今日は複数の意味の再会が果たされた日であった。一つは、大学時代の友人との再会であった。新潟に暮らす友人が、お寺に尋ねてきてくれた。別用で関西に来てくれたためであったが、懐かしさに花を咲かせながら、将来に実らせたい果実に思いを馳せる機会となった。
また、夕方に迫る午後に出かけたアート系のワークショップでは、思わず多くの「用事がある人たち」にお会いした。ワークショップの内容は、貸切の路面電車のなかで即興で演奏を行うという現代音楽の取り組みであった。多様な切り口で楽しむことができるそうした場に集まって来られる方々もまた多様である。思わぬところで「そうそう、今度のあれですが…」と、簡単なすりあわせが出来た。
これは今日の出来事ではないが、先日届いたアメリカからのメールも、思わぬ再会の場となった。返信をするなかで思い出したのは、以前、小学校の教科書に載っていたエッセイであった。時間と空間を置いても、ふと思い出すことができるそうした心地よさ、それこそが生きている実感ではないか、などと、いい意味での感傷的な思いにふけった自分を実感した。年度末に近づきつつも、あと11ヵ月遺った今年、どれだけの、そしてどんな再会に巡り会えるか、楽しみである。
眠る盃
字のない葉書(抜粋)
字のない葉書(抜粋)
終戦の年の四月、小学校一年の末の妹が甲府に学童疎開をすることになった。すでに前の年の秋、同じ小学校に通っていた上の妹は疎開をしていたが、下の妹はあまりに幼なく不憫だというので、両親が手離さなかったのである。ところが三月十日の東京大空襲で、家こそ焼け残ったものの命からがらの目に逢い、このまま一家全滅するよりは、と心を決めたらしい。
妹の出発が決まると、暗幕を垂らした暗い電灯の下で、母は当時貴重品になっていたキャラコで肌着を縫って名札をつけ、父はおびただしい葉書に几帳面な筆で自分宛の宛名を書いた。
「元気な日にはマルを書いて、毎日一枚づつポストに入れなさい」
と言ってきかせた。妹は、まだ字が書けなかった。
宛名だけ書かれた嵩高な葉書の束をリュックサックに入れ、雑炊用のドンブリを抱えて、妹は遠足にでもゆくようにはしゃいで出掛けて行った。
一週間ほどで、初めての葉書が着いた。紙いっぱいはみ出すほどの、威勢のいい赤鉛筆の大マルである。付添っていった人のはなしでは、地元婦人会が赤飯やボタ餅を振舞って歓迎して下さったとかで、南瓜の茎まで食べていた東京に較べれば大マルに違いなかった。
ところが、次の日からマルは急激に小さくなっていった。情ない黒鉛筆の小マルはついにバツに変った。その頃、少し離れた所に疎開していた上の妹が、下の妹に逢いに行った。
下の妹は、校舎の壁に寄りかかって梅干の種子をしゃぶっていたが、妹の姿を見ると種子をペッと吐き出して泣いたそうな。
間もなくバツの葉書もこなくなった。三月目に母が迎えに行った時、百日咳を患っていた妹は、虱だらけの頭で三畳の布団部屋に寝かされていたという。
向田(1979) p.43:<初出:家庭画報/1976.7>
<単行本>
<文庫版>
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