ハードとソフトの2項は、よく対置され、区別される。身近なところではコンタクトレンズもハードとソフトと分類されているし、こうして文章をしたためているコンピュータでもハードウェアとソフトウェアという具合に区分される。ただ、前者と後者では、分類と区分という言葉で使い分けたとおり、個別に存在しうるか、はたまた個別に区別されても両者が分かれず存在しうることによって何らかの機能が作動するという違いがある。なんだか小難しい綴り方をしてしまったが、今日はこのハードとソフトの不可分な領域について感じた場面が多かったので、そのことについて記しておきたい。
まず、朝には大阪でのアーツカウンシルについて、ある記者さんから取材を受けた。実は以前から應典院寺町倶楽部のアートプロジェクト等を追っていただいていた方なのだが、守秘義務に抵触しない限りにおいて、7月5日、23日、8月10日、9月6日、9月27日と、何度もお話をさせていただき、その内容については関連する行政の部署にも確認をいただいてきた。そんな中、今日は朝で脳味噌のまわりがよかったためか、「臓器と機械(グループ・ダイナミックスから見た小集団におけるリーダーシップ論と、テイラーによる科学的管理法)」、「動脈と静脈(流す側と戻す側)」、「密室感がもたらす唐突感」、「組織文化を学習することと、学習する組織が生み出す文化」、「行政との壁と行政間の壁」、さらには当事者間が一定の距離を保つ「アームズ・レングス」のルールをもじって、最適解をもたらすために妥当な行為を行うために積極的に介入する「フット・レングス」などと、言葉遊びを繰り返してみた。初対面の記者さんであれば、こうした言葉を提示してもピンとこないのだろうが、上述のように何度も場を共にしているからこそ、行政における統治機構(ハード:例えば、稟議と決済/諮問と答申、など)と、そこにおける構成員の位置づけ(ソフト:例えば、特別職公務員と外部委員、など)についての説明するときに、功を奏す場面があった。
その後は應典院のコモンズフェスタのプログラムに連続して参加させていただいた。お昼前には劇団「満月動物園」による舞台公演『ツキシカナイ』の鑑賞を、そして昼下がりには先週末に公演いただいた劇団「彗星マジック」の勝山修平さんの企画によるダンスと音楽と映像のワークショップ「Positive Tone〜自分たちだけの、合唱をつくろう」の記録係を担った。「満月動物園」は主宰である戒田竜治さんが「脚本・演出」ではなく「演出・脚本」とご自身で掲げているとおりに、舞台芸術としての演劇を通じて生と死の境目が描かれた死神シリーズの第4弾で秀作と捉えているが、そこでは今作の肝である「エレベーターの故障」に対してハードウェアの故障のはずがソフトウェア部分に原因を探り、最終的にソフトウェアなき別のハードウェアのパーツによって事態が収拾される、という場面があった。その後にお役をいだいていたワークショップでは、2台のコンピュータと、各々のデジカメ及びスマートフォン等のハードが駆使され、12人が3時間にわたって創意工夫を凝らしたことで、1つの曲に歌詞とPVというソフトが作成された。
現在、静岡文化芸術大学の教授となられた松本茂章先生の博士論文を読ませていただいたとき、梅棹忠夫先生の「チャージ・ディスチャージ論」を芸術文化の実践全般に援用することは適切ではない、と考えるに至った。「チャージ・ディスチャージ論」は教育委員会による文化行政の推進に対する批判のために用いられる(教育はチャージ、文化はディスチャージであるので、自治体の文化施策は教育委員会管轄ではなく首長部局に部局に移管する、いわゆる行政の文化化が適切である、といった)論であるが、この充電・放電を電流の向きだけでなく電圧の変化、さらには電流が流れる磁場には電流が流れる方向に直交する方向に「磁界」が発生し、さらに両平面に垂直する方向へと力(熱量)が発生する、という具合に、物理学の法則からのアナロジー(類推)によって、新たな理論(物語)を提示できそうな気がしたためだ。ちなみに同論文では、帝塚山大学の教授である中川幾郎先生の『新市民時代の文化行政』(1995年、公人の友社:横浜市政策局政策課による『政策季報』125号の書評が参考になろう)などから、松下圭一先生や森啓先生らの主張を中川先生がまとらめた「MKモデル」から、パフォーマンス(表現)・コミュニケーション(交流)・ストック(学習・蓄積・鑑賞)という文化活動における3つの軸に対して、「ハードウェア」「ソフトウェア」「ヒューマンウェア」の3つの資源が効果的に組み合わされる必要があると(も)示している。そもそも、ソフトがなければハードが活かされない、そしてソフトはヒューマンがいなければ生み出されない、それが大前提であるのだから、いっそ「ハード」と「ソフト」ではなく、「ハート(思い)」と「シフト(ずらす)」くらいに置き換えて語ってみてはどうだろう、などと、やはり言葉遊びをしてしまうのであった。
まず、朝には大阪でのアーツカウンシルについて、ある記者さんから取材を受けた。実は以前から應典院寺町倶楽部のアートプロジェクト等を追っていただいていた方なのだが、守秘義務に抵触しない限りにおいて、7月5日、23日、8月10日、9月6日、9月27日と、何度もお話をさせていただき、その内容については関連する行政の部署にも確認をいただいてきた。そんな中、今日は朝で脳味噌のまわりがよかったためか、「臓器と機械(グループ・ダイナミックスから見た小集団におけるリーダーシップ論と、テイラーによる科学的管理法)」、「動脈と静脈(流す側と戻す側)」、「密室感がもたらす唐突感」、「組織文化を学習することと、学習する組織が生み出す文化」、「行政との壁と行政間の壁」、さらには当事者間が一定の距離を保つ「アームズ・レングス」のルールをもじって、最適解をもたらすために妥当な行為を行うために積極的に介入する「フット・レングス」などと、言葉遊びを繰り返してみた。初対面の記者さんであれば、こうした言葉を提示してもピンとこないのだろうが、上述のように何度も場を共にしているからこそ、行政における統治機構(ハード:例えば、稟議と決済/諮問と答申、など)と、そこにおける構成員の位置づけ(ソフト:例えば、特別職公務員と外部委員、など)についての説明するときに、功を奏す場面があった。
その後は應典院のコモンズフェスタのプログラムに連続して参加させていただいた。お昼前には劇団「満月動物園」による舞台公演『ツキシカナイ』の鑑賞を、そして昼下がりには先週末に公演いただいた劇団「彗星マジック」の勝山修平さんの企画によるダンスと音楽と映像のワークショップ「Positive Tone〜自分たちだけの、合唱をつくろう」の記録係を担った。「満月動物園」は主宰である戒田竜治さんが「脚本・演出」ではなく「演出・脚本」とご自身で掲げているとおりに、舞台芸術としての演劇を通じて生と死の境目が描かれた死神シリーズの第4弾で秀作と捉えているが、そこでは今作の肝である「エレベーターの故障」に対してハードウェアの故障のはずがソフトウェア部分に原因を探り、最終的にソフトウェアなき別のハードウェアのパーツによって事態が収拾される、という場面があった。その後にお役をいだいていたワークショップでは、2台のコンピュータと、各々のデジカメ及びスマートフォン等のハードが駆使され、12人が3時間にわたって創意工夫を凝らしたことで、1つの曲に歌詞とPVというソフトが作成された。
現在、静岡文化芸術大学の教授となられた松本茂章先生の博士論文を読ませていただいたとき、梅棹忠夫先生の「チャージ・ディスチャージ論」を芸術文化の実践全般に援用することは適切ではない、と考えるに至った。「チャージ・ディスチャージ論」は教育委員会による文化行政の推進に対する批判のために用いられる(教育はチャージ、文化はディスチャージであるので、自治体の文化施策は教育委員会管轄ではなく首長部局に部局に移管する、いわゆる行政の文化化が適切である、といった)論であるが、この充電・放電を電流の向きだけでなく電圧の変化、さらには電流が流れる磁場には電流が流れる方向に直交する方向に「磁界」が発生し、さらに両平面に垂直する方向へと力(熱量)が発生する、という具合に、物理学の法則からのアナロジー(類推)によって、新たな理論(物語)を提示できそうな気がしたためだ。ちなみに同論文では、帝塚山大学の教授である中川幾郎先生の『新市民時代の文化行政』(1995年、公人の友社:横浜市政策局政策課による『政策季報』125号の書評が参考になろう)などから、松下圭一先生や森啓先生らの主張を中川先生がまとらめた「MKモデル」から、パフォーマンス(表現)・コミュニケーション(交流)・ストック(学習・蓄積・鑑賞)という文化活動における3つの軸に対して、「ハードウェア」「ソフトウェア」「ヒューマンウェア」の3つの資源が効果的に組み合わされる必要があると(も)示している。そもそも、ソフトがなければハードが活かされない、そしてソフトはヒューマンがいなければ生み出されない、それが大前提であるのだから、いっそ「ハード」と「ソフト」ではなく、「ハート(思い)」と「シフト(ずらす)」くらいに置き換えて語ってみてはどうだろう、などと、やはり言葉遊びをしてしまうのであった。