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2013年3月4日月曜日

手業の合わせ技のために

最近、朝7時43分、天満橋発の京阪電車の特急列車で京都方面に移動することが多い。そして3月1日も同じ時間の列車に乗ったのだが、ちょうど、この3月10日で営業運転を終了する「旧3000系特急車」であった。私が生まれる前、1971年から1973年にかけて製造され、「テレビカー」として名を馳せた名車も、時代の流れで引退となる。情緒あふれた列車に揺られ、今日は京都の三条から京都市営地下鉄東西線で山科まで出て、そこから立命館大学びわこ・くさつキャンパスへと、JRと近江鉄道バスで向かう予定としていた。

ただ、尼崎の事故以来、列車の定時運行と安全運行とは、相克する問題として丁寧に取り扱われるようになってきたと思う。無論、定時運行が望ましいのであるが、定時運行ができない理由に想像力を巡らすことができないなら、それは単に横柄な消費者でしかないだろう。例えば、自ら生命を絶つ手段として列車を利用する人もいるし、病に苦しむ乗客もいるだろうし、ましてや病に苦しむのは乗務員も同じである。転じて、列車が遅れることにいらだちを覚える人々は、人にまつわる物事や出来事の動きが、直接ではなくても人によって支えられていることに、あまりに無理解であると言えよう。

ということで、今日は人身事故と急病人の乗客の救護により、予定の時刻よりも15分ほど遅れてびわこ・くさつキャンパスでの面会を終えた後、10時半からテレビ会議、そこから衣笠キャンパスに移動して会議と打ち合わせ、そして18時半からひと・まち交流館で会議、と、移動の繰り返しの一日だった。昔は移動の時間が作業の時間だったが、最近は移動の時間はなるべく思考を整理する時間にするようにしている。常時「on」な状態になっていることが、他者への眼差しと、自らの発想を豊かにする契機を自ずから失わせている気がするためである。そして、そうすることによって、逆に座って考える時間を尊く扱うことができるようにもなる、と感じている。

とりわけ、今日は夜の会議のために「机に座って考える」時間を必要とした。会議の内容は、2006年に同志社に着任して、ほぼ最初に担わせていただいた京都府国際課による「インドネシア技術交流プロジェクト」のフォローアップの取り組みである。同プロジェクトは2009年に同課から「終了」が宣言された後、プロジェクトのコアメンバーを中心にして2010年にNPO法人化され、実は私がその法人「てこらぼ」の理事長をさせていただいている。「手業(てわざ)の合わせ技(コラボレーション)」のためのさらなる飛躍を求めた今日の会議は、考える時間を取ったことによって充実したものにできたと、大きな宿題を抱えていた当事者として、過大かもしれないが、満足のいく自己評価を下している。