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2007年1月4日木曜日

タオ:老子

 卒業論文を書いていた頃、指導をいただいた先生から「岩波新書は一晩で読め」といった助言をいただいた。あれからもう10年前になる。この助言は本に学ぶことは好きでも、本を読むことは得意ではなかったのもあって、強く印象に残った。その後、いくつか原稿を書く機会を得て、私が指導をすることも増えてきた今、何となく本に学ぶ方法、本を読む方法がわかってきたような気がしている。

 当たり前のことからもしれないが、本に学ぶ、あるいは本を読むのは「無知の知」に浸るというだと私は認識している。もちろん、こうした「教え」こそ先達に学ぶところである。折しも、「会話を楽しむ」の著者が記した老子の書物を、母が差し出してきた。「タオ:老子」と題されたその書物は、磐田市立図書館で借りられたもので、老子の「道徳経」について「思想とイメージの大渦のそこに潜り」その後に「大きな渦を岸から眺めおろし」て、現代的な訳を付けたものである。



「私の言うことを聞いて、多くの人は馬鹿くさいホラ話だと笑う」−こう「老子」は言っているが、それはその多くの人が頭だけで知ろうとしたからのことだ。「老子」を分かるには頭で取りいれることも必要だが、まず胸で、腹で、さらには全身で感応することで、はじめて「老子」の声が聞こえてくる。そして、彼のメッセージを体得できるのだ。

 こう言うだけでもう私の言葉は理屈の筋にはいっている。頭での解釈がはじまっている。それで理屈で分かってもらう前に、本文のどれか一章にでも接してもらうよう願っておくのだ。先に頭でだけ解しはじめると、本当の共感が湧くのを邪魔するかもしれない。




加島(2000) pp.227-228




 「タオ:老子」と名付けられた書物は、老子の「道徳経」第一章〔体堂〕の口語訳から始まるのであるが、あとがきには「ともかくどこからでも読め」と記されている。迷ったときにはゴールから辿るのが迷路を後略する常套手段だが、最早タオイズムを学ぶ上では、そうした方法は棄却されてしまっている。教えを説く上での教えに従い、読み進めてみたところ、なるほど、その所作を求めることに合点がいった気がする。文末に、最も「ストン」と落ちた章を引用して、今日の学びの痕跡を残すことにしよう。

 元旦から過ごした実家生活を終え、今日、私は自宅へと戻る。仕事と健康の兼ね合いから、今年は自宅の場所も変わりそうだ。この正月、6年前、くも膜下出血でなくなった祖母の7回忌が今年であったことを思い出した。何かの機会がないと戻ってこなくなってしまったことを鑑みると、次に実家に来るのは法事の場となるだろう。





(老子「道徳経」) 第11章 「空っぽ」こそ役に立つ




遊園地の

大きな観覧車を想像してくれたまえ。

沢山のスポークが

輪の中心の轂(こしき)から出散るが

この中心の轂は空っぽだ。だからそれは

数々のスポークを受けとめ、

大きな観覧車を動かす軸になっている。



粘土をこねくって

ひとつの器をつくるんだが、

器は、かならず

中がくられて空(うつろ)になっている。

この空(うつろ)の部分があってはじめて

器は役に立つ。

中がつまっていたら

何の役にも立ちやしない。



同じように、

どの家にも部屋があって

その部屋は、うつろな空間だ。

もし部屋が空でなくて

ぎっしりつまっていたら

まるっきり使いものにならん。

うつろで空いていること、

それが家の有用性なのだ。



これで分かるように

私たちは物が役立つと思うけれど

じつは物の内側の、

何もない虚(きょ)のスペースこそ、

本当に役に立っているのだ。



第一一章〔無用〕三十輻、共一轂。当其無有、車之用也。挺埴以為器。当其無有、埴器之用也。鑿戸?以為室。当其無有、室之用也。故有之以為利、無之以為用。

(*はunicode7256)




無之以為用。And by the non-exsistance of things we are served.



加島(2000)pp.28-30.



【引用者注:英語訳はThe Wisdom of Lao Tse by Lin Yu-tang(林語堂)、1943による】



<ハードカバー>





<文庫版>







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