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2013年8月3日土曜日

「間」と「業」

明日からの東北行きを前に、昨日、居間に新品のエアコンを付けることしした。不在にする1週間のあいだ、妻が熱中症になってしまうのではないか、と気に掛けたことが事の発端である。猛暑日が続いたこの夏、工事をお願いする電気屋さんも忙しいようで、針の穴に糸を通すようなスケジュールの中、なんとか出発に間に合うこととなった。今更の対応に「間の抜けた」こと、あるいは「間が悪い」と批判を受けそうだが、社会心理学の一分野として位置づけられている「グループ・ダイナミックス」を専門にしていることもあって、「あいだ」や「ま」について、高い関心を向けている私である。

「間」が抜け、悪かったかもしれないが、てきぱきとエアコンを設置していく業者さんの業には感服した。先の参議院選挙に対して、内田樹さんは「効率とスピードを求めた結果」と指摘したが、「効率」と「段取り」の違い、そして「スピード」と「レスポンス」は互いに似て非なるものがあるだろう、。その名も『あいだ』なる著作がある木村敏さんによれば、個々の実践や行為(これを「ノエシス」という)は、実は実践や行為の対象となるものの前後の動きを見はからって(つまり、タイミングを見て)直感的になされ、そうした相互の関係(ノエシスどうしの関係性)によって環境の中での全体構造(これを「ノエマ」という)が構築されていく、と述べている。これに習えば、効率が良く、速いスピードで物事に対応するのは一見「ノエマ的」だが、実は、個々の現象は単独では存立しえず、互いが認識可能な関係と認識困難な(つまりは背後にある)関係の性質(これを関係性と呼ぶのだろう)が冷静かつ大胆に調整され(つまり、ノエシスが起こり)、人が環境の構成要素の「間」で生き抜いている(ノエマが現れる)。

実は、昨今の「スキル」重視、別の言い方をすれば「○○力」珍重には、どうも馴染めない。それは(上記でネチネチ、悶々と記したとおり)本来、互いの関わりを通じて、環境の中で関係が調整されていくはずの事柄を、個々の力量、個々の思考に解体して決着をつけていくことを妥当としていると思われるからである。理屈の話をしているので、理屈っぽい書き方になってしまっているのは自覚しているが、要するに、「間の抜けた」ことや「間の悪い」ことをしている人には、「間が抜けていますよ」や「間が悪いですよ」とは言えないものの、関係の問題を力量の問題として受けとめてしまう人には、「あなたは間が抜けている」や「あなたは間が悪い」というように、「あなた」を責めるような言動を行わなければならなくなってしまうことが困るのだ。端的に言えば、関係の中で最適解を導かねばならないとき、個人で正解を探り当てるような思考パターンにはまってしまうと、そこには他者からの呼びかけが雑音として受けとめられかねない、ということに憂慮を重ねている。

だからこそ、「スキル(能力)」よりも「ノーム(規範)」、「マインド(精神)」よりも「ソウル(魂)」を大切にして欲しいと、多くの場面で語っている。明日から1週間ほど東北に行くのだが、そこで直面する(そして、今、直面しなければならないであろう問いのために直面している多くの問いも含めて)、現代社会に覆い被さっている大きな問いは、安易な理解こそが解決を困難にさせていく。個々が「業(ぎょう)」を磨くよりも、個々が「業(ごう)」を引き受けることが必要なのかもしれない。人間関係にモヤモヤしながら、文字をネチネチと綴って、小さな不安を抱えながら、立命館災害復興支援室の業務での東北行きへの準備を重ね、夜行バスで彼の地へ向かうのである。

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