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2021年1月31日日曜日

巡って検める

午前中は浜松市の佐鳴湖公園に足を運んだ。浜松市創造都市推進事業補助金のアドバイザーとして、「Share The Park」による採択事業の現地視察のためである。12月の第1回にも参加させていただいており、その際に菊川市役所で昨日開催されたシンポジウム「ふじのくに地域芸術祭セッション~なぜ「まちづくり」にアートが必要か?」へのお誘いをいただいた、という具合である。COVID-19の状況次第ではあるものの、2月28日に予定されている次回もお邪魔し、マルシェとフリーペーパーの発行がどんな成果をもたらすか、これからも定点で見つめていきたい。

事業のアドバイザーだからと言って、必ず現地に訪問する必要はない。しかし、現場に浸ることによってこそ、「あのときのあれ」について語り合うことができる。フィールドワークの醍醐味はそうして同じ空間で同じ時間を過ごすことにあり、一方で同じ空間で同じ時間を過ごしながらも全く異なった印象や見解が抱かれることによって、実践の意味や価値について語り合うことができる、そう捉えている。とりわけ、小規模のアートプロジェクトにおいては、仕掛け人がプレイング・マネージャーとしてではなく、マネージング・プレイヤーとして立ち居振る舞っている様子が気がかりで、関心の共有を通じてお仲間が増えていくプロセスが丁寧に展開されていくように助言を重ねる上で、あの日あの時を一緒に想い起こすことができるようにしておきたい、そんな思いでフットワークを軽くしているつもりである。

こうしたフットワークがネットワークを豊かにし、何よりネットワークが豊かになることでアイデアやコンセプトもまた豊かになる、という実感がある。そしてその原体験は高校1年の際の現代社会の授業に通じていると確信している。地理の教科担任でもあり、かつクラス担任でもあった先生の授業は、同級生と会う度に決まって話題となる。そして、その授業内容のみならず先生の知力と行動力(例えば、年越し蕎麦を京都に食べに行って新幹線の車内から初日の出を見にいくという旅行プランを提示されるなど)は、結果としてクラスの雰囲気を良い方向に下支えするものとなり、2年生への進級時には文系・理系に再編されるために「ホームルーム解散式」なるお茶飲み会が行われ、卒業後にもわざわざ1年生のクラスで同窓会が開かれる程である。(実際、卒業から20年が経った2014年に開かれた学年全体の同窓会において「オリンピックの年に同窓会をしよう」と改めて約束し、2016年と2020年に開催された。)

今日は浜松市の補助事業のフィールドワークの後、恩師の先生のお宅を訪ねた。というのも、昨年の同窓会の後でお電話をいただき、私の大学での仕事内容やニコンのカメラを愛用してきたことを踏まえて、先生のコレクションの一部をお譲りいただく、というお申し出をいただいたためだ。大切なコレクションであることは高校時代にも伺ったことがあったものの、いわゆる断捨離の一環でもあるという語りにささやかなさみしさを抱いたものの、コロナ禍が落ち着いた折には京都のご案内をすることを約束して失礼をさせていただいた。年末年始は叶わなかった墓参や懐かしのカレーハウス(1963年創業)での黙食ランチも含め、心地よい懐かしさを味わう充実の帰省となった。

(iPhone XR, 4.25 mm<26mm>, f/1.8, 1/60, ISO 125)




2021年1月30日土曜日

かつてのホームがアウェイになって

菊川市役所に伺った。東館で開催のシンポジウム「ふじのくに地域芸術祭セッション~なぜ「まちづくり」にアートが必要か?」に参加のためである。このシンポジウムには「NPOプレゼント講座」と掲げられており、静岡県労働金庫による静岡県労働者福祉協議会を通じた社会貢献の取り組みのようだ。きょうとNPOセンターでも、近畿行動金庫と京都労働者福祉協議会の皆さんから、多々、ご支援をいただいていた。

今回は登壇者のお一人からのお誘いで参加を決めた。「地域芸術祭セッション」と位置づけられたこともあって、「するがのくに芸術祭 富士の山ビエンナーレ」(富士の山ビエンナーレ実行委員会・谷津倉龍三さん)、「遠州横須賀街道ちっちゃな文化展」(遠州横須賀倶楽部、横山忠志さん)、「原泉アートデイズ!」(原泉アートプロジェクト、羽鳥祐子さん)、「まち×人×アートプロジェクト」(アートコラールきくがわ、笠原活世さん)、「UNMANNED無人駅の芸術祭/大井川」(クロスメディアしまだ、大石歩真さん)による話題提供がなされた。2時間で5団体の事例紹介と相互討論という、率直な印象としては時間進行に相当の工夫が求められる構成だった。事実、5分とされていた事例紹介は5分程度ならぬ10分程度までなされる団体もあり、後半は「他の芸術祭と比べた際の特徴(キャッチフレーズ)」、「地域で芸術祭を行うメリット」、「原動力」、「コロナ禍への対応」、そして最後に「なぜまちづくりにアートが必要か?」が進行役からの問いが投げかけることで発言が引き出されていった。

終了予定時刻の約3分前にフロアからの質問の時間となり、お1人から3つ投げかけられた。(1)県の文化プログラムの評価への期待、(2)地域の方々の位置づけ、(3)アーティストの声の3つだった。正直、これらの質問はもちろん、パネルディスカッションでの問いも、簡単に言葉にできないものばかりである。

ふと、越後妻有アートトリエンナーレに続いて徳島県上勝町での国民文化祭で制作をされた日比野克彦さんが、かつて現代美術によるアートプロジェクトの意義について「ホームとアウェイの反転」と仰っていたことを思い出した。というのも、私自身が今、かつてのホーム(静岡県)がアウェイになっており、そんな私が浜松市の「みんなのはままつ創造プロジェクト」や「創造都市推進事業補助金」の運営に携わる機会をいただけているのは、改めて、アーティストがホームグラウンドとして活躍できる環境を整えることへの貢献だ、とその意義を確認することができた。原研哉さんは「未知化(Ex-foration)」という素敵な表現を行っているが、普段、言葉を使う仕事(大学教員・研究者)をしているからこそ、簡単に言葉で整理できないことに丁寧に向き合っていくこととしたい。明日は、この場にお誘いいただいた羽鳥さんが浜松市で取り組んでおられる佐鳴湖でのプロジェクトにお邪魔する。


深蒸し菊川茶 イメージキャラクター 「ちゃこちゃん」は小山ゆう先生の作品とのこと
(iPhone XR, 4.25mm<26mm>, f/1.8, 1/151, ISO 25)


2021年1月29日金曜日

ホームのポスト

京都駅のホームには郵便ポストがある。全国でも唯一のようである。今日は2番・3番ホームのポストを久しぶりに利用した。誰が使うのだろう、と思うときもあったが、少なくとも私も使ったし、直後にお一方、列車を降りた後で封書を投函されていた。

2番・3番ホームは東海道線(琵琶湖線)と湖西線の上り列車が発車するホームのため、特に学生時代に上京区に引っ越してからは、立命館大学びわこ・くさつキャンパスや草津市役所などに向かう際によく利用した。また、入学当時は山科区に住んでいたため、京都市内中心部で用事を済ませた後、自宅に帰る際にも利用していた。もっとも、山科区も京都市に属するものの、通常、京都市内と言えば、いわゆる田の字と呼ばれる四条河原町から烏丸御池のエリアを思い浮かべる。ちょうど4回生のとき、自宅から最寄りの御陵駅から三条京阪までの京津線が廃止となってしまったが、青虫のような風体の路面電車(京阪80系)で市内へと出かけていったのは、今となっては良い思い出である。

京都駅のホームのポストを利用したのは、所用で実家に帰省するためだった。京都で投函しておけば早く着くと考えての判断であった。もちろん、京都駅までにポストがなかったわけではないが、ふと、ホームのポストの風景を想い起こしたため、「あそこから出してみよう」と思ったのである。こと、電子メールだと、かつてグレーのISDN対応なグレーのディジタル公衆電話でモデム接続して送ったことなどを懐かしく思うことはあるが、あまり場所との紐付けされることはないだろう。

わざわざ在来線のホームで郵便物を投函し、新幹線にて浜松まで向かった。浜松駅からは徒歩5分ほどのアクトシティ浜松にある浜松市文化振興財団の事務局に足を運んだ。静岡県磐田市で生まれ育ち、1994年4月に大学に進学したため、1994年10月に開業に迎えたアクトシティに対しては、古くからあるお店に立ち退きが求められ、巨大な建設工事が進められていったという記憶の方が根強い。あれから四半世紀あまり、アクトシティもまた、年齢を重ねていることを実感する。アクトシティでの浜松アーツ&クリエイションのミーティングを終え、実家に立ち寄ると、介護保険を使って玄関先のバリアフリー化をするリフォームが行われていた。

普段なら常に人が行き交うホームも緊急事態宣言ゆえか閑散と
(iPhone XR, 4.25mm<26mm>, f/1.8, 1/120, ISO80)

2021年1月28日木曜日

まちの歴史に学びまちの歴史を刻む

私が立命館大学で担当している授業は、教室だけで学びの場が収まらない少し不思議なものが多い。通常、Science Ficitonの頭文字とされるSFを「SUKOSHI FUSHIGI」と銘打って、まんがの世界をこどもだけに留めずに、青年や大人にも拡張させていったように、教える/教わるという教育システムから、学ぶスタイルへとモードの転換が図られるよう、いくつか工夫を重ねてきている。その基軸となるのが、米国を中心に発展してきたサービス・ラーニングという教授法である。この10年ほど、集団において他者と関わり合う活動(サービス)を通して学び成長する(ラーニング)ことを、多様な現場において展開していく企画と運営を担ってきている。

今日は朝から、そうしたプログラムの一つ、時代祭応援プロジェクトにおける1年のフィードバックと継続実施を協議するミーティングが開催された。正確に言えば、シチズンシップ・スタディーズIのGAクラスを受講し、レポートを提出した学生のレポートを持参して、その内容の読み合わせをした上で、来年度に向けたあり方を検討した。科目自体は2005年に文部科学省の現代的教育ニーズ取組支援プログラムの採択を契機に「地域活性化ボランティア」という科目名で開設され、時代祭応援プロジェクトは当時スタッフをされていた方の発案のもと現場の方々の理解と協力を得て、現在まで継続されてきた息の長いプロジェクトである。2014年のみ役員体制の見直しによって一時中断したものの、長きにわたって安定的に開設されてきたプロジェクトではあるが、立命館大学の教養教育改革の反動で、2021年からは新たな形態で(具体的には、夏期休暇中の活動を授業に関連する学習時間から外し、秋セメスター内のみを授業内外の学習時間として位置づける)開講されることになったため、今日はそのための基本的な考え方を改めて確認し、実質的な活動時間が短くなる中でも質的な充実はいかにして可能かの意見交換を行った。

ミーティングを終えて家路に就こうとしたとき、近くにハマムラのロゴマークが掲げられていることに気づいた。恐らく京都ではよく知られたお店の一つで、私の世代であれば河原町三条下るにあったことを覚えている人は多いだろうし、その後2014年に府庁前に移転したお店を目にした人も一定数いるだろう。ちなみにハマムラは2つの系統に分かれているようで、みうらじゅんさんの「シンスブーム」になぞらえれば「since 1924」と記している「京の中華ハマムラ」は創業者の濱村保三さんのお孫さんにあたる弓倉和夫さんから弓倉多佳夫さんに事業承継がなされて京都駅八条口の近鉄名店街とイオンモールKYOTOに店舗を設け、府庁前の「京都中華ハマムラ」は濱村吉行さんが河原町店からの味を継承されているという。このハマムラさんのロゴマークは、京都新聞の「社名&ロゴ物語」で紹介された記事(G-Searchによると2015年1月25日の朝刊6頁)には「顔をデザインした大学生の案」とあったが、府庁前のお店のメニューでの説明書きが紹介された写真には「一般公募し立命館大学生が作った」とあって驚いた。

まちの歴史に学ぶことは多いのは当然のことであるが、学生がまちの歴史を刻むこともあるということを、このハマムラさんの顔のマークが気づかせてくれる。午後は立命館大学のZoomミーティングとウェビナーに相次いで参加したが、果たして現代の学生が、100年先の未来において残すことができるものは何か。そんな観点からも、大学とまちの関係について改めて考えてみたい。ちなみに、ミーティングとウェビナーのあいだに、新潟県小千谷市の塩谷集落の共同研究のメンバーでのZoomミーティングも行ったのだが、そこでは確実に新しい世代の到来を感じるところもあり、若くない自分を見つめる機会ともなった。


府庁前のお店ではSinceではなく創業大正十三年を用いているようで
(Leica M9-P, 35mm, f/9.5, 1/350, ISO400)


2021年1月27日水曜日

好循環と悪循環の独立ループ

水曜日の朝、今日もまた京阪電車で大阪に向かった。英会話のクラスへの出席のためである。私は京都からの参加だが、受講生の中にはさらに遠方からご参加の方もおられる。そのため、緊急事態宣言のもとでの開講にあたり、来週からはGoogle Meetを用いた参加も選択肢として示されることになった。

今日のお題は「a crisis for women of color」で、米国ではCOVID-19により、特に黒人・ヒスパニック系の非正規雇用の女性は男性に比べて職を失っている傾向が顕著となっているというものだった。統計データに加えて、聖書(マタイによる福音書25章29節「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」:新共同訳)にちなんで社会学者が名付けたという「マタイ効果(Matthew effect)」という言葉が紹介されていた。貧富の差、男女の差、人種の差、それぞれの格差の広がりに対する表現である。好循環と悪循環、そのどちらかのループに入っていると、そこから抜けることは困難な状況にある、と著者であるケンブリッジ大学のダイアン・コイル(Diane Coyle)先生は指摘する。

ちなみに先週はまだ設置されていた京阪京橋駅ホームのゴミ箱は、既に撤去されていた。1月10日付の「まいどなニュース」の記事では、京都新聞社の記者による京阪電鉄の広報への取材から理由は「段ボール箱やフライパン」といった「不正に持ち込まれる家庭ごみにある」と示されている。虚構新聞の記事ではない。これくらいいいだろう、という軽い気持ちが悪循環をもたらした例としても捉えられるものの、コロナ禍においてはそうしたゴミ処理コストは経営面にも一定、重くのしかかるところがあっただろう。

京阪電車の駅からゴミ箱が撤去されたことにより、特に京橋駅では固有の困り事が発生することに今日、気づかされた。それは京橋駅の上りホームの売店ではフランクフルトが名物として売られているためである。ただ、中之島線から特急へと乗り換える折、野菜ジュースなどを購入して会計を済ますと、その横に食べ終わったフランクフルトの串入れがが置かれていて、許可を得て撮影をさせていただいた。きっと、フランクフルトが好きそうな表情を浮かべていたのだろうと、店員の方の反応から想像しつつ帰路につき、立命館大学の「Withコロナ社会 提案公募研究プログラム-Visionaries for the New Normal-」に採択されたプロジェクトのミーティングに参加した。

「串はこちらへ」の字が「お持ち帰りできます!」より目立つ印象
(Leica M9-P, 35mm, f/9.5, 1/30, ISO400)


2021年1月26日火曜日

超絶技巧

コロナ禍でZoomを活用する機会が圧倒的に増える中、もっと使いこなしたいという欲求に駆られることがある。2016年、米国出張と重なった会議に参加するため知ったZoomは、その通信容量の圧縮率の高さ、それに伴う安定性の高さ、さらにはソフトウェアのバージョンの違いによって接続困難となる可能性の低さ、さらにはURLの共有だけで簡単にミーティングへの参加を呼びかけることができるという障壁の低さ、これらが相まって、それまではSkypeを使ってきた場面に積極的に活用をすることにした。もちろん、そうした簡便さの反動としてセキュリティの脆弱さが指摘され、Zoom爆弾なる言葉も生まれた2020年だった。今ではセキュリティ面で堅牢さを高めるための設定も、またさらなる新機能も順次盛り込まれてきている。

Zoomそのものはソフトウェアであるから、それを使いこなすにはハードウェアの充実も選択肢となる。ハードウェアを投入することによって、ソフトウェアレベルで対応していたことも、より早く確実に操作できるようになるためである。例えばマイクとアンプをつなぎ、カメラを増やし、スイッチャーでコントロールし、さらにエンコーダーを内蔵した配信機器でストリーミングすれば、視聴者にはより聞き心地によいコンテンツに仕上がるだろう。ただ、少なくとも今年度は、いわゆるワンオペでの配信にあたり、電池の残量を気にしなくて済む組み合わせを重視した機材の組み合わせを追究することにした。

昨日の同志社での「コミュニティ・デザイン論」でも、また本日の午前中に行われた大阪府特定非営利活動法人条例指定制度検討審議会による広報セミナーの収録でも、ハードウェアはこれまで用いてきているWebカメラ(logicoolのC910)とピンマイク(ShureのMOTIV MVL)のみで、後はZoomに搭載された機能で対応した。スイッチャーを用いない代わりにギャラリービューとスピーカービューを効果的に切り替え、ピン止めの追加と削除を使うことでカメラ切り替えをしているかのような画づくりを行った。昨日の授業では、教室で三密対策がなされていたため、スピーカーマイク(YAMAHAのPJP-20UR)を教室後方に置いて、必要に応じてマイク入力を切り替えることで対応した。これにチャットや画面共有や投票を組み合わせて進行する力量は、この1年でかなり高まったと自認している。

今日は大阪府のセミナーの収録と、1週間続けてきた立命館大学教養教育センターのオンライン相談サロンの合間に、気分転換にと近所のお店でランチをとることにした。しかし、目当てのお店は緊急事態宣言への対応で、1月25日から昼の営業をお休みされていた。落胆して家に戻ることにしたものの、その道すがら、指定のスペースに車を収めるには相当の力量を必要とすることが一目瞭然の風景に出会った。長年にわたってその腕を磨いてこられてこそ、超絶技巧が何気なく披露できるのだろうと想像しながら、最終日もまた少人数で幕を閉じたサロンにて、参加いただいた先生のご経験に耳を傾ける中、改めて日常に丁寧にかつ謙虚に向き合っていきたいと内省を重ねた。

縦列駐車で入庫するにしても電柱が曲者で相当の注意と力量が必要
(iPhone XR, 4.25mm(26mm),  f/1.8, 1/716, ISO 25)


2021年1月25日月曜日

一つの節

朝から予定が続く1日だった。午前中は一般社団法人ならはみらいと立命館災害復興支援室との連携で取り組んだ「ならは31人の“生”の物語」の2019年度の参加学生とのZoomでのおしゃべりだった。この3月に卒業を控える中、今年度は現場に足を運ぶことができなかったことを受け、今後、何にどう向き合っていくことが現地の方々と結んだ約束を守っていくことができるか、といったことが論点となった。今年度、数え切れない程のZoomミーティングを行ってきたが、カメラオンでの対話で、手元でメモが取られている様子やこちらから投げかけた問いに解釈の難しさに悩む表情も垣間見る、そうした場面は今日の他にはほとんど出会わなかったように思う。

午後は鍼灸院での施術で凝り固まった身体をほぐしていただいた後、立命館大学教養教育センターの会議に出席した。こちらもまた、Zoomでの開催である。立命館大学では京都(衣笠)・滋賀(びわこ・くさつ)・大阪(大阪いばらき)と3つのキャンパスで学部の教育が展開されているため、コロナ禍の以前から各キャンパスをSONYのビデオ会議システム(IPERA)で接続して基幹会議を実施するという方法が採られてきた。先日、サービスラーニングセンターの定例会議は、次年度以降もZoomでの開催を基軸とすると決められたのだが、きっと、学内の多くの会議で同じような方針となるのではないかと予想している。何より、Zoomなど各自の端末からの参加の場合は資料がPDFで提供されるため、事務局の皆さんが事前に机上配布資料として用意する手間を省くことができ、一方で全文のテキスト検索により会議の面だけでなく後日にもまた、重要な点を参照しやすくなる。

会議の終了後は、ほぼ休みなく立命館大学教養教育センターによる「2021年度教養科目授業実施に向けたオンライン相談サロン」と続いた。本日は4名の参加だった。このサロンは1月13日付で教養科目担当の先生方に送信された「『2021年度の授業実施に関する基本方針』を受けた教養科目の授業実施方針について」という文書の内容をもとに、シラバス執筆にあたっての相談を受ける、という狙いのもと、1週間にわたって実施してきたものの、この1年のオンライン授業の経験のもと、あまり悩みや迷いは抱かれていないのかもしれない、と受け止めている。しかし、本日ご参加いただいた方も含めて、参加いただく方には2021年度の授業の設計よりも、2020年度に行った方法が果たして妥当なものだったのか第三者からの評価を得たいという観点に重きが置かれているように見受けられる。

サロンの後は、同志社でのリレー講義「コミュニティ・デザイン論」(2007年から2009年までは学部向け、2010年からは大学院科目に変更、なお2015年度は休講)に出講した。15回目は受講生のプレゼンテーションで、観光公害への対応、町内会運営の刷新、マインドフルネスと地域資源の活用、市民の行政参加、保護終了児童の継続的なケア、といった観点でレポートで執筆を予定している内容が紹介された。この授業は同志社大学大学院総合政策科学研究科と大阪ガス(株)エネルギー・文化研究所(略称:CEL)が教育研究協力協定を結んで開設しているため、受講生らのプレゼンテーションに対し、関西経済連合会の「関西ビジョン2030」の検討会に参加されているCELの池永寛明顧問による濃密なコメントが重ねられた。ちなみに今年度をもって長らく科目の代表者だった新川達郎先生が定年退職を迎えるということもあり、ささやかなお礼とお祝いを、と思っていたところ、逆に新川先生から福豆のプレゼントをいただいた。


退職記念講演は今里滋先生と共に2月20日にオンラインで開催
(iPhone XR, 4.25mm(26mm), f/1.8, 1/60, ISO 64)

2021年1月24日日曜日

開かれた場を開くということ

目は口ほどに物を言う、とはよく言ったものである。もちろん、目が雄弁に語るわけではない。てんとう虫コミックス版ドラえもん2巻に所収「オオカミ一家」で触れられる「目でピーナッツをかむ」のセリフではないが、目が口になることはない。ただし、目は口ほどに物を言うとは、こうして落語のくすぐりのように有り得ないことを言っているのではない。

今日もまた、夕方から立命館大学教養教育センターによるオンラインサロンが開催された。しかし、参加者は0だった。言うまでも無く、1時間半のうち、誰一人として来なかったのである。要は百聞は一見にしかず、という言葉があるが、Zoomの「参加者」の数字が終始「1」のままだった状態を終了時に見ると若干気が滅入るところがあるのだが、何より、誰も参加しなかったため、40分が経過すると何も動きがなかった時間(アイドルタイム)として自動終了されることになったのも、企画側として自らのセンスに鈍りや翳りがないかと内省を重ねてしまう。

かつて、大阪・天王寺の浄土宗寺院「應典院」にて、「チルコロ」と題したトークサロンを開催していた。毎月第3木曜日に開催されてきた「いのちと出会う会」と同じ曜日と同時刻に、何らかのテーマを掲げておけば、誰かやってくるのではないか、と企図したのである。「チルコロ(circolo)」とはイタリア語で、英語ではサークル(cirlcle)となる。龍谷大学で市民メディアをテーマに研究する松浦さと子先生の研究プロジェクトに参加させていただいて、イタリアに調査に訪れた折、ミラノの社会センターでcircoloと呼ばれる同好会が地域住民と公共(的)施設とのつながりを生み出している、ということに感化されたものであった。

應典院では「呼吸するお寺」と掲げていたこともあって、いかにして開かれたお寺であり続けるか、この問いに向き合い続けてきた。当然のことながら単に門が開いているだけでは、開かれたお寺ではなく、ただ開いているお寺、に止まる。開かれた状態を維持し、そこに集う人たちによって何らかの意味や価値が生み出されることが重要である、と捉えた。今回の立命館大学教養教育センターのオンラインサロンにも通じるところがあるのだが、26日火曜日まで、まずは門戸を開いて、それぞれの悩みや迷いが寄せられるのを待つことにしたい。


1999年に『「聴く」ことの力』に続き鷲田清一先生は2006に『「待つ」ということ』を刊行
(Nikon D40, 40mm, f/3.2, 1/6, ISO400)



2021年1月23日土曜日

愚者、筆を選べど…。

遅筆で乱筆で悪筆を自認している。筆が遅いのは早く書き始めればいい。筆が乱れるのは丁寧に筆を運べばいい。そして筆が悪いのは良い筆に変えればいいかというと、そういう意味ではない。

かつて板書の字に対して、学生の感想として「アーティスティックですね」と記されていたことがある。最大の配慮の上でのコメントだが、要するに悪筆と言わずに悪筆だということへの指摘である。悪筆の反対は達筆であり、これでも小学校の頃は習字に通っていたものの、その道をきちんと修めるころはできていなかったようである。ただ、留め、羽根、払いに気遣えばいいということ、さらには文字のバランスを整えればいいということ、それらに対する理解はできているつもりである。

そんななか、モノにはこだわりがあるため、いわゆるモノフェチとして、こどもの頃から文房具選びにはこだわってきた。中でも、小学生の頃に発売されたSMASH(ぺんてる製)は、今なお手元で活躍している。だいぶくたびれてきているものの、0.5mmのシャープペンシルはPERSON'Sバージョンも持っている。ちなみに、2016年に日本でも開催された巡回展「THE SECRET LIFE OF THE PENCIL」では、日本ではアサヒビールの建築で知られるフランスのデザイナー、フィリップ・スタルク(Philippe Starck)さんもSMASHを愛用しているようで、私もまた同じ0.9mmのシャープペンシルもペンケースに入っている。

かつてSMASHはボールペンも発売されており、今日はそれで遅ればせながらの寒中見舞いに一言添えていった。昼過ぎと夕方のZoomミーティングの際には、まるで早弾きの楽器を奏でるようにしてタッチタイピングにてチャットウィンドウに文字を入力していったのだが、こと手書きとなると具合が悪い。それでも、届けられる方のことを思って、言葉を添えさせていただいた。そして2021年度、2020年度に比べれば対面授業の比率が高くなることもあり、伝わる表現により一層努めていきたい。


ちなみに替え芯はパイロットのアクロインキ「BRFS-10M-B」
(Nikon D40, 40mm, f/3.2, 1/8, ISO400)


2021年1月22日金曜日

中身と段取り

今日は久しぶりに対面での打ち合わせがあった。当日まではZoomでの実施ではないかと思っていたところ、対面でどうか、という伺いのメールが届いたのであった。もっとも、対面でも構わない、とお伝えをしていたために、対面になったのかもしれない。ただ、打ち合わせの時間が短くなり、回数も減り、何より内容が濃密になる可能性もあったため、立命館の朱雀キャンパスに向かった。

朱雀キャンパスは他キャンパスに増して高いセキュリティとなっている。学園の本部として、各部署が置かれていることもあるのだろうが、キャンパスと呼ばれているものの1つの建物だけであることも影響しているだろう。建物は「中川会館」と名付けられ、かつては衣笠キャンパスや広小路学舎でも本部棟に用いられてきた名前が継承されている。広小路学舎は衣笠キャンパスへの完全移転の後に閉鎖されてしまったので建物が現存しないが、二代目の中川会館は現在「至徳館」と名前を変えて今なお衣笠キャンパスにおける管理棟としての役割を担い続けている。

打ち合わせの内容は立命館SDGs推進本部の紹介をするリーフレットの検討であった。既に10月から打ち合わせを続け、10月9日(方針検討)と11月2日(概要の確認)と11月20日(素材の検討)は対面、その後12月3日(レイアウト原案の検討)と1月7日(方針と内容の再確認)とZoomで行った。ささやかな認識のずれ、また発言者相互への配慮が重ねられることで、どうも踏み込んだ議論が行えていない、という感覚が事務局スタッフにあったのかもしれない。ただ、事務局長という役を仰せつかっている立場としては、方法の如何に関係なく、きちんと内容の検討ができるように議論と段取りが整うように貢献せねばならない。

先日、河野太郎大臣が内閣府の特命担当大臣として「新型コロナウイルスワクチン接種担当大臣」がご自身の役割を「ロジを担当」と表しておられた。霞ヶ関の用語としてサブ(substance、内容)とロジ(logistics、物流という意味もあるがここでは段取り)が対置されているらしい。映画「シン・ゴジラ」、また「踊る大捜査線」などでも、縦割り組織を横断した段取りの難しさに関わる描写が、物語のリアリティを高めるのに効果的に用いられていた。今日は対面の打ち合わせの他、日本都市計画学会のウェビナーと立命館大学教養教育センターのオンラインサロンのホスト役を担ったが、3つの異なる種類の場に参加して、対面の場が開かれる意義は何か、ということについて改めて言語化に努めたい、と考えさせられた。

教職員証を忘れるとアクセスルートが限られる朱雀キャンパス
(Leica M9-P, SUMMICRON 35mm, f/4.8, 1/90, ISO 400)



2021年1月21日木曜日

夕焼けの風景にPowerPointのテンプレートを重ねる

家から1歩も出ない1日だった。一方で、ほぼ1日中、パソコンの画面と向き合う1日でもあった。コロナ禍で授業さえもパソコンに向かって語りかけるオンライン授業が続いてきたが、その一方でパソコンでの事務作業が滞ってしまっているものがいくつかある。今日は一つずつ、それらに片を付けていった。

夕方からはZoomミーティングにて、立命館大学教養教育センターによる「2021年度教養科目授業実施に向けたオンライン相談サロン」があった。昨日に続いて2日目である。授業終了が1月19日で、2月7日がシラバス入稿締切日ということで、1月20日から1月26日まで毎日16時から17時30分まで何でも相談に対応する、という仕掛けである。春と秋にも行ったサロンなのだが、方針が明確なためなのか、あるいは相談しても自己の努力が求められると判断されているのか、昨日は5名、本日は3名という規模に止まった。

サロンが終わり、窓の外を見ると雲一つ無い夕焼け空だった。そこで先日、メンテナンスから戻ってきたレンズをつけ、南西の空を切り取った。シリアルナンバーから1987年、東西が統一されていなかった頃のドイツで製造されたものと推察される。オールドレンズと言うには時代が新しいものであるが、小さくて軽く、何よりどことなく柔らかい描写が気に入っている。

夕焼け空と稜線の風景は、いにしえのMicrosoft PowerPoint(恐らくOffice 98)のテンプレートにあった「Kyoto」のスライドをどことなく想い起こさせる。右側に五重塔が配置されたテンプレートを、学生のころにはよく使用した。その後、AppleのKeynoteが発売されると、スティーブ・ジョブズが多用していたダークグレーのグラデーションのテーマを私もまた好んで使い、すっかりごぶさたになってしまった。もっとも、Microsoft PowerPointで「Kyoto」のテーマを使っていた頃は、プロジェクターに投影するのではなく、OHPフィルムに出力して投影していたことを、今日のサロンでの対話で思い出した。



ファインダー越しに見つめた風景はもう少し明るかったものの手ぶれ防止でこの設定に
(Leica M9-p, Tele-Elmarit 90mm, f/5.7, 1/15, ISO 400)



2021年1月20日水曜日

(権)力はどこに根ざす?

水曜朝の英会話のクラスは米国・トランプ大統領とSNSの関係がお題だった。先週、今週分の課題として受講生の投票で選ばれたニューヨークタイムズの記事は「Where the Power Lies」だった。インターネット版では「Twitter's Ban on Trump Shows Where Power Now Lies」とされているので、Twitterからの永久追放とされた記事であることが明確である。ただ、1面にこの記事が掲載された理由は、大統領の権限、一企業の権能、さらにはセクション230と呼ばれる通信品位法での免責事項、それぞれの力関係について扱われたことによる。

記事の中では「de-platformed」という語が用いられていた。脱プラットフォーム化、などと訳してしまっては、上記の問題の本質からは離れてしまうかもしれない。もっとも、通常の英和辞典には掲載されておらず、英語版のWikipediaには「Deplatforming」として「物議を醸す講演者やスピーチをシャットダウンすること、または意見を表明する場所へのアクセスを拒否することを目的とした、個人、グループ、または組織による政治的活動または事前の抑制の一形態」(a form of political activism or prior restraint by an individual, group, or organization with the goal of shutting down controversial speakers or speech, or denying them access to a venue in which to express their opinion)とある。ちなみにこの日本語は、Google検索をした際に自動で付与される、Google Translateによるものである。

来週の英会話のクラスの際には、バイデン大統領に政権以降がなされているのだが、果たしてこの1週間で世界にどのような変化がもたらされるのか、ということが、いくつか話題となっている。とりわけ、退任直前に、連邦議会が占拠されるという事態が発生したことの影響は大きい。それこそ、私が目にするだけでも、トランプ大統領をアイコンの画像に設定した上で、日本語にて事実(facts)に触れることなく、ご自身が信じたい真実(the truth)を主張している投稿を目にすることがある。「そんなことよりも」という思いで、さかんに投稿やリプライやリツイートを重ねているのだろうが、個人的には京阪電車のゴミ箱の残存状況についてツイートしたくなったのだが、差し控えてしまった。

対面での英会話のクラスの後はZoomミーティングが3つ続いた。まずは大阪大学で渥美公秀先生の研究指導を受けた後輩の博士論文公聴会、続いて大阪府特定非営利活動法人条例指定審議会の打ち合わせ、そして立命館大学教養教育センターの「2021年度教養科目授業実施に向けたオンライン相談サロン」であった。相談サロンは春と秋に続くもので、来年度のシラバス入稿に向けた相談会として企画したものの、既に1年の経験が奏功しているのか、参加者は予想よりも大幅に少ないものとなった。とはいえ、少ない人数だからこそ、1時間半にわたってフラットな対話を重ねることができた。


京阪出町柳駅は既に撤去されており京橋駅と渡辺橋駅はまだ残存していた駅構内のゴミ箱
(Leica M9-p, SUMMICRON 35mm, f2.8, 1/45, ISO 400)

2021年1月19日火曜日

学びのシェフ

2020年度秋学期の立命館大学での授業が終わった。もちろん、これから成績評価が待っている。また、オンライン授業のアーカイブ動画のアップロードの作業も残っている。こうして、授業が終わっても、むしろポストプロダクションとして終わったからかこそ着手する事柄があることを、窓口業務を終えた後に店内で数多くの仕事があることを指して「銀行の15時以降」などと表現して、決して表からは見えないことがあるということを説明することがある。

2020年度春学期と異なって、秋学期は一部対面の授業があった。しかし、既に下宿を引き払っている学生、遠距離通学のために通学の経路のどこかで感染するリスクを懸念する学生、再入国までに一定の時間を必要とした留学生、そうして対面の場に参加が困難な受講生がいた。そこで授業担当者の判断として、オンラインでの参加も選択肢に入れることにした。ハイブリッド授業などと一括りにされることがあるものの、対面で参加する受講生とオンラインでのライブ授業に参加する受講生との対話をもとにした授業はハイフレックス型授業と呼ばれている。

コロナ禍に際して「学びを止めるな」といったスローガンが広がったこともあって、学生の受講機会の保障は大学の執行部も大きなテーマとして特に配慮を重ねてきた観点の一つである。音を楽しむと書いて音楽と読むことと無関係ではないと思うのだが、音楽もまたライブ会場で聴くのと、ラジオで生放送を聴くのと、録音を聴くのとでは、体験の質が異なるだろう。もちろん、それぞれに絶対的な優劣があるわけではなく、それぞれの方法で最善かつ最高の体験ができるように、ミュージシャンやスタッフが工夫を重ねて作品を仕上げていることが重要である。転じて、授業もまた、多くの人の手によって、少なくとも最善なものとなるよう努力が重ねられている。

コロナ禍を経てオンライン授業が常態化することになり、私は授業設計と運営をレストランに見立てることが多かった。教員をシェフとすると、授業は料理となる。対面授業はレストランの来店者への調理、オンラインのライブ授業はテイクアウトのデリバリー、そしてオンラインのオンデマンド授業は冷凍食品の提供、という具合である。そんな区別を重ねながら、より深い学びへの工夫を重ねてきたつもりだが、果たしてどう味わってもらえたか、成績評価は授業担当者の内省を通じた自己評価の機会であもる。


(Leica M9-p, SUMMICRON 35mm, f2.4, 1/8, ISO 400)


2021年1月18日月曜日

伝わることと届くこととのあいだ

先週、政府による緊急事態宣言が大阪府・京都府も対象とされたことに伴い、対象地にキャンパスを有する立命館大学では、本日からBCPレベルが変更となった。BCPとは事業継続計画(Business Continuity Plan)の略で、新型コロナウイルス感染症により、広く知られるようになったように思う。私は立命館災害復興支援室を運営する役割をいただいていた頃、副室長をされていた塩崎賢明先生を通じて知った概念である。恐らく2016年頃の議論で、東日本大震災から5年を経て、改めて災害復興支援室の役割を整理する議論を行っていた際に、危機管理マネージャーの養成という観点が出てきたときのことと認識している。

立命館大学のBCPレベルは授業形態、研究活動、課外活動、イベント、業務体制、学生等のキャンパス入構に対して定められている。授業に関して言えば、本日から「Web授業を基本とするが、感染防止策を 講じた上で、教学上の必要性が高いもの について、対面での講義、演習、実験・ 実習を実施することができる」とされた。授業の残り回数がわずかということもあって直接的な影響は少ない。しかし、英国・ロンドンでの変異種の報告などを鑑みれば、単純な沈静化がもたらされる可能性は低いのではないか、という見立ても成り立つだろう。

午前中はいよいよ明日で終了となる立命館大学の授業準備を行い、午後は立命館大学サービスラーニングセンターの会議が2つ続いた。夕方まで、当初の予定時間を延長して議論が続いたのは、やはり来年度の授業のあり方について、相互の見解を共有する必要が出たためである。夜には同志社大学大学院総合政策科学研究科の「コミュニティ・デザイン論」に出かける必要があったものの、Zoomでの参加を認めていただくこととした。この授業は複数の教員による授業なのであるが、今回は本年度で定年退職される新川達郎先生の担当回ということもあって、多少の無理をしても教室に行った方がよかったかもしれない、と、Zoomミーティングから抜ける瞬間に、ふと、頭をよぎった。

この1年、オンライン授業やオンラインミーティングの参加が当然の選択肢となるにしたがって、機材の選択にも試行錯誤を重ねてきた。このところ、MacBook Air(2020)、LogicoolのUVCクラスのWebカメラ「C910」、AfterShokzの骨伝導ヘッドセット「TREKZ AIR」、そしてShureのピンマイク「MOTIV MVL」、という組み合わせて落ち着いている。伝える側の小さな配慮で、伝わり方は大きく異なる。なぜなら、音声や映像が届くということは、決して信号が受信されるということだけを意味しないのであるから。

当面このセットで落ち着きそうな気配
(Nikon D40, 40mm, f3, 1/13, ISO 400)


2021年1月17日日曜日

1杯のコーヒー

あの日から26年が経った。普段なら、神戸市中央区の東遊園地で黙祷を捧げていた。しかし、コロナ禍ということもあり、家から中継の動画を観ることで、亡くなられた6,434人とそのご遺族の方々に哀悼の意を表した。ちなみに中継は東遊園地のものではなく、日本災害救援ボランティアネットワーク(NVNAD)による西宮震災記念碑公園のものを拝見させていただいた。

そして10時からは、そのNVNADによるオンライン交流会に参加させていただき、懐かしい方々、また初めて会う方々と、あの日あの時、そしてこの1年についての語りを楽しませていただいた。その中で、タイムカプセル郵便というサービスがあることを教えていただいた。災害を体験したことのない世代、いわゆる未災者の教育プログラムの一環として活用されている方がおられたのである。

その後、15時過ぎから、旧友と1杯のコーヒーで1時間ほど語った。現在は石川県に居住しているものの、奈良県内でのお仕事に自家用車で往復したため、地元名産の牡蠣と日本酒を携えて立ち寄ってくれたのである。何より、その旧友は阪神・淡路大震災の折、共に立命館大学ボランティア情報交流センターで活動し、支援とは何か、またまちづくりとはどういうことかについて悩み考え動いた心友である。神戸大学国際文化学部の避難所の世話人の方からいただいたコーヒーの味を正確に思い出すことはできないが、ニットの帽子をかぶられて、やさしい目をされていた方だったことはよく覚えている。

店内は多少改装されていたものの、学生時代に足を運んだ頃の雰囲気は多少残っているお店で、昔のように正解のない問いについて、答えよりも問いを掘り下げる形で語り合った。とりわけ、コロナ禍を経験した中でコミュニティとは何か、という話になり、日常と非日常とのバランスについて、お祭りを手がかりに各々の実体験を共有し合った。規模の縮小や中止が相次ぐ中で、1年に1度の祭礼の中止は担い手の継承という課題に大きくのしかかるものの既に1400年続く祭祀であれば多少のことでは揺るがないのではないか、一方でオンラインサロンにおけるカリスマ的な存在にすがる人たちのようなコミュニティでは担い手と思っている人たちが単に生産者側の巧妙なコントールによって消費者の立場に置かれた上で互いに競い合って親玉への忠誠を示し続けていることに無自覚な状態に追いやられてしまう、といった語りが重ねられた。三密回避を前提にしていたこともあって、昔なら1杯のコーヒーで大いに粘ったであろうところを、程よい時間で切り上げ、再会を誓って車を見送った。

70cmの距離はある種のソーシャル・ディスタンスでもある
(Leica M9-p, SUMMICRON 35mm, f/4, 1/30, ISO 500)





2021年1月16日土曜日

努力と結果

先日、思いの味と異なったことを受けて、天下一品の総本店でランチをいただいた。正午より少し前に足を運んだところ、行列もなく、22台の駐車場にも空きがあった。緊急事態宣言の影響もあるのだと思う。土曜日のランチ時間であることを考慮すれば、緊急事態宣言の影響によるものだと思いたい。

総本店だけ、ということではないのだが、天下一品には、創業者の木村勉さんによる「正しい努力」という言葉が掲げられている店舗がある。これが直営店の証なのかは定かではないものの、例えば改装の案内が出ていたはずなのに閉店となってしまった九条店には、2階への階段を上ったところに確かに掲げられていた。ともあれ、苦労の末に「こってり」スープを開発された物語を知っていれば、このシンプルな「正しい努力」という言葉には含蓄がある、と受け止めることだろう。一方で、努力に正しいも間違いもあるか、と感じる人もいるかもしれない。

こうして言葉の機微に関心を向けてしまう私は、特に政治家が用いる「結果を出す」という表現に疑問を抱いている。結果は出すものではなく、出るものではなかろうか。逆に言えば、自分にとって望ましい結果にする、という意図や野心が見え隠れしていないかと邪推してしまう。むしろ、出た結果をどのように分析して何を結論とするのか、その思考のプロセスがこそが重要である。

総本店の味は、いつもにも増して麺や具とがゲル化する程、スープのこってり度合いが高いものだった。先般のスープが薄かったことも影響していたのかもしれない。ともあれ、緊急事態宣言の中でも客足が途切れることがなかったことが、努力が正しかったという結果をもたらしている。そんなことを思いながら、午後から夜にかけて、来週の授業用のオンデマンド動画の作成にあたった。

正しくない努力は結果として明らかになるのかプロセスにおいて自明なのか…
(Nikon D40, 40mm, f3, 1/13, ISO400)



2021年1月15日金曜日

「近助」への抜き打ちテスト

ほぼ終日、在宅で過ごした1日となった。朝9時半からは1月19日の4限「地域参加学習入門」の、13時からは同じく1月19日の2限「現代社会のフィールドワーク」の、それぞれ授業準備を行った。いずれも立命館大学サービスラーニングセンターの授業である。前者は受講生に対する事業案内を、後者は受講生の提出した課題への外部者としてのコメントを、それぞれZoomミーティングで収録した。

その後、15時から、立命館大学大学院先端総合学術研究科のパートナーシップ委員会によるオンライン企画「コロナと大学」に参加した。副題には「流行から一年経って見えるもの」と掲げられ、農業史・食の思想史を専門とする藤原辰史先生(京都大学)と『 「ファット」の民族誌——現代アメリカにおける肥満問題と生の多様性』の著者で知られる文化人類学者の碇陽子先生の話題提供がなされた。お二人の話題提供に続いて、主催者側として美馬達哉先生・千葉雅也先生・Martin Roth先生らの参加のもとで対話が進められた。コロナ禍は現在進行形ということもあって、また多くが大学関係者ということも重なって、参加する多くの人が当事者として向き合うことのできるテーマではあるものの、やや抽象度が高い議論の傾向にあったと捉えている。

ただ、最初に話題提供をされた藤原先生が「コロナは人類への抜き打ちテスト」という表現を紹介されたときにはドキっとした。進行がややタイトな中、立て板に水の語りで進められていったため、元々どの方の言葉かは聞き漏らしてしまった。メタファーやレトリックに常々関心のある私としては、抜き打ちテストというからには出題者がいて答え合わせができるという副次的なメタファーが生成できる、と概念を拡張しつつ、改めてコロナ禍に対する人々の向き合い方について思索を巡らせた。さらにはテストにはマークシート方式や論述など多彩な形態があることから、そうしてテストまつわる一連の類推(アナロジー)からも、改めて社会の動態についてこれまでの現象を精査する手がかりを得られるような気もしている。

オンライン授業の素材作成とオンライン企画の参加の合間に、町内会のお役目として、京都市が発行する「市民しんぶん」の配布に回った。現在、184世帯が参加する町内会において東西南北の4つに分けた上での南地区(54世帯)担当の長の役をいただいているのだが、自ずと京都市の「市政協力委員」となるため、月2回の配布物回覧の役割をいただいているのである。そもそも国勢調査の年のため、担当となると大変という声はいただいていたものの、それに加えてのコロナ禍は、通常の運営とは異なる工夫や判断が求められ、さしずめ住民自治の抜き打ちテストの最中のようだ。折しも本日の配布物には「互いに助け合い、 支え合い、励まし合う、顔の見える関係」を「近助」の力と名付けており、なかなか洒落た表現に出会えたと感じている。

(Nikon D40, 40mm, f3.3, 1/5. ISO400)

2021年1月14日木曜日

演じ分けの妙

関西もまた緊急事態宣言の対象となった第1日目、車でやや遠方まで出かけた。京都府内の自宅から大阪府を通過して兵庫県まで向かった。高速道路を使ったのもあって、旅のお供は久々にAMラジオとした。頻繁に出張していた頃には、よく「すっぴん」を聴いていたこともあり、NHKラジオ第一放送を流して運転した。

時折楽しませていただいた「すっぴん」は既に終了して「らじるラボ」 という番組となっていたが、今日はその9時台のコーナー「表現者たち」のゲスト、室井滋さんの朗読に圧倒された。途中から聴いたこともあって、その時点での話の内容から、映画「大コメ騒動」の宣伝か、と思ったが、大違いだった。室井さんは既に絵本作家として数冊を出版され、加えて「しげちゃん一座絵本ライブ」も開いているという。そして今回、コロナ禍における自粛生活をモチーフとして、『会いたくて会いたくて』という作品を創作、番組ではその一部をご自身で朗読されたのである。

室井滋さんが朗読された部分は、1月14日の放送は1月21日の11:50まで、NHKラジオのインターネットサービス「らじる★らじる」での「聞き逃し」で聴くことができる。33分27秒から35分11秒までの部分である。発売前の絵本ゆえに、ほんの一部の紹介となったものの、充分にメッセージが伝わる部分だったように思う。何より、俳優である作者による男の子とおばあちゃんを演じ分けた朗読に、伝えたい思いを伝えるとはどういうことか、を体感することができた。

今日はそうした外出に加えて、3つのZoomミーティングがあった。夕方の2つは連日続いている大阪府の審議会におけるインタビューで、夜はサービス・ラーニングの全国ネットワーク「JSLN」の会員交流会だった。朝、耳にした素敵な朗読の余韻が夜になっても残っていたこともあって、多少、情感がこもった発言やコメントを重ねていたかもしれない。とはいえ、伝えたい思いがきちんと伝わるような工夫はいかになすべきか、また室井さんの絵本を手にすることで常々想い起こせるようにしておきたい。

もし「まんが日本昔ばなし」を改めて制作するなら室井さんの起用を提案したい
(Nikon D3S, AF-S17-35 35mm, f/2.8, 1/25, ISO 400)




2021年1月13日水曜日

生まれるものか、生み出すものか?

水曜日ということで、緊急事態宣言の状況下ではあるが、英会話のクラスに出席した。お題はアジア圏における近代建築の保存についてであった。会場が中之島で、2012年12月までは1931年に竣工の大阪朝日ビルだったこと、また半数ほどが当時からの受講継続ということもあって、会話は多いに盛り上がった。ちなみに、お題の手がかりとされたニューヨーク・タイムズの記事「‘Box’ or Gem? A Scramble to Save Asia’s Modernist Buildings」が1面を飾った理由は、香港の中央郵便局(General Post Office:郵政総局、1976年竣工)の保存か再開発かが、1997年までの英国による植民地時代と中国本土の支配のどちらに重きを置くかの選択になるのでは、という観点が重ねられるため、という見立てである。

午後は2月20日にコーディネーターを務めるFDフォーラムの打ち合わせだった。2016年と2019年・2020年と、大学コンソーシアム京都の企画検討委員を務める機会を得たが、昨年度はオンラインでの資料提供のみに止まり、今年度は初のオンラインでのライブ開催である。今回はそのコロナ禍に大学はどう向き合ってきたか、それをもとに大学の未来を展望することとした。話題提供をいただくのはFacebookで2万人を越えるメンバーが参加する「新型コロナのインパクトを受け、大学教員は何をすべきか、何をしたいかについて知恵と情報を共有するグループ」の設立管理人である関西学院大学の岡本仁宏先生と、同グループの世話人の一人で『ROBOT-PROOF:AI時代の大学教育』の訳者の一人であられる金沢大学の杉森公一先生である。

シンポジウムの問いは「大学の教育・研究・社会貢献に新しいモデルは生まれうるか?〜COVID-19の経験を踏まえてAI化・ロボット化した世界の担い手を構想する〜」とした。しかし、名付けた当人としては、この解は自明である。というのも、無生物主語で記した表現を「私たちは」を主語を言い換えるなら「(私たちは)大学の教育・研究・社会貢献に新しいモデルを生み出しうるか?」となるためである。つまり、コロナ禍において大学の教育開発に取り組む当事者としての自覚や責任を抱いているなら、自ずと新しいモデルを問う場になる、いや、必ずや問う場にせねばならない。

今日の最後のお仕事は、昨日に引き続き、大阪府特定非営利活動法人条例指定審議会のオンライン会議であった。今日は大阪NPOセンターへのインタビューだった。6つの問いに対して端的にお答えいただいて、その内容は動画で収録させていただくのだが、前後のやりとりも含めて、実に大阪的、という印象を抱いている。どのあたりが大阪的なのか、というのは、まだまだ簡単に言葉にはできず、改めて大阪大学の渥美公秀先生に紹介いただいた『大阪ことば学』(尾上圭介・著、1999年刊・2010年に文庫化)を読み直してみたい。

バス車内で耳にした(「そのコート、あったかそうやな」で始まった)会話もまた実に大阪的
(iPhone XR, 4.25mm(26mm), f/1.8, 1/716, ISO 25)


2021年1月12日火曜日

新春の4コマ

2021年に入って初めての立命館大学での授業日だった。私は学部ではなく全学組織(共通教育推進機構)に所属していることもあって、時間割に固定されない科目もいくつか担当している。逆に、時間割が固定されている科目は、秋セメスターについては火曜日に集約するという調整を何年か続けさせていただいている。これは特に衣笠キャンパスの各学部の教授会が火曜日に実施される(つまり自ずと各学部の専門科目が火曜日以外に充てられる)ため、むしろ火曜日に全学教養科目を充てていく、という方針によっている。

ということで、2限に「現代社会のフィールドワーク」、3限に「ソーシャル・コラボレーション演習」、4限に「地域参加学習入門」、5限に「シチズンシップ・スタディーズI」と続いた。今季は2限と4限がオンデマンド授業で3限と5限が対面・オンライン併用(ハイフレックス)型の授業で実施されている。ただし、2限と4限もZoomで待機して、受講生の質問・相談に対応するという工夫を行うこととした。ところが、担当教員の思いが響かないのか、なかなか受講生が画面に登場することは少ない。気軽に参加してもらえるようにという意図で、出入り自由、画面オフでもミュートでチャットのみでも参加を歓迎、またレコーディングも行なわないので気兼ねなく思いのままをぶつけて欲しいと示しているものの、である。

ちょうど、今日は4限「地域参加学習入門」の受講生に提供したオンデマンド学習用の動画でゲストスピーカーとして招いた陸奥賢さんもZoomに参加していただく回だった。結果として参加してきたのは1名のみだった。しかも、その1名は「間違ってクリックしてしまった」かのように、瞬時に退出してしまった。結果として、私と陸奥さんと1時間半、應典院でのプロジェクトの思い出話やコロナ禍におけるコミュニティとコミュニケーションのあり方について、じっくり対話させていただく機会となった。

4コマの授業の前、朝には大阪府特定非営利活動法人条例指定審議会のZoomミーティングが1つあった。この審議会は国による認定NPO法人の制度と並行して、大阪府独自の税制優遇を適用するかどうかを取り扱う知事の諮問機関である。現在、その指定法人とのミーティングを重ねており、今日は大阪府高齢者大学校からのインタビューを行った。その後の80名が受講する2限「現代社会のフィールドワーク」のZoomミーティングには8名が参加したものの、前日の成人の日を緊急事態宣言の中で迎えた受講生もいたかもしれなかったのに、「おめでとう」の言葉をちゃんと投げかければよかったと反省しつつ、家路についた。

18時過ぎには既に人の気配がしなくなっていた立命館大学衣笠キャンパス
(iPhone XR, 4.25mm(26mm), f/1.8, 1/30, ISO 500)



2021年1月11日月曜日

空間に満ちる気品

3連休の最終日、京都御所の横の「とらや」のギャラリーにお邪魔した。京都一条店に併設されたスペースで、建築は2009年に内藤廣さんの手によるものである。昨年夏に訪れた福井県年縞博物館にも通じる、低層で品のある空間である。ちなみに立命館大学は福井県と2015年に「年縞を基にした研究等に関する基本協定書」を締結しており、福井県年縞博物館には立命館大学. 古気候学研究センター福井研究所も設置されている。

とらやギャラリーでの目当ては「明珍阿古 襲名披露『王朝の鎧』展 」だった。「一般社団法人よろいのや」の主催で、平安時代からから続く甲冑師の第二十五代宗家・明珍宗恭先生のもと、明珍阿古を襲名された記念の展示会であった。この展示会を協賛する株式会社細尾の細尾真生会長のお誘いをいただいたのである。ちなみに日本とインドネシアを結ぶ「てこらぼ」プロジェクトでご一緒させていただいている細尾会長は、コロナ禍の中、2020年8月に社長から会長職となられた。

今回の展示の目玉が、フランス南部で飼育されていた蚕品種「セヴェンヌ」による都よろいである。都よろいとは京の組紐などが用いられた鎧で、戦闘用ではなく宮中の護衛などに用いられてきたものであるという。鎧はもとより、京都の伝統についても専門ではないものの、素人目に見ても気品に満ちた雰囲気に包まれていた。時間があれば、菓寮で一息つくことができると贅沢なときを過ごすことができたものの、午後からの研究会の準備もあって、程なく失礼をさせていただいた。

午後は科研費による共同研究プロジェクトの研究会だった。立命館大学文学部の北出慶子先生を代表とする「日本語支援者の学び解明と促進を目指した多文化サービスラーニングの開発」というもので、3年間の折り返し地点にある。今日は前回までに作成された図解に対して私がコメントをする日であったため、当初の分析内容の深化がもたらされるよう、修正版の図解を提示させていただいた。オンラインでの対話を通じて、品の良い議論をもたらすことができたかどうかは、2月3日に予定されている次回の研究会で明らかとなるだろう。

京都は防火用のバケツの水が凍るような朝だった
(Nikon D40, 40mm, f6.3, 1/160, ISO400)


2021年1月10日日曜日

生きものと生もの

まちには思いがけないものが落ちている。昨日は自動車用のバッテリーを目にしたが、今日はアンパンマンに出てくる「ばいきんまん」のぬいぐるみが路上に横たわっていた。ぬいぐるみの目線が、見事に突き刺さってくる角度だった。バッテリーは意図的に置かれたものであったものの、このぬいぐるみは落としたのか、はたまた飛んできたのか、謎である。

「ばいきんまん」で思い出すのは、福島の風評被害が深刻だった頃のことだ。彼の地から転校してきた子が「ばいきん」扱いされた、というニュースに触れたためである。もちろん、放射線は菌ではない。しかし、放射能汚染という言葉は存在することも影響してか、あるいは「ばいきんまん」という馴染みのキャラクターを通じて悪さをする汚れ役を想像したのか、いずれにせよ、悲しいことに露骨な暴力が浴びせられたのである。

一方、新型コロナウィルスは菌ではない。菌とウィルスの違いは、単純に言えば生物か否か、つまり自分で生きられる(細胞分裂をする)か生物の細胞を利用して自己を複製させねばならないか、である。ちなみに「ばいきん」を漢字で書いたとき「黴」は「かび」と読むものの、(細)菌は単細胞でカビは多細胞という違いがあるという。生きもの世界は、奥が深い。

大阪・兵庫・京都の3府県も政府による緊急事態宣言の対象に含まれる見込みが立ってきた中、今日はライブハウスでの演奏に触れる機会があった。基本はツイキャスでの配信とされたものの、ごくわずかのお客さんのみ、万全の感染対策のもとで会場に受け入れるという形式が取られた。生音を味わう楽しみ、配信のプラットフォームで演奏中に逐次感想を送る楽しみ、そして2週間のアーカイブを自分の都合で視聴する楽しみ、それぞれに自らの選択ができることは、コロナ禍がもたらした新たな多様性と可能性のように思う。授業もまた同じであり、できれば時間と空間を共有した生ものはもとより、テイクアウト(オンライン)、冷凍食品(オンデマンド)でも味わい深いものを提供できる、学びのシェフでありたい。


ばいきんまんと目線が合った京都の路地
(iPhone XR, 4.24mm(26mm), f1.8, 1/214, ISO25)


2021年1月9日土曜日

不用と不要

「カレンダー通りなら」という言葉がある。もちろん、カレンダーを売る店ばかりが並んでいる街区のことを指しているのではない。自分たちの都合と世間の前提と異なる場合に用いられる。例えば、大学であれば学年暦(アカデミックカレンダー)が別途設定されているため、世間では休日であっても授業日となることがある。

カレンダーと暦とは同じことを意味するものの、「カレンダー通りなら」と「暦の上では」とと語句を並べてみると、受け取る印象はだいぶ異なるだろう。カレンダーという言葉で想像する「その日」は特定の1日であるのに対して、暦といういう言葉で想い起こされるのは対象となる日を数日前後した季節の移ろいを含むだろう。単純な対比を置くなら、デジタルとアナログの違いとも言えそうである。もっとも、太陽暦と太陰太陽暦との意味合いの違いとも捉えられるところであり、そこは立川志の輔師匠の落語「質屋暦」がきちんと(違法アップロードではなく)提供されると、改めて暦が持つ意味に対しての関心を向けやすいのに、と感じることもある。

カレンダー通りに3連休となった初日、今日は鍼灸院に出かけた。土曜日も施術をされている行きつけの鍼灸院である。本来であれば2020年の疲れをきちんと落とすはずが、まだ2020年にすべきことが終えられていない部分があり、1月下旬の次の予約までには、仕事の段取りを整えておきたいものである。そんなことを思いながら、関西は15日までが松の内とされるためか、街角では門松をはじめとして正月飾りをまだ見ることができた。

鍼灸院の帰り、それほど古くないと思われる自動車用のバッテリーが自宅近くの交差点の角に置かれていた。そこには段ボールの切れ端に「不用 欲しい人 持って帰って下さい」と記されていた。あなたは「用いない」かもしれないが、それを「要する」人がこれを目にして手にして持ち帰っていく可能性は極めて低いのではないか、と突っ込みを入れたくなった。せっかくの好意なのにそんな行為を働くなど無用だ、などと突っ込み返しが来れば、さらに会話が深まりそうだが、そもそも不法投棄ゆえに御用となる案件でもある。

夜のZoomでのミーティングでネタにできそうな一風景だった
(Nikon D40, NIKKOR 40mm, f10, 1/10, ISO400)


2021年1月8日金曜日

赤ランプは最終のしるし

1月7日の1都3県(東京・神奈川・埼玉・千葉)への緊急事態宣言は、程なく他へも拡大されていくことが見込まれる状況にある。今、住まいを置いている京都もまた、その中には含まれる。ただ、関西では、1月5日に開催された関西広域連合の第13回新型コロナウイルス感染症対策本部会議において、緊急事態宣言に対する今後の対応は京都・大阪・兵庫の3府県で協議する、との決定がなされている。この決定に基づき、3府県が政府に対して対象拡大を要請するという調整が進められたもようである。

緊急事態宣言の対象には入っていないものの、京都府では1月8日付で京都市域を対象に「飲食店に対する営業時間短縮要請の期間延長」を実施した。当初は12月21日から1月11日までとされていたが、2月7日までとされた。政府の緊急事態宣言の期日と同じである。この要請に応じた飲食店には1店舗につき1日あたり4万円が支給されるというが、飲食店に提供される食材や流通に携わる方々にも影響は及んでいくことだろう。

今日は朝から5つのZoomミーティングがあった。既にステイホームが日常となった今、珍しいことではなくなってきたものの、Zoomを知り、使ったときの衝撃はよく覚えている。それは2016年9月29日、米国ニューオーリンズに出張の際に、富山・氷見市のまちづくりの事例に関する勉強会に参加したときのことで、日本とは14時間の時差がある中、その安定した品質に圧倒されたのである。Skypeに比べて低い通信量で済むこと、ソフトのバージョンの違いによって参加できないといった問題が生じないこと、さらには参加者にはURLの案内だけで済むこと、こうした特徴に魅力を覚え、その後も徐々に使い始めていた。

2017年4月16日には、平成28年熊本地震から1年ということもあって熊本・西原村に出張していたが、お世話になった農家さんの作業小屋の横から、立命館大学に集まった受講生たちに対して、共に現地入りをした学生と共に授業のオリエンテーションを行ったのも思い出深い出来事である。COVID-19により、そうして出張先からつなぐということは少なくなったが、代わりに自宅や研究室からそれぞれの場所と結んで対話を重ねている。技術の進展に対し、改めて何を大切にしていくか、その本質をきちんと見出す姿勢が欠かせない。京都市バスの立命館大学17:43発が最終便という52系統の方向幕が赤ランプで照らされているのを見て、赤という色が直感的に視覚にもたらす効果のように、言葉や態度でも人々の模範的な振る舞いなどを促すことができるよう努めていきたい、そんなことを夕方の終バスを目にして思索にふけった。

赤く光る方向幕を最初に見たときには異界に連れて行かされるのかと思ったものです
(Nikon D40, Micro NIKKOR 40mm, f5.6, 1/30, ISO 400)


2021年1月7日木曜日

緊急の事態

1月7日の夕方、日本政府は緊急事態を宣言した。当面、東京、神奈川、埼玉、千葉の1都3県に対してであるが、既にその他の自治体からも対象拡大を求める声が上がっている。昨年4月の際は、7日に東京都・神奈川県・埼玉県・千葉県・大阪府・兵庫県・福岡県が対象に、その後16日には全都道府県へ拡大された。発令、発出、発表、発効、多彩な表現が用いられていることも興味深いのだが、いずれにしても1都3県に収まることなく、程なく対象は広げられるだろう。

昨年4月の宣言時にも痛感したことなのだが、なぜ政府は重要な事柄を夕方に発表するのだろうか。夕方に発表されることで、残業して対応にあたらなければという動きは想定されていないのだろうか。仮に朝から持ち回りの会議を経ないと発表できないのなら、前から準備を重ねることで対応は可能なように思われる。そもそも、この日から宣言下に置かれることは報道により周知されているのだから、朝一番に宣言を発表し、その後、その日の業務時間内に当面の動きを整えていけるようにする、そんな配慮もあっていいように思う。

少なくとも私には、仕事というのは自分の作業を終えれば終わりではない、ということを口酸っぱく言われた時代があった。自分のなすべきことを果たした上で、その後に続く事柄があるのである。そのことを、新聞や映画を例にポストプロダクションという言葉を覚えておくように、と教わったように思っている。締切が設定されている意味を理解せよ、という叱責から示していただいたもので、今となってはその大切さを学生たちに説く立場に回りながら、まだまだ自分に甘いところがあることを自覚せねばならない。

今日は今年に入って初めてのZoomでの打ち合わせがあったのだが、これがまさにポストプロダクションの軽視ではないかという印象を禁じ得なかった。そこで、今日までに数回重ねて来た打ち合わせの開催事実だけが重視され、内容が深められていないことが直視できていないのではないか、と、仕事への姿勢に疑義を示させていただいた。悪いことは重なるもので、打ち合わせを終えて、身の回りのものを片付けていると、ミーティング終了時に不用意にパソコンを動かしてしまったことでカメラの背面液晶の保護ガラスが割れてしまったのである。この機材は既に修理受付が終了しているということもあって、私にとってささやかな緊急事態に陥ったのだが、インターネットで補修パーツ(在庫3)を探し当て、月末を目途にロシアから届くのを待つことにした。

軽くてCCDによる味わいを今も好んでいるニコンD40
(Nikon D3s, Micro PC NIKKOR 85mm 2.8D, f6, 1/50, ISO400)

2021年1月6日水曜日

年頭の謹告を目にして

立命館大学は今日から仕事始めである。理事長・総長の年頭所感を収めた動画が案内された。理事の長(経営のトップ)と総ての長(教学のトップ)、2人の長の動画(2本で50分)は学内のページに貼り付けられており、それならむしろYouTubeでスーパーチャットなどをしながら行えば、視聴者(学生・生徒・児童・教職員など)の生の言葉が集められるのに、と思いながら視聴した。映像コンテンツとして捉えてみれば映像学部の知見が活かされることも期待したいところであるが、試行的であっても実践的に授業運営のデジタルトランスフォーメーション(DX)がなされていることを踏まえると、学園構成員とのコミュニケーションのあり方について、大学のマネジメントやガバナンスとして積極的な挑戦や工夫が重ねられることを願っている。

年末年始の休暇に入っていた英会話のクラスも今日から再開となった。2013年から通っているクラスでは、The New York Timesを教材として、講師が選んだ5〜6の候補に対して受講生が投票し、最多得票となった記事が次の回の話題とされ、その記事について語り合う、という趣向である。ちなみに通い始めた当初はInternational Herald Tribuneで、新聞業界の再編の歴史の只中にいたことを再認識している。ともあれ、今日の題材は半導体製造の中立国としての台湾の立ち位置に関するもので、議論はムーアの法則や予言の自己成就など、多岐にわたった。

この英会話のクラスは大阪・中之島の教室のため、京阪電車を利用している。静岡県西部の出身者ゆえ、当初は関西の私鉄で特急料金が不要ということに慣れなかった。また、京阪の特急では七条から京橋まで、阪急の特急では十三から大宮まで、ノンストップだったことも驚きだった。今ではそれぞれに停車駅が増え沿線利用者の利便性向上が図られ、また京阪でも阪急でも車内でWiFiが使用でき(もちろん無料、ただしロングシート車両の場合は使用できずクロスシート車両のみ、と思われ)るようになったのも有り難い。

今日、京阪の駅に向かうと、運行案内などを表示するディスプレイに見慣れない表示があった。赤の縁取りがされていたので新年の挨拶かと思いきや、前日の人身事故に対するダイヤの乱れを謝罪するメッセージだった。注意喚起のために赤色が用いられたのだ、ということに気づいたのは、昨年最後のクラス(12月16日)の際は人身事故で京阪が運休となり、急遽大回りして出席した際の記憶とつながったときである。ちなみに1月7日から京阪ではゴミ箱を撤去するらしく、こちらは各ゴミ箱にA3判用紙にMS明朝(と思われる書体)で印刷により「ゴミ箱撤去のお知らせ」として「衛生管理の観点ならびにゴミの減量化ため、1月7日(木)から、一部の駅を除く各駅のゴミ箱を順次撤去いたします。」と貼られており、この「一部の駅を除く」というのはどこなのかフィールドワークをしてみたいと思うと共に、かつてのテレビ番組で「一部の地域の除いて」と案内されていたことを思い出した。

こうした姿勢に国会等での「すれば謝罪」がいかに不誠実かを痛感
(Nikon D40, NIKKOR DX40mm, f5 1/100, ISO400)



2021年1月5日火曜日

直営店とフランチャイズへの思い入れと思い込み

ネットのニュースを見ていたら、「肘以外は全部元気」という記事に対して、「ピッチャーが肘以外は全部元気って寿司屋で魚以外全部揃ってますみたいなもんでしょ」というコメントが添えられていた。Yahoo!ニュースということもあって、このコメントには多数の返信が重ねられており、夕方、17時30分ごろの時点で150を越えていた。私はなかなか秀逸なメタファーであると受け止め、コメントへの返信でも概ね好意的な評価が多いように思われた。しかし、中には「寿司屋に失礼」など、内容よりもその姿勢そのものに対して否定的なものも見られた。

米国の社会心理学者のケネス・ガーゲンによれば、メタファーは「視覚代理物」として概念拡張がもたらされるもの、である。ピッチャーが肘の話題を持ち出したときに寿司屋の話題が示されたことで、その表現を受け止めた側は、恐らく自身にとって馴染みのある風景を想起し、実際の体験に引きつけて、言葉の意味を経験的に深めたことだろう。ちなみに、コメントへの返信の中には中古車(見た目は綺麗、エンジンが壊れて走れない)や歌手(アカペラ奏者がノド以外は絶好調!って言ってるよう)や理美容室(床屋、美容院でハサミ以外全部揃ってます)など、その他の比喩を重ねる方もおられた。いわゆる大喜利状態となった。

今日のランチは久しぶりに外食だった。ちなみに寿司屋ではない。毎朝測るようにしている体組成計の数字は高値安定状態ということもあって、食べるものには一層の気を遣いたいところであるが、久しぶりなら馴染みのものを、と、夫婦で好みの天下一品に出かけた。ところが総本店はコロナ禍でも若干の混雑で、順番待ちは回避しようということになり、自宅近くまで戻って、比較的近所のお店へ向かった。

ところが、今日訪れたお店の味は、思い描いていた味とは異なるものであった。フランチャイズによって店舗数が増えてきた中で、かねがね、お店によって味のばらつきがあるとも言われていることもあり、あらかじめ「直営店」とされるお店に伺ったものの、フランチャイズ店ではなく直営店だから総本店と同じというわけではないということを改めて実感した。それはちょうど、例えばカメラのレンズを物色するときに目にするのだが、同じモデルでも日本製とそれ以外のロットで中古価格に差が出てしまうようなものかもしれない、と感じた。自らの思い入れを思い込みとしないためには、つくられる場所で決めつけるのではなく、つくってくれる人をきちんと見つめることが大事、これが今日の学びである。

私(たち)にとって天一は単なるラーメンではない(はず)
(Nikon D40, NIKKOR DX40mm, f5 1/640, ISO400)


2021年1月4日月曜日

発出か発令か

12月30日から1月5日まで、私のカレンダーは何も記入されていない。12月29日は2つのZoomミーティングがあり、1月6日には2013年1月9日から通っている英語のクラスが入っている。1月1日には法然院にお参りすることとしていたが、これは年中行事としてとりたてて記入していなかった。したがって、数年後、このカレンダーを見返すときがあるとしたら「暇な日々を過ごしていた」などと感じるのかもしれない。

もちろん、カレンダーが白いからといって、全く用事をしていなかったわけではなく、単に外部との約束がなかったということにすぎない。何より、2020年はCOVID-19によるステイホームが日常になっていたことも重なって、年末もそれまでの日々と同じようにパソコンに向かって、何か書きものや書類のスキャンなどの作業をしていた。外に出歩いたことと言えば、近所のスーパーへの買いものに出かけた、そのついでに荷物を発送した、たこ焼きを買いにいった(ちなみに夕食として、であり、何とも関西暮らしが板についてきたように思う)、くらいだろう。結果として、法然院へのお参りのみバスに乗車しており、その他、自転車・自動二輪車・四輪車など、車がつくものには一切乗らない年末年始だった。


1月4日の朝、LINEの通知で「1都3県に緊急事態宣言へ調整」というニュース速報(9:43、朝日新聞)が届いた。短い本文には「菅義偉首相は1都3県に週内にも緊急事態宣言を発出する方向で調整に入った。」とあった。「へー」と思いながら、手軽なニュースソースとしてYahoo!ニュースを開いてみると、ほぼ同じ頃のニュース「菅首相、首都圏に緊急事態再宣言へ 「強いメッセージ必要」週内決定」(9:28、時事通信)に「菅義偉首相は4日午前、首相官邸で年頭の記者会見に臨み、東京都と埼玉、千葉、神奈川3県を対象に、新型コロナウイルス対策の特別措置法に基づく緊急事態宣言の再発令を検討すると表明した。」とあった。そしてふと、2020年4月の緊急事態が宣言されたとき、そしてその後の職場(立命館大学)での動きのことを想い起こした。

宣言は発令か、発出か、そして受動態か能動態か。4月の緊急事態の宣言の際には、宣言が主語で受動態で表現されるのが発出(宣言が発出される)、一方で宣言する人が主語で能動態で表現されるのが発令(宣言を発令する)、と捉えていたものの、どうやらそういう訳でもないようだ。文法の問題ではなく文意として、要は上意下達という意図(命令の令)が前面に出ぬよう、現状に即して表出(表に出す)という結果に至ったことを強調したいのだろう。そんなことに思考を巡らせていたら、今日もまた、日没を見ることができなかった(あるいは、日没が見られなかった)。

2021年1月4日、17:04、京都市上京区より南西方向を望む。
(Nikon D3s, NIKKOR 85mm/1.8, f16, 1/80, ISO400)


2021年1月3日日曜日

成功は石に刻んで、失敗は砂に書け。

長らく、テレビのようなものは所有しているが、テレビのない生活をしている。大学進学を契機に18歳で一人暮らしを始める時には、カシオの反射型液晶の白黒ポータブルテレビTV-21を使用していて、その小さな画面で阪神・淡路大震災のニュースに触れた。とはいえ、それだけが情報源ではなく、SONYのICF-2001Dという「超」を付けてよい程の高性能・高機能なラジオと、三菱のS-VHSデッキHV-S74を実家から持ってきていた。(ビデオ入力端子がないテレビにも、ビデオデッキにRFモジューレーターがついていればアンテナ線経由でビデオを見ることができた、というのは、ただ説明するだけではわからない時代になるだろう。)その後、西陣の町家に暮らし始めて、Yahoo!オークションが浸透し始めると、かつて「モノ」にもかかわらず一目惚れしてしまったSONYのカラーモニターKX-21HV1Sをフルセット(本体・リモコン・説明書・台・スピーカー)で揃え、地デジ化完了の前にYahoo!オークションで売却した。(ちなみにビデオデッキもYahoo!オークションでPanasonicのNV-FS100に、その後は東芝のHDDレコーダーRD-XV44を導入した。)

地デジ化直前からデンマーク滞在までは、EIZOのパソコン用モニターFlexScan HD2452Wに、J:COMのCATVチューナー(当初はPanasonicのTZ-DCH2000、その後はブルーレイ内蔵のPanasonicのTZ-BDW900)を接続していた。こうして、テレビのようなものは所有しているが、テレビは所有していない生活が続いてきた。そして2017年度のデンマーク滞在にあたっては、できるだけモノを減らすことにしたため、テレビの類いは持たずに過ごした。一方で、Amazonプライム・ビデオなど、サブスクリプションのサービスを享受する生活が常となった。

デンマーク帰国後も、テレビは持たずに32型の液晶ディスプレイにAmazon Fire TV Stick(4K)を接続してテレビのように視聴している。こうしてハード面が一つひとつのモジュールが独立していることによって、より快適で納得のいく環境へとアップデートが可能となる。例えばスピーカーについては、以前はヤマハのYSP-600を用いていたが、今は同じくヤマハのSRT-700に変えており、よりスマートな佇まいのもと納得のいく音質に満足している。一方で、よくもこうして型番を並べて語れるものだ、と我ながら思うところである。

今日、Amazonプライム・ビデオで「シカゴ P.D.」を見ていたら、シーズン2の7話で「成功は石に刻んで、失敗は砂に書け。」というシーンがあった。開始から11分ほどのところで、元のスクリプトでは「Carve your successes in stone, Write your failures in the sand」のようだ。ストーリーの展開上、重要なシーンではないものの、捜査が立ちゆかない状況の中で、同僚ではない刑事がレギュラーキャストに投げかけた言葉である。1月、3月が近づくと、どうしても震災のことを想い起こすことが多く、特にこのセリフでは東北の各所で見た津波の記念碑(例えば、岩手県宮古市重茂の姉吉宮城県気仙沼市唐桑の鮪立などを思い、しかし見終わった後ではこうしてモノに刻まれた型番たちを思い出したのであった。

シカゴP.D. シーズン2 エピソード7より
(Nikon D40, NIKKOR DX40mm, f3, 1/30, ISO400)




2021年1月2日土曜日

初もの

今年は初日の出も、初夢も見なかった。初日の出は積極的な意思として見なかったのではなく、起きた時間には日が昇っていた。一方で初夢は熟睡だったためか、見ることはなかった。そもそも夢はどのようにして見るのかと思索を巡らせれば、それだけで人生が過ぎていきそうであるが、夢は見るものではなく叶えるもの、などとレトリックで割り切って深みにはまらないようにしてみよう。

かつて、初日の出にこだわった時期もある。中学生の頃には自転車で海岸(磐田市の鮫島海岸)に向かい、友人たちとたき火をして朝を迎えたこともある。高校生に入ると、1年生のときの担任の先生(地理の長谷川豊先生)の見立てのもと、友人3人で京都に向かい、年越し蕎麦を南座横にある松葉でにしんそばをいただき、知恩院での除夜の鐘と八坂神社での初詣をし、帰りは新幹線の車内で初日の出を迎える、という小旅行をした。COVID-19によるステイホームの影響というよりも、年を重ねて好奇心が落ちているのかもしれない、と懐かしい思い出に浸る正月である。

一方、元日の法然院での法話で、應典院在職中の取り組みを懐かしんでいる。年末に岸井大輔さんからのお誘いで、12月25日に、2011年から数年にわたって應典院でのコモンズフェスタの恒例事業の一つになっていた24時間トーク「如是我聞」のオンライン開催に参加させていただいたことも影響しているだろう。2006年に應典院に着任して早々、2003年で一旦休止としていたコモンズフェスタを、お寺を舞台にした総合芸術文化祭として再開することとし、2006年10月1日から31日まで、毎日必ず何らかの事を起こす、という企画を事務局主導にて実施した。事務局主導で5年続けた後、東日本大震災を経て、お寺を開くということはお寺の側の姿勢によるところであるが、開かれ続けるにはお寺に足を運んでくださる方々がいてこそである、と捉えて、実行委員会形式で企画・運営された第1回目(1998年)への原点回帰を図ることとした。

印象深いのは2010年度、事務局主導で行った最後の回にあたる2011年1月の開催分である。このときは「onとoffのスイッチ〜私をひらく6つのチカラ」というテーマを掲げ、「スイッチ」というメタファーのもと対義語を提示(記憶のチカラ:想起と忘却のスイッチ、語りのチカラ:発話と傾聴のスイッチ、誓いのチカラ:拘泥と刹那のスイッチ、場所のチカラ:開放と閉鎖のスイッチ、型式のチカラ:継承と創造のスイッチ、身体のチカラ 作動と停止のスイッチ)することで思考と行動のモードチェンジへの手がかりを探るという趣向とした。パンフレットのPDFがサーバーに残っているので今でも誰かの目に触れていただけていることが有り難い。そんな具合にお寺での仕事と暮らしを思い出したこともあって、日想観よろしく夕陽に目を向けてみた(が、思い立ったときには既に日没となっていた)。

2021年1月2日、17:20、京都市上京区より南西方向を望む。
(Nikon D40, NIKKOR DX40mm, f2.8, 1/15, ISO400)


2021年1月1日金曜日

無事之○○

大阪・天王寺区下寺町の浄土宗寺院、大蓮寺・應典院の職を離れて以来、年始は京都・左京区鹿ヶ谷の法然院への参詣が続いている。2021年・令和3年もまた、梶田真章貫主による1月1日の新春法話に参加させていただいた。梶田貫主も仰っているが、少なくともこの数年の法話は「共に生きる〜絆と縁、愛と慈悲」と題したお話である。しかし、例えば落語がそうであるように、その時の情勢、何よりその場の雰囲気などによって、伝え方も伝わり方にも変化がもたらされる。

法然院に伺うと、石積みの階段を上って茅葺きの山門をくぐった後、少々立ち止まって眼下に広がる2つの白砂壇のある境内を見渡すことが多い。これら白砂壇は池の代わりとして、つまり水に見立てられたもので、壇と壇のあいだに整えられた参道を歩くことにより、参詣者が身を清めるという具合である。今年は新型コロナウイルス感染症(COVID-19)もあって、法話に訪れる方も例年より少なかったものの、お一人の方がカメラを片手に白砂壇に関心を向けておられた。というのも、年始の白砂壇の方々には例年、何らかの言葉が整えられているためである。

法然院の法話では常々「何か質問はありますか」「気になっていることはありますか」と、参加者の関心に寄り添われるのだが、今年の元日の新春法話では、最初に梶田貫主から「白砂壇の字は読めましたか?」と問いが投げかけられた。ちなみに昨年は『書経』から「百祥」の字が、随身(お寺で住職のお世話役のこと)の木戸康平さんによって整えられたとのことである。そして今年は「無事」とされたという。COVID-19もあってそうされたようだが、インターネットにあるいくつかの投稿や記事から、臨済宗の開祖、臨済禅師の『臨済録』に「無事之貴人」という言葉があることを知った。

数ある投稿や記事をもとにすれば、「平穏無事」と「無事之貴人」では、無事の意味が異なるという。ただし、辞書(AppleのmacOSに標準添付されているスーパー大辞林)を引いてみると、無事には「見てみれば、 とりたてて変わったことがないこと」「身の上などに悪いことが起こらないこと」「作為を用いず自然に任せること」の3つが並んでいた。平穏無事という時の無事は1番目と2番目、そして「無事之貴人」は3番目にあたり、「ありのまま」で生きていられるようになることが「貴い人」(ここでは深く立ち入らないが、これも身分や家柄の話ではなく理想的な求道者の生き方という意味)とされている。ちなみに「無事之貴人」をもじって菊池寛さんが自身のエッセイで用いた「無事之名馬」(馬主でもあった氏が1941年6月の『優駿』に寄稿)がよく知られているが、今年一年、社会には一大事の事柄が続かず(有事とならず)、ありのままで過ごす(無事)ことができるよう努めたい。(なお、「無事之名馬」については、その後、同誌『優駿』の1968年12月号に収められた「<座談会>優駿三〇〇号に想う」p.53にて、福沢諭吉先生が創刊した時事新報の岡田光一郎さんによるものだと菊池寛さん自身が明かしたようである。


手前から山門に向かって「無事」と整えられている
(Nikon D3s, NIKKOR17-35, 35mm, f5, 1/100, ISO250)