父の古希を祝うために宿泊した「浜名湖かんざんじ荘」で迎えた朝は、私たちの結婚から5年を迎えた記念の日でもあった。前日の天気予報では台風の接近が懸念されたのだが、結果として傘は不要で、周辺の散策をすることになった。朝食をいただいて、チェックアウトの後、まず向かったのは宿のすぐ向かいにある「浜名湖オルゴールミュージアム」であった。オルゴールという名前が掲げられているものの、実際は「バンジョー・オーケストラ」などを含む、70台ほどの「自動演奏楽器」の博物館で、スタッフの方による25分ほどの澱みのないプレゼンテーションは、なかなか興味深いものであった。
その後、大草山を後にして向かったのは、まさに舘山寺の名前の由来となった「舘山(たてやま)」であり、「舘山」と名付けられた島一帯を境内地とする「曹洞宗秋葉山舘山寺」を参詣した。父も母も、そして子も、「舘山寺(界隈)」には何度も赴いているものの、「舘山寺(というお寺)」まで足を運ぶのは初めてであった。意外なことに、舘山寺は弘法大師が直接開いたお寺とされ、建立時に自ら刻んだという石像も遺されていた。また、明治に入って一旦、廃寺となったものの、檀家に寄らず、旅の方を迎え入れる供養と祈願のお寺として、現在まで営みを重ねてきているとのことである。
そうして舘山寺へのお参りの後、浜松まで来たので、ということで、鰻をいただいてから帰ることにした。舘山寺の方面まで来たので、気賀の「清水屋」さんに行こうか、と母が提案したものの、弟夫妻の都合で、浜松市内方面が好ましいということになり、下江の「鰻昇亭」へと向かうことにした。いつもは天竜の「納涼亭」を好むため、鰻昇亭は8年ぶりくらいに訪ねることになったのだと思う。かねてからの鰻の高騰、また観光客の迎え入れなども重なってか、以前の店構えに感じたような「張り」が今ひとつなかったように思うが、ひつまぶし風のセットと、「えびサラダ」を楽しませていただいた。
その後は浜松駅まで父の運転で送ってもらい、徐々に台風の訪れを感じる空のもと、新幹線で西へと向かった。乗り継ぎがよく、浜松駅で降ろしてもらってから、1時間半あまりで京都の家に着いてしまった。実家に無事の到着と、小雨が降り始めたことを電話で伝えた後、結婚5年を迎えた日に行うべし、と約束をした、結婚式の来場者の方々が5年後の私たちに宛てたメッセージ集が収められたボックスを開くことにした。当時在職していた同志社大学大学院総合政策科学研究科のソーシャル・イノベーション研究コースの院生の皆さんが企画したものなのだが、なんとも、5年の月日の「重さ」を見つめ直す、貴重なきっかけをいただくことができた。
その後、大草山を後にして向かったのは、まさに舘山寺の名前の由来となった「舘山(たてやま)」であり、「舘山」と名付けられた島一帯を境内地とする「曹洞宗秋葉山舘山寺」を参詣した。父も母も、そして子も、「舘山寺(界隈)」には何度も赴いているものの、「舘山寺(というお寺)」まで足を運ぶのは初めてであった。意外なことに、舘山寺は弘法大師が直接開いたお寺とされ、建立時に自ら刻んだという石像も遺されていた。また、明治に入って一旦、廃寺となったものの、檀家に寄らず、旅の方を迎え入れる供養と祈願のお寺として、現在まで営みを重ねてきているとのことである。
そうして舘山寺へのお参りの後、浜松まで来たので、ということで、鰻をいただいてから帰ることにした。舘山寺の方面まで来たので、気賀の「清水屋」さんに行こうか、と母が提案したものの、弟夫妻の都合で、浜松市内方面が好ましいということになり、下江の「鰻昇亭」へと向かうことにした。いつもは天竜の「納涼亭」を好むため、鰻昇亭は8年ぶりくらいに訪ねることになったのだと思う。かねてからの鰻の高騰、また観光客の迎え入れなども重なってか、以前の店構えに感じたような「張り」が今ひとつなかったように思うが、ひつまぶし風のセットと、「えびサラダ」を楽しませていただいた。
その後は浜松駅まで父の運転で送ってもらい、徐々に台風の訪れを感じる空のもと、新幹線で西へと向かった。乗り継ぎがよく、浜松駅で降ろしてもらってから、1時間半あまりで京都の家に着いてしまった。実家に無事の到着と、小雨が降り始めたことを電話で伝えた後、結婚5年を迎えた日に行うべし、と約束をした、結婚式の来場者の方々が5年後の私たちに宛てたメッセージ集が収められたボックスを開くことにした。当時在職していた同志社大学大学院総合政策科学研究科のソーシャル・イノベーション研究コースの院生の皆さんが企画したものなのだが、なんとも、5年の月日の「重さ」を見つめ直す、貴重なきっかけをいただくことができた。
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