 もうひとつは優しさの連鎖ということで。九・一一のテロの後、世界は、にくしみとか恨みの連鎖が生じ、やられたらやり返すということで、結局、にくしみとか恨みは暴力につながっていきました。けれども、逆に、人間は小さな優しさとか小さな温かさを生み出すこともできて、その小さな温かさとか優しさが、さらに連鎖を生むのです。その連鎖が広がっていたときに、ぼくは平和を生みだしていくのではないかと思うのです。



鎌田・佐藤(2006) pp.57-59







2007年1月21日日曜日

市場主義の終焉

 忘年会に比べると、新年会はやや少ない気がする。年が変わるという区切りで新しいことを始めようと考える場合も多いが、それ以上にやり残したことをやり遂げようという決意を固める場合もある。私は両者で、とりわけ後者が強い。そうした慌ただしい年末に、慌ただしくもゆったりとするのが忘年会である。

 今日参加した新年会は忘年会の日程調整ができないために年越しとなった宴であった。「やり残した」打合せもあったので、なんとか年内に調整しようと試みてはいたのだが、新年会での再会となった。というのも、以前に仕事で取り組んでいた、インターネットでのウェブサイトを誰にでも使えるようにしようという「ウェブ・アクセシビリティ」についての事業のその後を展望する必要があったためだ。既に「ウェブ・アクセシビリティ」はJISの規格として整備され、視覚障害者だけでなく高齢者なども対象に、多くの人たちにとって「使える」ことはもとより「使いやすい」ウェブサイトを構築するための指針がまとめられている。

 今日の宴のメンバーは、京都府による情報関係の委員会の委員であったため、職種も業種も多様であった。だからこそ、近況報告をするだけで話は盛り上がる。もっぱら、私が「なぜお寺に」ということに関心は集中したように思えるのだが、それでも、それぞれのライフヒストリーにはそれぞれの変化がある。脱線もまた楽しい、そんな飲み会だった。

 印象に残った話の一つに、装身具を中心とした繊維関係の会社に勤める方の「品質表示」にまつわるお話がある。先週、アメリカ方式、ヨーロッパ方式、そして日本方式の3つのなかから国際規格を決めるという会議が東京で行われて、繊維製品品質表示が変わりそうだ、というものだった。聞けば何ともない話なのだが、今後、この調整がこじれると国際基準で複数の規格が決定されるやもしれず、場合によっては一つの服に3種類のラベルが着くかもしれない、とのことであった。要するに、「洗濯はこうせよ」という指示がなされる言語や図柄が増える、ということであり、何とも国際社会での調整力を日本が持って欲しいものだ、と懇願するところだ。





市場主義の終焉:日本経済をどうするのか

第2章 進化するリベラリズム

欧米と日本の「豊かさ」モデルの差異(抜粋)




 一九九五年二月に初来日したフランスの社会学者ジャン・ボードリヤールは、神戸の被災地をはじめ、全国各地をみて歩いたのちに「朝日新聞」のインタビューに答えて、「(私は)日本の現実をそれほど知っているわけではないのでこれは仮説だが」と断ったうえで、「日本という国が豊かなのは日本人が貧しいからだという逆説も成り立つようにも思える」という穿った見方を披露してみせた(一九九五年三月二日付夕刊)。

 「日本という国が豊かである」とは、日本の一人あたりGDPが世界一であることを意味する。しかるに、「日本人が貧しい」とは、次のことを意味するだろう。平均的な都市サラリーマンの一日は次のとおりである。早朝六時に飛び起きて、朝食にも手をつけずに家に飛び出して、満員電車で片道一時間半の長距離通勤をする。長時間労働をいとわず、深夜に帰宅した家はというと、家族四人で3DKというありさま。子供の受験と日頃の疲れのせいで、終末をゆっくり家族と楽しむ暇はない。こんな暮らしぶりを欧米のポスト・マテリアリストがみれば、「なんと貧しい暮らしを」をいうことになる。日本の都市サラリーマンが、一言の文句をも口にすることなく、こんな貧しい暮らし方に甘んじてきたからこそ、日本は世界一のGDP大国になることができたのである。



佐和(2000) pp.94-95





2007年1月19日金曜日

Tomorrow Never Knows

 Macユーザーである。おそらく、かなり使いこなしている方だと思う。ユーザー歴も長く、1994年、つまり大学1回生の時代から使っている。中学時代はPC-8801シリーズとPC-9801シリーズでゲームをしまくり、高校時代はCANOWORDαシリーズで文書を作りまくってきたが、大学に入っていきなりUNIX(SONY NEWSシリーズ)を使わねばならないときにさっぱり使い方が分からなかったとき、同じ目的を達成するのに「Macintosh LC475」という小さく美しいコンピュータが隣にあり、すっかり心を奪われてしまったのである。

 とりわけ、MacOSが9からXになったときには悲しかった。短期集中の道路工事のアルバイトでMacintosh PowerBook180cの中古を買ったのが大学2回生の時であるから、それ以来使い込んできた道具が製造中止になってしまったかのような衝撃だった。ただし、Keynoteを使いたい衝動とiTunesを使わざるを得ない必要に駆られ、徐々に移行を始め、2005年になって「やっと」完全移行を終えたのである。ちなみにそれまでに軽さと小ささを求めてWindows(Let'sNote M32)を併用したこともあったが、上述のPowerBook180cを1998年まで、その後PowerBook Duo改(280の液晶に2300cのロジックボード)を2000年まで、その後は開発名をPismoと呼ばれたPowerBook (G3)を使い続けてきた。

 それでも、予定の管理と公開を行っているiCalをはじめ、最早WindowsにもOS9にも戻ることはできない。時折、フィールドワークをはじめ、研究素材を手際よく扱うデータ処理ソフトがWindowsでしか手に入れられないなど、もどかしい思いをすることもあるが、その他の方法を自ら工夫すれば、Macでも事が足りる。むしろ、Macという思想にしっくり来ている身としては、事が足りるように使い方の工夫をしているとも言える。だからこそ、MacユーザーがMac原理主義となってしまいがちだという自覚がある。

 ただ、つとに悲しいのはiCalのカレンダーを使いこなしすぎ、ほぼ「依存症」になてしまっているということである。というのも、今日の朝、京都での会議のはずが、入力を一週勘違いしていたらしい。夕方には同志社大学でのゼミのために京阪電車で移動したのだが、電車の選択を間違えてしまったし、明日は空堀でイベント、と入力されていたが、既に日程は変更になっていたという。こんな状況を飛躍的に解消してくれるのが、先般発表されたiPhoneであることは間違いないのであるが、果たしてこれが2008年にアジアで発売されるという発表も、日本で使えるようになるのか、秘密主義の会社ゆえに「誰も知るよしもない(Tomorrow Never Knows)」なのである。



Tomorrow Never Knows(抜粋)



人は悲しいくらい忘れてゆく生きもの

愛される喜びも 寂しい過去も

今より前に進む為には

争いを避けて通れない

そんな風にして世界は今日も回り続けてる

果てしない闇の向こうに

oh oh 手を伸ばそう

誰かの為に 生きてみても

oh oh Tomorrow never knows

心のまま僕はゆくのさ

誰も知ることのない明日へ





歌:Mr.Children・詞:桜井和寿・曲:桜井和寿(1994)

(オリジナル版)



(収録アルバム:リミックス版)



(BEST盤:リミックス版)





がんばれ仏教!

 仕事柄、というよりも生き甲斐柄、移動が多い。特に、今年度下半期の木曜日は「滅茶滅茶」である。朝9時から甲南女子大学で「NGO論」の講義の後、その後14時10分から立命館大学びわこくさつキャンパスで「環境管理調査実習」の講義が入っていた。現在自宅は京都市上京区だから、四都物語だ。さらに、1ヶ月に1回、19時から「上町台地100人のチカラ!」と題したトークサロンがあるため、滋賀から大阪に移動し、そして終電まで呑んで京都に帰るという生活である。

 人と出会い、人と語り、そして人と学ぶことが生き甲斐だと思っている。だからこそ、「呼べば応える」生き方を生きているつもりだ。予定も公開しているし、電子メールも「Re:」という標題で届いた返信以外には「ほぼ」返信しているつもりである。また、報酬の如何は問わず、予定が空いている限り、仕事の依頼は断ることなく勤めさせていただいてきた。

 しかしながら、最近、身体がついてこない感覚に浸ることが増えてきた。自らの身体に対する「老い」と同時に、自らの社会的役割の変化も実感している。「選択と集中」が経営戦略のキーワードとして注目されるようになって久しいが、私の仕事や生き甲斐には「共感的理解」をとおして先方と合意した「選択と集中」が必要だと考えるようになった。言うまでもなくその背景には、僧侶(B)としてお寺で働きながら、程なく住居も変える決断をしたこともある。

 「いのちのことを扱うのが究極のアートだ」と、大蓮寺・應典院の秋田光彦住職は言う。本日、應典院に来山いただいた町田宗鳳さん(広島大学教授)とミナミの「坊主バー」でご一緒したのであるが、日本の仏教には芸術性が足りない、と仰っていた。そんななか、劇場寺院としての應典院、アートNPOとしての應典院寺町倶楽部と、幸いにして私が働くお寺においてはアート、芸術を扱う素地は多い。だからこそ、アートや芸術を扱うことがいかに宗教的か、そうした両者からの論理展開ができるよう、多くの場所を移動しつつも、「仏教の可能性」と「仏教の不可能性」の両面に向き合っていきたいと思っている。





がんばれ仏教!:お寺ルネサンスの時代

第3章 魅力ある寺・僧侶とは

1 秋田光彦−−寺よ僧侶よアーティストたれ!(抜粋)





 寺は、「学び・楽しみ・癒し」の場であり、人間の生活の質、生き方の質を支え、変革していく「社会的芸術」の場でもあるのではないか。そして、家が寺だからといった、職種と条件のマッチングだけでは僧侶の本当の「やりがい」は得られない。明確な職業観を養い、自分らしいモチベーションを高めなければどうにもならない時代なのだ。さらに、「寺壇」組織の単なる歯車としての�労働�ではなく、自身の創造性を発揮できる寺の創出が必要なのではないか。

 私たちが生きていく中で、そして生き死にの中での「困難な課題を巧みに解決し得る熟練した技術」を持つ者、それがまさに日本文化における僧侶の役割ではなかったか。そしてまさに、「小さくてもいい、地域の人々の生活や生き方の質を高めていける『持続可能な寺』」が今求められているのではないだろうか。

 アーティストとは、日常生活に埋没している私たちの目には見えなくなっている「光」や「影」を見ることのできる人たちである。その表現によって、私たちを目覚めさせ、生きることの新しい意味に気づかせてくれる。生きる力に気づかせてくる。そんな「社会的芸術家」としての寺が、僧侶が、今求められているのではないか。

 そして、日本仏教の開祖たちを思い返してみても、彼らは皆「社会芸術家」だった。空海、法然、親鸞、一遍、道元、日蓮……、誰もが皆アーティストである。それも、掛け軸用に書をしたためるといったレベルのアーティストではなく、社会というキャンパスいっぱいに雄渾な絵を、いのちを込めて描ききったアーティストではないか。

 寺よ、僧侶よ、アーティストたれ! それが應典院、秋田の仏教界へのメッセージなのだ。



上田(2004) pp.128-129





2007年1月18日木曜日

ボランティアの知

 どうしても忘れられない1日がある。誰にとっても、そんな1日がある。もちろん、そうして忘れられない1日は、複数あることだろう。私自身にも、無数の忘れられない1日がある。しかし、どうしても忘れられないし、忘れてはならないと素直に思える1日がある。

 1995年1月17日、それは私の人生を変えた1日である。後に阪神・淡路大震災と呼ばれるに至るM7.2の「兵庫県南部地震」が起きたのは、その日の朝5時46分であった。実に長い一日だった。しかし、その後の数日は、実に短い日々であった。何かしたい、何かできるはずと思い、しかし何ができるのかと迷い、結果としていてもたってもいられず西宮に入った。

 既に発災から日数は経っていたものの、1月中に現場に入った学生たちは、さしずめ同様の「何かしたい、何かできるはず」という人たちにとっては「先遣部隊」であった。後に1995年は「ボランティア元年」と呼ばれるのであるが、「先遣部隊」ということばが馴染むところを見ると、「ボランティア」ということばが「志願兵」という意味を伴うことに合点がいく。ともあれ、本日も電話で話をした生涯の親友とも言える同志とその仲間たちと出会って立命館大学ボランティア情報交流センターを立ち上げる過程に携わり、2月から3月にかけて、729人の登録ボランティアたちが現場に行くきっかけを提供し続けた。イノセント(innocent)ということばば持つ「無邪気であり無知」という両義性を携えて、静岡県磐田市から京都にやってきた大学1回生、19歳の私は、取り立ての運転免許証も活かして、とにかく現場に向き合った。

 その後、「あの日」のことを語り合える仲間に出会い続けることが、新たな実践を紡ぎ出す契機のように思えた。渥美公秀先生のいらっしゃる大阪大学への社会人入学も、また秋田光彦住職のいらっしゃる應典院というお寺を通じて僧侶になることも、全て、あの時に共通してそれぞれの震災ボランティアを行ってきているという「個別経験の追体験」ができる方々との出会いがあったためである。6434名のいのちが亡くなった儚さに思いを馳せるたびに涙がこみ上げてくるが、そのこみ上げてくる涙をこらえることで、今の自分の生き方や働き方を見つめる合わせ鏡が得られるような気がしてならない。だからこそ、おそらく来年もまた、私は「あの日」に思いを馳せるのだろう。





ボランティアの知:実践としてのボランティア研究

はじめに(抜粋)




 かなしみが果ててしまうことのかなしみを詠った詩人がいる。そんなことはあるまいと思っていた。だが、あの日から五年あまりを被災地で過ごし、今は、この詩人の言葉が心に沁み入るような気がしている。

 本書は、被災地で過ごした五年間を振り返りながら、実践としてのボランティア研究を紹介したものである。ミシガン大学のグループ・ダイナミックス研究所への留学を終え、神戸大学に赴任したのは、阪神・淡路大震災が起こる一年数ヶ月前だった。大阪で生まれ育ち、大阪大学人間科学部・大学院で学んだ私にとって、神戸は新しい場所だった。ようやく街に慣れたころ、あの日あの時間、すべてが変わった。避難所の行程で風呂を焚き、西宮ボランティアネットワーク(現在、(特)日本災害救援ボランティアネットワーク)に参加した。その後、各地の災害救援現場に赴いた。研究者として何ができるか、自問する日が続いた。グループ・ダイナミックスという強力な�武器�をもってはいたが、試行錯誤で使い方をマスターしなければならなかった。



渥美(2001) p.i







2007年1月17日水曜日

大阪まちブランド探訪

 若輩者ながら、多くの委員を務めさせていただいている。最早、どこに行っても最年少、という程ではなくなってきたが、まだまだ若輩者である。文字面を見つめて見れば、「若輩者」ということばは、「若者」ということばの間に「やから」という字が挿入されている。謙虚さを自戒せねば、という想いを携えながら、会議の席に貢献せねばならないことを自戒すべきなのであろう。

 今日は「関西広域連携協議会(KC)」の「文化振興策研究会」の第二回会議であった。新聞社、県職員、公共施設館長、事業プロデューサー、NPO代表等々による会議である。しかし、そんな風にして立場を抽象化するのではなく、むしろ固有名詞を挙げれば「なかなか」の集団による会議だ。その中に「僧侶兼教員」の私が「お寺」の立場から参加している。目的は、関西の2府7県で展開する官民共同による文化振興策を検討し、提案することである。

 現場に携わる人々であるから、抽象度の高い話と、具体的な話とが折り混ざる。例えば「ハコとヒトのリプロデュースだ」とある委員が発言すれば、「10000人のオーディエンスをつくるなら100人のマネージャーをつくればいい」と続ける。そして「NPOも含めて参加型の文化振興協議会をつくればいい」と発言があれば、「実際の施策がどうなっているか現状把握が必要」という意見が続く。一見、脈略がないようだが、「よい」関西を創ろうとする思いは共通だ。

 そもろも、文化振興策を考える、ことが問いであるから、その前提の部分も含めて多方面からの問いが出てくる。会議の席上で言えば「それぞれのイデオロギー」が全面に出る。しかし、それらも含めて、喧々囂々の議論が成立することが、この会議の魅力だろう。ともあれ、「この会議、シンポジウムみたい」という発言の後、イタリアン居酒屋で飲み放題の「第二部」が続けられたのだが、その席を手配いただいた方の出向元(大阪に本社のある酒造メーカー)のビールがある、ということを大切にされて場所が選定されていること、そうしたブランド力こそ、文化振興を考える上では大切にすべきなのだろう、とほろ酔いの中、思うのであった。





大阪まちブランド探訪:まちづくりを遊ぶ・愉しむ

はじめに(抜粋)




 「集客」や「観光」における都市力が、いまや国の施策としても推進されており、昨今では地域ブランドづくりの必要性がテーマに掲げられている。「ブランド」の語源は、羊などの家畜に雄楽品(BURNED)に由来しており、他人の羊と区別するためのものであったという。現代では、他の類似品と差別化するための、優位性を認める記号や、記号に象徴される世界観であると定義されている。地域ブランドとは、地域のもつイメージを、サービスや商品、特有の文化などの融合体である。他と差別化できる良いものであるという「約束」を伴い、訪れた方に満足を提供する。そして一流感を伴うと考えられている。

 新たに必要とされる持続可能な地域ブランドとはどのようなものか。それは、例えば地元の人が抱く思いや夢を体現した�場所�や�活動�、そのオリジナリティだと考える。まちの歴史や文化をいかに解釈して現在に活かすかという独自の営みの継続が、地域の資源となりブランド力の源泉として育つのではないか。その効果で、マスコミに紹介されたり外部からの訪問者が増えたことで、逆に活動に無縁であった住民の方が「はじめてわがまちの魅力に気づいた」と誇りを感じる例も少なくないようだ。



栗本(2006) pp.1-2







2007年1月16日火曜日

木を植えましょう

 自分の綴ったものにコメントが寄せられるのはうれしい。もちろん、文字に対して文字が寄せられることがうれしいだけでなく、あまたの行為に何らかの反応がなされることは、やりがいを再生産する原動力になりうる。逆に言えば反応がないとき、やりがいは失われる可能性がある。転じてそれは生活のなかで他者からの反応を得ることができない人々にとって、それぞれの生き甲斐とは何か、という問いにもまで展開できそうだ。

 ともあれ、今日、Blogの記事へのコメントとして「魂の森へ行け」という書物を紹介いただいた。こうして新たな書物に出会えることもうれしい。ことばの出会い、また書物の出会いは、自らの感覚や経験を照らし合わせる合わせ鏡を新たに得ること、そんな風に思うからだ。早速、Amazon.co.jpのマーケットプレイスで発見し、格安で手に入れられたのも、小市民のうれしさに浸ったところである。

 紹介していただいた書物の題名を見て想い起こしたのが、2006年12月8日に應典院での寺子屋トーク47「"いのち"のエナジー」でお招きした正木高志さんの「木を植えましょう」であった。その「あとがき」には「木を植えるのは、空を飛んでいたタンポポの綿毛がふっと着地するような、そんな何気ない行為」であり、「着地することでタンポポの新しい生命がはじまるように、木を植えるという何気ない行為によって、ぼくたちは混沌(カオス)から新しい秩序へ着地する」と述べている。というのも、この「木を植えましょう」という書物は、ご自身のお兄さん、またお連れ合いが病気になったとき、共に木を植えることで森がよみがえり、そのよみがえりをとおして環境が元気になることが自分も健康になる道、そうした実感を携えたという経験を綴ったものなのだ。こうして綴ると「宗教臭い」、それが転じて「胡散臭い」と呼ばれがちであるが、これでも僧侶の私としては、そんな一言で片付けられるのは本意ではない。

 今日は本との出会いをとおして以前の出会いを追体験したのであるが、実際に以前の仲間との再会もあった。以前、内蒙古の沙漠緑化に共に取り組んだ仲間が、今の仕事である農業の現場から干し柿を持って訪ねてきてくれたのである。昔話に花を咲かすと、われわれが行った沙漠緑化は「木を植える」のが中心ではなかったが、元の土地へとよみがえるようにとの願いを込めつつ、牧草の種を巻いてきたことを再確認した。正木さんにすれば、持続可能な世界は、真我性、アートマン性、仏性、如来性といった「霊性」によってこそ実現できるとされているが、あながちそうした感覚は自らの実体験を想起するなかで得られるのではないか、などと、出会いの追体験を通して考えた次第である。



木を植えましょう

第五章 ∞から○へ(スモール イズ ビューティフル)




 <縁起>とはぼくたちに見える現象世界の真理(リアリティ)である。

 前にティック・ナット・ハンの『ビーイング・ピース』から引用して語ったように、あらゆるもの・出来事が、それ単独で生起・存在することはなく、相互に依存しあい、縁によって生起し存在している、という真理のことである。仏教用語では<相依>(相互依存)と言い、ハン師はそれをInter-Being(相互存在)と英訳している。

 エコシステムは地球を覆っている薄い表皮のようであるが、それを広げて一枚の布と見るときに、<縁起>とは、ぼくたちがその結び目のひとつとして存在し、活動していることをさす。

 ところがふだんぼくたちは自意識に映っている誤った世界観のなかに生きているわけで、そこでは自他が自己中心的に分断されており、その妄想ゆえに破壊的な活動を犯しては、自ら苦しんでいる。苦しみから解放されるためには、人はエゴに染まった心を浄化し、飼い馴らさなければならない。そうしてはじめて自分が環境によって生かされているという真理を自覚し、自然への愛に目覚めることができる……というのが<縁起>の教えだ。



正木(2002) p.91





2007年1月15日月曜日

フィールドワーク:書を持って街へ出よう

 「恩師は偉大やね」と、僧侶の師が電話でおっしゃった。休みの日曜日の午後を、立命館大学びわこくさつキャンパスで過ごすと、自分の予定をお伝えした後のことばである。確かにそうかもしれない。ともかく今日、私は学部時代・博士前期課程時代の指導教員から声を掛けられ、立命館大学理工学部環境システム工学科「景観計画研究室」の公開発表会に参加してきた。

 出身の研究室の公開発表会という場に参加するのは2回目である。ちなみに私が学生だったころにはそうした機会はなかった。社会と大学が関わり合う(社学連携)、地域と大学が共に未来を創造する(地学協働)といった概念は、理念よりも実践が先立っていった時代だったからかもしれない。しかし、社学連携や地学協働という概念が大切にされている今、こうして成果を還元する場が丁寧に作られるべきなのだろう。

 実践的な研究を進めていく現場のことを「フィールド」と言い、フィールドで調査・研究を進めることを「フィールドワーク」と言う。そして、フィールドワークに取り組む人は「フィールドワーカー」と呼ばれる。今日はその「フィールドワーカー」の視点で、活き活きと現場を語ることの意義、またその方法について、できるだけ具体的にコメントをしてきたつもりである。ちなみにプレゼンテーションの効果的な方法にも話は及んだ。

 特に気になったのは、フィールドワーカーがフィールドに持ち込む内容や、フィールドワーカーがフィールドから持ち帰る内容に、あまりに貪欲でないということだ。研究と言うからには、何らかの発見がなされねば意味がない。しかもフィールドワークでは「確定した仮説」をただ「検証」するのではなく、調査・研究を進めるなかで「育つ仮説」を次第に「例証」していくのが流儀となる。だからこそ、現場に持ち込む抽象度の高いことばや、現場から持ち帰る歴史や文化にあふれたことばに貪欲になって欲しい。ちなみに今日の発表会に出て「里山」をもじった「里川」とそれに対して現場から寄せられた「カワト」ということばを獲得したのであるが、何よりこうしたことばに出会えるからこそ、休みであろうが恩師からの依頼であろうが、現場に出ることが楽しいのだ。



フィールドワーク:書を持って街に出よう

㈵ フィールドワークとは何か?(抜粋)




 フィールドワークというのは、とてつもなく非効率で無駄の多い仕事です。この点で、フィールドワークは野良仕事に似ています。

 畑に種をまいてから最後に収穫できるまでに長い時間がかかるように、調査地に入ってからそこに住む人々とコンタクトがとれ、ちゃんと口をきいてもらえるようになるまでは、気の遠くなるような時間がかかるかもしれません。まいた種の内のどれとどれがちゃんと育って豊かな実りをもたらしてくれるかは最後の最後まで分からないように、フィールドワークの場合も、現地の人々の内どの人が有用な情報をもたらしてくれる大切なインフォーマントになってくれるか、またそもそもその調査が見こみのあるものかどうか、調査が終わってみるまで分からないかもしれません。

 農業にも色々な方法がありますが、一回やってそれで終わりという「ワンショット・サーベイ」などとよばれる単発式のアンケートやインタビューによる調査は、たとえていえば、非常に性能のいい耕運機(時にはブルドーザー)で手っとり早く土を起こし、強力な化学肥料や農薬を大量にばらまいて収穫を得ようとする方法だといえます。これに対して、フィールドワークは、鋤や鍬を使って丹念にうねを起こし、手で種をまき、間引きをし、こまめに雑草を取り除きながらひたすら作物の成長をまつような、そんなタイプの野良仕事に似ています。当然のことながら、そこには相当の無駄がつきものです。



佐藤(1992) pp.32-33



<1992年版>





<2006年増補版>