昨日、17日に引き続き、立命館大学の大学院課が主催する、2013年度大学院新入生向けセミナー「大学院で獲得する“充実”」の教員セッションにお招きをいただいた。昨日は衣笠キャンパスだったが、今日は朱雀キャンパスでの開催であった。なぜか、びわこ・くさつキャンパスでの開催はない。しかし、今日はBKCでの長い夜を送ることになるのであった。
教員セッションと掲げているが、プログラム上は座談会1とされ、比較的若手の教員が大学院時代をどのように過ごしたかの話題提供を交えて「大学院で学べること」について語り合う、というものであった。私のペアは両日とも経済学部・経済学研究科の坂田圭先生だった。2名の現役院生をお世話役に、両キャンパスそれぞれ8名ほどの参加者と1時間ほどを過ごした。参加者は進学が決定している方もいれば、今後の進学を希望している人もいて、さらに進学先や希望先の研究科も混ざり合う構成だった。
坂田先生が「大学院の研究生活」と題し、「大学院とは?」「進路とタイムテーブル」「大学院での学び」「就職活動」と、起承転結でまとまりのある話を用意されたのに対して、私は「pass後のpath」と題してミニワークショップと解説を行うこととした。詳細は割愛するが、ミニワークショップでは「感情曲線を描く」こととし、そこから「社会のトピックを個人のエポックにする」ことの意味、それが研究を進めていく上で「問いを問いなおす」契機となる、と示した。結果として、自らの能力(skill)を高めるだけでなく、職能(ability)が高まるよう経験知を豊かに、というメッセージを投げかけることとなった。ゆえに、合格(pass)した後、細く長い小径(path)かもしれないが、未知なる軌跡を大胆に描いていっていただきたい、という「オチ」をつけて、場を後にした。
朱雀から向かったのは、高槻である。15日に東京で開催された「大阪アーツカウンシル(仮称)」設立にあたっての報告・説明会の「高槻バージョン」である。東京では私からの「経過」説明の後で東京藝術大学の熊倉純子先生と対談をさせていただいたのだが、高槻では以前は結婚式場だったというパラダイス感が漂う「高槻現代劇場」の一室にて、共に制度設計にあたってきた帝塚山大学の中川幾郎先生と対話を重ねることとなっていた。この内容も、後程「報告書」に抄録される予定とのことなので、その公開を心待ちにしていただくこととして、ここでは最も印象に残った「(東京への)inferior compelx」という言葉を記しておくに留めたい。その後は参加者の皆さんと「質疑応答」ではなく「拡大座談会」のような場づくりになるよう議論を進行させていただいて、Cafe Neutralでスタッフの皆さんと「今後」の作戦会議をした後、翌日に控えた「研究室の引っ越し」の険しい道のりへと歩みを進めたのである。
教員セッションと掲げているが、プログラム上は座談会1とされ、比較的若手の教員が大学院時代をどのように過ごしたかの話題提供を交えて「大学院で学べること」について語り合う、というものであった。私のペアは両日とも経済学部・経済学研究科の坂田圭先生だった。2名の現役院生をお世話役に、両キャンパスそれぞれ8名ほどの参加者と1時間ほどを過ごした。参加者は進学が決定している方もいれば、今後の進学を希望している人もいて、さらに進学先や希望先の研究科も混ざり合う構成だった。
坂田先生が「大学院の研究生活」と題し、「大学院とは?」「進路とタイムテーブル」「大学院での学び」「就職活動」と、起承転結でまとまりのある話を用意されたのに対して、私は「pass後のpath」と題してミニワークショップと解説を行うこととした。詳細は割愛するが、ミニワークショップでは「感情曲線を描く」こととし、そこから「社会のトピックを個人のエポックにする」ことの意味、それが研究を進めていく上で「問いを問いなおす」契機となる、と示した。結果として、自らの能力(skill)を高めるだけでなく、職能(ability)が高まるよう経験知を豊かに、というメッセージを投げかけることとなった。ゆえに、合格(pass)した後、細く長い小径(path)かもしれないが、未知なる軌跡を大胆に描いていっていただきたい、という「オチ」をつけて、場を後にした。
朱雀から向かったのは、高槻である。15日に東京で開催された「大阪アーツカウンシル(仮称)」設立にあたっての報告・説明会の「高槻バージョン」である。東京では私からの「経過」説明の後で東京藝術大学の熊倉純子先生と対談をさせていただいたのだが、高槻では以前は結婚式場だったというパラダイス感が漂う「高槻現代劇場」の一室にて、共に制度設計にあたってきた帝塚山大学の中川幾郎先生と対話を重ねることとなっていた。この内容も、後程「報告書」に抄録される予定とのことなので、その公開を心待ちにしていただくこととして、ここでは最も印象に残った「(東京への)inferior compelx」という言葉を記しておくに留めたい。その後は参加者の皆さんと「質疑応答」ではなく「拡大座談会」のような場づくりになるよう議論を進行させていただいて、Cafe Neutralでスタッフの皆さんと「今後」の作戦会議をした後、翌日に控えた「研究室の引っ越し」の険しい道のりへと歩みを進めたのである。