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2014年1月12日日曜日

スペックよりストーリーよりリアリティ


大阪の浄土宗寺院「應典院」での総合芸術文化祭「コモンズフェスタ」の後半線がスタートしたため、撮影の仕事を担う機会が増える。昨年の終わりに、ニコンDfという、昔から写真に馴染みのある人間の関心を引いてやまない製品が発売されたのだが、値段が値段だけに、なかなか手が伸びない。そこで、「買いたい理由」が数多く出てくるため、「買わない理由」を探そうと躍起になったりする。特に値段の面で踏みとどまらせることが、少なくとも妻の疑念を駆り立てない上で重要となる。

思えば、15年ほど前には、撮影といえばフィルムを用いていた。そして、高校生の頃に風景写真家の水越武さんの写真に圧倒されたことが原体験となって、柄にもなく「コダクローム」を常用して、写真家の世界の末端に身を置きたいと、相当の数のシャッターを切ってきた。「コダクローム」ならではの、あの何とも言えない赤みを帯びた発色は、デジタル全盛となった今でも設定によって「再現」することは可能だろう。しかし、それはあくまで操作的な表現にすぎず、レンズとフィルムとの相性に適切に合わせた露光量と露出時間によって表出された物質的な表現とは意味が異なる。

今日は應典院のコモンズフェスタのプログラムが「ヨガと仏教讃歌」ということもあって、音が静かなiPadで撮影することした。ところが、あまりに静かで、気配を感じさせずに、ガラス越しの撮影を行ったため、参加者の皆さんの目には、まるで変質者のように写ってしまったようだ。ガラス越しに狙いを定める姿を認識されるに至るには、ネットでの掲載も考えての撮影のため、できるだけ顔が向かないタイミングを狙っていたことも影響している。ゆっくりだが動きのあるヨガの場面をどのように捉えるのか、苦慮を重ねていたためだ。

そうして小さく後ろめたさを抱いた撮影の後、少し時間があいたので、ふと「フォトブック」を作成してみることにした。というのも、このところ、気仙沼で「ひと」に着目し観光案内に取り組んでいる「気楽会」(気仙沼を楽しみ、気仙沼を楽しくする会)の皆さんの実践に学び、昨年の夏の東北でのプログラムの報告書をフォトブックで仕上げることにして、なかなかの感触を得たためである。そこで、撮りっぱなし、ハードドライブに入れっぱなしになっていることが気になっていたので、先般帰省した折に持って行こうと考えていた、父の古希の祝いの会のフォトブックをつくることにした。ちなみに、今夜は應典院のスタッフで慰労会を行ったのだが、目の前で繰り広げられる職人の技を堪能するため、出していただく料理は写真に収めず、記憶の中にとどめた。



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