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2009年1月15日木曜日

詩の学校

 思えば怒濤の2日間だった。体調不良のなか、少々の休養を取りつつ、應典院に対するもう一つの顔、同志社大学の教員として、修士論文提出に向けた指導を行っていた。今年度は論文の主査を2名分担当している。とはいえ、いきなり2名を担当するのではなく、一定期間、実践的研究計画の立案、進行、評価等々を、共に向き合ってきた共同研究者のようなものである。とはいえ、二足のわらじが影響してか、決して充分な指導が重ねられなかったのではないかと不本意な思いを携え、大いなる反省を重ねながら應典院に向かった。

 同志社大学から急ぎ足で應典院に到着すると、既に「詩の学校」が始まっていた。毎月一回應典院で開催されている「詩の学校」だが、ちょうど1月の開催が防災・減災を取り扱うコモンズフェスタ開催中ということもあって、震災をテーマに詩作をする場としていただけないかと打診をしたところ、快諾をいただいた。ゆえに、今回は、「震災を、わたしの、わたしたちの、ことばとするまで」と題し、特別編として開催いただいた。企画提案者ということもあって、私も参加させていただいた。

 知る人ぞ知る、のだが、大学時代、私は手習いのギターを携え、詞と曲をつくっていた。もちろん、青春時代であるから、恋だの愛だのを歌っていた。長渕剛と尾崎豊を基本に、Mr.Childrenのテイストを振りかけた感じ、とでも言えば、わかっていただきやすいだろうか。もちろん、それだけではなく、キャンプに行った際には、参加者からのことばをもとに詞と曲をつくり、終了前に披露するというようなワークショップも行っていた。

 そんな私にとって、久しぶりの詩作であった。とはいえ、大学時代に行っていたのは「詞」であって、精確には「詩」でない。そんなか、コモンズフェスタでの防災と減災にアートで接近することにどのような意味があるのかについても考える時期と重なっていた。その場で朗読はさせていただいたものの、40分という与えられた時間のなかで作ったのが以下のものであるので、基本的には私の備忘録めいたものとして、ここに紹介させていただくことにしよう。





アノヒトイツモ

2009.1.14 山口洋典





あの日の朝は 忘れない

京都の下宿で見た 神戸の映像

いつかの夜が 懐かしい

現地のテントで飲み 語った仲間



きれいにことばで まとめてみても

アートのチカラに たよってみても

あの日の朝は 語りえない

いつかの夜は 伝わらない



「詩という文字はね、「ごんべん」(言)に「てら」(寺)と書くのですよ」

だからお寺で 詩の学校

学校と言うけど 読み方 書き方は 教えてくれない

だけどお寺で 詩の学校

そこにあるのは 仲間と共に 過ごす場所

不親切が 心地よい

不親切が ちょうどよい



震災短歌をつくる先生がいるそうだ

伝えることでも 伝わることでもなく

ただ詠むことを こどもに投げかけるそうだ

無理にとは言わず でも無理をせずに

こどもたちは先生のところに 文字を運んでくるそうだ

あの日のことや いつかのことを

記憶をたどって 思いをつづって



忘れられない記憶があるのは

気づかぬうちに思い出すから

きっと思い出は脳ミソの中にあるのでなく

まるで動物的なセキズイの反射で思い出すから



あの日の朝は 忘れない

いつもの朝を よろこびたい



















※上記の「震災短歌をつくる先生」については、今回の「詩の学校」において自己紹介の後に、朗読の素材として使われた新聞記事で知ったことである。また、書き方、読み方は教えてくれない、としているが、完成した作品を読むときに、(1)イメージを詠む(映像・風・色・季節などを思い浮かべる)、(2)紙を詠まない(身体ごと聞き手に向けて詠む)、(3)集中力を切らさない(肛門を締める)、など、具体的な点が指摘されている。

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