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2007年1月16日火曜日

木を植えましょう

 自分の綴ったものにコメントが寄せられるのはうれしい。もちろん、文字に対して文字が寄せられることがうれしいだけでなく、あまたの行為に何らかの反応がなされることは、やりがいを再生産する原動力になりうる。逆に言えば反応がないとき、やりがいは失われる可能性がある。転じてそれは生活のなかで他者からの反応を得ることができない人々にとって、それぞれの生き甲斐とは何か、という問いにもまで展開できそうだ。

 ともあれ、今日、Blogの記事へのコメントとして「魂の森へ行け」という書物を紹介いただいた。こうして新たな書物に出会えることもうれしい。ことばの出会い、また書物の出会いは、自らの感覚や経験を照らし合わせる合わせ鏡を新たに得ること、そんな風に思うからだ。早速、Amazon.co.jpのマーケットプレイスで発見し、格安で手に入れられたのも、小市民のうれしさに浸ったところである。

 紹介していただいた書物の題名を見て想い起こしたのが、2006年12月8日に應典院での寺子屋トーク47「"いのち"のエナジー」でお招きした正木高志さんの「木を植えましょう」であった。その「あとがき」には「木を植えるのは、空を飛んでいたタンポポの綿毛がふっと着地するような、そんな何気ない行為」であり、「着地することでタンポポの新しい生命がはじまるように、木を植えるという何気ない行為によって、ぼくたちは混沌(カオス)から新しい秩序へ着地する」と述べている。というのも、この「木を植えましょう」という書物は、ご自身のお兄さん、またお連れ合いが病気になったとき、共に木を植えることで森がよみがえり、そのよみがえりをとおして環境が元気になることが自分も健康になる道、そうした実感を携えたという経験を綴ったものなのだ。こうして綴ると「宗教臭い」、それが転じて「胡散臭い」と呼ばれがちであるが、これでも僧侶の私としては、そんな一言で片付けられるのは本意ではない。

 今日は本との出会いをとおして以前の出会いを追体験したのであるが、実際に以前の仲間との再会もあった。以前、内蒙古の沙漠緑化に共に取り組んだ仲間が、今の仕事である農業の現場から干し柿を持って訪ねてきてくれたのである。昔話に花を咲かすと、われわれが行った沙漠緑化は「木を植える」のが中心ではなかったが、元の土地へとよみがえるようにとの願いを込めつつ、牧草の種を巻いてきたことを再確認した。正木さんにすれば、持続可能な世界は、真我性、アートマン性、仏性、如来性といった「霊性」によってこそ実現できるとされているが、あながちそうした感覚は自らの実体験を想起するなかで得られるのではないか、などと、出会いの追体験を通して考えた次第である。



木を植えましょう

第五章 ∞から○へ(スモール イズ ビューティフル)




 <縁起>とはぼくたちに見える現象世界の真理(リアリティ)である。

 前にティック・ナット・ハンの『ビーイング・ピース』から引用して語ったように、あらゆるもの・出来事が、それ単独で生起・存在することはなく、相互に依存しあい、縁によって生起し存在している、という真理のことである。仏教用語では<相依>(相互依存)と言い、ハン師はそれをInter-Being(相互存在)と英訳している。

 エコシステムは地球を覆っている薄い表皮のようであるが、それを広げて一枚の布と見るときに、<縁起>とは、ぼくたちがその結び目のひとつとして存在し、活動していることをさす。

 ところがふだんぼくたちは自意識に映っている誤った世界観のなかに生きているわけで、そこでは自他が自己中心的に分断されており、その妄想ゆえに破壊的な活動を犯しては、自ら苦しんでいる。苦しみから解放されるためには、人はエゴに染まった心を浄化し、飼い馴らさなければならない。そうしてはじめて自分が環境によって生かされているという真理を自覚し、自然への愛に目覚めることができる……というのが<縁起>の教えだ。



正木(2002) p.91





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