台湾・淡江大学と立命館大学との学術交流フォーラム「TRACE2013」の2日目は、仙台から岩手県の宮古まで移動した。東北自動車道で盛岡まで向かい、国道106号線をとる。今回、お世話になっている仙台バスの運転手、栗村さんによると「ずいぶん道がよくなった」そうだ。栗村さんが宮古に向かったのは10年以上前とのことだが、震災後の復旧もあいまって、そんな印象を覚えたという。
今日は宮古と言っても、目的地は田老である。宮古であって宮古でない、と言うのは言い過ぎかもしれないが、少なくとも、2005年3月までは、田老は下閉伊郡田老町であって、宮古市ではなかった。今日は、あるいは今日も、立命館災害復興支援室のプログラムで宮古に入るにあたっては、最初に田老を訪れる。それは宮古観光協会が実施する「学ぶ防災」に参加するためだ。
『美味しんぼ』108巻にも、震災後の田老の様子は描かれているが、震災前の田老は、「万里の長城」という異名も付けられた、X状のスーパー堤防と、標語「津波てんでんこ」が継承されていく原点のまちとして、よく知られていた。X型の堤防は、昭和8年の三陸大津波の後、地理的・財政的・産業的な側面から断念した高台移転の代替案として、昭和9年(1934)から昭和33年(1958年)にかけてつくられたことを端緒としている。24年かけて造られた1350mに及ぶ防潮堤の完成後、後に第2防潮堤と呼ばれる582mの防潮堤が、北に向かって「逆くの字型」となった第1防潮堤の北東に、昭和37年(1962年)から昭和41年(1966年)に造られ、さらに第1防潮堤に対して南東方向に、501mにわたる第3の防潮堤が昭和48年(1973年)から昭和53年(1978年)につくられた。こうした構造物に加えて、碁盤の目のように区画整理されたまちの四つ角に「隅み切り」と呼ばれる切り込みを入れるなど、いわゆるインフラ整備で「いのちは守られるもの」のではなく、人の力が及ばない津波からは逃げることで「いのちは守るもの」という文化が根付いていった。
「学ぶ防災」のプログラムは、5人のガイドの方によって展開されているというが、今日、ご案内をいただいた澤口強さんも、また、何度かお話を伺っている元田久美子さんも、(当然のことなのだが)人々の知恵の大切さを説く。例えば、田老第一中学校の用務員さんが、高さ10mの防潮堤の向こうに見えた水柱を見た瞬間に「ここではダメだ、直ぐに赤沼山に逃げろ」と判断したこと、などだ。なお、個人的な印象だが、何度かガイドの方の案内を伺う中で、ネガティブな語り(例えば、第1防潮堤と第3防潮堤は津波対策のために国土交通省の河川局が管轄し、第2防潮堤は高潮対策のために水産庁の管轄したが、そうした管理主体や施工方法等の違いによってもたらされたこと、など)を織り交ぜた情緒的な語りは減り、一定の「型」に落ち着いてきたように思う。ともあれ、「学ぶ防災」のプログラムの最後は、たろう観光ホテルの6階の客室で、当時、予約されていたお客さんを待ちながら、到来する津波の様子を映像で記録していた松本勇毅社長からお話を伺ったのだが、映像に遺された「はやくにげでー、津波、きったよー」と呼びかけた、ホテルの向かいに住んでおられたおばあちゃんが「今も、行方不明」と仰ったことに、逃げるということは自分のいのちを守る方法であると共に、自分のことを思ってくれる人を助ける方法であることを、改めて痛感したところである。
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