2日連続で、朝から立命館大学衣笠キャンパスにある個人研究室へと向かった。昨日は一日はもとより一ヶ月かけても終わらないであろう書類の整理をひたすらに、今日は10月からの研究プロジェクトを進めていく上での顔合わせのためである。ちなみに昨日は、午後から学生たちとの打合せで、終わり次第にビアガーデンへと向かう予定だったが、あいにくの雨のため、大学近くの非チェーン店、クレジットカード不可なお店でいただいた。舌が肥えたのか、あるいは料理の経験が重ねられたためか、学生時代に通った頃に受けた印象とは異なり、ちょっとだけ残念な思いを抱いてしまった。
夕方からは、学生の頃、立ち上げに参画した、きょうとNPOセンターのプロジェクト会議に向かった。1998年の設立だから、かれこれ15年の関わりになる。今、動いているプロジェクトは、一言で言えば機構改革のプロジェクトだ。組織の「設立趣旨(mandate)」と果たすべき「使命(mission)」とを対比させていく中で、市民活動支援と地域づくりの「二歩先」を見通すのが目的である。そういう意味では、第一世代の我々が常務理事として関わり続けていることそのものを見つめ直さなければならないのかもしれない。
比喩を素材として博士論文を仕上げたこともあって、私の語りには、頻繁に比喩が織り込まれる。比喩を盛り込むことは、単なる例え話、あるいは余談ではなく、概念をずらすことによって、新たな発見をもたらしたいという願いを込めることを意味している。今日であれば、事業のレベル(到達すべき水準)とクオリティ(判定される品質)との相関関係について、自動車を比喩として用いた。具体的には、ハイレベルな仕事というのは「ハイクラス」と置き換えることができ(馴染みのあるトヨタ車で言えば、カローラではなくクラウン)、ハイクオリティな仕事とは「ハイグレード」と置き換えることができ(同じく馴染みのあるトヨタ車で言えば、デラックスではなくロイヤルサルーン)」などである。
比喩を通じて概念が拡張されることについては、ケネス・ガーゲンによる『もう一つの社会心理学』に詳しいが、用いた比喩にまつわる世界(杉万俊夫先生の表現にならうなら「集合体」)に馴染みがなければ、「ずらし」は成立しない。そう、「ずらす」という言葉を引き合いに出すなら、私が比喩を用いてしていることは、長年にわたって床の上に比較的重いタンスや本棚などの家具が置かれたとき(これは、畳や無垢のフローリングの床を想像していただきたいが、カーペット等でも同じような現象は起こるだろうが)、その家具をちょっとずらすと、色が違っていたり、型が遺っていたりする、その場に立ち会うことに似ている。要するに、漫然とそのまま置かれてきたものに手をかけることによって、一定の時間の経過のなかで遺された痕跡を見つめて、その次にどうしたらいいかを考えていく、そんな場と機会を生みたいのである。ちなみに、今日の「レベル」と「クオリティ」の話は、さらにマークIIやカムリといったミドルクラスの車種、さらにはプリウスのようなハイブリッドカーなども登場して、「エポックメイキングなソリューションとパッケージ」という視点から、社会システムを論じていく、という壮大な物語があるのだが、はてさて、これが「ずらし」(shift)として成立するか、あるいは単なる「まどわせ(puzzle)」に留まっているのか、次の会議までのあいだの反応を見ていくこととしよう。