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2014年12月30日火曜日

片を付ける

 比喩やレトリックに関心があると言うと聞こえはいいのだが、人に言わせれば単に屁理屈な輩と片付けられていることだろう。それは言葉巧みに、という表現自体が否定的な意味合いで用いられることからも推察できる。また、ケネス・ガーゲンの「もう一つの社会心理学」でも記されているとおり、比喩はその意味を理解する過程で解釈者の「視覚代理物(visual substitution)」になる。それゆえ、比喩やレトリックを使うことは既存の解釈を突き崩す方法の1つとなるのだが、逆に言えば、そうした概念のずらしが功を奏さないとき、言葉ではぐらかされたと感じられてしまうのだ。
 先日も「整理と整頓は違う」と、ささやかに主張を重ねる場面があった。他人から見れば散らかっていても、そこに何らかの秩序や法則がある場合、あるいは使用頻度の高さなどにより身体的・感覚的に配置が認識できる場合、そうしたときには、欲しいものが極めて短時間で見つけられることになる。これは整頓はできていなくても、整理ができている、と捉えられることである。逆に、ゴミ屋敷化する空間は、整理ができず、結果として整頓ができなかった結果ではないか、などと考えることもできそうだ。
 年の瀬も迫る中、今日はハードディスクと机上とこたつまわりの書類の整理に暮れる一日となった。昨日開かれた應典院の忘年会にて、秋田光彦住職が「この数年触っていなくて困っていないものは、捨てても構わないはず」と仰っていた。しかしこの話には続きがある。数年来触っていないから今なくなっても困らないというものも、他人から必要かと問われると、久しく触れていないゆえに懐かしさがこみあげて、結局捨てられなくなる、という具合である。
 ふと、高校時代の友人から「きっと、倉庫のように広いところに住んだとしても、その広さを合うだけのモノにあふれるだろう」と言われたことを想い起こした。転じて今、住まわせていただいている家の玄関付近をタイル張りの土間空間に設えた。公共空間と生活空間のあいだとして、何か面白い場にできればと思うのだが、何を入れるかの前に何を入れないかを考えた方がよさそうだ。年明け早々に開催される高校の同窓会のことを思いながらも、いっこうに進んでいないと思われている手元の書類に片を付けねば心地よい年始は迎えられないと、肩を落とす年末である。