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2015年2月25日水曜日

古都で考え語ること

インドネシア出張、3日目はジャカルタからソロへと移動した。さしずめ、東京から奈良、という感じだろうか。無論、ソロを京都になぞらえる人もいるだろう。ただ、京都府と友好府州となっている隣町、ジョグジャカルタの方が京都に重ねられる場合が多いだろう。
ともあれ、ソロもジョグジャカルタも、共に古都である。そして、王室が残り、多くの文化資源も遺されてきた。今日はジャカルタからソロに到着して、そのままバティックの工房の一つ、ダナルハディのバティックミュージアム(Museum Batik Danar Hadi)に向かった。併設されているおしゃれなカフェレストランで昼食をとり、オーナーによる12,000点の蒐集物から年代や意味にあわせて系統的に展示された作品を、M.Al.Kadhafiさんに案内いただいた。

バティックが面白いのは、色やモチーフに具体的な意味が重ねられており、丈の長さなども含めて、男女の違いやTPOにあわせた使用のルールが定められていることが大きいだろう。例えば、1840年から1910年のオランダ統治時代にはヘンゼルとグレーテルや赤ずきんちゃんや白雪姫さらには軍隊のモチーフが描かれた作品が作られていたし、インドネシアの独立後にはそれまで王室のみに用いられてきた柄が広く用いられて自由の象徴として位置づけられ、イスラームの文化圏ではモチーフに動物の頭は描かれない、といった具合である。また、制作された場所の地質的な特性により、赤が強い、藍が強い、といった特徴があらわれたりもする。昨日訪れたジャカルタのテキスタイルミュージアムでは2600点から3ヶ月ごとに常設展を入れ替えているというが、こちらは現在も制作が重ねられている工房ということもあり、バティックのことだけを深めるなら、相当の学びを得ることができるだろう。

夜はマンクヌガラン王宮近くのジャワレストランOmah Sintenで、この間コーディネートをいただいているフジモトヤスヨさんと共に食事をとった。ちなみにソロには2つの王室が残り、まちの南側にあるのが(比較的保守的と言われる)カスナナン王宮、そして北側のあるのが(比較的開放的と言われる)マングヌガラン王宮とである。9月1日からソロでの滞在制作を続けているフジモトさんは、昨年の10月25日、ちょうどジャワ暦の新年を迎えるにあたり、このマングヌガラン王宮を一周する行列と、王宮内での祝宴に参加されたそうだ。ホテルも併設されたOmah Sintenでは、東屋仕立てのレストラン部分で、道路を挟んで王宮を望むテーブルにて「そういえば、このところ毎日、朝日を見て、夕闇に染まっていく空を見て、日付が変わるまえに寝ているな」と、生活のリズムが自然と合ってきている、そんなことを考え、語るのであった。



2015年2月24日火曜日

インドネシアでご縁を紡ぎ直す

インドネシア出張、2日目は終日ジャカルタで過ごした。月曜日に日本を出て、金曜日の朝には戻るという、比較的短期の出張である。今回は立命館大学研究部による若手支援のプロブラムに採択いただいた「悲嘆の受容と伝承の方法論に関する研究 〜当事者による語り直しの場づくりへの視座〜」の一環で、災害多発地域の一つでのフィールドワークのために訪れた。インドネシアにはつい先ごろ、1月31日の深夜便で日本を出て、2月3日には帰国するという弾丸出張でジョグジャカルタを訪れている。こちらはガジャマダ大学での学生ワークショップの進行役を担うべく、立命館災害復興支援室による校務での出張だった。

 研究での出張にあたり、特に海外出張の場合は現地でのコーディネーターが欠かせない。今回はソロに滞在中の作家であるフジモトヤスヨさん(cyabon)が骨を折ってくださった。フジモトの滞在は文化庁による平成26年度新進芸術家海外研修制度に選出されたためである。工芸分野での採択で、染と織について調査を重ねているところであり、上記のテーマとあわせて、いくつかの場所にご一緒いただいている。

 今日は午前中からFine Art Limaran Batikのインサナ・ハビビ(Insana Habibie)さんとの面談であった。ハビビさんとは昨年3月に京都文化博物館で開催された企画「島々の染と織」でもお目にかかっていた。そんなご縁もあり、先週からインドネシア入りをされていた株式会社細尾の細尾真生社長と、フジモトさんと3名で再会した。そして、ご自身の作品に重ねている思い、特にインドネシアの中でもファッションのまちで知られるバンドンを拠点としつつ、古来より細かな作業で知られるプカロンガンにて制作が重ねられている背景などについてお話を伺った。

 ハビビさんと共に会食の後、そのまま車で送っていただいて、ジャカルタのテキスタイルミュージアム(Museum Tekstil Jakarta)へと向かった。ここでは学芸員のアリ(Mis Ari, S.Pd)さんに対応をいただき、服飾文化の歴史から紐解く時代の様式などについて知ることができた。また、この博物館では思わぬ出会いがあった。それはアチェの地震でも文書修復の専門家としてインドネシアでの災害支援に取り組み、現在はJICAを通じてインドネシア国立考古学研究所(ARKENAS)にて紙資料の保存・修復等のために11ヶ月現地に滞在しておられる坂本勇先生とお目にかかれたことで、阪神・淡路大震災当時に伊丹などで支援にあたられたこと、またその後には神戸で『翔け神戸』の著者である大仁節子さんたち共に活動したことなどを伺い、「大仁さんの撮影した場所を、立命館の学生が継続して定点観測させていただいているんです!」と、数々のご縁ご縁に感謝を重ねる一日であった。




2015年2月23日月曜日

想像ラジオが語りかけてきた

「たとえ上手のおしゃべり屋」と自分で語る程でもないのだが、たとえ話を交えてしゃべるのが好きである。好きなだけであり上手かどうかは定かではないと、自己評価は横に置いておくとして、語り方や綴り方の中に、多くの比喩や隠喩、そしてレトリックを駆使している自覚はある。事実、2005年に書き上げた学位論文でも、ネットワーク組織の有り様を長縄跳びのアナロジーで捉えたし、2009年の論文でも参加型学習の意味と意義を半返し縫いをメタファーに紐解いた。社会構成主義に立つケネス・ガーゲンの著書『もう一つの社会心理学』の訳者である渥美公秀先生が、メタファーとは概念間を結びつける「視覚代理物(visual substitution)」であると同書で示していると研究指導を重ねていただいたことが、今につながる語り方・綴り方の礎石となっている。

そんな「たとえ屋」の私が今日の出来事を綴る上で、「初登場第一位」という表現を使いたい。まるでラジオのリクエスト番組のようだが、あながち外れていない。なぜなら、その対象は『想像ラジオ』という作品なのだ。ただし、それは実在のラジオ局の番組名ではなく、いとうせいこうさんの小説の名前である。

例によって年末にいそいそと再開したブログも、1月中旬の授業再開と阪神・淡路大震災の周年事業などに従事するなか、きちんと途絶えてしまっていた。ただ、今日、一気に読了したこの小説は、依頼された原稿さえ仕上げられず、ましてや日々の業務もままならなくとも、何かを綴ろうという衝動に駆り立てるものであった。無論、この小説が東日本大震災を扱ったものであること、また2013年に出版されたこと、加えて渥美先生が昨年上梓された『災害ボランティア』においても触れられていたことなど、これまでも何度も読もうと思いながら、日々の出来事に浸りきっていると、どうしても手を伸ばすことができなかったが、たまたま出発直前にゲート横の本屋さんに立ち寄ったところ、刊行したての文庫版が平積みとなっており、運と縁の巡り合わせと手にしたのだ。


ブログが途絶えている間、京都や大阪や神戸でバタバタしつつも、インドネシアのジョグジャカルタ、シンガポール、そして気仙沼と出張を重ねてきたが、今日からジャカルタである。地震や津波や火山噴火など、多くの厄災を経験する中で、生活文化を通じてどのようにその経験が継承されてきているのかに触れることが目的だ。その往路にて、冒頭に記した「たとえ上手のおしゃべり屋」(p.82)という設定のDJアーク(東日本大震災により福島県にて38歳にて亡くなっていったとされる芥川冬助)が主人公となり、想像の世界で繰り広げられるラジオ番組が文字化された小説を読み、誰が読んでいるかもわかりきらず、特に反応も寄せられないブログなのだが、それでも書こうと発意した。気温は30度を超えて湿度も90%を越えるインドネシアにて、思い上がりと思われるかもしれないが、全編が2者(作品中では作家Sさんと、大震災の半年前の秋に事故に巻き込まれて亡くなった君)の対話に終始する第4章の、144ページにあるこの言葉「あなたは書くことでわたしの言いたいことを想像してくれる。声が聴こえなくても、あなたは意味を聴いてるんだよ。」のように、この文章を読んでくれている誰かを、そしてその人の言いたいことに想像をめぐらせ、誰かの想像力によって作り出される世界に語りかけ(なおし)ていくことにしよう。