全ての人や組織は学習する存在であり、教員もその例外ではない。実際、立命館の専任教員をさせていただいている私も、本日は多くの学びを得た。ちなみに、最近、大学教員の中で「○○大学教員」など、教授や准教授や助教といった職階に基づく職位を記さず、雇用区分で自らを語る方を目にすることが多いが、これは逆に「教育職員である」という自らの立場を他者と積極的に区別しようとしているようで、小さな違和感を覚えたりもする。むしろ、所属機関名に留めるか、あるいは職位まで正確に記した方がよいのでは、などと思うこともある。
そもそも教育は「される」ものに対し、学習は「する」ものだ。皮肉なことだが、同じ空間を共有していたとしても、そこで過ぎゆく時間によってもたらされる意味、転じてそこに居たことの価値は、その場の構成員に共通するものではない。それは全員が同じ成績にならないことの理由でもある。よって、教育の結果でもたらされる学習の効果には、大きなシナリオに対して個々に(あるいは個々の集団に)マルチエンディングとならざるをえない、という制約を受ける。
今日、本務校の立命館や非常勤で教えさせていただいている同志社などで、それぞれ半期の科目の最終講義を迎えた。朝からの打ち合わせ、そして会議を経て迎えた立命館の講義は、国際インスティテュートによるJapan and World Perspectives Programの一つである「Service Learning」であったゆえ、前任校の同志社大学院総合政策科学研究科ソーシャル・イノベーション研究コースで指導の縁をいただいていた大石尚子さんと宗田勝也さんとのチームティーチングで進めさせていただいた科目だ。日本語が母語の学生もいるが、英語による15回の講義では、しかし京都から復興支援のささやかな実践(即ち、service)を通じた学び(learning)がもたらされるよう、京都三条ラジオカフェでの番組制作、大原工房での体験学習、さらには宮城県亘理町で仮設住宅等で暮らす人々と共に学びあう機会が生まれた。講義の終わりには、亘理町から届いたコメントへの返礼として、受講生からのショートメッセージを映像で収録したのだが、私からのラストメッセージ(ちなみに、ケヴィン・アロッカ「バイラルビデオが生まれるメカニズム」からの引用である)の後、チャイムが鳴ってから、改めて「忘れない」というメッセージを遺したいと申し出た受講生がいたのが強い印象に残った。
立命館では学部の講義しか担当していないのだが、同志社では大学院の講義しか担当していない。そのため、6限の「臨床まちづくり学研究」では、杉万俊夫先生の『コミュニティのグループ・ダイナミックス』(京都大学学術出版会、2006年)をテキストに、理論的観点からの実践の意味創出と意思決定について取り上げるという、要求水準の高い講義を展開しており、今日はその第6章として家族と血縁関係について、NPO法人環の会の実践をもとに、経験に先だって絶対的な関係が担保されている性質「先験性」から、集団の力学に迫った。続いてはクラーク記念館25番教室でのリレー講義「コミュニティ・デザイン論研究」に向かい、新川達郎先生による「コミュニティの構想力と回復力」についてのレクチャーを受講生のモードで伺いつつ、後半の受講生と教員らによるディスカッションに参加した。川中大輔くん、弘本由香里さんという流れでコメントをすることになったので、「ここは起承転結の転の位置だ」と、「言葉遊び」ならぬ「言葉ずらし」で概念の拡張に迫ったものの、さすがに「結」の位置の高田光雄先生がアルジェリアの事件をも引き合いに出しながら「negative circuitになると、別の価値観を認めていきにくくなる」と締めくくられ、また一つ、何かを学習した気がしているのだった。
そもそも教育は「される」ものに対し、学習は「する」ものだ。皮肉なことだが、同じ空間を共有していたとしても、そこで過ぎゆく時間によってもたらされる意味、転じてそこに居たことの価値は、その場の構成員に共通するものではない。それは全員が同じ成績にならないことの理由でもある。よって、教育の結果でもたらされる学習の効果には、大きなシナリオに対して個々に(あるいは個々の集団に)マルチエンディングとならざるをえない、という制約を受ける。
今日、本務校の立命館や非常勤で教えさせていただいている同志社などで、それぞれ半期の科目の最終講義を迎えた。朝からの打ち合わせ、そして会議を経て迎えた立命館の講義は、国際インスティテュートによるJapan and World Perspectives Programの一つである「Service Learning」であったゆえ、前任校の同志社大学院総合政策科学研究科ソーシャル・イノベーション研究コースで指導の縁をいただいていた大石尚子さんと宗田勝也さんとのチームティーチングで進めさせていただいた科目だ。日本語が母語の学生もいるが、英語による15回の講義では、しかし京都から復興支援のささやかな実践(即ち、service)を通じた学び(learning)がもたらされるよう、京都三条ラジオカフェでの番組制作、大原工房での体験学習、さらには宮城県亘理町で仮設住宅等で暮らす人々と共に学びあう機会が生まれた。講義の終わりには、亘理町から届いたコメントへの返礼として、受講生からのショートメッセージを映像で収録したのだが、私からのラストメッセージ(ちなみに、ケヴィン・アロッカ「バイラルビデオが生まれるメカニズム」からの引用である)の後、チャイムが鳴ってから、改めて「忘れない」というメッセージを遺したいと申し出た受講生がいたのが強い印象に残った。
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