キリスト教はよく形而上学的思考、さらに言えば「二元論」をもって世界を捉えているという。善か悪、罪と罰、そういった「AかB」「AとB」といった概念を提示するなかで、現象として目の前に顕れる物事・出来事の意味を解釈していく、という思考方法だ。もともと仏教に興味がなかったわけでもない私は、こうした「AかB」、あるいは「AとB」といった考えよりも、「Aでないものは何か」と考える方が腑に落ちる。例えば、「男と女」という二項を置いて、そのいずれかに当てはめていくといった考え方ではなく、「男」ではないものは何かを考えることによって、「男」とは何かを考えていく、という具合で、物事の意味を決めていく(これを、同定と言う)のである。
もともと言葉遊びが好きだ。もちろん、駄洒落好きと言えば、それまでの話である。そろそろ若者による「オヤジギャグ」とは認識されず、「オヤジ」がしゃべるギャグとして、周りが困るであろう年齢にもなってきた。ともあれ、ふとした時にギャグが口をついて出てくるのは、Macの黎明期に「ことえり」という日本語変換を使用せざるを得なかったところから来ているように思う。ATOK8が出た時には、その変換の賢さに言葉を失ったような記憶があるが、それでも、時折使う「ことえり」のアホさ加減は「いらだち」よりも「楽しみ」を覚えていたように思う。
キリスト教と仏教を比較するなかで、「同音異句」として意味の違いを楽しんでいることばとして「むじょう」がある。キリスト教で無情と言えば、「人情が感じられない」という意味、つまり「薄情」と言ったように否定的な意味を持つが、仏教で「無常」と言えば、この世の万物はすべて生滅流転して儚いというように、単に否定的な意味合いだけを指すものではない。私はこの「無常観」という考えが好きだ。この世に起こった物事・出来事は、ある固定された意味が保存され続ける(memory)のではなく、すべての関係が微妙に変化するなかで、「あの日あそこで起こったあのこと」に思いを馳せ続ける(remembering)ことで、よりよい明日が生まれていくと考えた方が、今を生きる喜びに浸ることができるのではないか、そんな風に感じてやまないのである。
無常という事(抜粋)
歴史には死人だけしか現れて来ない。従って退っ引きならぬ人間の相しか現れぬし、動じない美しい形しか現れぬ。思い出となれば、みんな美しく見えるとよく言うが、その意味をみんなが間違えている。僕等が過去を飾りがちなのではない。過去の方で僕等によけいな思いをさせないだけなのである。思い出が、僕等を一種の動物である事から救うのだ。記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう。多くの歴史家が、一種の動物に止まるのは、頭を記憶で一杯にしているので、心を虚しくして思い出す事が出来ないからではあるまいか。
小林(1961=1942) pp.75-76
0 件のコメント:
コメントを投稿