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2009年5月26日火曜日

号外


 久々に号外を手にした。かつて「ウメチカ」と呼ばれていた「ホワイティ梅田」から、JR大阪駅御堂筋口に向かう横断歩道にて、である。内容は北朝鮮が史上2度目の核実験を行った、というものであり、驚いたことに裏面は英語になっていた。少なくとも2社が配布し、関西テレビの報道カメラも確認したが、私が手にしたのは読売新聞のものであった。

 ちなみにこのニュースは、既に昼食の際にインターネットを通じて知っていた。Yahoo! Japanのトピックスに出ていたためだ。情報メディアとしての「速報性」においては、新聞はインターネットに敵わない。それでも、号外を出す理由、あるいは号外が出る背景には何があるのか。

 少なくとも、何らかの事件において号外が出る、というのは、それだけ事態の緊急性と重要性を社会に植え付ける効果があると考えている。それは他ならぬ、「号外」という名称に、根源的な価値が内包されていると捉えることができるためだ。そう、新聞はそもそも連番がつけられているメディアである。それゆえ、その連番、すなわち号数から外れたものをあえて出すに相応しい記事である、あるいは号から外れてでも伝えるべき情報がある、という判断の結果、編集、印刷、そして人が集まる場所で配布されているのだ。

 おそらく、こうした議論を投げかけてみると、多くの人々は「新聞社のメリット」を追究しようとするかもしれない。その点に対しては、世の出来事に対して新聞社が威信をかけて向き合っている態度の表明と考えてみてはどうだろう。そこに、インターネットの時代に、テレビのニュース速報とも違う、新聞というメディアだからこそ持ちうる、もしくは持つべき役割が、まだ追求されようとしているのではなかろうか。ちなみに私が前回手にした号外は北朝鮮拉致被害者の救出の件、その前が生まれて初めて手にした「高橋尚子、金メダル」だったのだが、大学に向かう改札前で手にした一枚が、連番の中には数えられない号外の記録に関心を向けさせた。