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2013年1月29日火曜日

名札とコスト

仕事柄、多くのオフィスやイベントにお伺いするのだが、最近気になっているのが、そこにいる人たちの名札である。恐らく2000年を前後して、首掛け式のカードケースが用いられるようになっていったように思う。恐らく、いわゆるIT革命も重なって、磁気カードが導入されていったことも無関係ではなかろう。しかし、一部では名刺カードあるいは名刺サイズの紙が用いられていることもある。

カードケースが名札として用いられる前、とりわけオフィスではネームプレートと呼んだ方がピンとくるものが使われていた。組織の規模の大小を問わず、プラスチック製のプレートに名前が刻まれているものが多かったのではなかろうか。それが今や、銀行や列車の乗務員など、ごく一部でしか目にしなくなってきた。その背景には、コストの面からの合理化があると感じてやまない。

本日、朝から3つの場面で、それぞれの名札のかたちに出会うことになった。まずは朝に伺った個人経営の病院での、プラスチック版に名前が彫られたものであった。その次が、應典院で開催された神戸女学院大学の副専攻「アート・マネジメントコース」の受講生による「キャラクターと大阪」と題したイベントのスタッフ名札で、やや厚手の画用紙に名刺よりもやや大きい位のサイズで、一つずつ、個々に縁のエピソードを交えつつ絵心のあるスタッフによってつくられたものであった。そして、神戸女学院の学生らの企画の同時刻から隣の部屋で開催された應典院舞台芸術祭「space×drama2013」の第一回制作者会議での、昔ながらのクリップ直付けタイプの名刺大プラスチック製カードケースに、個々人が手書きで名前を書くというものであった。

こうして、それぞれの名札のかたちを見ると、その集団がどこまで他者を意識しているのか、そしてその集団が外部から新たな他者を迎えることを意識しているのか、それともその集団が内部のメンバーの結束力を高めることを意識しているのか、それらによって形態が選択されてよかろう、ということである。名札は他者から当人が識別されるための道具であるが、組織内の集団凝集性の調整を目的に、「それでも」いいのか、「それが」いいのか、積極的かつ精緻に検討されてよいはずだ。逆に言えば、そうして識別票にコストをかけることこそが、組織の管理運営における資源として、個々の構成員を大事にすることになるのではないだろうか。転じて、「人材」という表現が象徴するとおりに、人を生産の「材料」として位置づけていることが、名札にコストをかけないという現象にあらわれていると言えなくもなかろう。