ブログ内検索

2007年2月12日月曜日

文化の解釈学

 修士論文の審査をさせていただくと、自分の研究姿勢を見つめ直す機会にも出会える。特に、その研究の新規さや斬新さを見つめていきたいという思いも重なって、審査すべき論文を的確に読み解こうという衝動に駆られる。そうして、絶妙な質問を選び抜き、発表の後にことばを重ねる。その後のやりとりを冷静に評価すれば、学位を授与するに相応しいかは、自ずと明らかになる。

 修士論文の公聴会は「公が聴く」という字を充てることからも明らかなように、公が聴いて、その内容の如何が判断される。ちょうど、NPOに対して「公益」が問われるのと同じ構造かもしれない。実際、特定非営利活動法人は、申請後、2ヶ月間の縦覧期間を経て、認証を受ける法人形態である。つまり、2ヶ月間、公の声が聴かれる環境が提供されているのだ。

 2日連続で開催された公聴会の際、私のゼミを受講していた方から、審査と審査の合間に質問を受けた。内容は、現場の記述の仕方についてであった。というのも、来年、ご自身がその場に立つことを想定して、公聴会の内容を聴いていたのだが、どうも自分が思う研究とは違うように思えてならないのだ、という不安に駆られたためだいう。とりわけ、フィールドワークの方法論についても講義で触れてきたのもあって、こうした不安が先に立って研究が進まなくなってはいかん、と、コーヒーを飲みながら話を深めることにした。

 フィールドワークに関するいくつかの書物を見ると、よく「厚い記述」ということばが紹介されている。これをうまく伝えるために、今回用いた比喩は「ワイドショーのレポーター」と「刑事事件の起訴状」の比較である。ちょうど、映画「それでもボクはやってない」を見たばかりということもあって、それなりにうまく表現できたと思っている。つまり、研究の現場のリアリティを表現するには「淡々と、しかし精密に」すなわちその場の空気を緊迫感を持って伝えていくことが大切なのだ、緊迫感を持って伝えさせていただいたつもりだ。





文化の解釈学 <1>

第1章 厚い記述:文化の解釈学的理論をめざして




 文化が公的なものであるのは意味が公的だからである。まばたきが何であるかを、あるいは、身体的に、いかにまばたきをするかを知らずにはまばたき(またはまばたきのまね)はできないし、また羊を盗むこととは何かを、また実際に羊を盗むにはどうするかを知らないのでは、羊盗み(あるいはそのまね)をすることはできない。しかしこの真実から、まばたきの仕方を知ることはまばたきをすることであり、羊の盗み方を知ることは羊を盗むことだという結論を引きだすのは、厚い記述を薄い記述と受け取り、まばたきをまぶたを閉じることと同一視したり、羊盗みと牧場から羊を追い出すことと同一視することと同じような混乱をきたすことになる。(pp.20-21)



 われわれが記録する(あるいは記録しようと試みる)ものは、生の会話そのものではないので、事情はいっそう微妙である。しかも、きわめて周辺の、あるいは特殊な意味での参加を除けば、われわれは研究対象の社会の中で活動する人間ではない。このために、その会話に直接加わることはなく、ただその会話のごく一部を、われわれのインフォーマントを通じて理解することができるに過ぎない。これはみかけほど致命的ではない。というのは、事実クレタ人はすべて嘘つきであるとはかぎらないし、何かを理解するためにあらゆることを知る必要もないからである。だが、これは、発見した事実の概念的操作として、つまり単なる現実の理論的再構成として人類学的分析を見ることを、むしろ不十分なものに思わせる。意味の対称的結晶が存在する物理的複合性の中から浄化した意味の対称的結晶を明らかにし、その存在を、自己発生的な秩序原理とか、人間精神の普遍的属性とか、または広大な、先験的(アプリオリ)な世界観に帰するようなことは、もともと存在しない科学が科学をよそおうことであり、見出すことができない現実を想定することにほかならない。文化の分析は、意味を推定すること、その推定を評価すること、より優れた推定から説明的な結論を導き出すことであり(あるいは、そうあるべきであり)、普遍の意味の世界を見出すことでも、その形のない風景を描きだすことでもないのである。(pp.34-35)



 民族学的記述には三つの特色があると思われる。まずそれは解釈を行なうということである。次に解釈する対象は社会的対話の流れである。さらに解釈はそういう対話が消滅してしわないうちにその「言われたこと」を救出しようとすることであり、それが読めるようにすることである。(p.35)



 文化理論は厚い記述の与える直接の資料と切り離せないために、その内側の論理によってそれを形成する自由はむしろ限られている。それが到達しようとする一般性は、その微妙な特殊性の中から生まれてくるのであって、大がかりな抽象化に基づくものではない。(p.43)



 主要な理論的貢献は、特定の研究にあるだけではない−−これはたいていどんな学問においてもそうである−−。またそれをこういう研究から抽象し、「文化理論」といえるようなものにまとめることは大変難しい。理論構成はそれが行なう解釈に密着しているために、解釈を離れるとあまり意味がなくなるか、興味も失われてしまう。これは、理論が一般性がないからではなく(一般性がなければ理論的とはいえない)、理論の適用ということを離れては、それはただの常識か、さもなければ空虚なものに思われるからである。民族誌的解釈のある試みに関して作られた一連の理論的接近(アプローチ)を取りあげ、それを別の民族誌的解釈に活用してみることができる。こうしてそれをいっそう正確に、いっそう広い適用に発展させるのである。このように研究は概念的に発展するものである。しかし「文化解釈の一般理論」を書くことはできない。あるいは書けるかも知れないが、それはほとんど役に立たない。というのは、理論構成の基本的課題は、抽象的規則性を取りだすことだけではなく、厚い記述を可能にすることであり、いくつもの事例を通じて一般化することでなく、事例の中で一般化することなのである。(p.44)



 事例の中で一般化することは、普通、医学や深層心理学では臨床推理と呼ばれている。この臨床推理は、一連の(推定上)意味するものから出発して、それを理解できる枠の中においてみようとするのである。測定は理論的予測に即して行なわれるが、症状は(それが捉えられる場合でも)理論的特性にてらして調べる−−つまり診断される。文化の研究では意味するものは症状や症候群ではなく、象徴的行為や象徴的行為群といったものであり、その目的は治療ではなく社会的対話の分析である。しかし理論が、ものごとの隠れた意味を掘りだすために用いられる方法は同じである。(p.45)



ギアーツ(1973=1987)

Geertz, C. 1973 The Interpretation of Cultures : Selected Essays, Basic Books.

吉田 禎吾・柳川 啓一・中牧 弘允・板橋 作美(訳) 1987 文化の解釈学[1]  岩波現代選書3-56.