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2008年7月7日月曜日

「脱美術館」化するアートプロジェクト

 気づけば、アートな一日であった。今日は朝から、美術館に行き、夕方にギャラリーに行き、夜には劇場に行ったのだ。いずれも、場所は京都である。しかし、そんな内容は、絵画、写真、演劇と、内容は多岐にわたった。

 朝に訪れたのは、京都国立近代美術館である。開催中の「ルノアール+ルノアール」展にて実施された、あるプロジェクトの立ち会いをしたのだ。具体的には、あるガールスカウトの皆さんが集団で観賞する際に、あるNPOが支援する、というものだった。ちなみに、そのプロジェクトに、同志社大学大学院総合政策科学研究科ソーシャル・イノベーション研究コースの修了生と現役院生が関わっており、私は終了後に小粋な助言をする、というのがお役目だった。

 昼食と、食後のカフェに続いて訪れたのが、町家がギャラリーとなった境町画廊である。というのも、昨年度應典院で展覧会をしていただいた、野寺夕子さんによる「千人針」の写真展が開催されていたためだ。実は、先週金曜日に、既に一人で野寺さんのギャラリートークがある日に観賞させていただいた。改めて訪れたのは、このところ連日触れている、未来の連れ合いを野寺さんに紹介しつつ、本人も、写真を通じて受け止められるべき何かを感じて欲しい、という思いがあったためだ。

 よく行く和紙さんに寄り道して、四条河原町にてちょっとしたイタリアンのコースを食べてから急いで向かったのが、下鴨にあるアトリエ劇研である。現在、先ほど示した、ソーシャル・イノベーション研究コースの社会人院生が出演する演劇を鑑賞するためであった。団地、家族、若者、などなど、人間関係の希薄さを、濃密な演技を通して表現する、という作品だった。思えば、私に身近な皆さんがアートに関わっており、そこに私も、心地よく巻き込まれているのだ、と、大阪に帰る列車の中で感じ入ったところである。





社会とアートのえんむすび 1996-2000

つなぎ手たちの実践

序章 「脱美術館」化するアートプロジェクト(抜粋)



最近のアートプロジェクトは、ボランティアやワークショップという形式を採り入れることで住民に参加を促し、彼らの意見を作品に反映させようとする。そして、参加者が主体的に関わればかかわるほど美術家ー参加者のヒエラルキーが薄れ、〔改ページ〕誰のものでもない「みんなの作品」になっていく。そこでの目的は芸術性の追求より、しばしば「まちづくり」や「コミュニティの強化」といった民主的で公共的な価値の創出に主眼が置かれる。だから、一歩まちがえれば大衆迎合主義に陥りやすく、結果的に陳腐化しやすい面もあることをつけくわえておかねばならない。

 最後にもう一度「プロジェクト」という言葉に戻れば、これには「計画」「事業」の他に「投げ出す」「投影する」という意味もあった。すなわちアートプロジェクトとは、美術家だけでなくそれに関わる人それぞれが自分の思いを投げ出し、自らを映し出す装置だといえないだろうか。これはそのままボランティアやワークショップの考えに重なってくるはずだ。だから同じアートプロジェクトに参加しても、一人ひとりの見ているものは同じとは限らないし、その意味で結果としての作品はさして重要ではないともいえるのだ。

 しかし、ここで終わってはきれいごとにすぎるかもしれない。多くのアートプロジェクトは高い理想を掲げながらも、ひとたびプロジェクトが動き出せば「アート」の「ア」の字も話題にならず、人集めと資金集めに狂奔し、内部では骨肉の争いを演じてるところもあるのが現実なのだから。



(村田,2001, pp.18-19)








村田 真 2001 「脱美術館」化するアートプロジェクト ドキュメント2000プロジェクト実行委員会(編) 社会とアートのえんむすび1996-2000:つなぎ手たちの実践 トランスアート



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