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2015年1月1日木曜日

呼ぶことと応えること


 新しい年が始まった。今年は喪中ということで、年頭の挨拶を控えさせていただいている。先のご案内が叶わず、年が明けて早々、寒中見舞を作成してるという非礼をお許しいただければと願っている。なかなか定型のものを使うことができず、迫られてから作るという習慣は何とかしたいものである。
 そんな元旦は應典院の本寺、大蓮寺の除夜の鐘が響く中で迎えた。今年で7年連続9回目となった。大晦日の23時から受付開始で、23時30分に浄土宗の日常勤行から始まる除夜の鐘は、ほぼ0時に54回目が撞かれるよう進められる。そして0時になると大蓮寺の本堂にて修正会(しゅしょうえ)と呼ばれる法要と、秋田光彦住職の法話が行われるのだ。
 今年、最初の法話は「呼応」がお題とされた。いや、正確に言えば、それがお題となった。新年の挨拶を枕に、まずは昨年の出版以来、各方面で話題にのぼっている東田直樹さんの『跳びはねる思考:会話のできない自閉症の僕が考えていること』(イーストプレス)が紹介され、「話しかけられれば、それに答えようとする気持ちは障害があってもなくても同じだという気がします 。答えられないからこそ、尋ねてほしいのです。」の部分が読み上げられた。そして、そこからお念仏が唱えられる理由が語られたのである。
 よく「呼べば応える」という言い方がなされる。しかし反応を期待する前に(またそうした言語的な応答とは、期待する答えを求めるためになされるものではないことは言うまでもないとして)、まずは呼びかけが必要なのだ。ちなみに修正会には、大晦日の「年の瀬ピクニック」でお目にかかったクリエイティブサポートレッツ(浜松市)の皆さん(cocoroomが呼びかけた年末年始の釜ヶ崎の越冬を支えるボランティアに参加)もお参りいただいた。はてさて、どんな風に感じられたのか、3月のアートNPOフォーラムでお邪魔した折などに尋ねてみることにしよう。