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2014年12月31日水曜日

誰かに見せるのではなく、自分を示す。

この数年、大晦日と言えば決まってすることがある。大掃除、お節料理などと言うことができれば風流なのだが、なかなかそうはいかない。時には年賀状を必死で書いていたこともある。ところが、この数年は、決まって昼から大阪で過ごすことになっている。
 一つは「年の瀬ピクニック」である。これは地下鉄動物園前駅の地上、元大阪市交通局の霞町車庫に建てられていた複合文化施設(ただし、1997年の開発当初は複合娯楽・商業施設)「フェスティバルゲート」が2007年に閉鎖されることになって以来、同施設に入居していたアートNPOの有志によって実施されているものだ。フェスティバルゲートは行政による、いわゆる遊休地の活用という名目で、銀行主導の公益信託が設けられての開発であったが、2004年に3銀行が運営から撤退し、運営会社は倒産した。この「年の瀬ピクニック」は、倒産を前に、2001年に設置された大阪市ゆとりとみどり振興局による「芸術文化アクションプラン」に基づいて展開された新世界アーツパーク事業によって「活用」されたアートNPOが、10年を計画期間とするアクションプラン実施途中にもかかわらず撤退を余儀なくされたことに伴って企画された、ささやかなデモなのだ。
 もう一つは「除夜の鐘」のお手伝いである。12時31分、大阪市役所を出発点に旧フェスティバルゲートまで歩く「年の瀬ピクニック」の後に大蓮寺・應典院へと向かうのだ。大阪市役所から概ね堺筋を南下するため、黒門市場付近での途中離脱もできるのだが、それはせず、終着点までご一緒させていただく。ただし、到着後の記念撮影に続いてcocoroomで鍋を囲む会があるのだが、そちらは失礼して、夜23時半から皆さんをお迎えをする準備に向かうのである。
 この「年の瀬ピクニック」と「除夜の鐘」も、特別何かするわけでもなく、ただ歩き、ただ鐘を撞く、それだけだ。しかし、大晦日にのわざわざそれをすることに、それぞれが意味を見いだしうるものである。ちなみにデモを行う場合には道路交通法77条に定められた道路使用許可のために警察署への申請が必要となるが、それに加えて大阪市では「行進及び集団示威運動に関する条例」が定められていることもあって、企画有志の一人、cocoroomの上田假奈代さんは事前に相談に行き、申請が必要のない形態での実施を重ねてきている。それゆえ、道路思い思いの表現(通常はプラカードと呼ばれているもの)を重ねるのだが、誰かに何かする(パフォーマンス)ではなく、自分がどうあるのかが示される(デモンストレーション)中、何気なく新しい年を迎えていく。

2014年12月30日火曜日

片を付ける

 比喩やレトリックに関心があると言うと聞こえはいいのだが、人に言わせれば単に屁理屈な輩と片付けられていることだろう。それは言葉巧みに、という表現自体が否定的な意味合いで用いられることからも推察できる。また、ケネス・ガーゲンの「もう一つの社会心理学」でも記されているとおり、比喩はその意味を理解する過程で解釈者の「視覚代理物(visual substitution)」になる。それゆえ、比喩やレトリックを使うことは既存の解釈を突き崩す方法の1つとなるのだが、逆に言えば、そうした概念のずらしが功を奏さないとき、言葉ではぐらかされたと感じられてしまうのだ。
 先日も「整理と整頓は違う」と、ささやかに主張を重ねる場面があった。他人から見れば散らかっていても、そこに何らかの秩序や法則がある場合、あるいは使用頻度の高さなどにより身体的・感覚的に配置が認識できる場合、そうしたときには、欲しいものが極めて短時間で見つけられることになる。これは整頓はできていなくても、整理ができている、と捉えられることである。逆に、ゴミ屋敷化する空間は、整理ができず、結果として整頓ができなかった結果ではないか、などと考えることもできそうだ。
 年の瀬も迫る中、今日はハードディスクと机上とこたつまわりの書類の整理に暮れる一日となった。昨日開かれた應典院の忘年会にて、秋田光彦住職が「この数年触っていなくて困っていないものは、捨てても構わないはず」と仰っていた。しかしこの話には続きがある。数年来触っていないから今なくなっても困らないというものも、他人から必要かと問われると、久しく触れていないゆえに懐かしさがこみあげて、結局捨てられなくなる、という具合である。
 ふと、高校時代の友人から「きっと、倉庫のように広いところに住んだとしても、その広さを合うだけのモノにあふれるだろう」と言われたことを想い起こした。転じて今、住まわせていただいている家の玄関付近をタイル張りの土間空間に設えた。公共空間と生活空間のあいだとして、何か面白い場にできればと思うのだが、何を入れるかの前に何を入れないかを考えた方がよさそうだ。年明け早々に開催される高校の同窓会のことを思いながらも、いっこうに進んでいないと思われている手元の書類に片を付けねば心地よい年始は迎えられないと、肩を落とす年末である。


2014年12月29日月曜日

レシーブとリターン

 今年は毎日、日記を書こうと決めていた。正確に言えば、去年もまた、そう決意していた。結果として、比較的長く続いた方とはいえ、毎日は続けられなかった。特に4月になって、新たな年度を迎えて、倍近く増えた授業の運営にてんてこまいになってしまったことが一つの要因だったように思う。
 年の瀬となり、この1年を振り返る場に立ち会うことが多いのだが、今年はレシーブとリターンの違いを語ることで、来年度に向けた決意をあわせて示すようにした。いつものとおり、比喩を交えての論理展開である。バレーボールとテニスとを対比してみると、レシーブとリターンの違いは区別しやすいだろう。どちらも相手のコートにボールを返すことなのだが、レシーブは受けるもの、リターンは戻すもの、そうした表現で違いを示すことができそうだ。
 この一年は、まったくもって相手からの受けの姿勢が多く、きちんと相手に返せていなかったのではないか、そんな気がしている。しかも、なんとか受けて、ギリギリ返した、そんなことばかりだったように思う。皮肉なことに、サービスラーニングセンターという組織に所属を得ているのだが、よいサーブに対してよいリターンを戻した上で、互いにラリーを重ねていくだけの余裕を持てなかったのだ。しかも、余裕のないリターンゆえに際どいリターンエースにはならず、単に自滅への道をたどることになる。
 今日は應典院の大掃除と忘年会となった。ただ、朝から読売新聞の取材、また午後は住職の用務で作業に貢献することがほとんどできなかった。リターンどころか、レシーブもできなかった、という具合である。そんなわけで、約15年前の浄土宗21世紀劈頭宣言の筆頭に掲げられた「愚者の自覚」ということばをかみしめるべく、日記を綴ってみるのであった。