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2013年4月9日火曜日

単位は取るもの?得るもの?

2013年度の春の講義が始まった。もろもろの事情で外部のお仕事をグッと減らさせていただいたのもあり、年度を通して非常勤講師の立場で関わらせていただくのは、同志社大学大学院総合政策科学研究科の「臨床まちづくり学研究」のみである。よって、これから半年は、基本的に衣笠キャンパスでのみ、講義を担当させていただく。この「基本的に」と掲げているのは、私がサービスラーニングセンターの科目を担当しているためであり、それらが教養教育という枠組みで展開されているゆえ、一部はびわこ・くさつキャンパスや、時にはキャンパスプラザ京都などでも場が設けられる可能性があるためである。

何より、サービスラーニングという教育手法を取り込んだ科目は、時間割に固定しにくい学び方でもある。それでも、立命館大学サービスラーニングセンターでは、いわゆる実習系科目だけでなく、座学系・演習系に位置づけられる時間割を固定する科目も開講している。そして今日から半年間、私は火曜日の5限に衣笠キャンパスで開講されている「地域参加学習入門」、6限に「シチズンシップ・スタディーズII」を担当する。いずれも、講義名だけでは中身と深みが分からない科目であろう。

5限「地域参加学習入門」(明学館96)は220人程、6限「シチズンシップ・スタディーズII」(敬学館234)は10名の講義だ。大規模科目では学び方を学び、小規模科目では「活動家」と誘う塾のような場づくりを目指す。例えば、5限の「地域参加学習入門」では、知る人ぞ知る「石を拾う」ワークを織り込んだ。そして、6限の「シチズンシップ・スタディーズII」では、アニメ版の「のだめカンタービレ」第7話(Lesson 7)を用いて、指揮者とコンサートマスターの関係、そしてオーケストラのメンバー以外が指揮者に投げかける問いがオーケストラ全体の環境を整える方法を発明させた、という物語を借りて、「創発」と「暗黙知」に迫るワークを実施した。

大学で教える仕事をさせていただいているのは、2003年に、田村太郎さんのピンチヒッターで、甲南女子大学の文学部・多文化共生学科の「NGO論」を担当させていただいて以来だが、そのときに「教える側」が「ただ伝える」だけでは「伝えたいことが伝わらない」だけでなく「予想だにしないことが伝わってしまう」という実践知を得た私は、どのような場面でも、受講生の学びを大事にしなければ、と心して臨んでいるつもりである。そのため、今日もそれぞれの講義では、受講生からの言葉を得たのだが、ふと、ある学生が、楽して単位を取ることができて、「当たり」といった表現を用いているのを目にした。当該学生に伝わるかどうかわからないが、学びは「楽しい」方がいいし、そもそも何かが「わかる」のは「楽しい」ものだが、決してそれは「楽」な「手段」で済ますことでは実感を得ることはできず、「こうありたい」という自己変革への「目的」を見いださなければ、学習したとは言えないのである。ふと、6限の終了後、さしずめ「夜学」のような雰囲気に包まれたキャンパスを出て、小さな学生街のように並んでいる食堂で、受講生たちと夕食を食べた後、そもそも「単位は(学生が大学から)取る」ではなく「単位を(大学から学生が)得る」ものなのではないかと、学びとは何かを考える講義初日となった。

2013年4月8日月曜日

春という季節

「春はお別れの季節」と歌ったのは「おニャン子クラブ」だが、私にとって春は「出会いと出会い直し」の季節である。例えば大学の科目の受講生などは、新たな出会いの象徴だ。その中でも、昨年度の講義を受けて、より深い学びを得たいと、私が担当する別の科目を受講する学生にも出会うことがある。この場合、新たな年度での出会い直し、となる。 

今日は、より正確に言えば今朝は、この「出会い直し」を含む、受講生との「出会い」のための選考を行った。立命館大学サービスラーニングセンターの科目のうち、現場との関わりを通じて学ぶ(すなわち、サービスラーニングという教育手法を用いた)科目は、「予備登録」が必要とされているためである。予備登録という言葉ではピンと来ないのなら、register(登録)のためにpreparation(事前準備)が必要な科目、と捉えていただいたらいいだろう。そうしてentry(応募)された内容に対して、一部は受入先からの助言をいただきながら、受講の可否を判定していくのである。

予備登録では、短い分量ながらも、なぜ、その科目を受講したいのかという「物語」を問う。ここで「動機」を問いかけているわけではないところが重要である。なぜなら、動機は後からついてくるためだ。もっと言えば、続ける理由(いわゆるモチベーション、すなわち動機づけ)を見いだす過程において、過去を想起する中で、「来た道」と「行く道」をつなぐ上で、その「原点」を回想的に語るのが「動機」だと、私は捉えている。よって、選考にあたっては、「私こそが相応しい」という自己アピールの度合いよりも、「仲間と共に悩んでいきたい」という(学びの)環境とのフィット具合を、受講可否を判断する観点としている。

こうして、大学における受講生との出会いや出会い直しだけでなく、多様な活動の現場においても出会いや出会い直しを経験する。例えば、今日の夜は、2006年度から携わっている、インドネシア・ジョグジャカルタとの「手仕事・手作業・テクノロジー」の「コラボ—レーション」を進めるプロジェクト「てこらぼ」の例会であった。さしずめ月例会のように多彩な顔ぶれが会するのだが、今日は長らく欠席が続いていた方の参加を得たので、改めて新たな「何か」を生み出すためには何が必要なのかを、後席も含めて活発な議論を行うことができた。ちなみに昼には、この半年間お世話になるTA(ティーチング・アシスタント)さんとの出会いもあり、そこでは彼の指導教員と間接的に出会い直したりで、何とも、いい春を迎えたものだと、心地よい酔いに包まれて家路についたのであった。

2013年4月7日日曜日

恩送りの実験、始めます。


訳と縁があって、住まいが大阪から京都に変わることとなった。ついては、もろもろの家財の整理を始めた。そんな中、捨てるのも気がひけるし、ヤフオク!(このたび、Yahoo!オークションから名称変更…)に出すのも少々手間、Amazonのマーケットプレイスの「商品」にする程ではない、というものを、「友達」に譲っててみようと考えた。ということで、Facebook上での、小さな社会実験を始めることにした。

恩送りとは、このところ、私が関心を向けて来た概念である。以前から、小説から映画になった作品『ペイ・フォワード:可能の王国』にも興味を抱いていたし、少なくとも江戸時代くらいまで時間を遡れば、お互い様の暮らし方は、特別なものではなかった。しかし、特に東日本大震災の支援に携わる中、渥美公秀先生の「被災地のリレー」という指摘も相まって、実感をもって頻繁に語りの中で用いるようになった。それは「恩返し」という二者関係ではなく、複数の人々のあいだで「恩」を送りあうことが「縁」が結ばれると思う場面に立ち会ってきたためである。

私が専門とするグループ・ダイナミックスにはいくつかの流儀があるが、中でも、集合体の雰囲気(集合流)をよりよい方向に向けていく(ベターメント)をもたらす協働的実践を方法として採っている私たちは、「規範の伝達」という観点に着目する。そこでは、社会学的身体論が理論として用いられる。平明な解説は杉万俊夫先生が行っているが、重要なことは「規範」の生成、維持、発展、消去にあたっては、集合体のメンバーのあいだで「贈与と略奪」が頻繁かつ濃密に繰り返される、という点だ。「贈与と略奪」とは、やや乱暴な表現として受けとめられるだろうが、他者との関係構築は「不等価交換」でも、ましては「等価交換」の繰り返しでもない、と捉えるのである。

交換という論理においては、他者とのあいだで価値基準が存在する、という視点が根差している。よって、等価交換も不等価交換も、交換する側とされる側のあいだで、例えば金銭的価値などが象徴するように、気付くか気付かざるかは問わずに「共通の価値の尺度」が前提とされる。よって「恩返し」は「感謝」や「後ろめたさ」など、一定の価値基準のもとでなされると捉えることができ、その一方で「恩送り」は一方的に相手の了解可能性を鑑みられることなく贈与され、そうしてなされる贈与を一方的に受領し、我が事物としていくのだ。互いに一方的な営みの連鎖の規模が集合体の内部において拡張していくことで、より「よい」状態がもたらされていく、そんなグループ・ダイナミックスの観点を盛り込み、当面、以下のルールに基づき、ささやかな恩送りの事起こしを始めてみることとする。


1)写真付きの投稿をアップする。
2)コメント欄で質問を受け付ける。
3)譲られる方は原則として早い者勝ちとする。
4)「お譲りします」と山口がコメントした時点で受付終了とする。
5)山口のコメントまでに複数の方が名乗り出ていた場合、複数人のあいだで「譲渡権?」の主張が可能とする。
6)譲渡先となった方は送付先を「メッセージ」で送付する。
7)送料については、定形封筒およびレターパックに入るまでであれば、山口が負担する。
8)レターパックまでに収まらないものは、料金着払で発送する。
9)小物については定形郵便かレターパックかについては、譲渡者は選ぶことができない。
10)このルールが変更となった場合には、この投稿に上書きをして、改定した内容を明示する。