現在、應典院で開催中の「コモンズフェスタ」の「commons」とは、共有されたもの、を意味する。コモンズとは、生態学者のギャレット・ハーディンによる1968年の論文「The Tragedy of the Commons」(「共有地の悲劇」という定訳がある)によって、特に経済学的に注目され、昨今では、社会(学)的、さらには環境(学)的に、目に見える資源の管理方法だけでなく、例えば知恵や文化などの目には見えないものも含めて大切にしなければならないとされている。ちょうど、本日の「コモンズフェスタ」のプログラムであれば、研究室Bで開催された「葬食〜盆とは皿を分け合うこと」は、まさに「食作法」などを通じて、その場に集う人、またその場に集う人たちにまつわる他者(当然、そこでは目には見えない他者、すなわち、死者も含まれる)とのコモンズが取り扱われるものとなった。こちらの詳しいレポートは、應典院スタッフの斎藤佳津子によるコラムを期待することにしよう。
今晩は應典院の本堂ホールでの「彗星マジック」による舞台公演『アルバート、はなして』(作・演出:勝山修平さん)を鑑賞させていただいた。劇団の案内に目を向けると、「2002年結成」「空想のリアルが念頭にある無国籍ファンタジーを基盤に物語を紡ぐ」とある。残念ながら、幕が開くまで、公演の概要にちりばめられた「数」に対して想像力が及ばず、このアルバートがAlbert Einsteinであるということがわかっていなかった。ただ、チラシの表面には「希望と公開に苛まれ続けたユダヤ人理論物理学者と神と、それを取り巻く人と世界のむこうの話」と記され、裏面には例の写真(今回の戯曲では、フリーの写真家による病床への取材ということにされていたが、例のアーサー・サスによる、あのカット)をモチーフにしたものがあるから、わかる人にはわかるであろう。
ということで、ネタバレにならない程度に作品の世界に触れながら、観劇の印象を綴らせていただくことにする。このお芝居で圧巻だったのは、大黒が落とされた向こうから御本尊(阿弥陀仏立像)が見つめる前で繰り広げられる、倫理に関する周到なやりとりであった。と書き始めると、どうしても物語の核心に触れてしまいそうなので、鑑賞後に「台本を買わせていただいた」ということで、作品世界に強く引き込まれたということを示させていただくこととしたい。ちなみに舞台芸術では、「大道具」や「小道具」などが練り込められることが多いが、このお芝居ではそれらは「ほとんど」用いられず(事実、チラシのスタッフ紹介にも、そうした役を担っている人は見受けられない)、見える世界では「衣装」の力によるところが大きく、むしろ音響と照明と戯曲と演技によって、過去と現在(と過去)との時間軸(とパラレルワールドとの交錯)が構成され、それこそ「空想のリアル」が鑑賞者に現前する。
終演後の舞台挨拶でも「コモンズフェスタ参加公演である」ことが主演(の一人)の小永井コーキさんから伝えられたが、東日本大震災(特に、東京電力福島第一原子力発電所からの放射線被害)を積極的に取り扱った今回、この『アルバート、はなして』演劇公演を通じて、現代社会に落ちた陰を、第一次世界大戦から第二次世界大戦へとドライブされていった世相から、丁寧に紐解かれたものであると確信している。作中では「3」という数字へのこだわり、またとらわれが重要となるのだが、終演間際に「第一次」と「第二次」の世界大戦の次には、「第三次」がやってくるのでは、ということがふと、脳裏をかすめた。そんなことが起きれば「大惨事」だ、などと、劇中のアドルフの芝居を天の邪鬼に見つつ、この作品が残り明日13日の14時と18時、14日の14時の3回しか鑑賞いただけないことは、「コモンズフェスタ」の主催者側の一人として、小さな悲劇かもしれない、と思うところである。