今日はふと、「言葉遊び」と「洒落」の違いはどこにあるのか、と考えた。昨日、應典院寺町倶楽部による「コモンズフェスタ」の参加公演である、彗星マジックさんによる「アルバート、はなして」の作・演出の勝山修平さんと、本日の昼公演の直前に、ちょっとだけ立ち話をしたためだ。というのも、その折、勝山さんの開口一番で「言葉遊びがめっちゃ好きな人だったんですね」と、初日の講演に対すコメントと、それを端緒としたメッセージのやりとりを指して、改めて言葉を交わしたためだ。感覚的には、とっさの一言が「言葉遊び」かと思ったのだが、辞書を引いてみると「洒落」こそがその場の戯れであるという。
10日から24日まで連日催しが展開されている應典院の「コモンズフェスタ」だが、本日は昨日からの「彗星マジック」さんの舞台公演の他に、「震災をとおし、まちの医・飾・集を考える」というトークセッションが行われた。企画者は大阪のNPO「いい家塾」事務局の釜中悠至さんで、日頃、「衣食住」の「住」に関わって来られるなかで、今一度、東日本大震災の後、暮らしにまつわる仕事と、多様な仕事人によって支えられる<いのち>について深めよう、ということが狙いとされた。8月に立ち上がった今回のコモンズフェスタの「企画委員会」の席は、釜中さんは当初、「医・職・住」とコンセプトを定めていたが、「住」だけが「言葉遊び」による「概念ずらし」ができていないのでは、ということになり、「住」は「集」に、そして「食」は「職」ではなく「飾」となった。なぜ、飾る、になったのか、それは、今回のゲスト、要 冷蔵(かなめ・れいぞう/劇団往来座長)さんと、もう一人のゲストの長谷川寧子さん(訪問看護師)が旧知ということもあり、2011年12月から約3ヵ月にわたって全国訪問看護事業協会による「訪問看護支援ナース絆事業」で岩手県陸前高田市の「あゆみ訪問看護ステーション」で勤務した経験をもとに、要さんがトークの随所に「手記」や「仏典童話」を朗読する、という趣向を凝らすことになり、ゆえに「日頃の暮らしについて洗練した表現を織り交ぜる」また「参加者どうしの語りへの彩りを添える」ことになったためである。
そもそも英語ではともに「Life」となるが、生活と生命とは、取り扱う事柄が大きく異なる。事実、生活を支えるのが介護、それに対して生命を支えるのが看護、という具合に、それぞれを支える者の職種も区別されている。また、看護の方が介護よりも年齢や症状などで広い範囲を対象としていること、さらには介護には公的介護保険制度が導入されているなど、社会システムの位置づけられ方も、それぞれである。とはいえ、本日の語りの中にあったのだが、支援者も被支援者とそのご家族なども、個人で「抱え込まない」こと、そして日常的に「お世話になる」ことによって、生活も、生命も、すなわち互い「<いのち>がいかされる」。(それが最近は「受援力」など、個人のスキル化と名付けがなされているところに「ポキッと折れる」など感覚が伴うのでは、といった具合に一言あるのだが、ここでは立ち入らない)
何より、日常の暮らしの場面でも、また今日のような非日常のイベントの場合でも、実は「いい場」のためには、「場当たり的」ではなく「場当たり」がわかっていることが重要である。「場当たり」とは演劇用語の一つで(も)あるが、映像と違って「撮り直し」がきかず、ただ時間がただ過ぎていく舞台芸術では、役者の立ち居振る舞いのための「きっかけ」をつかむための稽古が欠かせないのd。「場当たり」があってこその演出と演技が、リアルな営みのリアリティを高めるのだ。今回の場は、「衣・食・住」を「医・飾・集」という具合に言葉でずらし、ホストとゲストの皆さんが應典院に足を運んでくださることで、何度も「場当たり」が重ねられ、東日本大震災以降の「リアル」な医療の現場の語りと、被災地での物語を紡いだ手記が「リアル」に朗読されることで、死と生の「リアリティ」が高まった、そんな場であったように思う。
10日から24日まで連日催しが展開されている應典院の「コモンズフェスタ」だが、本日は昨日からの「彗星マジック」さんの舞台公演の他に、「震災をとおし、まちの医・飾・集を考える」というトークセッションが行われた。企画者は大阪のNPO「いい家塾」事務局の釜中悠至さんで、日頃、「衣食住」の「住」に関わって来られるなかで、今一度、東日本大震災の後、暮らしにまつわる仕事と、多様な仕事人によって支えられる<いのち>について深めよう、ということが狙いとされた。8月に立ち上がった今回のコモンズフェスタの「企画委員会」の席は、釜中さんは当初、「医・職・住」とコンセプトを定めていたが、「住」だけが「言葉遊び」による「概念ずらし」ができていないのでは、ということになり、「住」は「集」に、そして「食」は「職」ではなく「飾」となった。なぜ、飾る、になったのか、それは、今回のゲスト、要 冷蔵(かなめ・れいぞう/劇団往来座長)さんと、もう一人のゲストの長谷川寧子さん(訪問看護師)が旧知ということもあり、2011年12月から約3ヵ月にわたって全国訪問看護事業協会による「訪問看護支援ナース絆事業」で岩手県陸前高田市の「あゆみ訪問看護ステーション」で勤務した経験をもとに、要さんがトークの随所に「手記」や「仏典童話」を朗読する、という趣向を凝らすことになり、ゆえに「日頃の暮らしについて洗練した表現を織り交ぜる」また「参加者どうしの語りへの彩りを添える」ことになったためである。
そもそも英語ではともに「Life」となるが、生活と生命とは、取り扱う事柄が大きく異なる。事実、生活を支えるのが介護、それに対して生命を支えるのが看護、という具合に、それぞれを支える者の職種も区別されている。また、看護の方が介護よりも年齢や症状などで広い範囲を対象としていること、さらには介護には公的介護保険制度が導入されているなど、社会システムの位置づけられ方も、それぞれである。とはいえ、本日の語りの中にあったのだが、支援者も被支援者とそのご家族なども、個人で「抱え込まない」こと、そして日常的に「お世話になる」ことによって、生活も、生命も、すなわち互い「<いのち>がいかされる」。(それが最近は「受援力」など、個人のスキル化と名付けがなされているところに「ポキッと折れる」など感覚が伴うのでは、といった具合に一言あるのだが、ここでは立ち入らない)
何より、日常の暮らしの場面でも、また今日のような非日常のイベントの場合でも、実は「いい場」のためには、「場当たり的」ではなく「場当たり」がわかっていることが重要である。「場当たり」とは演劇用語の一つで(も)あるが、映像と違って「撮り直し」がきかず、ただ時間がただ過ぎていく舞台芸術では、役者の立ち居振る舞いのための「きっかけ」をつかむための稽古が欠かせないのd。「場当たり」があってこその演出と演技が、リアルな営みのリアリティを高めるのだ。今回の場は、「衣・食・住」を「医・飾・集」という具合に言葉でずらし、ホストとゲストの皆さんが應典院に足を運んでくださることで、何度も「場当たり」が重ねられ、東日本大震災以降の「リアル」な医療の現場の語りと、被災地での物語を紡いだ手記が「リアル」に朗読されることで、死と生の「リアリティ」が高まった、そんな場であったように思う。
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