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2013年8月31日土曜日

こどもとアートと秩序

昨日、8月30日から應典院では「キッズ・ミート・アート」という催しが開催されている。大阪の城南女子短期大学の主催により、應典院の本寺である大蓮寺と、大蓮寺によって設置されたパドマ幼稚園との連携で企画・運営された事業である。文字通り、こどもたちがアートに出会う機会を生むというもので、10名の作家さんらの参加で、多彩な場が生み出された。2日間で200名を超える参加者を得た。

今回の企画・運営にあたっては、私は前線に立たず、2名のスタッフと3名のインターンが核となった。ただ、企画の当初、あるいは要所では、少しだけ関わらせていただいた。そのときに論点となったのは「主体性」についての考え方である。よい出会いのためには、誰が何を決定するのがいいのか、選択肢はどのように提示されるのがよいのか、といった。私は一貫して「申し込む」という行為自体が、よい出会いを疎外しないか、と問いかけることにした。

約4ヶ月にわたって準備がなされた上で本番を迎え、そのプログラムの最後に用意されたのが「ART MEET US」というトークセッションであった。実は「キッズ・ミート・アート」という催事名を含め、「ART」か「ARTS」かで、小さな論争を重ねた。ただ、こうして言葉にこだわってしまう私は、トークセッションを終え、特に「即興楽団UDje( ) 」のナカガワエリさん、そしてトークのゲストに迎えた山本高之さんの語りを通じて、「言葉に整理すること」に潜む暴力性を見つめることになった。要は「そんなつもり」ではなくても、誰かの促しによって「そうなってしまう」ことの隔たりに、ある種の緊張感を持たねばならない、ということである。


トークの中で、秋田光彦住職が「秩序」という視点を織り交ぜた。アートはある種の秩序を壊す、といった意味だったと思われるが、表現「させる」ことによる秩序では、相互の関係は極めてもろく、そして、抑圧的である。経済学者・シュンペーターが用いた「創造的破壊(Creative Deconstruction)」の大切は、膠着した状況下で新陳代謝が必要だ、という具合に、生命メタファーを用いて説明がなされるところであるが、強靱なリーダーシップや強烈なインパクトによってもたらされる秩序は、集団内での凝集性が希薄なゆえに、生み出された瞬間から減衰もしくは崩壊への一途を辿りそうだ。転じて、時に変化0の時間をも維持しながら、相互作用によって変化を続けていく即興表現に、他者を尊重した秩序の生成と発展を見た、そんな1日であった。

2013年8月15日木曜日

西陣での地蔵盆

カレンダー通りの仕事、という表現も、あまり聞かなくなってきたかもしれない。悪く言えば、行事などに左右されない働き方である。役所仕事、などと言えば、もっと聞こえが悪くなるだろう。ともあれ、妻は束の間の夏休みがあけ、今日から仕事に向かった。

昨日、静岡から帰ってくる道すがら気になったのが、今、住んでいる界隈で、地蔵盆の支度がなされいたことであった。何の注釈もなく地蔵盆という言葉を用いることができるのは、既に静岡で過ごした時間よりも、関西で暮らす時間が長くなったことのあらわれかもしれない。それはさておき、特に関西に限ったことではないようだが、この間暮らしてきた京都や大阪では、8月の下旬の風物詩として、よく目にしてきた風景の一つである。特に、8年間過ごした上京区の京町家では、大家さんのガレージが会場とされたこともあって、よくよく、馴染みがあった。

地蔵盆は、その名のとおり、地蔵菩薩の縁日である24日に行われる「地蔵会」がもととなっている。ただ、こうした縁日の取り扱いにあたっては、新暦と旧暦のあいだで、開催日の決定に揺れが生じる。そうした中、旧暦の7月24日が新暦のお盆だから地蔵盆、として位置づけられると見るのが妥当なようである。ただ、そうして「盆」という名前でつなげられた「地蔵盆」も、地蔵菩薩の縁日が24日ということに(いい意味で)引きずられて、8月24日の前後の土日を中心に開催される、というのが、上京区で暮らしていた折の、私の理解である。

ただ、この4月から居としている京都市北区の住まいでは、慣例として8月15日になされてきたようなのだ。以前、今の家で暮らしていた方から聞くところによると、西陣の織屋さんが多いまちのため、あまり多くの休みを取らないよう、お盆と地蔵盆を同じ時期に開催することにした、という。すっかり、子どもも減り、機音も希となってきたまちであるが、やはり、まちに歴史有り、である。そろそろ、このまちにも、きちんと関わっていかねば、と思う、そんなお盆の一日であった。

2013年8月14日水曜日

地元に帰ってみて

1泊2日の地元暮らしを終えて、京都に戻ってきた。今回は妻の地元だけの滞在で、私の地元には9月に戻る予定である。ただ、今回は父親の古希を祝う会が催されるため、実家に滞在する時間は少ないと思われる。ちょっと変わった帰省になりそうだ。

ともあれ、今日は朝から漁港に向かい、賑わいの中に身を置いた。お盆の時期だからなのか、お盆の時期だけど、なのか、いずれか定かではないが、お昼前から周辺の道路は車でごった返していた。ご多分に漏れず、新鮮な食材と、威勢のいい呼び込みが、食欲を誘った。そして、一通り、雰囲気を味わった上で、いよいよ海の幸を味わうことにした。

いやはや、常にこうした食材に恵まれている地元はいいな、と、つくづく思った。無論、飛躍的に物流システムが進化している今、何軒かお店を回れば、どのまちでも、ある程度の食材が手に入るかもしれない。しかし、旬のものを、なじみの店で買う、ということは、本当に贅沢なことである。実際、同じようなエピソードを「美味しんぼ」から挙げようと思えば、枚挙にいとまがないだろう。

漁港からの帰りに、落ち着いた店構えの珈琲屋さんに立ち寄った。1988年からあるという、豆挽きハンドドリップ珈琲と手作り菓子のお店である。振り返れば、妻が小学生の頃からあった店だが、伺うのは始めてだったとのこと。まだまだ、地域に根ざしている多くのお店がある、そんな地元へのまなざしを向けていかねば、などと思いながら、1時間半あまりの新幹線の車中で、再びコーヒーを飲むのであった。

2013年8月13日火曜日

地元に帰ってみる

NHKの朝の連続テレビ小説「あまちゃん」が人気である。第1話から見ているわけではないが、すっかり私も虜である。これは「ゲゲゲの女房」のときもそうだった。いつしか、次が気になって仕方がなくなっているのだ。

劇中では「地元に帰ろう」という曲が歌われている。詳しく書くと2万字を超えてしまいそうだが、GMT5というグループの曲である。このグループは、当初は47都道府県を代表するアイドルを集めて、ユニットをつくっていく、という「GMT47」という構想があったことをもとにしている。それが紆余曲折を経て、GMT6で活動を始め、シングルをリリースする際にはGMT5となった。想像のとおり、GMTは地元(GiMoTo)を意味している。

そうした歌が劇中で流れている今、今日は地元に帰ってみた。ただ、地元と言っても、私の実家ではなく、妻の実家である。都道府県で言えば、同じ静岡出身であるため、地元と言っても差し支えなかろう。わずかな時間の滞在でも、喜んでくれる親が有り難く、しかし、申し訳なく思う。

帰省にあたって、お昼の時間にあわせて列車を選び、駅につくなり、そのまま家族と合流して、お店へと向かった。向かった先は「伊豆の国市」の「ミス高原バーベキュー」である。昔ながらのお店で、妻によれば、幼少の頃から皆で通った場所とのことで、昔ながらの情緒が残ったところで、炭火で焼く鶏が大変美味であった。その後、「韮山反射炉」にも立ち寄ったのだが、地元という感覚に十分に浸りながらも、逆に地元に暮らす人たちは、地元を離れた人々が地元を楽しむ場所をどう楽しんでいるのか、などをふと思う、そんな帰省の初日であった。


2013年8月12日月曜日

「孫子の兵法に学ぶ…」に学ぶ

昨年、「孫子の兵法」をモチーフに、就職活動に関する本を書いたらどうだ、という提案をいただいた。鳥取県智頭町で地域経営の仕組みづくりに携わって来た寺谷篤さん(現在は「篤志」と名乗っておられる)からの投げかけである。就職活動をめぐる学生たちの悲喜こもごもに触れる中で、今一度、働くとは、生きるとは、生き抜くとは何かということを問いかけてはどうか、という提案であった。そのため、守屋洋さんによる『孫子の兵法がわかる本』も頂戴し、3回ほどお目に掛かって項目を整理し、既に「あとがき」まで書いてあるのだが、肝心の本文に着手できぬまま、今に至っている。

そんな中、今日、東北からのバスで戻った後、午後から運転免許の更新に出かけたところ、講習で用いられた映像のタイトルが「孫子の兵法に学ぶ安全運転への道」というもので、大変興味深く視聴することができた。この手の映像は、運転者に対して、いきおい「こういうことになるぞ」とばかり脅すような構成とされることが多いように思う。しかし、この作品は「彼を知り、己を知れば、百戦危うからず」という要旨をもとに、事故が招かれる「自分の特徴」と「相手の特徴」を紐解く、という趣向であった。タクシー会社の協力を得て収集したドライブレコーダーの映像を用いて、講談師の方が「いったい何故こんなことが起きてしまうのか!」という決めぜりふのもと事故が起きる原因を知る、という構成に関心が向いた。

25分の物語を通じて、「人馬一体で馬を操った」ことに引きつけ、「車を操るも人を操るもこれ人なり」と前置きをし、「車を凶器に変えないために己を知る」そして、「死角に注意」し「思い込みは事故を招く」ことを踏まえ「相手の特徴を知る」ことの大切さが説かれた。また、多発傾向のある事故における相手の特徴としては、「一時停止しない自転車」、「バイクは遠くに見える」、「子どもは動く赤信号」など、具体的な例が取り上げられた。無論、自分に迫り来る危険を全て予測することは困難であるから、「いつ何時も余裕を持って運転する」ことの大切も説かれた。そして、物語は「おごりの心が油断を招き自滅を招く」と、「常に平常心で」運転するように、とまとめられる。

なかなか秀逸な構成であったと思う。そもそも、孫子の兵法は、自分たちで「会議をすること」と相手と「比較検討をすること」が重要であることを訴えた書である。そして、比較検討の際には、道(方法論)・天(現場の変化)・地(現場の変化)・将(リーダーの力量)・法(規則など統治システム)の「五事」に対して、7つの観点(七計)から勝算を判断していくという。運転が勝ち負けではない、という論理的な批判もできそうだが、こと、就職活動は、しばらく前には就職「戦線」などと言われてきた。このところの、アルバイトがTwitterに「武勇伝」のような画像を投稿して、極めて倫理観の低い行動を晒していることを思えば、「心しだいで車は凶器」となるというこの「孫子の兵法に学ぶ 安全運転への道」を手がかりとしながら、「孫子の兵法に学ぶ よい仕事への道」が書けそうな気がしてきた。

2013年8月11日日曜日

感謝の重ね合わせ

台湾・淡江大学と立命館大学による学術交流フォーラム「TRACE2013」も、昨日のクロージングダイアログとフェアウェルパーティーを無事終えたことで、本日のエクスカーションを残すのみとなった。エクスカーションというと大層に聞こえるが、要するに、観光である。淡江チームが16時15分出発予定の仙台空港発の直行便で台北に戻るため、朝7時半にホテルを出発し、松島へと向かうことにした。今日もまた、学生たちの主導による企画なので、我々スタッフは、その流れに乗るばかりである。

松島へはJRで出かけた。2泊させていただいたホテルのご厚意で、立命チームの荷物は夜まで預かっていただくこととなった。淡江チームは松島海岸駅から仙台駅経由でそのまま仙台空港アクセス線で空港へと向かうため、改札内のロッカーに預けることにした。集合時間に10分ほど遅れた学生もいたのだが、荷物の段取りが順調に進みそうで、喜んだのも束の間、仙石線の宮城野原駅付近で発生した人身事故により、運転を見合わせているとのアナウンスが構内には流れていた。ただ、朝6時代の事故から2時間弱で運転再開となり、ホームに着くと程なく入線してきた列車で、松島海岸駅へと向かうことができた。

松島では、金銭面での配慮もあってか遊覧船には乗らず、伊達政宗ゆかりの観瀾亭から景色を眺め、拝観料に含まれている松島博物館の展示を見て、五大堂をお参りし、瑞巌寺の境内を散策して、円通院へと足を運んだ。途中、地元アイドルらしき集団に出会い、観瀾亭から遊覧船乗り場を経由して五大堂までは、奇しくも同じ道筋をたどった。後で調べると、「みちのく仙台ORI☆姫隊」というユニットだそうだが、何とも、その立ち居振るまい(正確には、立ち居振る舞わせられ)に釈然とせず、「震災復興支援アイドルユニット」としてのプロデュースのされ方に、いささか疑問を覚えてしまった。その一方、円通院でガイドをされている色川晴夫さん(後で調べたところ、松島町議会の議員でいらっしゃるとが判明)は、台湾から来たメンバーがいることがわかると、説明を差し置いて、支援への感謝を述べられ、また別の季節に伺い、お目にかかりたいと感じた。

昼食は円通院のお隣、洗心庵さんでいただいた。後に携帯電話を置き忘れたことを、松島空港にて気づくことになるのだが、淡江チームと立命チームが一緒に食事をいただく最後の機会ということもあり、仙台名物の牛たん定食をつつきながら、楽しい時間を送ったようだった。そして仙台空港で涙の別れとお見送りをした後、学生チームとスタッフは分かれて、20時発の夜行バス出発までの時間を過ごすことにした。ちなみに我々スタッフは仙台駅3階の北辰鮨 さんで立ち食いのお寿司をいただいて、少々お茶をして、19時15分のホテル集合に、心地よい気分で戻ったのであった。

2013年8月10日土曜日

5行16列に並んだ振り返りシートと共に

台湾・淡江大学と立命館大学との学術交流プログラム「TRACE2013」も7日目を迎え、いよいよ「クロージングダイアログ」が開催される日になった。4日のオープニングレクチャー以来、どのような学びを重ねてきたのかを振り返り、今後に向けての誓いを立てる、そんな場を設けたのである。会場は2013年1月に、全国アートNPOフォーラムin東北の会場となった、ほっぷの森Aiホールである。その名は、障害のある人の就労支援に取り組む「ほっぷの森」と、バリアフリーのアートプロジェクトを展開する「アート・インクルージョン」と、両団体に由来するところであり、明るい壁と整った音響設備が、充実した議論を行うのに最適だろうと、無理を言って使わせていただいたのだ。

3月に淡江大学で開催されたフォーラムに端を発した今回のフォーラムゆえ、私は企画段階から携わってきたが、常に選択肢を広げる立場を貫き、むしろ決して意思決定を主導しないよう努めてきた。ややもすると、それが一部のメンバーにとっては「わかりにくい」、「面倒くさい」といった印象を与えたかもしれない。しかし、選ぶことよりも選び抜くことが難しく、選び抜くことよりも考え抜くことが難しく、考え抜くことよりも(ただ)感じることが大切なときがある、そうしたことが実感されるためには、必要な姿勢であると、阪神・淡路大震災の経験から感じ、東日本大震災においても考えてきた。しかし、まったく干渉をしない放任型ではなく、必要に応じて干渉する信任型のため、時と場と機会によっては、唐突に干渉されたと小さな反発や反動を受けとめなければならないときがある。

今回のフォーラムでは、その学びの質を維持、発展させていくため、5日のプログラム以降、学生たちが用意してきた「振り返り用のツール(ジャーナルと呼ばれていた)」に加えて、1日ずつA4版の白紙1枚をつかって、「印象に残った言葉」と「印象に残った風景」を遺していくこととした。振り返りというと軽く感じる人たちがいるかもしれないが、サービスラーニングという教育手法において「reflection」とは、「reciprocity」(互恵)と並んで、鍵とされる概念である。今日は、そうして5日から1日ずつ、1枚の紙に2つの要素がまとめられた紙が、かつて卓球台として使われてきた木のボードに、5行(8月5日から9日まで)16列(16人分)で掲げられ、それぞれの振り返りシートを鏡のようにして、自らの感覚とを対峙させていった。

今日はクロージングダイアログの名のとおり、学術交流のフォーラム(すなわち、場)を閉じるにあたり、上述のとおり、リフレクションシートの共有を、日々の写真から作成したスライドショーとあわせて行った後、活動を通じて得た思いを小グループに分かれて共有する「シェアリング」、復興に向けて今何ができるかの「グループ・ディスカッション」、復興に向けて今何ができるかの「個人総括」を行った後、立命館災害復興支援室の担当部長である今村正治さんと、アート・インクルージョンの理事である村上タカシさんからコメントをいただいた。今村部長からは、「伊勢神宮の式年遷宮」を引き合いに出し、永遠に残すことを前提にせずに何かをつくる営みの尊さを思う反面で、永遠に耐えられるものをつくろうとする営みの愚かさを憂う、良い意味での批判的な側面が盛り込まれたのに対し、村上さんは被災後の仙台を見つめ、仙台に関わってきた者の実感として、復興の営みとは「短距離走でも、マラソンでもなく、駅伝のようなもの」な気がすると語った。ダイアログ終了後は、せんだい・みやぎNPOセンターの紅邑晶子さんに紹介いただいた野菜中心のレストラン「パンフレーテ」さんでフェアウェルパーティーとなったのだが、そこで盛り込まれた数々のサプライズに、参加学生らが何らかのたすきを受け取って、次の世代、別の場所へと一歩を踏み出していったのだろうと確信しつつ、心地よい酔いに包まれる仙台の夜であった。

2013年8月9日金曜日

福島からの/へのパスポート

台湾・淡江大学と立命館大学との学術交流プログラム「TRACE2013」も9日で6日目となった。今日は気仙沼の「唐桑御殿つなかん」の名残惜しく出発した後、仙台バスの運転手、栗村さんの機転で、一関から東北自動車道経由ではなく、南三陸から一般道を経由して向かうこととなった。そのため、津波到来の直前まで防災無線で避難を呼びかけたことで知られる遠藤美希さんらが亡くなった、南三陸町の防災対策庁舎と、南三陸さんさん商店街に立ち寄ることとなった。ちょうど、防災対策庁舎の前では手を合わせて深々と礼拝をしている少年の姿が目に留まったのだが、以前立ち寄ったのは2013年1月の風景と異なり、吉川由美さんらENVISIによる「福幸きりこ祭」の後も残されてきた金属製の巨大きりこの一部が撤去されており、「地震と津波の前の風景」と、「地震と津波の後の風景」と、そして「地震と津波の後に地震と津波の前を思ってもたらされた風景」と、時間の経過を風景から感じ取った。

途中、南三陸にて、涙を浮かべつつ、改めて悲しみに浸った学生たちは、東北学院大学をお借りして開催する公開勉強会「震災による原発事故で福島が抱えた問題と経験から学ぶ」に向かった。実は、この「TRACE2013」は、3月8日に淡江大学で開催された学生フォーラム「震災復興と東アジアを担う若者の使命」を受けて、東北でのフィールドワークを盛り込んだプログラムを実施しようという運びとなったため、いわゆる被災3県の各所にて、それぞれの地域の課題を見つめることを構想していた。そのため、今回の企画では、4月から5月においては、今日は福島県のいわき市等での仮設住宅での交流活動を行う予定であった。しかしながら、両大学のやりとりを重ねる中で、全体の旅程の調整から、福島行きを止め、立命館大学も参加している「大学間連携災害ボランティアネットワーク」を取りまとめている、東北学院大学の協力を得て、福島からゲストを招いた場を設けることとした。

今日は福島から、学生たちと同世代と言える若者3人を招いた。話題提供の順に鎌田千瑛美さん(peach heart共同代表)、佐藤健太さん(一般社団法人ふくしま会議理事)、そして安達隆裕さん(一般社団法人福島復興ソーラー・アグリ体験交流の会)である。鎌田さんには「『自分らしく生きる』本音で話せる場づくりを」と題してお話いただき、そこに佐藤さんが写真と統計等を用いて「地震と津波と事故」の前と後とで何が変わったのかを紹介いただいた。休憩の後に、安達さんから「私の目に映るふくしま」と題して話題提供をいただいた後、4グループに分かれてディスカッションを行うこととした。

今日伺った3人のお話は、このところ立命館災害復興支援室のfacebookページで広報協力をした福島大学によるプログラムへのコメントに対して、言いようのないもどかしさを覚えていた私に、「する」ことよりも「いる」ことの大切さ、「目標達成」よりも「継続実施」の重要さを、改めて問いかけてきたように思う。「直後から絶えず問われた『選択』」の中を生きてきた鎌田さん、海洋汚染のデータを目にして「魚にはパスポートがない」と広範囲への影響を指摘した佐藤さん、そして「原発からの距離、という線量を無視した区切りによる分断」に静かな怒りを表明する安達さん、それぞれの言葉をどう自分事して受けとめられるか、自らが試されている。終了後、今回は13人の学生が参加した懇親会を佐藤さんと共に行い、さらに学生時代からの仲間である桜井(政成)くんも合流し、日本酒バーへと繰り出したが、「外遊びが出来ない、海で泳げない」こどもたちに「当たり前を提供する」ことで、保護者たちが「私たち自身ものびのびすることができた」と紹介した安達くんの言葉を振り返りつつ、「当たり前」と思える時間を共にしながら、その場に関わる人が「のびのびすることができた」と思える、そんな場づくりに取り組んでいきたいと、ささやかな決意を固めた夜であった。

2013年8月8日木曜日

内で結び、外に開く


淡江大学と立命館大学との学術交流プログラム「TRACE2013」も8日で5日目となった。今日は大船渡の立根公民館の掃除に始まった。ただ、全員で掃除する前に、早起きした者だけ、約1週間にわたって立根公民館に拠点を置いていた、立命館大学による大船渡での2つの夏祭りの後方支援スタッフ派遣プログラム「チーム大船渡2013」の見送りを行った。こちらの便はサービスラーニングセンターの坂田謙司先生を中心に、学生オフィスが主管となって展開されたものである。

畳の上で寝袋にて休み、畳の間での振り返りを行うなど、これまでの日々とは異なった雰囲気の中で時間を過ごした学生たちは、一路、陸前高田へと向かった。昔ながらの醤油や味噌づくりに取り組んできた八木澤商店の河野通洋社長から、産業面での復興過程についてお話を伺うためである。そうした流れになることを道中でfacebookに投稿したところ、仙台で若者らの地域参加や社会活動の支援に取り組む渡辺一馬さんから、「会長と話すと涙が出てきて、社長と話すと笑いたくなります」とコメントをいただいた。6月に河野会長と膝をつきあわせてお話させていただいたときには、「異常なくらいポジティブであった」当時を振り返って、「あんまり頭、良すぎると、全部ネガティブに考えて、ドツボに入る」し「ネガティブに考えたら自殺しか考えない」と仰ったくだりに胸が熱くなったが、今回は河野社長による震災後も震災前からの地域内でのつながりを大切にしてきた背景として「選択肢のある人生が一番豊か」という投げかけが胸に響いた。

陸前高田は八木澤商店でのレクチャーとお買い物、そしてバスの車窓から「軌跡の一本松」を眺めるに留まったが、それも急ぎ足で気仙沼に向かわねばならなかったためである。河野社長のお話と質疑応答、またお買い物が長くなったことも重なって、気仙沼の斉吉商店さんには約30分遅れて到着したが、斉藤純夫社長や斉藤啓志郎さんをはじめ、お店の皆さんに歓待をいただいた。ここでは食事の後、斉藤社長に加えて、台湾に留学されていたアンカーコーヒー&フルセイルコーヒーの小野寺紀子さんと共に、私たちからの質問に応えるかたちで意見交換が進められた。残念ながら学生たちから積極的な問いかけはなされたなかったものの、「遠洋漁業のまちとして、常に外を向いている」ゆえの、開かれた雰囲気の中で、これまで訪れてきたまちの風土との比較を行うことができた。

2時間ほどを斉吉商店さんで過ごした後、バスは今夜の宿、盛屋水産による「唐桑御殿つなかん」へと向かった。底抜けに明るい菅野一代さんに、途中のセブンイレブンまでお迎えをいただいて、到着して程なく、一代さんからのお話と、夫の和亨さんによる乗船体験、そして順番に風呂に入り、夕食と交流会と続いた。つなかん、斉吉商店、八木澤商店など、今日、お世話になった皆さんは、「気仙沼のほぼ日」の皆さんとのご縁でつながった方々であり、同時に、それぞれに、もともとはアーティストのCD制作のための資金調達を支援するサービスに取り組んでいたミュージックセキュリティーズ株式会社による「セキュリテ被災地応援ファンド」にも参画しているという共通点がある。(八木澤商店ファンド斉吉商店ファンドアンカーコーヒーファンド盛屋水産つなぎ牡蠣ファンドなど、募集が終了しているものが多いが、八木澤商店しょうゆ醸造ファンドなど募集中のものもあるし、単発の支援としての【買って応援 「セキュリテセット」】 などもある。)地域内で結びあわされ、地域外に開かれた雰囲気に、なんとも言えない魅力を覚えている気仙沼なのだが、今回、夜の交流会にて、和亨さんの口からこぼれた「あいつ(一代)も相当無理している」「ありがとうって簡単に言わないほうがいいよ」という言葉が気になって仕方なく、また何度か足を運びながら、「あのときのあのことば」を掘り下げてみたいと思った一夜であった。

2013年8月7日水曜日

自助と公助のあいだ

台湾・淡江大学と立命館大学の学術交流フォーラム「TRACE2013」も4日目となった。今日は宮古から大船渡にやってきた。大船渡は立命館大学と2012年4月に復興に向けた協定が締結されたまちでもある。よって、この期間、キャンパスアジアプログラム、夏祭りの運営支援、そして私たちのグループと、3つが関わっている。宿泊拠点も地域の方のご厚意で、公民館に泊まらせていただいており、畳の上で寝袋が並ぶ、という風景が、大船渡で活動する立命館のグループでは大抵見られることとなる。

朝8時半に宮古を出たバスは、9時40分頃に旧大槌町役場に立ち寄った。辺りを見渡すと、草の伸びた土地が広がっている中、3時18分で止まったままの時計が玄関ホールの上に掲げられたままの建物が、人々の言葉を奪い、悲しみを駆り立てる。朝に宮古の魚菜市場に行ったものの、水曜定休のため、新鮮な海の幸をいただくことができなかった、などといった俗な思いは、遠くに追いやられる。続いてトイレをお借りするのに、旧・大槌小学校を改修した新・大槌町役場にお邪魔したところ、2代目ビリケンさんが大阪からやってきていた。(ちなみに、震災の後、大槌町の4つの小学校に通う児童たちは一つの仮設校舎で一同に学んできたが、2013年3月に、4つの小学校が正式に統合され、名称は同じでも新しい大槌小学校となり、引き続き仮設校舎で学んでいる。)

そして向かったのが、大船渡市役所である。ここでは、炭釜秀一さん(企画調整課係長、鈴木宏延さん(防災管理室係長)、山口浩雅さん(復興政策課係長)の3名から、大船渡市における復興計画の策定経過についてお話を伺った。学生からは、「避難所運営の難しさ」について、「集団移転に対する住民の反応」、「計画策定に対する市民参加の範囲」、「防災教育の内容」などについて相次いで質問が投げかけられた。最後、炭釜さんから学生への期待として、まず「未来に向かって人生を歩む中で、大きな災害があったことを忘れないで欲しい」(つまり、人・財産、思い出、多くのものを喪ったまちであるということ)、次に「色んな手立てでボランティアをするときには、軽い気持ちで来て欲しくない」(つまり、自己満足、自己完結して、一度限りで終わらせる人たちが多いということ)、そして「物心両面での支援や備えを受けてきたが、いつ、どこで、どんな災害が起こるかわからないので、特に心構えの備えをして欲しい」(つまり、今は支援をする側かもしれないが、いつ何時、支援される側となるかはわからないということ)が伝えられた。

夜には盛町で開催されている灯ろう七夕まつりに出向いた。ここでは立命館の赤いビブスをつけた学生たちがお祭りの支援をしており、その様子を垣間見ることとなった。そして夜には、今回の参加メンバーの一人が大船渡生まれということもあり、彼の叔父にあたる方からの差し入れをいただきながら、立命館大学の卒業生で大船渡市の商業観光課に勤務する平野桃子さんと懇談をした。今日の一日を通じて、「自助」と「公助」のあいだにある「共助」の存在の大切さに迫ったように思っている。

2013年8月6日火曜日

地域参加と機会損失


台湾・淡江大学と立命館大学との学術交流プログラム「TRACE2013」3日目、今日は宮古市内の2つの場所で学生らによる企画が行われた。台湾の伝統デザート「愛玉」ゼリーづくりと、死者への弔いなどに用いられる「天燈」飾りづくりを行う、というものである。ゼリーづくりというと手間がかかりそうだが、愛玉という亜熱帯植物の種を水の中で手もみするだけで成分がにじみ出て、その後は常温で置いておくことで、固まっていく、というものである。「天燈」は、言わば「飛び上がる走馬燈」のようなもので、ちょうど熱気球のように気化熱を用いて、小さな紙風船のようなものに思いを綴り、中には油をしみこませた紙を入れ、火をつけることで天に上昇するものだ。

今回は、鍬ヶ崎蛸ノ浜にある集会所「ODENSE2」と、中央通商店街の「おでんせプラザ」の2箇所で、この企画を実施した。ODENSE2での開催には、立命館災害復興支援室による後方支援スタッフ派遣プログラム第7便の参加者による継続活動団体「R7」のメンバーも合流した。ODENSE2とは、立命館大学理工学部の宗本晋作先生が中心となって建築したものであり、同じく震災後に宗本先生らによって宮古市の重茂地区に立てられた簡易集会所ODENSE(1とは言われていない)の工法やデザインモチーフが用いられている。ちなみに「おでんせ」とは「おいでください」という敬語表現の方言であり、多くの方に集って欲しいという願いを見て取ることができる。お昼前からの雨も重なって、人の出入りはあまり多くなく、ODENSE2で20名ほど、おでんせプラザで5名ほどの参加者を得て、無事に企画は終了した。

終了後は、宗本先生を含め、鍬ヶ崎のまちづくり協議会の皆さんのお招きで、懇談会に出席させていただき、石井布紀子さんと久々の再開をするという貴重な時間を送ることができた。ちなみにこの懇談会は、末広町商店街の「つくし」で開催されたのだが、この参加費が「2,000円+飲み代」と案内したところ、「いくらかかるか不安なので参加しない」という学生が続出した。今回、立命館大学生が10名、淡江大学生が6名参加しているが、出席したのは立命館大学の2名だけである。「人数は直前でも構わない」と仰っていただいていたものの、結果として料理を30人前ご用意いただいていたことを現場で知り、かつてのドラマ「スクール☆ウォーズ」の元となった、京都市立伏見工業高校ラグビー部の逸話として、部員が試合をボイコットし、監督が相手チームに謝罪するシーン(プロジェクトXにて再現されている)を想い起こした。

機会損失という言葉がある。その名からも想像できるように、ある資源を投入しないことによって何らかの結果や成果や波及効果を得る機会を喪失してしまい、再度、そうした機会を創出しようとしても、膨大なコストがかかる、ということを示唆する概念である。ちなみに昨日の夜は、ファミリーレストランに向かう学生たちをよそに、1945年に開店し、東日本大震災により休業、2012年1月に移転の後に再開した喫茶「たかしち」さんでいただき、今日の昼はODENSE2の建設の際にも学生たちに便宜を図っていただいたという鍬ヶ崎の「魚正」さんにお邪魔した。それぞれにマスターや大将と呼ばれる方々の「主」としての姿は、結果として「客」の側に迎え撃つ上での心構えが求められるような気もするが、復興について触れるならば、やはり、まちの担い手である一人ひとりに誠実でありたいと願うところである。

2013年8月5日月曜日

守られるいのちと、守るいのち


台湾・淡江大学と立命館大学との学術交流フォーラム「TRACE2013」の2日目は、仙台から岩手県の宮古まで移動した。東北自動車道で盛岡まで向かい、国道106号線をとる。今回、お世話になっている仙台バスの運転手、栗村さんによると「ずいぶん道がよくなった」そうだ。栗村さんが宮古に向かったのは10年以上前とのことだが、震災後の復旧もあいまって、そんな印象を覚えたという。

今日は宮古と言っても、目的地は田老である。宮古であって宮古でない、と言うのは言い過ぎかもしれないが、少なくとも、2005年3月までは、田老は下閉伊郡田老町であって、宮古市ではなかった。今日は、あるいは今日も、立命館災害復興支援室のプログラムで宮古に入るにあたっては、最初に田老を訪れる。それは宮古観光協会が実施する「学ぶ防災」に参加するためだ。

『美味しんぼ』108巻にも、震災後の田老の様子は描かれているが、震災前の田老は、「万里の長城」という異名も付けられた、X状のスーパー堤防と、標語「津波てんでんこ」が継承されていく原点のまちとして、よく知られていた。X型の堤防は、昭和8年の三陸大津波の後、地理的・財政的・産業的な側面から断念した高台移転の代替案として、昭和9年(1934)から昭和33年(1958年)にかけてつくられたことを端緒としている。24年かけて造られた1350mに及ぶ防潮堤の完成後、後に第2防潮堤と呼ばれる582mの防潮堤が、北に向かって「逆くの字型」となった第1防潮堤の北東に、昭和37年(1962年)から昭和41年(1966年)に造られ、さらに第1防潮堤に対して南東方向に、501mにわたる第3の防潮堤が昭和48年(1973年)から昭和53年(1978年)につくられた。こうした構造物に加えて、碁盤の目のように区画整理されたまちの四つ角に「隅み切り」と呼ばれる切り込みを入れるなど、いわゆるインフラ整備で「いのちは守られるもの」のではなく、人の力が及ばない津波からは逃げることで「いのちは守るもの」という文化が根付いていった。

「学ぶ防災」のプログラムは、5人のガイドの方によって展開されているというが、今日、ご案内をいただいた澤口強さんも、また、何度かお話を伺っている元田久美子さんも、(当然のことなのだが)人々の知恵の大切さを説く。例えば、田老第一中学校の用務員さんが、高さ10mの防潮堤の向こうに見えた水柱を見た瞬間に「ここではダメだ、直ぐに赤沼山に逃げろ」と判断したこと、などだ。なお、個人的な印象だが、何度かガイドの方の案内を伺う中で、ネガティブな語り(例えば、第1防潮堤と第3防潮堤は津波対策のために国土交通省の河川局が管轄し、第2防潮堤は高潮対策のために水産庁の管轄したが、そうした管理主体や施工方法等の違いによってもたらされたこと、など)を織り交ぜた情緒的な語りは減り、一定の「型」に落ち着いてきたように思う。ともあれ、「学ぶ防災」のプログラムの最後は、たろう観光ホテルの6階の客室で、当時、予約されていたお客さんを待ちながら、到来する津波の様子を映像で記録していた松本勇毅社長からお話を伺ったのだが、映像に遺された「はやくにげでー、津波、きったよー」と呼びかけた、ホテルの向かいに住んでおられたおばあちゃんが「今も、行方不明」と仰ったことに、逃げるということは自分のいのちを守る方法であると共に、自分のことを思ってくれる人を助ける方法であることを、改めて痛感したところである。

2013年8月4日日曜日

弱さと行動力

11時間、バスに揺られて仙台にやってきた。バスで訪れるときには近鉄バス「フォレスト号」が多かったのだが、今回はいわゆる「高速ツアーバス」から移行されたと見受けられる便であった。ともかく、制度上は8月1日から「高速ツアーバス」は廃止され、新たな「高速乗合バス」の基準のもとで運行されているため、安全上の問題は払拭されているのだろうが、快適さという点においては、上記の「フォレスト号」とは比較にならない。なぜなら、通常の観光バスと同じく4列シートで、トイレ設備がない車両のため、運転手が交代をする2時間ごとに車内灯が全点灯し、トイレ休憩の時間が取られたためである。(その一方で、トイレ設備がある車両であれば、逐次、用を足すことができることもあって、運転手交代時には乗客の乗降のために扉は開閉されず、室内灯を全点灯させる必要もない)。

ともかく、そうしてやってきた今日の仙台は、11日までの滞在の1日目でしかない。3月にお邪魔した台湾・淡江大学と立命館大学による学術交流フォーラム「TRACE 2013(Tamkang and Ritsumeikan University Academic Conference and Exchange Program 2013)」の随行のためだ。4日は仙台、5日と6日は岩手県宮古市、7日は岩手県大船渡市、8日は岩手県陸前高田市と宮城県気仙沼、9日と10日は仙台、そして11日に再び夜行バスに乗り、12日の朝に京都に戻る、という旅程である。今日はバス到着後、エバー航空の直行便で台北から仙台に入る淡江大学の学生とスタッフさんをお迎えし、仙台市内でセミナーとウェルカムパーティーが行われた。

台湾の皆さんを迎えるまでのあいだ、フリータイムとなったので、せんだい・みやぎNPOセンターにお邪魔した。ちょうど、同じビルの4階から7階へと引っ越し作業をしている只中という、多忙を究める中でお伺いしたのには理由がある。それは、2年前に亡くなられた加藤哲夫さんが、生前に記されたポストイットが見つかった、という知らせを、加藤さんから代表理事を引き継がれた紅邑晶子さんよりいただいたためである。あのやさしい、独特な字で「京都の山口くんがお坊さんになりました!! ジャ〜ン!」と記された75mm角の黄色のポストイットをいただきつつ、紅邑さんとはランチもご一緒させていただいて、加藤さんが生前好んだイタリアンのお店で、「仕事の向き不向き」や「組織の始め方と仕舞い方」や「地元への思い」などについて語り合うという、贅沢な時間を過ごさせていただいた。

そして16時からは、東北学院大学ボランティアステーションの其田雅美さんのお取りはからいで、東北学院大学と淡江大学・立命館大学との合同セミナーを開催させていただいた。私は「復興と支援のダイナミックス ~ 遠隔地から駆けつけることで紡いだ実践知」と題してお話をさせていただいたが、このたび、ボランティアステーションの所長になられた東北学院大学の郭基煥先生の「バルネラビリティー(人の弱さ)とコスモポリタン(定住をめぐる行動感覚)」についてのお話は、既刊の『震災学』第1号に綴られた内容を掘り下げていくものとして、大変興味深いものであった。郭先生の「知れば知ろうとする程分からないことが増加する、それが被災地でのパラドックス」、「最期の声への想像力を持つことが大事」、「現地に駆けつける支援者は皆、死者を救えなかった<遅刻者>だが、それが断罪されるためには被災された方への安易な理解を避ける必要がある」、「防災とは現実を直視して生を目的にした営みだが、復興とは(逆に)死から始まり死者からの視線に耐える営みである」、「災害ユートピアは東日本大震災に限って生じる現象だが、post 3.11の生き方とは公共問題への関わりを高めることだろう」、「(台湾からの皆さんを迎えているためにあえて言うならば、と前置きした上で)東アジアのバルネラビリティーは、村上春樹の言う『二日酔い状態』にあることで、『安酒で酔っぱらっているかのように、国家・国民のプライドを誇っていることではないか」といった問題提起が胸にこだましつつ、学生たちの創意工夫と趣向に充ちたパーティーを終え、この文章を綴っている次第である。

2013年8月3日土曜日

「間」と「業」

明日からの東北行きを前に、昨日、居間に新品のエアコンを付けることしした。不在にする1週間のあいだ、妻が熱中症になってしまうのではないか、と気に掛けたことが事の発端である。猛暑日が続いたこの夏、工事をお願いする電気屋さんも忙しいようで、針の穴に糸を通すようなスケジュールの中、なんとか出発に間に合うこととなった。今更の対応に「間の抜けた」こと、あるいは「間が悪い」と批判を受けそうだが、社会心理学の一分野として位置づけられている「グループ・ダイナミックス」を専門にしていることもあって、「あいだ」や「ま」について、高い関心を向けている私である。

「間」が抜け、悪かったかもしれないが、てきぱきとエアコンを設置していく業者さんの業には感服した。先の参議院選挙に対して、内田樹さんは「効率とスピードを求めた結果」と指摘したが、「効率」と「段取り」の違い、そして「スピード」と「レスポンス」は互いに似て非なるものがあるだろう、。その名も『あいだ』なる著作がある木村敏さんによれば、個々の実践や行為(これを「ノエシス」という)は、実は実践や行為の対象となるものの前後の動きを見はからって(つまり、タイミングを見て)直感的になされ、そうした相互の関係(ノエシスどうしの関係性)によって環境の中での全体構造(これを「ノエマ」という)が構築されていく、と述べている。これに習えば、効率が良く、速いスピードで物事に対応するのは一見「ノエマ的」だが、実は、個々の現象は単独では存立しえず、互いが認識可能な関係と認識困難な(つまりは背後にある)関係の性質(これを関係性と呼ぶのだろう)が冷静かつ大胆に調整され(つまり、ノエシスが起こり)、人が環境の構成要素の「間」で生き抜いている(ノエマが現れる)。

実は、昨今の「スキル」重視、別の言い方をすれば「○○力」珍重には、どうも馴染めない。それは(上記でネチネチ、悶々と記したとおり)本来、互いの関わりを通じて、環境の中で関係が調整されていくはずの事柄を、個々の力量、個々の思考に解体して決着をつけていくことを妥当としていると思われるからである。理屈の話をしているので、理屈っぽい書き方になってしまっているのは自覚しているが、要するに、「間の抜けた」ことや「間の悪い」ことをしている人には、「間が抜けていますよ」や「間が悪いですよ」とは言えないものの、関係の問題を力量の問題として受けとめてしまう人には、「あなたは間が抜けている」や「あなたは間が悪い」というように、「あなた」を責めるような言動を行わなければならなくなってしまうことが困るのだ。端的に言えば、関係の中で最適解を導かねばならないとき、個人で正解を探り当てるような思考パターンにはまってしまうと、そこには他者からの呼びかけが雑音として受けとめられかねない、ということに憂慮を重ねている。

だからこそ、「スキル(能力)」よりも「ノーム(規範)」、「マインド(精神)」よりも「ソウル(魂)」を大切にして欲しいと、多くの場面で語っている。明日から1週間ほど東北に行くのだが、そこで直面する(そして、今、直面しなければならないであろう問いのために直面している多くの問いも含めて)、現代社会に覆い被さっている大きな問いは、安易な理解こそが解決を困難にさせていく。個々が「業(ぎょう)」を磨くよりも、個々が「業(ごう)」を引き受けることが必要なのかもしれない。人間関係にモヤモヤしながら、文字をネチネチと綴って、小さな不安を抱えながら、立命館災害復興支援室の業務での東北行きへの準備を重ね、夜行バスで彼の地へ向かうのである。

2013年8月2日金曜日

祈りでも、叫びでもない、告白としての詩

例年、お盆の時期は、應典院の本寺「浄土宗大蓮寺」で開催される「詩の学校特別編」で迎えている。「それから」と題して掲げられるこの催しは、今年で12回目という。これは、毎月1回、水曜日の夜に、應典院の研修室Bにて開催されている上田假奈代さんによるワークショップの一環である。そして、この時期だけは、変則日程で開催されるのだ。

まず、18時半から大蓮寺の本堂で、秋田光彦住職による法要と法話が行われ、続いて大蓮寺の墓地にて詩作と朗読が行われる。雨の場合は、大蓮寺の墓地が應典院の「気づきの広場」から見渡せることもあって、應典院にて開催されるのだが、私が應典院に着任した2006年以降は、雨にあたったのは1回限りで、後は墓地で言葉が紡がれてきたように思う。ともあれ、墓石のあいだに蝋燭を入れたグラスが置かれ、わずかな灯りを頼りにしながら、それぞれが死を思って、詩をしたためる、それが「それから」である。今年の参加者は男性8人、女性5人の13人で、例年よりも少し、少ない目であった。

「それから」では、「住職の法話」と、「法話を受けて詩作の方法を説明する際の(上田假奈代さんによる)講話」、そして各々の「詩作と朗読」と、3つの場面で言葉が重ねられる。本日の法話は、この春に住職が末期ガンで今生を終えた方からの呼びかけで病室に訪れた折、生命の「終わり」のための準備を重ねても、いのちに「終わりはない」ことを互いに見つめ合った、という挿話から、「生死一大事(しょうじいちだいじ)」が説かれた。これを受けて、上田さんは、2年前に飛び降り自殺をしたという、かつての「詩の学校・京都校」に参加していた方のお兄さんが編纂し、このたび届けられたという、その方が遺した詩集『さきにいくよの「まえがき」が朗読された。上田さんの艶のある朗読で、「過去と他人は変えられないが、未来と自分は変えられる」などの一節が紹介されていくと、まるで、亡くなったご本人が、この世には不在の彼に「今・ここ」で呼びかけている場面に立ち会っているかのようで、何人かは感極まり、むせび泣いていた。

墓地での詩作は1時間程度で、その後30分以上かけて、それぞれが紡いだ言葉を全員を前に読み上げていった。それぞれに「リアルな死」と「リアルな生」を織り交った物語が編まれていくのだが、今年、特に印象に残ったのが、3年ぶりに参加した方の詩である。リフレインが繰り返されることで、情緒を醸し出したその詩は、「祈りでもなく、叫びでもなく」、自らの思いを家族に告白する、ある意味で激しく、ある意味で静かな、感謝と敬愛に包まれた詩であった。今年もまた、よい時間を共にさせていただいたことに、感謝と敬愛の思いをここに綴らせていただきつつ、紡がせていただいた駄文を、自らの備忘のために記させていただくこととしよう。


いのちに灯火の比喩を
今日、セミが死んでいた。
1週間のいのちを尽くして生き抜いた姿は
電柱の脇に寄せられていた
その上で、セミたちが泣いていた。

グローバル社会と言われる中では、風物詩や旬を意識しなくなってきるようだけど、
目を閉じて、耳をすまして、立ち止まって、まわりを見渡せば、
変わらない毎日と思う日常生活の只中に、
無数の死と生と、罪深くいのちをいただいて生きる人間の業と、
けなげに行き抜いたいのちの痕跡を見いだすことができる。

例えば、あの日、まちは死んだように思われた。
KOBEからは6772日、TOHOKUからは875日が過ぎたが、
一変した風景に立ち尽くしたとき、
その横で、常に、人が泣いていた。

風に揺れ、消えゆく蝋燭の灯りと、
壁を越え、射し込む駐車場のLEDと、
2つの灯りが墓場の石柱にあたる中で、
今日もまた、いのちに灯火の比喩を思い、お盆を迎えている。

2013年8月1日木曜日

験す教員、試される学生たち

「何学部の先生なのですか?」とよく訊ねられる。が、なかなか説明を理解してもらえない。私の所属は立命館大学共通教育推進機構である。学部を横断して講義を展開する教養教育を担当している、いわゆる「パンキョー(一般教養)」のセンセイなのだ。

学部に所属しない教員で、しかもサービスラーニング手法を用いた科目を担当しているために学期末試験によって評価を行わないのだが、学期末の試験の際には、学部単位で運営される監督体制の応援に駆り出される。今年は法学部による4つの科目の監督者を担った。ちなみに、昨年度まではびわこ・くさつキャンパス所属であったこともあって、スポーツ健康科学部の試験のお手伝いに声を掛けていただいた。その中で印象に残っているのは、長積仁先生による科目で、講義時に配付した「押印済(公認印、という言い方がわかりやすいかもしれない)」のA4版の色紙1枚のみ持ち込み可能、という条件がついたもので、それぞれが必死に準備して試験に臨んでいる様子を確認することができた、というものである。

私が担当したということは明らかとされていないが、試験時間割が公開されていること、また試験そのものが終了した今だから差し支えないと思われるので、今回、監督者となった科目に対する、ちょっとした雑感を記させていたくことにしよう。まず、7月29日の朝一番に行われた「政治学入門」は、圧倒的に論述への力点が高いと思われるものの、回答の書きはじめの位置を「インデント」してしまうと、結果として充分な論理展開を行えぬまま、記入欄が尽きてしまったのではないかと思われた。7月30日の午前に行われた「社会と福祉」も、語彙選択問題の後で2問の論述問題が設定されていたが、回答用紙の裏表をどのような配分で用いるか、あらかじめ目安がつけられていないと、2つの問いのあいだの理解度に差があることが歴然としてしまうのではないか、と思われた。こうした回答用紙の適切な使い方がさらに求められたのが7月30日の午後の「科学技術と倫理」で、フーコーから電子著作権まで、つまりは古典から現代のトピックスまで、幅広い事柄への理解ができていることを、単語レベル、文節レベル、そして文章レベル、それぞれに適切な分量でまとめる必要があった。

そもそも、試験によって問うことができる理解度には限界があるだろう。しかし、教員が設定する問題に対して、どのような回答がなされるのか、それによって、試験を通して問うことができる理解度というものがあることを、4科目の試験監督を担うことで再認識することができた。例えば、8月1日の「社会保障論」で「棄権」した学生は、論述問題には自らの経験をもとに手がつけられたものの、穴埋め問題には自らの知識が至らなかったのではないかと思われた。このように、試験というのは、「正解」を「解答」しなければならない問題によって絶対的に「合格・不合格」を験すことが可能であるが、それに加えて唯一の正解は存在しないものの設定された問題をどのように「回答」するかによって(極端な例だが、論述に対して散文で記しては、残念ながら緻密な論理を問う場合には不適切となるように)相対的な「優劣」が試されていくのであろう。