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2007年2月13日火曜日

世界の中心で、愛をさけぶ

 自他共に認めるながら族だ。テレビは言うに及ばずマンガを見ながら食事、ラジオを見ながら勉強、最近は音楽を聴きながら通勤、などなど「ながら」で形容される習慣を挙げていけばきりがなく、何より博士論文も「ながら」で書いたことは、同時期に同じく「ながら」で執筆していた仲間によく知られた話だ。いつのことか忘れたが、「ながら」で何かをすることに対して集中力があるのか、ないのか、誰かと話し込んだ経験がある。「ながら」でも何かができるということは、結果として集中力があるといういうことだ、と私は主張していた気がする。

 そんな私が今日は「DVDを見ながら作業をする」という暴挙に出た。さすがに、DVDを見ながら仕事をするのか、と思われそうだが、「ながら」ができる背景には集中力がある、という前提を持っている私である。つまり「集中力を高める」ためにはどんな「ながら」の素材がいいのか、その時々の作業に合わせてその素材を慎重に選んでいるつもりである。それなのに、なぜDVD、という疑念ははやり払拭できそうにない。

 ちなみにここで言うDVDとはDVD-Videoのことで、具体的には「世界の中心で愛をさけぶ」の映画版を見ながら作業をした。この映画はベストセラーとなった同名の小説をもとにしたものであるが、忠実に映画化したわけではない。とりわけ、主人公の大人になってからの物語に力が入れられていること、さらにはそのことによって原作には登場しない「律子」という人物が物語の鍵を握るという点に特徴がある。「限定」ということばに弱い私は、以前この映画の「限定BOX」を購入しており、それがたまたま机のそばにあったこと、また特典ディスクを見ていなかったこと、自分自身の甘酸っぱい高校時代を思い出して懐かしむことができること、それに加えて映像もキレイでBGMならぬBGVとして使えそうなこと、などから、「かけっぱなし」で作業を進めた。

 結局、作業ははかどったと思う。既に知っている物語だから、その世界にのめり込みすぎることはない。だからこそ、「何となくそっち」に気をやりつつ、本来なすべきことに大方の集中力が向けられた、そんな風に考えている。ただ、こうした改めて「ながら」と集中力について考えてみると、ながら族において集中力は「ある」か「ないか」の問いは妥当ではなく、それは散漫か否かが問われている問題なのだ、と、勝手に論点をすり替えたくなる、そんなながら族の私だ。



世界の中心で、愛をさけぶ




亜紀:ねぇ、サクの誕生日は11月3日でしょ。

朔太郎:そうだよ。

亜紀:私の誕生日が10月28日だから、サクがこの世に生まれてから私がいなくなったことは1秒だってなかったんだよ。私がいなくなっても、サクの世界は有り続けるわ。

朔太郎:何弱気になってんだよ。しっかりしろよ。

亜紀:サクに怒られるとは思わなかった。

朔太郎:ウルセェ。

(1:44:24〜1:46:00)




重蔵:天国ってのは生き残った人間が発明したもんだ。そこにあの人がいる。いつかまたきっと会える。そう思いてぇんだ。

(1:18:24〜1:18:50)















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