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2007年1月4日木曜日

会話を楽しむ

 母親が「会話を楽しむ」という岩波新書を差し出した。こうして差し出されることに、何らかの意味を見いだしてしまう癖がある。無思索を巡らせばきりがないが、一つ、明確に言えるのは「考えすぎて話をしていると、会話にならない」という諭しではなかったかとの推察を、差し出された意味として採用することにした。というのも、こうして綴っているBlogの文章も、一般には「堅い」と思われるかもしれないが、私自身、日常的に緻密な論理構成のもと、まるで「テープ起こしをしても文意が通るように」発話をするよう心がけているためである。

 実際、話をするのは好きだが、会話を楽しんでいるかと問われると、自信を持って「はい」と答えることはできない。果たして自分の発話が、内容やタイミング、そしてその伝え方、さらには人柄をもって、きちんと相手にも楽しんでいただけているだろうか。もっとも、そんな風に考えて考えてしゃべりすぎては、相手が会話を楽しむ可能性を収奪してしまう。無論、考えることと考えすぎることは、似ているようで大違いである。

 会話ということばを英語に置き換えるならconversationとなるそうだ。もちろん、精密にことばを選んでいけば、discussion(議論)やdialogue(対話)など、会話にまつわることばを挙げれば枚挙にいとまがない。しかし、この書物「会話を楽しむ」では、conversation(会話)に類することばとしてtalk(話)を引き合いに出し、こちらは会話に比べると「考え(thought)」がないと位置づけて、楽しむ会話とは何かを論じている。一気呵成に読み上げた岩波新書には、多くの言説が引用句辞典から挿入されているのだが、「考えのない話」こそ退屈な場を構成する要素になるとの考えが欧米では体制派を占めているという。

 正直に打ち明けると、この文章は実家から少し離れたショッピングセンターにある喫茶店で綴っている。少し苦手な親類が年頭のあいさつでやってきたのだが、そこで繰り広げられる会話の場から逃げ出してきたのだ。ただ、こうして文章を綴ることで、自分自身との会話はできていると思う。実際、私がキーボードを叩くことによって画面に出てくる文字を、私は楽しんで見つめ、次々とキーを叩き続けているのだから。



会話を楽しむ(抜粋)




 言い争うargueということば会話の一部分で起こるかもしれないが、会話全体が言い争いならそれは会話ではない。

 なぜなら言い争いは相手の感情や知性を押さえつけようとするからだ。そして自分の感情や論理をもって相手に勝とうとする。そこには興味深い話題やユーモアが動かない。無神経に喋りまくるのだから、会話よりもやさしい。それで「言い争い」は多くの人がやれる。

 私たちの日常にあてはめて考えても諸例が思いうかぶ。ある人たちは自分の体面や地位にこだわって、すぐ感情的な言葉づかいになる。ある人は自分の知力を見せびらかして、ひたすら相手を言い負かそうとする。日本では妻が時おりこう言ってこぼす−−

 「うちの主人とは、まるで話ができないわ。なにか言うとすぐ生意気言うなでしょ」

 これは中年過ぎの夫婦にみられることであり、もっと若い年齢層では、夫婦はもっと自由に口をきいているであろうが、いずれにしよろ「話」の以前に口喧嘩調となるのは「子供っぽい(チャイルディッシュ)」のだ。

 社会ではどんなに偉そうに振る舞う人でも、家庭で妻にむかって威張るばかりの人はチャイルディッシュであり、学者だろうと社長だろうと、口争いや口論ばかりして「会話」のできない人は、「会話」のスタンダードから見ればガキにすぎない。



加島(1991) pp.50-51