そして10時からは、そのNVNADによるオンライン交流会に参加させていただき、懐かしい方々、また初めて会う方々と、あの日あの時、そしてこの1年についての語りを楽しませていただいた。その中で、タイムカプセル郵便というサービスがあることを教えていただいた。災害を体験したことのない世代、いわゆる未災者の教育プログラムの一環として活用されている方がおられたのである。
その後、15時過ぎから、旧友と1杯のコーヒーで1時間ほど語った。現在は石川県に居住しているものの、奈良県内でのお仕事に自家用車で往復したため、地元名産の牡蠣と日本酒を携えて立ち寄ってくれたのである。何より、その旧友は阪神・淡路大震災の折、共に立命館大学ボランティア情報交流センターで活動し、支援とは何か、またまちづくりとはどういうことかについて悩み考え動いた心友である。神戸大学国際文化学部の避難所の世話人の方からいただいたコーヒーの味を正確に思い出すことはできないが、ニットの帽子をかぶられて、やさしい目をされていた方だったことはよく覚えている。
店内は多少改装されていたものの、学生時代に足を運んだ頃の雰囲気は多少残っているお店で、昔のように正解のない問いについて、答えよりも問いを掘り下げる形で語り合った。とりわけ、コロナ禍を経験した中でコミュニティとは何か、という話になり、日常と非日常とのバランスについて、お祭りを手がかりに各々の実体験を共有し合った。規模の縮小や中止が相次ぐ中で、1年に1度の祭礼の中止は担い手の継承という課題に大きくのしかかるものの既に1400年続く祭祀であれば多少のことでは揺るがないのではないか、一方でオンラインサロンにおけるカリスマ的な存在にすがる人たちのようなコミュニティでは担い手と思っている人たちが単に生産者側の巧妙なコントールによって消費者の立場に置かれた上で互いに競い合って親玉への忠誠を示し続けていることに無自覚な状態に追いやられてしまう、といった語りが重ねられた。三密回避を前提にしていたこともあって、昔なら1杯のコーヒーで大いに粘ったであろうところを、程よい時間で切り上げ、再会を誓って車を見送った。
70cmの距離はある種のソーシャル・ディスタンスでもある
(Leica M9-p, SUMMICRON 35mm, f/4, 1/30, ISO 500)