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2013年12月30日月曜日

まちに出る素養

2013年も、間もなく終わる。年は終わるが、終わらないことも多々ある。何より、2012年度の仕事で片付けられていないことがある。なんとも恥ずかしく、しかし、どれほど寛容であっても堪忍袋が四次元であるはずはなく、尻に火が付いた状態で、象の歩みのようだが、その積み残しに対して手を動かしている今日この頃である。

昔、と言ってもそんな大昔でもなく、それこそ一昔前は、師走と言えば、なんだか慌ただしい雰囲気がまちを取り巻いていた。しかし、私の感覚がそうなのかもしれないのだが、最近は、なんだか数字だけがカウントアップされて、1月1日にリセットされる、そんな気がしている。要するに、年末へのカウントダウンが進む、という気がしないのだ。「もういくつ寝ると、お正月」のフレーズが馴染み深かったのは、遠い昔のことである。

そもそも、一昔前には、この時期には「まちに出る」ことが強制的に求められていた。ところが、手のひらの中からインターネットにつながる今、「まちに出なければならない」ことは、量的には減っている。もちろん、それと対照的に、質的には減っていない。いや、むしろ「出なくても済ませられる」ものを「出ずに済ましていいのか」という行動規範が問われていると捉えるならば、むしろ「まちに出る」ことの質的な意味は、出るか出ないかの判断をする者の素養を深く問うものとなっているだろう。

それでも、何かと「まちに出る」ことが多い私は、年末が差し迫る中、何度か電車の遅延に遭遇した。そうした遅延の背景が、自ら生命を絶つことを選んだことによる列車事故、ということが時々ある。すると、誰かが舌打ちをし、誰かが「またかよ」とぼやき、誰かが手のひらの中から鉄道会社などへの愚痴を短く乱暴な言葉でつぶやく、そうした風景に立ち会うことになる。実は、この1年、ホームに滑り込んでくる列車にふっと身を投げれば、片付けられていないことから解放されて楽になるのでは、と考えてしまうことがなかったわけではないのだが、そうして自己完結した思考による行為は、全く持って自己完結しえないのだという思考を覆い被せることで、なんとか生き抜いてきた1年であったことを、2013年を終える2日前に綴っておくことにしよう。