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2013年3月1日金曜日

洒落と頓知


つまらない会議は、つまらない。つまらない、とは、詰まらない、の意味である。だからこそ、「議論が煮詰まる」とは、大抵は具に出汁がしみてくるというような意味合いで、好意的に捉えられる。その反面「頭が煮詰まる」と言うときには、個人で抱えすぎ、あるいは集団では抱えきれず、文字通り「行き詰まる」ことになる。

議論が「行き詰まる」と、場が「息詰まる」。何とも、言いようのない間が、場に漂うのだ。とりわけ「空気を読む」ことに関心が向く人は、この間をどのように受けとめるのか、相当悩むことになる。その際、「空気を書く」ということにも関心が向く人は、場の担い手となって、何らかの行為を決するのだ。

今日は朝から電話で来年度の立命館大学サービスラーニングセンターのプログラムについて打ち合わせをし、その後、立命館災害復興支援室で3月8日の台湾・淡江大学での「学生フォーラム」と3月11日の「いのちのつどい」の打ち合わせ、そして午後から京都大学桂キャンパスで科研費に採択された団地再生についての研究会と、議論を重ねる場面が続いた。朝の電話は2月末を締切とさせていただいた書類に対して「会の代表として一任されてプログラムをつくったが、それが担当者に丸投げを意味するので、現時点での応募は辞退したい」というご判断を巡っての意見交換となった。相手のある話なので、そこでは結論は出なかったものの、互いの関わりと気配りが、よりよい事態をもたらすものになれば、と願うところである。続いての災害復興支援室の打ち合わせも、多くの相手の顔を想像しながらの意見交換となり、それぞれに「その日」と「その日以降」にささやかでも希望を見出せるようにしたい、という共通認識のもとで、しかるべき内容を確認した。

そうして向かった午後の研究会は、予定では3時間にわたっていたのだが、その中でなされた30分ほどの話題提供が、極めて「つまらない」ものだったのだ。先般、オランダ・アムステルダム等でフィールドワークを行ったのも、この研究プロジェクトに関するところなのだが、京都府および京都府住宅供給公社といった行政関係、さらには堀川商店街を運営する協同組合、何より他ならぬ居住者をさておき、担い手不在のマネジメントシステムの提示と懸念事項に対する選択肢の妥当性が結論として示されたことが、それこそ「何とも言えない」雰囲気をその場に醸し出すこととなったと感じている。そもそも府営住宅なのに、府がいないのは、不甲斐ない、などとも語ってしまったのだが、そうした事業主体の話はさておき、研究を進めてきた若者に対し、つい、「あなた(がた)はここに住みたいですか?」と問いかけたものの、残念ながら、その質問の背景にある「自らも当事者になる決意や覚悟があるのか」という問いには関心が向かなかったようだ。枝雀師匠の「サゲ」の4分類で言えば「ドンデン」になるのだが、こうした問いに「(理由あって)住みません」と、「(訳がわからず)済みません」と、とんちを効かせて答えて欲しいと、空気の読み書き(リテラシー)に関心を向ける私は思うのであった。