大阪・天王寺区下寺町の浄土宗寺院、大蓮寺・應典院の職を離れて以来、年始は京都・左京区鹿ヶ谷の法然院への参詣が続いている。2021年・令和3年もまた、梶田真章貫主による1月1日の新春法話に参加させていただいた。梶田貫主も仰っているが、少なくともこの数年の法話は「共に生きる〜絆と縁、愛と慈悲」と題したお話である。しかし、例えば落語がそうであるように、その時の情勢、何よりその場の雰囲気などによって、伝え方も伝わり方にも変化がもたらされる。
法然院に伺うと、石積みの階段を上って茅葺きの山門をくぐった後、少々立ち止まって眼下に広がる2つの白砂壇のある境内を見渡すことが多い。これら白砂壇は池の代わりとして、つまり水に見立てられたもので、壇と壇のあいだに整えられた参道を歩くことにより、参詣者が身を清めるという具合である。今年は新型コロナウイルス感染症(COVID-19)もあって、法話に訪れる方も例年より少なかったものの、お一人の方がカメラを片手に白砂壇に関心を向けておられた。というのも、年始の白砂壇の方々には例年、何らかの言葉が整えられているためである。
法然院の法話では常々「何か質問はありますか」「気になっていることはありますか」と、参加者の関心に寄り添われるのだが、今年の元日の新春法話では、最初に梶田貫主から「白砂壇の字は読めましたか?」と問いが投げかけられた。ちなみに昨年は『書経』から「百祥」の字が、随身(お寺で住職のお世話役のこと)の木戸康平さんによって整えられたとのことである。そして今年は「無事」とされたという。COVID-19もあってそうされたようだが、インターネットにあるいくつかの投稿や記事から、臨済宗の開祖、臨済禅師の『臨済録』に「無事之貴人」という言葉があることを知った。
数ある投稿や記事をもとにすれば、「平穏無事」と「無事之貴人」では、無事の意味が異なるという。ただし、辞書(AppleのmacOSに標準添付されているスーパー大辞林)を引いてみると、無事には「見てみれば、 とりたてて変わったことがないこと」「身の上などに悪いことが起こらないこと」「作為を用いず自然に任せること」の3つが並んでいた。平穏無事という時の無事は1番目と2番目、そして「無事之貴人」は3番目にあたり、「ありのまま」で生きていられるようになることが「貴い人」(ここでは深く立ち入らないが、これも身分や家柄の話ではなく理想的な求道者の生き方という意味)とされている。ちなみに「無事之貴人」をもじって菊池寛さんが自身のエッセイで用いた「無事之名馬」(馬主でもあった氏が1941年6月の『優駿』に寄稿)がよく知られているが、今年一年、社会には一大事の事柄が続かず(有事とならず)、ありのままで過ごす(無事)ことができるよう努めたい。(なお、「無事之名馬」については、その後、同誌『優駿』の1968年12月号に収められた「<座談会>優駿三〇〇号に想う」p.53にて、福沢諭吉先生が創刊した時事新報の岡田光一郎さんによるものだと菊池寛さん自身が明かしたようである。)
手前から山門に向かって「無事」と整えられている
(Nikon D3s, NIKKOR17-35, 35mm, f5, 1/100, ISO250)
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