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2013年1月31日木曜日

拙速か遅巧か

いくつかの研究プロジェクトに参加してきたが、社会科学、あるいは人間科学の研究者である私(たち)は実践を伴う研究であるため、自然科学の実験による研究と違って、やり直しや取り返しがつかない場合がある。それゆえに、冷静かつ慎重な言動が求められるときがあるのだが、時には冷静かつ大胆な行動が求められる。ちなみに、この「冷静かつ大胆」とは、長らく視聴者参加型クイズ「アタック25」の司会を務めた、児玉清さんの名文句でもある。ともあれ、当たってくだけてはならないが、人々や物事が置かれた状況や構造に、冷静かつ大胆にアタックしていくことが、協働的実践を通じた実践的研究では時として重要である。

実はこの4年ほど、京都市上京区にある堀川団地の再生に関する研究に携わっている。「再生」という言葉と対になるのは、映像や音声機材を引き合いに出すなら「記録」と「停止」で、福祉や医療の観点で言えば「死」や「病」などを示すことがでいるだろう。それらの単語や概念から、今の「団地再生」のプロジェクトを語るなら、昭和26年、日本初の「下駄履き住宅」(一階が店舗等で2階以上が住宅になっている集合住宅)が、老朽化と耐震問題から、建て替えか改修か、その範囲をどこまでとして、どのような方針で進めていくかを検討している取り組み、である。研究のリーダーは京都大学の高田光雄先生であり、その高田先生は京都府住宅供給公社におる「堀川団地まちづくり懇話会」の座長もされておられたので、文字通り、研究と実践の、成果と政策の、それぞれが深く関連する構図となっている。

こうした、研究と政策が密接に絡む取り組みにおいては、拙速であっても、遅巧であっても、良い結果と納得のいく成果を導くことは難しい。拙速な判断は、歴史の中で醸成されてきた価値を見出せぬまま失ってしまうこともあるし、遅巧な行動は好機を逸して新たな展開可能性に対して意志を示せぬままに放棄してしまうことになる。そうして、過去へのまなざしと、未来への見通しを丁寧に重ねる過程において、今、多くの関係者のあいだで「やっと」了解できた事柄が検討材料として公開され始めているものの、一部のメディアが「公開されたもの」を再編集し、自らの視点をもとに加工したりするものだから、せっかく積み重ねてきた信用や信頼が崩れてしまうこともある。

当然のことだが、何かを「変える」ことに対しては、「変えられる」と、ちょっとした抵抗感や、かなりの拒否感でもって受け取る方もいる。ただ、それ以上に問題なのは「変えなければ」という責任感と役職上の使命感との均衡が、現場に対してもたらされないときである。そういうときには、今を生きる人々の語りへと丁寧に耳を傾けながら、先人が遺した記録を丁寧に紐解くことが大切である。結果として、関係者が置かれる状況が困難になり、社会の構造が複雑になるほど「速巧」は難しく、何とかしようとスピード感に駆り立てられたとしても、「拙速」や「稚拙」なものにおさまることが多いことを、「歩んできた道」が行く手を考える私たちに教えてくれてはいるのではなかろうか。