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2007年1月23日火曜日

ド・ラ・カルト

 「ドラえもんで何かわかるんですか?」研究室に訪れた後輩はそう言った。久しぶりの再会だった。「他に言うことないんかい」と思う部分もあったが、ついぞ「のび太の結婚前夜(25巻)」や「さようなら、ドラえもん」(6巻)」や「帰ってきたドラえもん(7巻)」など、後に映画化された作品たちを挙げてその魅力を語りたくなってしまう。

 藤子不二雄作品を小学館の学習雑誌(例えば、小学四年生、など)や「コロコロコミック」でリアルタイムに読んでいた世代だ。結果として「てんとう虫コミックス」も多数持っている。その昔、実家の近所の本屋さんでもらったドラえもんの色紙はどこにいってしまったのだろう…。ともあれ、幼少の頃に根ざした藤子マンガの世界には大人になっても心地よく浸り続けており、奈良そごうで開催された「藤子・F・不二雄の世界展」やサントリーミュージアムでの「THEドラえもん展」にも足を運ばせる。

 「大事なことはドラえもんで教わった」という本も出ているとおりに、「ドラえもん」は作者である藤子・F・不二雄自身が「のび太」に投影されることによって構成されている「メッセージマンガ」と言える。「サザエさん」とやや似て、「ちびまる子ちゃん」や「クレヨンしんちゃん」とはやや非なるところがあろう。なぜなら、「ドラえもん」も、また「道具」も、(少なくとも執筆段階では)物体として存在しえないためである。しかし、テレビ版(精確には、テレビ朝日の大山のぶ代版)のオープニングテーマソングにあるように「あんなこといいな、できたらないいな」を「ふしぎなポッケ」でかなえてくれる「存在しえない存在」に、多くの人々が心地よさを感じているのではないだろうか。

 「ドラえもんやその道具は子どもを甘やかせることを肯定する悪例だ」といった批判も時になされるのだが、それは作品の世界観を(小学館ドラえもんルームが)「公式」にまとめた書物によると、その批判にはきっぱりと「否」と答えられる。ちなみに、今、島根で働く立命館大学の後輩が、今、同志社大学でも働く私の研究室に訪れたのは、大学院進学の相談であった。こうして、仕事や暮らしの変化につれ物事の捉え方やそれぞれの関係が変わるように、ドラえもんも連載を続けるなかで登場人物内の関係も変化し、作者の作品への思いも変わっていると分析されている。そうして紡ぎ出された作品に対して、読者が日々の生活のなかでも「どこでもドアがあったらいいのに」とつぶやきつつも「ないことはわきまえている」という両者が併存するとおりに、自ずと作品の世界に没入させつつ日常生活を正視させるという、強引に仏教語を使えば「空(くう)」としての「ドラえもん」の存在に学ぶことは多い。



ド・ラ・カルト

まえがき(抜粋)




 小学生の時にリアルタイムで雑誌の連載を読んだ幸せな世代がいます。また、自分の子供の本を取りあげて、ついつい夢中になってはまってしまった世代もいます。それぞれに好きな作品があり、それぞれにドラえもんに寄せる思いがあります。

 四次元ポケットから出てくるひみつ道具やドラえもんのメカなど、入社試験問題に出るほど今では一般常識となってしまった感のある様々な設定も、実は必ずしも不動のものではなく、情況あるいは時代に対応し変化しています。時代と共に生きている息の長い作品ならではの生命力を感じます。



小学館ドラえもんルーム(1997) p.4







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